川辺が寒かったのは違いない。
疲労があったのも間違いない。
だからエレンの提案は真っ当なもの。
そう思い込もうとする頭の思考力は帽子掛けよりも始末に負えない虚空への言い訳に満ち満ちていて、ただでさえ散漫な注意力は霞へと消えていた。向かっている先の見当をつけようと思い付きもしなかったし、握られている手の方へ意識が持っていかれる。
かろうじて、歩き出してから建物へ入るまでそれほど時間が掛からなかったことから、センターからそう離れていない場所ということだけは分かった。とはいえ、ルミナスクエアには路地裏を含めればどれほどの種類の店が並んでいることやら。
気が付いた時には、下手くそな歌が鼓膜を叩いていた。流行りの曲をつんざく声が彩って破滅的だ。
「なんでカラオケって扉閉めないのがいるんだろ」
うんざり、とエレンは溜め息を吐く。
「あ、向かいから人来るから、右側寄って」
「ああ、うん、はい」
咄嗟に出た気の抜けきった言葉に自分自身首を傾げ、ついでにぐるんと一周して折れてくれないものかと期待する。
言葉の裏で意思疎通を図るのはインターノット上だけで十分なのに、色彩を取り戻したついでに色ボケするとはいよいよ肩から上も役立たずと言われる日も近い。
「なに変なカオしてんの、ご主人サマ」
「お気になさらず、メイド様」
どんな顔をしていたのか考えたくもない。程なく牽引していた腕は動きを止めて、扉が開く音がした。
音程という概念が欠如した喚きがもう少し離れ、室内には僅かな振動だけが伝わってくる。
そのまま部屋の中を誘導されるが、言葉を交わさずにいるのはどうにも居心地が悪かった。
「カラオケなんて、エレンのほうから誘ってくれるとは思わなかったな」
「たまにはいいでしょ。歌なら目は関係無いし」
エレンと横並びにソファに座る。家のものとは違い座面に少し奥行きがあって、シリオンの尾があってもくつろぎやすくなっている。
「やたらに行きたがる人は嫌とか言ってなかったっけ」
「知り合いの知り合いくらいの距離感でそれやられるのがウザいだけ。友達とは普通に行くから。あたしはそんなに歌わないけど」
「そういえば、友達のために割引券を一緒に買いに行っていたこともあったっけ」
「なんか悪い?」
口を尖らせているのが見えなくとも分かる。見えていないのに見透かされているのを雰囲気で察したのか、尚更不機嫌な尾がソファが揺らした。
「まさか。エレンが嫌じゃないなら次は僕から誘うよ」
「気が向いたら行く」
知り合いの知り合いよりましな関係を喜ぶべきか、行けたら行くみたいな返しに苦笑いするべきか。
「──ああ、でも」
思い出したのは、真夜中のルミナスクエア。メイド服の少女へ男二人が話し掛けている光景。
「エレンが嫌じゃなくても、知らない人をカラオケに誘うのはやめてほしいな」
言われてエレンも思い出したのか、少しの間のあとに溜め息。
「やっぱおカタいよね、あんた。あれくらい、どうってことないでしょ」
「うん。エレンが僕なんかの何十倍も強いのは知ってるし、そこらの人じゃ相手にならないのは分かってる」
「それじゃあ──」
「だからって、君を心配しない理由にはならないよ」
ヴィクトリア家政で働いていようが、優秀なエージェントだろうが、学生で、女の子である事には変わらない。
「友人としてただのお願いになるけど。エレンが危ない目に遭って欲しくないから」
「……ホロウで働かせてるクセに、調子いいこと言って」
「パエトーンはホロウの中の方が有能だからね。イアスの案内は頼りになるだろう?」
情けない事を言いながら精一杯笑おうとする。
滑稽だ。矢面に立たせておきながら、白々しく振る舞わなければ取り繕えない。
虚しく笑った声にエレンは応じない。代わりに、握られていた手が離された。
「アキラの『お願い』、聞いてあげてもいいからさ」
ソファが軋み、視界が陰る。
座る自分の前に、エレンが立っている。
「あたしの『お願い』も聞いてよ」
サングラスを外しても、モニタの光を背にしたエレンの表情は伺いしれない。
「聞くだけなら」
かろうじて出てきた反抗心を踏み付けて、エレンが両肩に触れてくる。
服の下に隠していた歯型が疼く。
「今朝、あんたを噛んでからずっと気になってて」
声が顔に近付く。
ゆっくりと、肩は重みが掛かっていく。
それは体重でもあり、自身の脱力のせいでもある。
「歯が、痒いというか、疼く感じがして。でも嫌な感じじゃなくて、だから」
互いの頬を擦りつけながら紡ぐ言葉は彼女らしくないたどたどしさで、だからこそ余計に脳を痺れさせる。
二度ほど頬が動き、言葉なく吐息が漏れた後。三度目には声が伴った。
「もうちょっと、噛ませて」
ソファの上では、完全にエレンが僕の体へもたれ掛かっていた。ここからでもエレンが僕の手首を掴めば、抵抗出来ず彼女の思うまま、されるがままだ。いや、それこそ断りなしに一噛みするだけで僕は身動きが取れないだろう。力の差は歴然だし、彼女相手に手荒な真似は出来ない。
「だめ?」
それでもエレンは許しを求めた。
