前話と繋がってないです
フィーバーシャーク
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ノックの音がした、気がする。
枕に埋もれさせた顔を上げようと一瞬力み、すぐに諦めた。きっと頭痛か耳鳴りが生み出した聞き間違いだ。玄関を閉めているのに、どうしてノックされるのか。
自分の額に手を当ててみる。昨日ほどの熱はない。
パジャマの裾に手を突っ込むと、ぬるりとした手触りで汗ばんだ肌を自覚する。ああ、気付いてしまうと着替えたくなるけど、その為に起き上がるのはひどくめんどくさい。
サメのフードを被り直すと、知らず溜め息が漏れていた。どうして年の瀬に、自分は風邪なんて引いているのだろう、という呆れから。
原因は分かっている。港傍のホロウ内で、水中を逃げ回るエーテリアスを一時間近く追い掛けていたせいだ。正確にはその後、たいした休憩も出来ないまま学校のクラスで行う忘年会に駆け込むことになったのがトドメになった。何度も寝落ちしそうになるのをコーヒーでごまかして、ルビーに肩を貸してもらいながら家まで辿り着いたのを朧気に覚えている。
そこからボスに病欠を伝えつつ、どうにか着替えて布団に潜り込めたのは気力だけで動けた証だ。枕元にご褒美にもらった飴玉の瓶を置いていたのも良かったかもしれない。こういう時はなんか栄養取ればいいって言われた気がする。
このままパジャマだけ脱いでしまえば、汗の鬱陶しさからは逃れられるかも。けど体を冷やすのは良くないし。でもどうせ布団の中にいるなら変わらない気もする。
ボタンを二つほど外したところで、部屋の外から響く水の流れる音が指を遮った。
今度は勘違いじゃない。誰か、家の中にいる。
神経が尖り、得物へと尾を伸ばす──ことはしない。どこの泥棒が、台所でまな板を鳴らすというのだろう。
耳を澄ませてみると、どうやら侵入者は料理をしているらしい。家の鍵を持っているのは自分の他にメイド長とボス。そして台所から聞こえる手際は完璧主義者とは思えない。とすると。
「リナ、ご飯はいいから着替え出しておいて。シャワー浴びる」
いつもはパスタが正十二面体になっていても椎茸がプリンに入っていようが栄養補給するには頓着しなかったものの、体力が落ちてる今はさすがに選り好みしたい。リナには悪いけど、誰かに買い出しの連絡をしておこう。たまには家でラーメンを分け合うのも良い。
呼び掛けに気付いたのか、静かに部屋の扉が開く音がした。
はて、そういえば。リナがそこにいるなら、付き従う騒々しいボンプたちの音声が聞こえてこないような。
「そっか。じゃあお粥は冷蔵庫に入れておくから、後で食べてくれ」
控えめな声に打たれた背が勢いよく起き上がったせいで、少し目眩がした。
頭を振って無理矢理振り払い、声の主へと顔を向ける。
色素の薄い髪。青みがかった瞳。少し屈んでいるせいで、弛んだ襟元から鎖骨を覗かせているのに目線が奪われる。
私のプロキシがそこにいた。
◆
ベッドで丸くなっていたエレンは、文字通り飛び跳ねるように起き上がった。
顔をこちらに向けたかと思えばぬいぐるみを抱きかかえながらベッドを転がって遠ざかろうとしたのは防衛本能というやつだろうか。
「なんでアキラ、ここにいんの。住居しんにゅーじゃん」
ガブットボンプを模したぬいぐるみで口元を隠した一分ほどの睨み合いの後、警戒心丸出しのエレンはようやく喋ってくれた。
「リナさんに頼まれたんだよ。エレンのお見舞いをしてほしいって、鍵も預かったんだ」
群青色の震えるお粥を携えたリナさんは、どういうわけか見舞いをするのは僕が最適と断言してエレンの家の鍵と錬成物を押し付けて去ってしまった。しっかり作るものは作ってるところからして料理について蒙が啓けたというわけでもないらしい。
「それで、シャワーを浴びるんだっけ。台所のお粥を片付けるから、ちょっと待ってて」
「……お粥って、誰が作ったやつ?」
