ブラインドシャーク
ノックノックの音がした。
扉を叩く音じゃない、アプリの通知だ──そんな奥ゆかしい家族はいないから──でもボンプたちならあるいは──ボンプたちが肩車をしたりして──
そんな、まとまりのない思考を無理矢理回し、ぼやけた頭を起こしていく。毎朝のルーティーンのままに、ベッドに放っていた端末を手探りで探り当てる。そのまま顔の前まで持っていき、いくら目を開けても暗闇のままと気付き、ようやく自分に呆れた。
日課や習慣は生活を楽にする短縮キーだが、開発環境が変われば役に立たない。毎朝毎晩インターノットをチェックする癖だって、両目が包帯で巻かれていれば邪魔にすらなる。
アイマスクではない、怪我のせいだ。しかもプロキシとしての仕事中のものなのだから、言わば労働災害。白祇重工のような企業に所属していれば、回覧板で事細かに解説されて再発防止策を検討するよう晒し者にされていたところだろう。
事故現場は薄暗く見通しの利かないホロウ内部。業務内容はホロウ内のナビゲート。ありきたりな依頼だった。
エージェントの誘導を行うには遠隔でのナビゲートだけでなく、視覚による調査も欠かせない。バレエツインズでの調査でも、暗所の調査は手を焼いた。
今回はその対抗策として、イアス自身に暗視装置を試験的に導入していた。今後の現場でも、バレエツインズのように施設の赤外線カメラが使えるとは限らない。行動の幅を広げるには必要だったと思っている。
……暗視機能の使用中、すぐそばに動作不安定な照明機材があったことに気付かなかったというのは、言い訳のしようがない恥ずべきミスだ。指差し確認の重要性を痛感する。
あまりにも間の抜けた、しかし暗がりでは致命的と言えるエレクトリックな『攻撃』に対処が間に合わず、微弱な光を必死に掻き集めていたイアスの
これが単なるホロウレイダーだったなら、装置の故障だけで済んだことだろう。ナイトヴィジョンを付けた警備員がフラッシュグレネードで失明してしまう──なんてことは、今となっては映画の中だけの現象だ。過剰な光を受けたところで機械は過度な光の増幅などはせずに機能を停止するだけで、人体に影響を及ぼさないようになっているらしい。
だが、自分はイアスと感覚を同期させて活動していた。安易な言い方だが、暗視装置そのものに憑依していたようなものだ。先んじて落ちるべきヒューズは機能しない。自分自身がそれなのだから。
こういう機能に溺れるミスは新人時代の苦い思い出の彼方に置いてきたと思っていたのだが、その思い上がりが招いたのかもしれない。
直接の被害を受けたイアスは、エンゾウさんの店で治療を受けている。溶剤を浴びたような後に響く壊れ方でも無いので、近日中には戻ってくるだろう。
一方、中二病真っ盛りのような封印が施されたプロキシはというと、特に医者の世話にはなっていない。外傷を受けたわけじゃないから、掛かりようがなかった。
肉体的な問題ではないし、そう長く掛からず治ることは経験上分かっている。しかし安静にしていることに越したことはないため、眼球保護のために包帯を巻かれてしまい、歩き回るのは危ないからと自室に閉じ込められている。
アカウントを失ってしまってからずっと忙しく働いていたから、久方ぶりの休憩となった。しかし、映画を観ることが出来ない休みなんてどれだけ価値があるだろうか。起き抜けの通り、インターノットでの情報収集もままならない。ついさっきまで寝ていたのも、やることが無さ過ぎて寝落ちしただけだ。
せっかく起こしてくれた誰かからのノックノックのメッセージも、これではただの起床ベルにしかならない。見えない画面をいじるのもアホらしく、枕の傍に端末を放り……ある同居人を思い出して、声を掛ける。
「fairy、ノックノックに届いている未読のメッセージを確認してくれるかい」
『はい、マスター。未登録のアドレスからのメッセージが7件、そのうち依頼についてが3件、フィッシングメールが4件です。登録済アドレスからは──』