拒否すれば、きっとエレンは引き下がる。あっさりと、何事も無かったかのように離れて、適当に歌って、家に帰る。万事シンプルであれというエレンの性格ならそうやって簡単に区切るはずだ。
プロキシとエージェント。ビデオ屋とお得意様。友達同士。雇い主とメイド。どの関係性で考えてもそうするのが正しい。気軽に超えていい一線じゃない。僕自身が大人に足り得なくとも、この子は過不足なく子供なのだから。痕を残さないよう、疵を与えないよう、気の迷いなのだと噛んで含めて飲み込ませなければいけない。
「──今朝の噛み跡がまだ痛むんだ」
だとしても。そういう大人ぶった振る舞いが許されるには、分水嶺を遠く過ぎていると自分が一番分かっている。
今まででいくらでも、彼女の好意を押し退ける機会はあった。それを無視してされるがままにさせておいて、いざここで返せるほど手首の滑りはよくない。
「だから」
理性を引き剥がすように上着を脱ぎ、リスクや懸念を横へどかすようにシャツをずらす。
見えもしない視線から逃れるように首を回して、無傷の首筋を晒す。
「こっち側は丁寧にね」
エレンは黙ったまま、頭を擦り付けてくる。もしかするとそれは、彼女なりの甘えるサインだったのかもしれない。
軽く抱えるように背中に回した手をゆっくりと動かす。ワイシャツを撫でる触感は指先に緩い温もりと柔らかさを与えつつ、どこかの記憶に掠めた気がした。
「──」
額を当てて黙りこくっていたエレンだったが、撫でられるたびに呼吸を整えていく。そのまま落ち着くかと思えば、首筋に大きく開いた口が当たる。歯を立てない、唇だけを押し当てるじゃれつくような仕草。むず痒さに思わず頬が緩む。見られていないようなのが幸いだった。
何度か確かめた後、エレンはおもむろに顎を閉じていく。ゆっくり皮膚に食い込む歯の鋭さに思わず仰け反りそうになるが、どうにか反射を抑え付ける。
「ん、ふぁ……いたく、ない?」
こちらが体を硬くしたのに気付いたのか、口元を僅かに離して問い掛けてくる。言葉のためにのたうつ舌先が皮膚をくすぐるせいで身を竦ませることになるが、それを表に出さないように頭を撫でて応えた。
歯を弱く突き立てたまま、彼女は何度も噛み直す。その度に走る鈍痛に声を漏らしそうになりながらも、黙って受け入れる。
ひたすらに、何度も、歯が肌を滑る音が響く。首の次は肩を。そして鎖骨を噛み、もっと下へ行くかと思えば首筋へと戻る。歯形を舐め取るように舌を這わせる。吐息が尾を引き、呼吸が荒い。
「ここの店、店員が結構緩くてさ。カメラも少なくて、部屋の外から見ても中の様子はバレにくいんだって」
ようやく頭を起こしたかと思えば、エレンは唐突にそう言った。
「そんなとこだから、変な真似してくる奴らも使ってて。……前来たときは、カリンちゃんが飛び込んできてなんとかしてくれたけど」
ぼんやりと、路地裏に立って伺っていたチェンソーとメイドの姿を思い出す。荒くなった呼吸が齎す酸素ではその程度しか頭が回らない。
「そういう店だから、アレも撮られたんだろうね」
アレ。アレとはなんだろう。撮られた。カラオケに関連する映像。コマーシャル集か、素人製作のB級映画か。
それよりもっと触れたくない、触れられたくない羞恥の輪郭が意識に浮かびサメ肌でなぞられる。
「昨日、アキラが起きる前。暇だったから、ビデオでも観ようと思って」
エレンの存在に気付く切っ掛けはノックノックの通知だった。それよりも前からエレンが部屋にいたのであれば、そこで何かしてしていてももおかしくない。ビデオ屋に遊びに来たから何か観ようとするのも変じゃない。
「目に付いたのが、ビデオデッキの上に置いてたやつ。ラベルが黒塗りで、治安局のハンコが押してあった」
おかしかったのは、誰の手にも触れられる場所にそういうものを置いたままにしていた自分だけだ。
途端に首から上へ一気に血が集まったかのような錯覚が起こる。ろくに見えない目のくせに、眩暈の気持ち悪さだけは失われていないのが腹が立つ。
「あれは朱鳶さん──いや治安局と協力してたときの物で。ただの忘れ物だから僕の所有物じゃないというか」
事実だ。気付いていながら朱鳶さんに返していないという点を目を瞑る必要があるが。下手に渡そうとしたらセクハラになるんじゃないかと不安になるだろう?
だが事実がどうであれ、いま膝の上に跨る少女には何も関係ない。右の頬をサメの尾の先がつついたと思ったら、左の耳がふやけるほど熱い。耳たぶをエレンの舌が動き、生温い吐息を耳に吹き込まれる。
「シリオンの女の子。シャチっぽい子が、ここで、そういうことしてるやつ」
ああいうのが好きなんだ、と。どこか笑うように囁くエレンにここぞとばかりに手首を掴まれたせいで、今にも火を吹きそうな顔を覆うことすら出来ない。
「すっごい赤くなってる。やっぱ、こういうの言われるのってハズい感じ?」
「分かったなら、そろそろ勘弁して欲しいんだけど」
「やだ」
懇願は無情に切り捨てられた。首を必死に捻ってサメの口撃から遠ざかろうとするものの、そんな姑息な手を講じた者がサメ映画で助かった例は古今類を見ない。追求される口を塞ぐために、哀れな犠牲者は首筋を差し出し続けるしかなかった。