病街録   作:とうぶん

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読んでいただいている皆様に感謝申し上げます。


たゆたう想いの結晶たち

カツカツと小気味よい音を鳴らしていく。

毎日使用している白いチョークはよく手に馴染んでいる。

俺は学習指導要領を遵守しながら作成した教材をなぞっていく。

 

「この作者の意図、わかるやついるか?誰もいないなら当てるぞ」

 

教壇から生徒の方を見渡すと、各々が多様な態度を取っていた。

姿勢を正してノートを取る者。端から机に突っ伏して寝ている者。こそこそスマホを弄っている者。

大半の教師は、この状況であれば幾ばくかの不満を持つだろう。

しかし、俺は違う。

俺は自分に与えられた役割をきちりとこなすが、それに対して相手が応えてくれるとは考えていないのだ。

相手が応えてくれないのは、自らの力量不足だと考えた方が腹に落ちる。

教師になって3年目だが、おおよそこの状況で仕事を続けてきた。

 

「先生、答えてもよろしいでしょうか?」

 

すっと体操競技が始まる直前のような手の上げ方をしている生徒がいた。

 

「ああ、蔭宮か。黒板に答えを書いてくれ」

 

蔭宮綾。

佇まいから所作まで、品がある生徒だ。

俺が指導する現代文の成績も非常に良い。

この多くの同年代が集まる教室の中で、一番「完成」された印象を持たれるだろう。

蔭宮はチョークを手に取ると、丁寧に文字を黒板に起こしていく。

…その回答は一分の隙もない、完璧な回答だった。

 

「蔭宮、正解だ。流石だな」

 

「…はい」

 

蔭宮はちらと横目でこちらを見てから、自席に戻るとまた姿勢を正してシャーペンを取っていた。

俺もまた、自らの役割を全うすべく、教本に目を落とした。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「氷室先生、お疲れ~」

 

「お疲れ様です」

 

授業が終わり、職員室へ戻り次の授業の準備をしていると、隣の雑多に書類が積まれているデスクから同僚が顔を覗かせていた。

 

「氷室先生、また教材の確認してんの~、真面目だねぇ」

 

「ええ。教師としては当然では?」

 

「いやいや、そんな時間ないって。他の仕事だってあるんだからさ」

 

そうだろうなと思い、うずたかく積まれている書類を見る。

この同僚…殿間先生はいわゆる仕事下手な人間だった。

俺よりも多少先に着任されていたが、この人がやりきれない仕事が回されてくることもしばしばあった。

 

「まあ、氷室先生ほど真面目にやってる人、中々いないと思うけどね~。あ、そうそう、今日飲み会やるつもりなんだけどどう?」

 

「遠慮させていただきます。次の指導方法を考えないといけないので」

 

 

「そうかい。変わりもんだよね~、君もさ」

 

そう言うと殿間先生は席から立ち、他の先生の所へ向かった。

おそらく飲み会に誘おうという魂胆なのだろう。

ノイズがなくなり、脳が再稼働し始める。

俺はこの職業に誇りを持って就いている。

教職についている人間は子ども達の成長を見るのが楽しいだとか、青春の追体験など、色々あるのだろう。

…俺は教師として、教鞭を執ることに生を感じている。

端的に言えば、教えるのが楽しいのだ。

だから、俺は授業を疎かにすることはない。

そもそも、教師が教えることを疎かにすることが間違いなのだが。

…ああ、それと。

生徒に向き合うこともまた、教師の務めなのだということを、俺は進み行く時計の針を見て思った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

生徒が騒々しく帰宅していく放課後になった。

彼ら彼女らにとっては学校という枷から解放される時間なのだろう。

俺は少し緩んでいたネクタイを締め直し、とある場所に向かう。

そこは校内でも有名なスポットとなっている。

今の時期はちょうど大輪の桜が咲き誇る大樹の下だ。

 

「せ、先生、お待たせしました…」

 

「いや、今来たところだ」

 

俺を呼び出した生徒が姿を現す。

その生徒は俺が受け持つクラスの光島という女子生徒であり、度々勉強の相談に乗っていた。

時には雑談として程よく砕けた話もした気がする。

彼女の様子を見ると髪を軽く触り、そわそわと落ち着きのない様子だ。

…嫌でもわかる、この雰囲気。

指定された場所からも想像がついていた。

告白。

それに違いないだろう。

 