「リナさんのはリンに任せてきたよ。いまあるのは僕が作ってたもの」
えっ、という感嘆符がぬいぐるみの影から投げ付けられる。
「アキラって料理できたの? いっつも冷蔵庫空っぽなのに」
「あれは電気代のせいで買い渋ってるだけだから。レシピを見ながらやれば平気だよ」
大抵のものは手順書通りにやれば間違いない。問題が発生する場合は手順書が間違ってるか、勝手なアレンジを加えるか、そういう星の下で生まれているかだ。
安心したらしいエレンは掛け布団に潜り込みなおして、
「やっぱり、おなかすいた。お粥たべる」
と、いつもの食い意地をようやく見せた。食欲が戻ったようで何より。
火をかけ直して温めたお粥を持って戻ると、何故かサメを模したフードを被った頭だけ布団から出すに留まっている。尻尾で持ち上がっているのか膨れ上がった布団から頭だけ出ている姿はカタツムリかイモガイのようだ。
「僕はあまり気にしないけど、寝そべって食べるのは流石に行儀が悪いんじゃないかな」
「……起き上がるのだるい」
鼻先にお粥を近付けると生唾を飲み込むあたり、食べたいのは本当なんだろう。けどこれで食べさせるのを覚えさせるのはライカンさん辺りに怒られはしないか、と蒼角に対する柳さんのような感情がちらつく。
「だから、アキラが食べさせて」
そう言って、穴熊を決め込むサメは鋭い牙を見せつつ可愛らしい口を開け放つ。
おかしい。その手のイベントはメイドがやってくれるものでは?
「リナはやってくれるけど。代わりなら、アキラもやってよ」
言い返す前に先んじられて、かんぺきな理屈を提示されてしまう。
困った事に行儀以外に拒否する理由がないし、そもそも彼女は病人だ。病人の要求は出来うる限り叶えてやるのが快復への最短距離だろう。
「………………あーん」
「ぁむ」
ただ世話をしているだけだというのに、カラオケの時より余程恥ずかしいのは何故だろう。恐る恐る差し出した匙を、出不精のサメがパクリと咥える。
「味付けはどうかな。足りないなら塩でも掛けるけど」
「いいんじゃない。ほら、もっと食べさせて」
布団の中でマットレスをぺしぺし叩いて催促する音が聞こえる。元気じゃんと言ってやりたいが、あまりに無防備に口を開いている姿を見ていると文句も萎んでしまう。
暫くして、お椀三杯分のお粥と羞恥心を食べたエレンは満足げに笑みを浮かべながら、悠々と口元を拭われていた。そこまでやらせなくてもいいだろ。
「おいしかった」
「それはどうも。レビューみたいな言葉をありがとう」
「食べたら熱くなってきたし、着替えようかな」
「その間は外に出てるよ。洗い物はこっちのバッグに入れて、後でリナさんに任せるから。終わったらメッセージ送って。それじゃ」
口を挟ませる間を入れずに部屋から逃走、違う玄関に向かって前進する。背中に「ちぇっ」と舌打ちを投げられたのだから、選択肢としては14よりマシな方を選べたに違いない。
玄関扉を背中に付けて外気を深呼吸して冷静さを自分に言い聞かせていると、マナーモードにしていたはずの端末から通知音が鳴った。
『マスター。助手2号から、朝帰りになる場合は事前に連絡が欲しいとメッセージがありました。プロトコル「夜遊び」に従い、各エージェントのスケジュールを活用した欺瞞情報の流布を行いますか?』
「そんなプロトコル知らないし、これ以上余計な事を言うなら今月扱わせる電気量は乾電池1本分にするぞ」
素手でバッテリーを引っこ抜きたくなる衝動をギリギリで抑え、カメラへ指を突き立てながらお節介アシスタントに言い含める。というかリンも何のつもりでそんなメッセージを送ってきたのか。ライカンさんからのお土産と偽ってお粥を渡したのを恨んでいるのかもしれない。
とりあえず妹様には次の仕入れの権利を譲渡する旨を無条件降伏の文章と共に送っておく。何故か半笑いの顔文字が送り返されてきた。
深淵極まる妹心の読解に苦慮している内に、エレンから入っていいと連絡が入った。戻ってみると、さっきとは色の違うピンク色のサメのパジャマを着たエレンがベッドに腰掛けていた。髪の先から水滴が垂れていてもエレンの表情はどこかぼんやりとしていて気にする風じゃない。