期待通り、妖精を名乗る人工知能はたやすく端末を操作し始めた。普段からプライベートを無視したデータ閲覧から独善的な応対文章の下書きまでお節介をしている『優秀!』なアシスタントだったが、こういう時くらいしっかり頼らせてもらおう。fairyほどの知能であれば、迷惑メールのアドレスブロックから治安局へのタレコミまでお手軽だ。
横になったまま依頼について音声入力で回答したり妹への転送を頼んだりと、それぞれ消化していくと、新たにノックノックの通知音が鳴った。
『マスター。登録済アドレスからメッセージが1件、新着しました』
「誰からだい?」
『登録名【エレン・ジョー】です』
その名は、ヴィクトリア家政に所属するエージェントのものだ。バレエツインズでの一件から縁が出来て以来、上司のライカンさん共々よく仕事を依頼している。
実のところ、エージェントとして出会う以前から、六分街のゲームセンターで知り合っていた。その時はまさかメイドのバイトをしているとは思わなかったが、世間とは狭いものだ。
「分かった。読み上げてくれ」
『……』
「fairy?」
高性能を自称する人工知能は、珍しく即応しなかった。近くで聞こえた床を叩くような家鳴りが、音声入力の邪魔をしたのかもしれない。
『ノックノックに標準搭載された読み上げ機能、音声入力機能をONにしました。以降はこちらをお使いください』
「急にどうしたんだ?」
『リスク回避のため、私は助手二号のサポートに専念します。マスター、ご安全に』
よく分からないことを言いながら、我が家の便利AIはうんともすんとも言わなくなり、代わりに抑揚が少しあやしい合成音声が代読を始めた。
『何かして欲しいことがあったら言って』
『今ヒマだから』『手伝うよ』
ぶっきらぼうな調子だが、それがエレンのいつも通りだと分かっている。
僕が現在休養中なのを知っているはずだから、それを慮っての提案だろう。
端末を顔に近付け、囁くように応える。
「今日はたしか平日だろう? 学校は?」
『明け方までバイトしてたから休んだ』『ボスも知ってる』
上司の許可を取った上なら良いか。良いのか? まぁ、完璧執事がそう判断したなら、まずいことにはならないはずだ。
「お疲れ様」
『ありがと』『さっきまで寝てた』
「眠いなら無理はしないで」
思い起こしたのはホロウで眠りこけてベンチで丸くなっていた姿と、カフェの椅子から転がり落ちた事案のような現場。あれは初めて見た時、かなり心配になる絵面だった。
カフェの床で寝ていた時なんか、そばにいたカリンが一服盛ったのかと勘違いしたほどだ。
『大丈夫』『ソファで寝た』
「なるべく、ベッドで寝るようにね」
『今度からそうする』
思わず小言のようになってしまった。画面の向こうでは「ちぇっ」と呟いていることだろう。
『それで』『してほしいことは?』
心配かけたね、大丈夫だから、と終わらせようとしたが意外に押しが強い。
ここまで言われたら何か頼まないと、逆に悪いかもしれない。そう考え、何かないか捻り出す。
「ヴィクトリア家政の料理を振る舞ってもらうとか」
『リナが張り切って準備してたから』『そっちはお任せ』
南無三、リン。夕食の呼び声があっても、深海の蛸よろしく夢見るままに待つことにしよう。今の状態なら横になっていても怪しまれることはあるまい。
「本の代読とか?」
『無理』『途中で寝ちゃう』
言っておいてなんだが、五分も経たずに彼女の手から本が滑り顔面に落とされるのを容易に想像出来た。
それはそれで癒されそうだが、エレンが望むものではないのだろう。
『それ以外ならなんでもいいよ』『今日は疲れるのでも』『なんでも』
そうは言っても、人に何かをお任せするというのはなんとなく気後れしてしまう。プロキシとして頼むのなら慣れたものなのだが。
「じゃあ……適当な映画を選んで流してくれるかい? 僕も暇しているから」
苦し紛れに出たのは、そんなことだった。
妹とボンプ達は下で働いているはずだし、fairyには物理のソフトは動かせない。
音楽を掛けてもらうよりは、まだ手伝いらしいことだと思う。