「ひ、氷室先生に伝えたいことがあって、今日お呼びさせていただきました」

 

光島の様子はまるで心臓が口から飛び出しそうなぐらいの緊張感を放っていた。

俺は次の言葉を黙って待つ。

 

「せ、先生は私が授業外に勉強を教わりにいっても、嫌な顔一つせず根気よく教えてくれて、それがとっても嬉しくて…いつもはクールなのに、たまに見せてくれる笑顔が、私は大好きで…」

 

「な、なので、私と付き合ってください!…もちろん、私が卒業してからでもいいですから!」

 

「無理だ」

 

「…えっ」

 

絶句している彼女に対して、俺ははっきりとした語句で返す。

 

「俺は教師だ。当然だが付き合えない。…そしてそれは君が卒業しようと同様だ。君のことは、教え子としてしか見れない」

 

言葉を吐き出すと同時に頬を叩くような強めの風が吹く。

すると桜の木もあおりを受け、花弁が舞い散った。

 

「そ、そうですよね、すみません、私…ごめんなさい!」

 

光島は呻くような返答をすると、俺の横を駆け抜けていく。

彼女の頬を伝う涙を見ると、チクリと心が痛む。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もう少し、言い方を考えたほうが良かっただろうか…

心に棘が刺さったまま、部室棟へ足を向ける。

俺が顧問を務めている文芸部の活動日のため、一応顔を出す必要がある。

正直、顧問がいようがいまいが、大した変わりはないのだが。

 

文芸部の部室に着くと、ノックをして室内に入る。

 

「…先生ですか」

 

「ああ」

 

それなりに広い部室の中でただ一人、彼女は本を読んでいた。

今では蔭宮綾だけが、この文芸部唯一の部員だ。

 

「お疲れのようですね」

 

「そう見えるか」

 

蔭宮が窓の外を指差す。

ちょうどこの部室から、桜の木がはっきりと見える。

…どうやら、たまたま一部始終を見たようだ。

 

「先生は大変ですね。人気があるというのは考えものです」

 

「そういうものではないだろう。言い方は悪くなるが、気の迷いだ。彼女もいつかそのことに気がつく日が来るはずだ」

 

きしむパイプ椅子に腰掛ける。

蔭宮は手に持っている本に栞を挟んで閉じると、俺の顔をまじまじと見つめはじめた。

 

「…先生、質問よろしいですか」

 

「なんだ?」

 

蔭宮はいつもこうだ。

部活の時間になるとよく質問を投げかけてくる。

 

「先生は熟した物と未熟な物、どちらがお好きですか?」

 

「ふむ…」

 

大体が、質問の意図が読めないものであり、雑談に与する話なのだ。

この質問に意味などないのかもしれないが、もしこの問いに蔭宮が答えを求めているのであれば、できる限り応えたい。

 

「…やはり熟した物の方が好きだな。というより、未熟な物を好む人がいるのだろうか」

 

「世の中には未熟な物を好む人は一定数いると思いますよ。伸び代に期待するというところでしょう」

 

蔭宮は無表情が常なのだが、今日は少し柔らかい表情をしている気がする。

 

「ただ、先生の意見に同意します。私も熟した物が好きですから」

 

「未熟な物には惹かれないのか?」 

 

「まぁ…昔の私を思い出してしまうので…」

 

すると蔭宮は閉じていた本を開くと、目を通し始めた。

どうやら読書を再開し始めたようだ。

活字に集中している蔭宮は、一種の修行僧のような気高ささえ漂わせている。

…おそらく、蔭宮が卒業すれば、文芸部は部員なしとして廃部となるだろう。

現に蔭宮が2年生の時から、幽霊部員が増え、部員は実質1人になってしまった。

 

そんなことを思い返しながら部室内にある小説を読んでいると、部活の終了を知らせるチャイムが鳴る。

 

俺と蔭宮は同時に本を閉じ、部室を出る。

 

「先生、お疲れ様でした」

 

「あぁ、気をつけて帰るようにな」

 