「ちゃんと髪を拭かないと、また具合を悪くしてしまうよ」
置いてあったタオルを頭から被せ、優しく水気を吸い取る。耳の穴まで拭き取ってもされるがままになっているのは、さっきまでの甘え方とは違うように見える。
「エレン? 大丈夫かい?」
向かい合って目を覗き込むと、焦点が合っていないようだ。妹とするようにおでこを重ねると、随分と熱くなっているのが伝わってきた。
これは良くない。念の為に買っておいたおでこに貼るシートの出番か。買い物袋から漁っていざ貼り付けようとしたが、エレンはふらふらと頭を揺らし、抱き着くように倒れ込んでしまった。
「横になろう、エレン。ほら、尻尾持つよ」
普段は嫌がりそうな尻尾ごと抱きかかえられる状況でも、エレンはたいした抵抗をしない。弱々しく服の上から鎖骨周りを噛んでいる程度だ。
そのまま尻尾が邪魔にならないよう丁寧に布団へ横たわらせ離れようとするが、エレンが首に巻き付けた腕をほどいてくれない。
「なんか寒い。ぎゅってして、あっためてよ」
耳元で囁かれた言葉は、ワガママに振る舞っているようで、ひどく弱々しく響いた。
風邪引きの子供には勝ちようがない。観念して自分もベッドに横になり、蹴飛ばされたように放り出された掛け布団をエレンと自分に掛ける。まだ体温が残っていたのか、掛けた途端にとても熱く感じる。
「背中、さすって」
言われるままに背中へ手を回す。背骨を沿ってなぞると尻尾を少し震わせる様子が愛らしいのは言えない。
「抱き締めて」
背に回した腕に力を込める。併せてエレンの腕にも締め付けられて、余計に距離が近くなる。
「頭撫でて」
やっぱり余裕あるな? しかし今さら指摘するのは無粋だろうか。
背中をさすり頭を撫でて抱き締めて。世間話ついでに小咄をしたりまた撫でたり。服を緩めて肩を噛ませたり噛んだり。
甘え下手のサメが寝息を立てるまでの間、それは続いた。
「で、しっかりお土産まで貰ってくるなんて、お兄ちゃんは優しいねー……っくしゅん!」
盛大にクシャミをするリンのおでこに冷却シートを貼り付けてやる。一瞬心地よさに眼尻が下がるものの、すぐに睨まれてしまった。
「すまない、リン。まさか僕じゃなくて君に行くとは思ってなかった」
「私だって思ってなかったよ、もう。他にもうつしたら大変だから、しばらく遊びに行くのはダメだよ」
「面目ない」
「あと、私にもお粥作ってね。エレンばっかりズルい」
「もちろん、ちゃんと作るさ。安心して寝てるといい。お手伝いも呼んでるから」
どうぞ、と部屋の外に声を掛けると、この世で一番信頼を置けるメイドが扉を蹴破って入ってきた。
「ヴィクトリア家政の方から来ましたー、よろしくお願いしまーす」
「エレンは病み上がりでしょ! ダメじゃん!」
「けどリンが今ひいてる風邪を完治してるってことは抗体があるってことだから、たぶん丁度いいよ。知らないけど」
「最後の言葉でもう信用出来ないし」
「はーい、添い寝してあげますからおとなしくしてましょーねー、おじょーさまー」
「エレンはそれでいいの、って、うわ、尻尾力つよ、重」
そのままサメの尾に押し潰されたリンは、尾びれを抱きしめながらベッドに横たわる置物になった。芸術的。
「じゃ、任せたよエレン」
「アキラもこっち来なよ。あんたは風邪引かないんでしょ」
「その言い方だと僕が高い所が好きな人みたいに聞こえるんだけど」
「いいから。二人で寝てれば倍暖かくて風邪もさっさと治るよ」
「茹だった卵だってそんな理屈通らないぞ、って、うわエレン力強っ」
そのまま引っ張られるままに、リンのベッドで僕ら三人は川の字になって寝転ぶことになった。
病人のためならリンを真ん中に置くべきなのに、僕らがエレンを挟むようになっていたのは何故だろう。
兄妹どちらも抱き締めて満足そうな笑顔で眠るエレンを見れたのだから良しとしようか。