スーツに身を包んだ男性たちが疲れ果てた顔で『定時の神話』を借りていく背中を見ていると、彼らのような宮仕えは自分には無理だなぁと思ってしまう。いくら大企業に勤めていても、濁りきった目で「弊社爆発しろ」と呟きながら日々を生きられるのは、そういう特殊技能を持っている人じゃなければ無理だろう。
ともあれ、企業に労働力を捧げる方々が大方帰路に着いた頃、ビデオ屋に寄る人間が途切れてようやく店仕舞いを始められる。帳簿のまとめに清掃整頓、商品棚と貸出表の確認、明日の品出しの準備と、毎日のルーティーンながらやる事は多い。
まずは金勘定から済ませてしまおうと、メモ代わりの出納帳をカウンターで広げてペンを手に持つ。邪兎屋の面子のチャージ金額が大きく赤く横たわっているのはどうしたものか。意味深長でもなんでもない肉体労働で返させるにしても、それをニコ以外に強要するのは心が痛む。
今日使われたクーポンだって、もう何度目のご新規様割引のものだったか。数えるのも嫌になってクーポン使用お断りの張り紙デザインが頭で組み立てられている時、既にCLOSEDの看板を下げた玄関扉が開かれた。
「すいません、今日はもう店仕舞いで──って、あれ」
仕事逃れの言葉を唱えつつ扉を見やると、そこにいたのは治安局の精鋭、都市秩序部捜査課の才女、特務捜査班の班長たる朱鳶さんだった。
いつもの凛々しい表情は鳴りを潜め、その顔は申し訳なさそうな思いがいっぱいと文字で書いたかのような弱気ぶりが見て取れた。
「いらっしゃい、朱鳶さん。『定期訪問』の時期には少し早いけど、何かご入用かな?」
「いえ、今回はお客というわけではないのですが……ちなみに今、あの黒色の小さい子は……」
朱鳶さんは挙動不審気味に店内へ入っていく。なるほど、どうやら前の訪問調査の際に元野良猫のクロから熱烈歓迎されたのが未だに深く突き刺さっているらしい。猫というものは不思議なもので、机に置かれているものならパソコンでも帳簿でも治安局の資料でも腹の下に敷いていいと思っているから困る。
「クロなら上の階でリンがブラッシングしていたかな。なんなら呼んでこようか?」
「結構です! 私がああいうの苦手って知ってるのに、なんでそんな事言うんですか!」
「飼い猫の幸福度を考えるのは良い飼い主の条件だと思ってるんだ」
「来客の安寧を保つのが店長の責務というものでは?」
しばらく警戒していた朱鳶さんだったが、注視していた階段からモフモフが降りてこない事を確認してようやくいつもの調子に戻る。つまり、実直ながら優しい朱鳶治安官だ。
「用件は二件です。一つは、パエトーンとして協力していただく際の経費、備品購入費についての規定です。内容がまとまりましたのでお伝えします。購買稟議書に必要事項を記入の上、私へ提出してください。決裁の連絡を書面でお送りするので、それを受け取った後に所定の取扱業者へ発注、受領書と領収書を一緒にして送ってもらえれば、治安局からアキラくんの今のアカウントへ振込を行います。稟議規定と所定業者についてまとめた資料がこちらです」
言葉の津波と共に差し出された書類の束の重さと、何某かの書類を記入して提出して待ち時間を耐える気の重さ、どちらが体に掛かる負荷が大きいだろうか。知識として知ってはいても、家族経営のビデオ屋にはあまりに馴染みのない文化だ。
「治安局の人は消しゴムを買うのにも書類十枚必要なんて小噺を聞いたことがあったけど、あまり笑えなくなりそうだ」
「さすがにそれはオーバーですよ。文房具なんかの消耗品を買うのに稟議は必要ありません。三枚程度書けば十分です」
小銭をポケットに入れて141へ向かうだけでいいじゃないかと言いたくなるが、社会で働くということはそういうものなのだと飲み込む。