「はい。先生もあまり、根を詰めすぎないでくださいね。それではまた明日」

 

俺は蔭宮の後ろ姿をぼうっと見送った後、残務処理をするべく、職員室へ向かった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「先生、質問よろしいですか」 

 

「何だ?」

 

華々しく咲いていた桜がその役目を終え、代わりに陽光が強まり始めた季節になった。

今日も変わらず文芸部の活動として、ただひたすらに本を読んでいた蔭宮は、ページをめくる手を止めた。

 

「以前提出した進路調査表の件なのですが」

 

「ああ、あったな。蔭宮は大学志望だったよな?」

 

俺は蔭宮の担任でもあるため、大まかに調査票の内容を覚えている。

 

「ええ…まぁ。そうですね」 

 

「なんだ、歯切れが悪いな」

 

「…先生は、私が大学に行ってもよいと思いますか?…この私が」

 

蔭宮の表情に陰りが浮かぶ。

恐らくだが、過去の「事件」が尾を引いているのだろう。

 

「ずっと考えていたんです。一度罪を犯しかけた私がこのままのうのうと進学してよいものかと」

 

「何ら問題ない。そのために俺は協力を惜しまないぞ」

 

努めて明るい声で言う。

彼女の禊は終わったのだ。

ならば、彼女の未来を制限するものはなにもない。

 

「先生は…どこまでいっても先生ですね。あの時の先生と変わらない…」

 

そういって僅かに微笑む蔭宮を見て、俺は彼女との軌跡を思い出した。

 

「少し昔話をしたい気分です。あの時、私が万引きをしそうになっていた時に止めてくれたことで、今の私がありますから」

 

そうだ。

蔭宮は1年生の時に万引き未遂を起こした。

休日に俺が偶然見かけ、既の所で止めたのだ。

 

「万引きをしようとした理由なんてないなんてふざけた答えを出した私に対して、先生は粘り強く対応してくれました」

 

あの時は俺も若さ故か、絶対に間違いを正さないといけないという思いが、想像以上に出てしまったのだ。

当時の蔭宮は言っていた。

形容しがたい不安があると。

おそらくその考えが色濃く出た結果、不安をまぎらわせるために万引きという一時のスリルに手を染めかけたのだろう。

 

「私の漠然とした不安に向き合ってくれたのは、先生だけでした。…それからは、先生に報いるためだけにここまで努めてきたつもりです」

 

蔭宮は自らの罪と向き合い、学業に打ち込んでいった。

宝石が研磨され、輝きを増していくように。

彼女の学業の実績が重なっていく様を、俺は傍らで見守っていたのだ。

 

「先生の導きに背かないように、私はこれからも努めていきたいんです。…先生にとっての、よき生徒であるために」

 

「蔭宮…」

 

蔭宮は3年生となり、もう高校生としての残り時間は多くはない。

彼女が巣立つまで、全力でサポートしなければならない。

 

「だから…先生、私を見ていてくださいね」

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

部活終了の鐘が鳴る。

先生は私に挨拶すると、職員室の方へ戻っていく。

…あの人は本当に律儀な人だ。

授業は一生懸命にこなしているし、こうして部活動といってもたった1人のためだけに時間を割いてくれている。

生徒の目線から見ると、良く言えばもっと要領よくやっている先生のほうが多い。

…だから、心配になる。

いつか、先生の心が擦り切れてしまわないか。

その一因となる可能性がある自分に、嫌気が差す。

生徒として良くあろうとしても、結局先生に気にかけてほしい。

…好きに、なってほしい。

だけど、先生は教え子をそういう目で見ることはない。

だから、先生に対する溢れ出そうな好意は胸の奥にしまっておかなければならない。…先生を、困らせたくない。

私は悶々とした問いを頭の中で巡らせながら、部室の鍵を締める。

ここだけなのだ。先生と二人きりで話ができる場所は。

…だから、優しさに甘えてしまう。

帰ろうとして歩みを進めると、桜の木が目に入った。

あの事件を起こしてしまったのも、この時期だったな。

 