家にある映画だったら音を聞くだけで映像が思い浮かぶものばかりだ。見なくても楽しめるかもしれない。この場面のこの画は見たい、という欲求を掻き立てられる可能性もある諸刃の剣なのだが。
それに。どうせエレンが家に来てくれるのなら、自分がもてなせない分、少しでも楽しんで貰えたほうがいい。
『分かった』『なんか流すね』
エレンからの返答はそこで止まった。こんな事をヴィクトリア家政の人間に頼むだなんて、贅沢にも程がある。
押し掛けメイドが来る前にリンに連絡して飲み物でも用意しておいてもらおうか、いやでもそれってメイドに対してこちらから接待するのはどうなんだ。エレンなら平気な顔で受け取るとは思うけど。
しかし悩む時間が長くなることは無かった。
ぶぅん、と。曇り硝子を震えさせるような駆動音が、部屋の中で鳴ったせいだ。
「え?」
思わず出た声も、音声入力のせいでノックノックに流れてしまったことだろう。誤送信のような言葉を送ってしまったのに、エレンの反応は無い。
スターライトナイトの新シーズン予告。雑貨屋のセール告知。ホロウ調査協会の求人。無秩序に流れる広告音が、今テレビが点いたことを示している。
リモコンは手元に無い。置く場所はいつも決めているし、そもそも主電源を切っていたはずだ。じゃあfairyか? 回線が繋がっていなくとも、コンセントを通じてしでかす術を身に着けたというのか。
事態を飲み込むよりも早く、音が続く。機械仕掛けの箱が開き、まるで恭しく捧げものを受け取るような厳かなモーター音。休日を自宅で過ごす時、この世の中の何より幸福な瞬間を待ち望むサウンドエフェクト。
要するに、カセットデッキがテープを飲み込んでいる。暫くするとコマーシャルが止まり、仰々しい音と共に画面には映像制作会社のロゴが表示されるはずだ。
ああ、思えばおかしな点はあった。契約しているエージェント達には僕がしばらく休む事を伝えている。特に、現場に居たなら何が原因で休んでいるかも知っている。
それなのに、なぜ彼女は電話ではなく文章でやりとりをしていたのか。まるでノックノックでのやり取りでも問題なく行えることを知っていたかのようじゃないか。
知らず乾いていた唇を舐め、端末にではなく、部屋の端まで届くように声を出す。
「エレン。もしかしてキミ、そこにいるのか?」
読み上げ音声は聞こえなかった。代わりに聞き慣れた軋む音が、聞き慣れない距離で聞こえてきた。
不可思議なベッドの唸りを指摘する間もなく、投げ出したままだった腕に、軽い衝撃と負荷が掛かる。
「ほんとに気付いてなかったんだ。プロキシって、けっこう鈍感?」
囁き。過剰な身震いをなんとか抑える。
腕に掛かる柔らかな重さと、伝わる熱。
果実のような香料を漂わせながら、サメのシリオンは僕の腕を枕にしていた。
「いつからいたんだ?」
「あんたが起きる前から。まぁ、あたしも寝てたけど」
その答えは半ば分かっていた。起きている内に部屋の扉が開いたなら、いくら鈍感な自分でも気付く。
「起きたのは、プロキシの声のせい。ホームアシスタントと喋ってたでしょ」
「起こしちゃってゴメン、と言っておいたほうがいいのかな」
「別に。聞いてて面白かったし」
作業中を知らずに見られていたと思うと、少しきまりが悪い。それで拗ねるのは尚更格好が付かないのは分かっているので、気にしてないていで受け流す。
「それで」
「何?」
「なんで僕のベッドにいま、寝ているのか聞いていい?」
脛が一度叩かれる。エレンのつま先だろうか。
「だって、なるべくベッドで寝るようにしろって、プロキシが言ったじゃん」
少し不満げなエレンの声。確かに言った。が、それは普通、自分の家の寝床のことだろう、と声を大にして言いたい気持ちを、欠伸の吐息が耳たぶごと吹き消した。
「ソファもそうだったけど、寝やすい。家具選ぶのうまいね」
「それは良かった。今度は家具屋でも開くかな」
「やるなら学校の近くにして。その方が便利」
エレンは寝相が良い方だ。細いベンチでも器用に丸まって寝て、それを維持出来る程度には。