「記入の仕方で分からない部分があったらいつでも連絡してください。そのまま書類を受け取れるなら、その方が楽ですし」
「朱鳶さんはデスクワークだけじゃなくて現場仕事もあるんだから忙しいだろう。何かあれば治安局の窓口に行くから大丈夫さ」
「アキラくんに会いに行くくらいの時間はやり繰りしますよ。今日だってほら、この通り」
「六分街を巡回する治安官がビビって足が竦む時間帯まで働くのは、時間をやり繰りしているとは言えないよ」
書類のためにワーカーホリックな治安官を呼び出してしまうのはさすがに忍びない。何より、パエトーンという厄介者を抱え込んでくれているのは朱鳶さんだ。こちらがダメ元で訊いた経費の申請について真摯に対応してもらっているし、承認して決裁を仰ぐのだって朱鳶さんの役目だろう。
有給を山のごとく積もらせている彼女に更なるタスクを積む原因を作ってしまっているのだから、これ以上迷惑を掛けたくないのが本音だ。
「それで、もう一つの用は?」
「ああ。そっちはアキラくんが前にメッセージをくれた件です。治安局絡みの忘れ物があったから、時間がある時に来て欲しいって。私、何か置き忘れていましたか?」
「あー……」
思ったそばから迷惑ではないが気苦労を掛けるものを渡さなければならない。
カウンター下の引き出しの奥。リンに見つからないように隠していた、治安局の判子が押されたビデオを取り出す。
題名を黒塗りされたテープを見て、朱鳶さんは首を傾げる。
「なんですか、これ?」
どうやら見た目だけでは思い出せないのか、あるいは思い出したくないのか。受け取りはするものの、どういうものなのか反応に困っている様子が、彼女のぎこちない指の動きから伝わってくる。
「ずっと前のものだから、中身を覚えていないならそっちの方がいいと思うけど」
「何言ってるんですか。内容が分からないなら受け取れませんよ」
「確かにそうだ。……朱鳶さんが置いていったのは間違いないよ」
これ、詳しく説明してセクハラか何かで訴えられないだろうか。曖昧な言葉しか言えないままカウンターに肘をついて表情をごまかす。
朱鳶さんの視線がテープから僕へと移り、再びテープに戻る。その動きは妙に機械的で、彼女の中で何かの処理がエラーでも起こっているかのようだった。
「治安局の判子が押されてるってことは、業務に関係するものですよね? でも、ラベルが黒塗りってことは……──」
彼女の言葉が途中で止まり、急に顔が強張る。顔色が白から青から黄から赤に変わっていく裏で、きっと不穏な記憶がフラッシュバックしているのだろう。
「えーっと、朱鳶さん?」
「まさか、これって……あの時の……」
彼女の手が微かに震え始め、テープを握る指先に力がこもる。そのままひしゃげさせかねない手のわななきが、爆発しそうな何かを予感させておそろしい。
「えっと、大丈夫かい? 何かまずいものでも思い出した?」
「まずいってレベルじゃないですよ、アキラくん!」
突然、朱鳶さんがカウンターをバンと叩く。その勢いに僕の肩が跳ね上がり、カウンターに置いていたペンが転がって床に落ちた。乾いた音が店内に響き、帳簿のページが風圧でわずかにめくれる。
「これ、もしかして……あの時のアレじゃないですか!? 押収品のえ────ひっ、非合法な映像が入ってるやつ!」
朱鳶さんの声が一段階高くなり、店内に響き渡った。僕は慌てて手を振って彼女を落ち着かせようとするが、焚火に空気を送る程度にしか意味をなさず、顔の赤みはどんどん濃くなっていく。
「とっくに証拠品として保管してあるべきものなのに! どうしてこんなものがここに!? まさかアキラくん、治安局の職員を買収してそういうものを売り捌いたり!」