私は高校に入学した直後、言いようのない不安に襲われた。

別に友達が出来ないとか、授業についていけなさそうだとか、そんな理由もない。

なのに、私は気がつくと学校近くのディスカウントショップで、商品をバックに入れようとした瞬間。

…その手を、しっかりと掴まれた。

名前を呼び掛けられ、意識がはっきりとする。

そこには、当時新任だった先生がいた。

その後は色々な人に謝ったりしたが、隣にはずっと先生がついていた。

今思えば、大学を出てすぐにこんな問題を起こす生徒を受け持つなんて、迷惑極まりなかっただろうに。

なのに、私に対して先生は決して悪感情を態度に出すことはなかった。

親には怒鳴り散らされ、友人も潮が引くように離れていったのにだ。

…今考えれば、それが普通の対応だと思うけど。

そうして自らの手で灰色にしかけた人生を、先生がギリギリ引き留めてくれたのだ。

先生がいるから、1人じゃない。

先生がいるから、今、やり直せている。

そして、当時から先生が顧問を務めていた文芸部にも出入りし始めたのだ。

今は幽霊部員ばかりで、私と先生だけが部室に集う。

その空間がとてつもなく落ち着くし、永遠に続けばいいと強く思う。

…けれど、着実に近づく卒業という足音に、身が震える。

今の私は、先生が指針なのだ。

先生の前では強がったけれど、正直やりたいことなんてない。

留年でもすればいいのだろうか。

だけど、それは先生が悲しんでしまうだろう。

…どちらにしても、痛苦が伴うなら。

先生にとって美しい記憶となって飛び去りたいのだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「授業アンケート…」

 

「ああ、そうそう。なんか話に上がってたな~。面倒くさいったらありゃしないよ」

 

いつも通りの職員打ち合わせの後、背伸びをしながら気だるそうにしている殿間先生を横目に、俺は密かに胸を膨らませていた。

教頭より通達された、授業アンケートの実施だ。

自らの力量が、生徒達に届いているかどうか。

それを測るには、うってつけのものだろう。

 

「俺らはそれなりでいいんだよ。本腰入れて勉強するなら、予備校でみっちりやるんだからさ」

 

「私はそうは思わないですけどね。予備校をメインと考える生徒であっても、学校の授業を疎かにする理由にはならないでしょう」

 

「…あ~。そうね、そう、氷室先生はそうしてくださいな」

 

「そうさせてもらいますよ」

 

明らかに面倒臭そうにして返答する殿間先生に、やはり相容れない人だと思ってしまう。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「じゃあ、今日はここまで。配った授業アンケートを書いてくれ…委員長、まとめてこの封筒に封をして後で持ってきてもらえるか?」

 

今日の授業も終わり、当初の予定どおりアンケート用紙を配布していく。

匿名性のものだから、当然誰が書いたのかを特定できるものでもない。

 

「わかりました…先生」

 

俺の問いかけに反応するのはこのクラスの委員長である光島だった。

正直、以前の出来事から少し接しづらく感じている。

…若干、やつれているようにも見えなくもない。

その事に居心地の悪さはあるものの、仕方がないと割り切るしかない。

生徒と教師としての線引きを保たなければならないのだから。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「失礼します。…どうされましたか?」

 

「おお…すみません、氷室先生。突然呼び出してしまいまして、どうぞそちらにかけてください」 

 

授業アンケートを実施してから数日後、つつがなく仕事をこなしていた矢先、校長からの呼び出しが入った。

…何かあったのだろうか。

 

「…氷室先生。先日行った授業アンケートのことについて、少し伺いたいことがありまして、お呼びいたしました」

 

「どういうことでしょうか…?」

 

「そのですね…先生が授業を受け持たれているクラスの中で、授業アンケートの内容が、その…あまり評価が芳しくないといいますか…いや、氷室先生が熱心に教科指導に取り組まれていることは存じ上げているつもりなんですが」

 

言葉を選びながら、言いづらそうに話す校長。

その様子に、心がさざめき始める。

 

「…それは授業アンケートの評価が、悪かったということですよね?」

 

「有り体に言えば、そういうことになります。…ただ一クラスだけが、他クラスの評価に比べてという形なので、そこまで悲観することはないのかと…」

 

どういうことなのか。

校長は言葉を濁してはいるが、明らかに評価が低いということを言外ににおわしている。

何故?