だと言うのに、何故かもぞもぞごそごそと落ち着きなく動く気配がする。身じろぎのたびにマットが揺れ、腕に髪が擦れ、否が応でもそこに彼女の重みを感じてしまう。
「そういえば、手伝うって言ってたけど」
「え? あー。……映画、流してあげたよ」
ベッドから離れたテレビからは、ちょうど戦車に雷撃が落ちる賑やかなシーンが流れていた。何度も観た映画だから音だけで分かる。繰り返す学園祭の中に閉じ込められた青年と宇宙人の青春コメディ作品。
「これでご主人様への今日のご奉仕はおしまい、お仕事終了ー、ってことじゃダメ?」
そう言ってくるエレンとは、気付けばその声を首筋で受け止められるほどの近さになっていた。
仕事明けで疲れているだろうし、好きに寝かせておこう。理性はそう思う。そう思いはする、が。
あまりにも無防備で傍若無人なこのサメ娘に一矢報いてやろうという悪戯心が湧き上がったのは、ごまかしきれない。
エレンが頭を乗せた腕を折り畳み、撫でるように髪が軽く触れたところで位置を測る。
「ダメって言ったら、エレンは何をしてくれるんだい?」
首を撫でるほど声が近いなら、こちらからの声もその程度には近い。やられてばかりじゃ不公平だ。
ダルいウザいキモいと反撃される覚悟の囁きの結果は、頭が腕から離れただけだった。ベッドが揺れる。無言が怖い。
二つの意味で距離感を間違えた罪に危機感を覚え出した頃。重い布地がベッドを引きずる音と、空気が揺れる感触。
掛け布団が動いた。エレンが動かした? 邪魔だからどかしたのか。あるいは彼女が被ったのか。想像したのはクラゲのような姿。
右に。左に。歩くように。体を跨ぎながら。マットレスが沈む。脚にはサメの尾が何度も触れ、出来もしない身動きを咎めるようだ。
「ご奉仕を続けるだけだけど」
ようやく聞こえた声は、仰向けの自分に降り注いで包帯を湿らせた。何も映らない筈の視界が赤くなった気がする。
腰の近くが陥没する。すぐ脇にはきっと彼女の膝が置かれていると、触れずに伝わってくる。
肌を掠めて揺れているのは毛布だろう。ばさり、ばさりと揺れながら、エレンと自分の体温を集めている。
「ご主人様は、何して欲しい?」
ゆっくりと毛布が降りてくる。暑い。包まれた熱に呑み込まれる。腹の奥が煮える。指先が戦慄く。
果実の香り。甘味料の彩り。自分の汗臭さ。それらを忘れさせる匂いが、言葉を忘れさせる。
呼吸が難しい。覆いの息苦しさのせいじゃない。これ以上息を吐けば、互いのものが絡み合うと分かる。だから短く浅い、抑え込まれた息が続く。
自分のものじゃない鼓動が、既に寄り掛かってきている。腹も、腕も、掌にも。筋肉の伸縮すらも伝わり合う。
刻まれた吐息ですら交わることが止まらない。されるがまま、塞がれるのを覚悟して────
────空へと、弾き出されていた。
イアスよりも詰まってて柔らかくそして濡れていて体幹が思い切り削れる感じの衝撃。それはもうダイヤモンドよりも壊れにくくて砕けないだろう。
「エレン助けて!! リナさんがお茶菓子勧めてくるんだけど、お断りの文句がもう思い浮かばなくって……何やってんの二人とも? ベッドと床で」
空中散歩はリンの第一声よりも早く終わって、一秒も経たずに木の温もりが顔面から優先的に受け止めてくれた。ありがたくて涙が出そうだ。
妹の奥ゆかしさに期待していなかったのは自分だけではなかったようで、その結果エレンは最短最速の手段を取ったらしい。
「プロキシが、寝るならベッド使っていいっていうから、借りてるだけ」
「あー、そういう? でもお兄ちゃん、だからって床で寝ることは無いんじゃない?」
くぐもったエレンの声は、きっと毛布を頭から被っているせいなんだろう。リンの呆れた声は言うに及ばず。立場が入れ替わっていたら、同じことを言うだろうから。
「…………今は、冷たくて硬いくらいが丁度いいんだ」
自分でもよく分からない言い訳を推敲する余裕もないまま垂れ流し、サメのように、あるいは深海の腐肉喰らいのように丸くなるしかなかった。