「落ち着いて欲しい。これは僕が勝手に持ち出したわけじゃないよ。調査の時に置いていかれてしまったものをそのまま保管してただけなんだ」
「保管って、アキラくん、こんなものをカウンターの下に隠してるなんて正気ですか!?」
「ちょっと自室に置いておけなくなって、一時的に。ずっとここに置いてたわけじゃないよ」
引き出しを外さないと見つからない最奥部分だ。リンにだって見つかりっこないだろう。
ともあれ、とにかく真摯に詫びるしか方法はない。カウンターへ額をぶつける勢いで頭を下げる。
「遅れてしまって本当にすまない。でも持って出掛けるのを見咎められたら猶更問題だし、かといってリンやお客がいる前で渡すわけにもいかなくて。本当にタイミングが合わなかったんだ」
「…………納得とまではいきませんが、一応、返却が遅れた理由として飲み込んでおきます。押収品の紛失に気付いていなかった私に一番責任がありますし」
「僕が言えた事ではないけど、あんなもの沢山見せられれば冷静でいる方が難しいんだ。自分を責めないでくれ」
「あんなもの──くっ、うう……」
言われたせいでまた思い出してしまったのか、耳まで赤くなってしまった。しかし治安官としての責務は羞恥よりも重いようで、テープを握り潰したり投げ出したりはせずしっかりと抱えていた。
「ちなみに。これ、また再生なんかしていませんよね?」
しばらく悶えていた朱鳶さんの目が一瞬で細まり、探るような視線が僕を刺す。声に冷ややかな響きが混じり、まるで心の奥まで見透かそうとしているようだ。
ごまかしきれる自信のない容疑者は、素直に真実を告げるしかない。
「中身が分からなくて確認したのと……エレンがちょっとだけ再生したらしい」
「エレン? たしか、ヴィクトリア家政でバイトしていたサメのシリオンの?」
「ああ。たまたま僕の部屋でビデオを観ようとして、これを見つけてしまったらしくて」
朱鳶さんが深い溜め息をつき、額に手を当てる。その仕草があまりにも疲れ果てていて、申し訳なさが加速する。
「本当に申し訳ない。でも、エレンは僕が不注意に置いていたのを見ただけで、何かしたわけじゃ──」
「見られた時点でアウトなんですよ! 本当なら事情聴取だってしたいくらいです。だいたい、学生にこんなもの見せるなんて破廉恥ですよ! いけないんです!」
店内の静寂が耳に刺さる。何を言うべきか焦るが、言葉がうまく出てこない。
言い淀んでいる内に朱鳶さんの熱もようやく冷めてくれたのか、顔色もトマトのような赤からほんのり染めた程度に落ち着いてきた。
「……まあ、アキラくんが意図的にやったわけじゃないのは分かります。そんなことする人じゃないとは知っていますから」
テープを指で軽く叩きながら、「でも」と言葉が続けられる。
「何か他にも隠してるんじゃないか、ちょっと疑いたくなりますけどね。何しろアキラくんには『前科』がありますからね」
「朱鳶さんにはもう嘘をつけないよ。プロキシと隠していた時だって良心が咎めていたからね」
「そう言って、良心が承知するなら躊躇しなさそうですけど」
これ以上指摘するつもりはないのか、テープをカバンに仕舞い込む朱鳶さん。その仕草に疲れと安堵が混じり、彼女の肩から力が抜けるのが分かる。
「とりあえず、これは私が持ち帰って処理しておきます。これ以上拡散しないでくださいね」
「分かった。約束するよ」
「あと、エレンちゃんにも口止めしておいてください。トラブルに巻き込まれてしまうかもしれませんし」
「もちろん」
バイトとはいえヴィクトリア家政に務めているんだ。秘密事には慣れたものだろう。言いふらして面白い内容でもないし。
「それじゃあ、これで用件は終わりです。また何かあったら連絡しますね。……あと、クロちゃんにはくれぐれもよろしく」