考えを巡らせても、そこまで低評価されるほど手を抜いたことなどした覚えもない。

 

「その一クラスというのは…どこなのでしょうか」

 

「……氷室先生が担任されているクラスです。このアンケートはそれぞれのクラスで取りまとめているので、間違いはありません」

 

「そうですか…」

 

聞かなければよかったと、今更になって思ってしまう。

一番関り合っていた生徒達が、俺を評価していなかったということ。

その点だけが、俺の心に深く沈み込んでいく。

ああ…

校長が続けて何か言っているけれど、その言葉が理解できない。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

あの日から教壇に立つと、急に息が詰まりそうな現象に襲われる。

今では多くの視線が、俺を責め立てるような感覚。

数日前までこんなことはなかったのに。

俺はチョークを掴もうとしたが、手が小刻みに震えてうまく掴めない。

 

「先生…?大丈夫ですか?」

 

生徒の誰かが問いかけてくる。

…誰だ?

よく、わからない。

とにかく息を吸わなければ。

 

「あ、ああ…」

 

次第に呼吸が速くなっていく。

気づいた時には遅く、なんとか震える声で自習と伝え、すぐに教室から飛び出す。

 

「はあっ、はあっ…あっ、はあっ…」

 

目の前がぼんやりと暗くなり、息のテンポがまるで整わない。

…どうにかトイレの個室に座り込む。

ここ最近、ずっとこの調子でいる。

…この前の、授業アンケートの結果を知ってからだ。

残酷な結果に、俺は現実を受け入れることができていないのか。

なんだよ…。

自分で考えていたことじゃないか。

「相手が応えてくれないことは、自らの力量不足」って。

 

だから、生徒が悪い訳じゃないんだ。

俺が悪いんだ。

俺がまともな授業が出来ていないから。

俺が準備不足のまま授業に臨んでいるから。

なのに、何でなんだ。

この瞳から垂れ流れている涙は。

お前の責任だろ。お前のせいだろ。

お前が悲しんで良い理由なんてどこにもないんだよ…

 

幸い、誰も来なくて良かった。

このみっともない嗚咽を、自分で抱えきれたから。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

先生の様子がおかしかった。

ありありと見えた不自然な挙動に、私の頭に不安がよぎる。

先生がいなくなった教室は、次第に騒がしくなっていく。

後で先生に何があったのか尋ねてみようと思い、シャーペンを握った直後だった。

 

「ねえねえ、氷室どうしたのかな?」

 

「随分フラフラしてたような気がするけど」

 

気がつくと隣の席の光島の周りに数人集まっており、こそこそと話し始めていた。

別にこの人たちのことはどうでも良いが、少しは静かにしてもらいたい。

段々と受験も近くなっているのだから。

 

「そうだね。まぁ、ちょっとスッキリした」

 

「え、なになに光島?どしたん?」

 

「あー、光島さ。前に氷室に告ったんだけど、こっぴどくフラれたんだって!」

 

「そうそう、てかいくら光島が可愛くても手を出したら犯罪でしょ…無理めな話じゃん」

 

「それでもさ~、ムカついたんだよね!あんなにバッサリ断られるなんて…!だから、ちょっとイタズラしてやろうと思ったんだよね」

 

「え、光島なんかやったん?」

 

「この前授業アンケートあったよね。あれちょっといじくったの。私委員長だから取りまとめたじゃん?」

 

「そういえばあったけど…マジで?」

 

「うん。私のアンケートの評価欄全部最低評価にして、それをクラス全員分コピーしたものを入れて持っていったの」

 

「じゃあさ、うちのクラス分のアンケート全部、最低評価で出されてるってことだよね?」

 

「そういうこと!あの人授業に命懸けてるって雰囲気出してるから、もしかしたら少しはダメージがあるんじゃないかな~って」

 

「うわ~。光島よく考えるね。そんなこと」

 

なんなんだ、この人は。

私は思わず手に持っていたシャーペンを光島の額に突きつけてやろうと考えてしまった。

隣でケタケタ笑いながら、自らの悪行を取り巻きにペラペラ話しているこの女は、醜悪さを晒している。

あの時、先生が教師として誠実に向き合った意味はなかったのか。

…なんで、先生がこんな仕打ちを受けなければいけないの!

 

「ちょっと静かにしてもらえないかしら」

 

「ああ~、ごめんごめん。ちょっとうるさかったよね。…でさ~」

 

ヘラヘラしながら悪びれることもなく言う彼女に、私は危うく理性を飛ばしそうになった。

…だけど、ここで感情を爆発させるのは馬鹿だ。

問題を起こすなんて、過去の私に戻るだけだから。

ただ、私は先生のことだけを考えて、先生に寄り添うだけだ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

トイレでひとしきりえずいた後、なんとかホームルームを終わらせ、俺は文芸部の部室で項垂れている。

この姿で職員室に留まりたくなくて、結局この場にたどり着いていた。

 

「先生、ここにいらっしゃったんですか。ホームルームの後、すぐにどこかに行かれてしまったので…」

 

「…蔭宮か」

 

少し息が上がった様子の蔭宮が俺の前に現れる。

ああ…蔭宮も、あのアンケートを書いたんだよな?

なんで、俺を探したりするんだよ。

放っておいてくれないだろうか。…これ以上、生徒の前で惨めな姿を晒したくないんだ。

そんな考えとは裏腹に、無様な問いが口から吐き出される。

 

「なぁ…教えてくれないか。俺の授業は、そこまで聞くに堪えないものだったか?」

 

「俺さ…毎日毎日、君らに勉強を教えてきたわけなんだが…それが君らにとって全て苦痛であったこと…信じたくないんだ」

 

「あははっ、まぁ、勉強に特化したいんだったら、学校じゃなくても、予備校で勉強に力を注げばいい話なんだけどな…」

 

気づけば思わず胸の内に留めていたヘドロが外に漏れ出ていた。

もしかしたら殿間先生の考えも、間違っていなかったのかもしれない。

…情けない。

こんなことを生徒に漏らすような奴が、教師でいていいのか。

徐々に自責の念に苛まれていく。

 

「私は先生の授業が酷いものだと思ったことはありませんよ。むしろ、的確な指導でした」

 

「…そうか。俺の前じゃあ当然本心は言えないよな…」

 

俺には何もない。

ただ教えることでしか自分を保つことを知らないんだ。

だけど、もうその行為が恐ろしく思える。

なら、俺の生きる指針はなんなのか。

あれだけの否定を突きつけられているのに、俺がここに居ていい訳がない。

 

「俺はきっと、思い上がってたんだ。自分が上手くやれてるって…そんなことなかったのにさ」

 

自らの評価と他者からの評価のギャップは、想像以上の苦しさをもたらした。

 

「だから…俺は、もうこの世界から消えたいんだ」   

 

一度刻まれた負の産物はそうそう剥がれることはない。

俺は、想像より遥かに弱い人間だった。

そんな愚劣極まりない俺を見下ろしていた蔭宮は、静かに口を開いた。

 

「…先生、行きましょう?」

 

「どこに」

 

「屋上です」

 

蔭宮はうずくまる俺の腕を引き、無理やり立たせた。

俺の手を引く蔭宮。

こんなに、逞しくなったのか。

 

蔭宮に手を引かれ、俺は屋上に出る。

燃えるような夕暮れの空が、俺たちを包み始めていた。

 

「綺麗ですよね、空」

 

ぽしょりと呟く蔭宮の声は、空気に溶けていく。

何のために、俺をここまで連れてきたのだろうか。

…なんにせよ、もう俺は何もする気が起きない。

一秒でも早く、この場から消え去りたい。

 

「…先生。絶望してますか」

 

「ああ。もう、どうでもいいんだ。俺という存在を全面的に否定されたようなものだからな」

 

醜い言葉がすらすらと口から出てきてしまう。

一度決壊すれば、後は容易いものだ。

 

「そうですか。それが偽りの物であってもですか?本来受けるべき評価では無い可能性があってもですか?」

 

「…は?」

 

剥げかけた緑色の金網の奥で、夕陽がゆるやかに沈んでいく。

代わりに、薄闇が訪れる匂いがし始める。

 

「先生。授業アンケートのことであれば、光島が仕組んだものです。以前、先生が断った告白に対する腹いせのようですね」

 