「お勤めご苦労様です、朱鳶治安官」
軽く会釈して、朱鳶さんは店を後にした。その背中を見送り終えてから、ようやく強張っていた体が脱力する。
彼女のお陰でプロキシ業がやりやすくなったのは間違いないが、それでも張り詰めた雰囲気を感じてしまってどうしても緊張する。個人としても好ましいと思っているのに、こうして迷惑を掛けてばかりで心苦しいことばかりだ。どこかで埋め合わせしなければいけないだろう。
「話、終わった?」
「ああ、終わった……!?」
階段から聞こえてきた声は当然妹だと思って返事をしてから数秒、顔を上げた。階段の暗がりから聞こえる軽い足音と、かすかに揺れる尻尾の影に気付いた瞬間、驚きが喉を突き上げる。
「エレン!? いつの間に、なんで二階に!?」
「隣の建物上がって、窓から。なんか治安官と話してるから、顔見せたら面倒かなって」
階段の影からひょっこり顔を出したエレンが、尻尾を揺らしながら降りてくる。パーカーのフードを被ったまま動くシルエットはお化けか怪盗か暗殺者か。赤い瞳が薄暗い店内で微かに光り、階段が彼女の足音で小さく軋む。
「……今度から戸締りの指差し確認は忘れないようにするよ。もしかして話聞いてた?」
「さっきまでリンと一緒に猫撫でてただけ」
エレンがカウンターの端に腰を預けながら、赤い瞳で僕をじっと見つめる。その視線に少しだけ気まずさを感じつつ、僕はペンを拾い上げて帳簿の上に置いた。
「なんか渡してたっぽいけど、プロキシやる上でのワイロってやつ?」
「朱鳶さんはそんなの受け取らないよ。……治安局の忘れ物を返しただけさ」
「それってアレ? あのシャチの子が映ってたやつ?」
ごまかそうとしたがしっかり覚えられているし、しっかり見抜かれていた。エレンの口から聞くだけで別の記憶が蘇り頭を抱えたくなる。口止めを切り出すにはちょうどいいのかもしれないと思うことにしよう。
「エレン、それ、誰にも言わないでくれ。色んなところに飛び火しかねないから」
「別に大したことじゃないじゃん。ああいうの、インターノットのあちこちに転がってるでしょ」
「そういう問題じゃなくて。あれが手元にあったってだけで朱鳶さんの首を飛ばしかねない話なんだ。秘密にしておいて欲しい」
エレンは一瞬、赤い瞳を細めて僕を見据えた。その視線には、面倒くさそうな色と、どこか楽しげな好奇心が混じっているようだった。尻尾が小さく揺れ、カウンターの端を軽く叩く音が響く。彼女がこういう話に首を突っ込むタイプじゃないのは分かっているけど、この反応は少し意地悪な匂いがする。
「分かった。面倒くさいし、別に言いふらすつもりもないよ」
思いのほかあっさりとエレンは頷いてくれた。肩の力が抜けるような安堵感が広がる。でも、エレンの声にはまだ何か引っかかる余韻が残っていて、油断するには早すぎる気がした。
「でも、秘密にするのはそれだけ?」
「それだけって?」
「なんであたしがビデオを観たって事を、アキラが知った理由とか」
今度は朱鳶さんに代わって僕の顔色が変わる番だろうか。盲っていた時だと言うのに色付いた光景を全力で頭を振って追い払う。
パーカーの下、影になったエレンの表情は……面白がっているのか、照れているのか。笑っているらしいことしか分からない。
「……店仕舞いが終わったら、夕ご飯を食べに行くかい? 好きなものを言ってくれ。ルミナの店でもいいし」
「滝湯谷のラーメンでいいよ。奢ってね、ご主人サマ」
カウンターに腰掛けながら器用に背を向けたエレンが、ヒレを使って頭を撫でてくる。賄賂を渡す悪徳ビデオ屋としてはされるがままになりつつ、書き掛けの帳簿に向き直り店を閉める準備を再開した。