「まさか…」

 

であれば、俺の評価はまるで異なるのではないか。

…だが、しかし。

仮にそうであっても、私から光島に問い質すことはできない。

おそらく他の生徒のアンケートという物的証拠もないだろう。

なにより、そこまですることが教師として正しいのか。

 

「可愛さ余って憎さ百倍という言葉もありますから…つまり、そういうことなのでしょう」

 

「先生…どうしますか?」

 

「私は先生に会わなければ…もっと早く、きっとこの命を棄てていたと思います。先生が私をぼうっとした不安から助けてくれたから、いまここに立っています」

 

「だから、先生が答えを出すことができない絶望に喘いでいるなら…私は貴方を救いたいんです。文字通り、命を用いてでも」

 

蔭宮の考えは、言葉に変換され俺に伝わる。

しかし、俺がそれに甘えていい訳などない。

彼女は俺にとって完成した希望なのだから。

いまここで、沈むべきではないのに。

なのに、俺は。

彼女の救いに卑しくも手を伸ばしてしまう。

 

 

「さあ、先生。いきましょう」

 

蔭宮の指差す方向は、大きく解れている金網があった。

おそらく以前から補修していなかったのだろう。

…この学校の危険防止観念はどうなっているんだ。

茫然としていると蔭宮が俺の腕を強く引いていく。

 

「やっぱり…高いですね」

 

あと一歩進めば、急転直下。

眼下には、桜が舞い散ったあとの大樹が、寂しげに根を張っている。

咲いたら、散って、また花を開かせる。

俺たちは、次の桜が見れない瀬戸際まで来ていた。

 

「先生…そういえば、はっきりと口にしていなかったことがありました」

 

「私を救ってくれたあの時から、貴方が好きです。狂おしいほどに、貴方のために身を投げ出しても良いと思うほどに」

 

「けれど、先生が先生である以上、私の想いを受け取ってくれることはないでしょう。…私の見ていた先生は、そういう人でしたから」

 

「蔭宮…」

 

「だから、私は貴方の苦しみや悲しみを分かち合って、受け止めたい。多くの人が理想とする幸せでなくてもいい。好きな人の支えとなって、共に死ぬことが私の最高の幸せだったと胸を張って言えます」

 

俺は蔭宮の横顔を見る。

…なんて高潔なのか。

彼女は、いつの間にか完成のその先に至っている。

その姿に、俺はこの期に及んで彼女に対して仄かな愛情を抱いてしまった。

 

「蔭宮、すまん…弱い俺で、本当に…すまん…」

 

「謝らないでください…先生に救われたから、私も貴方を救いたいんです」

 

蔭宮が切なさそうに、控えめに目尻を下げる。

 

「先生、もう一度だけ…言わせてください。私は、貴方のことが大好きで、貴方の正も負も受け入れられてよかったです」

 

俺は蔭宮の手を決してほどけないように繋ぎ直す。

それが答えだった。

 

……俺たちは、どちらともなく動き始めた。

踏みしめていた足場が消え、体が浮遊する。

すぐに、頭が逆さまになった。

俺の手を握っていた蔭宮を胸に抱くと、これまでの走馬灯が流れ出す。

地面が徐々に接近する。怖いけど、怖くない。

…ああ。

…ありがとう…蔭宮。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「ねえねえ、この桜の木ってさ、この高校の有名な場所なんだよね?」

 

「そうだよ。先輩達が言ってた。ここで告白すると成功するっていう話だよ」

 

「やっぱりいいよね~。そういう話!学校ならではって感じがしない?」

 

「まぁね。でもさ、もう1つあるんだよ。裏話がさ」

 

「どんな話?」

 

「結構前に、ここの生徒と先生がこの辺に身投げしたんだってさ」

 

「そうだったの?」

 

「うん。それで、影を見たって先輩がいるんだって。4月頃の部活終わりの夜に、満開の桜の木の下で寄り添っている影をさ」

 

「…なんか、切ないね」

 

「別に、その人たちのことは知らないけどさ…幸福だといいなって、聞いた時に思ったんだよね」

 

 




よろしければ評価・感想等いただければありがたいです。
今月中にもう一話上げたいと考えています。
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