ポート・エルピスから出る艀に乗って到着する、小島のような岩礁。港よりも波が高く、荒れているように見える海は一見すると釣りをするには難所のようだが、根掛かりにさえ気を付ければ大物が狙える穴場でもあった。
公共物のように置かれた誰も由来の知らない折り畳み椅子に座る。愛用のルアーを投げ入れ、静かに揺られるのを眺めること既に数十分が経過していた。
アタリが無いことに不満はない。釣りとはそういうものだ。むしろ、何も考えずにいられる時間が出来ていることに安堵を覚える。ただでさえ新エリー都は騒がしい街だ。喧騒から離れ、呆けて頭を休ませるのも大切な休憩と言える。釣果については忘れよう。
「お若いの、釣れているかな?」
どうやら、別の艀が来ていたことにも気付かないほど呆けていたらしい。声の方に振り替えると、ハンチング棒を被った小柄な釣り人が立っていた。身の丈よりも長い竿を持ち、やる気は十分というように見える。
「……ええっと」
「ふむ、如何した? 声を掛けられたのが気に障ったのなら謝罪しよう」
「いえ──そんなことは。ちょっと、ぼうっとしていたもので」
「それはそれは、猶更詫びねばならないな。魚を待ち、心を空かしている時間も、釣りの立派な醍醐味だ」
大仰に頷きながら、釣り人は釣り具のセッティングを手際良く始めた。
釣り人はこちらの仕掛けと絡まらないよう配慮した位置取りをして、すぐに地面へ座り込む。こちらのバケツをちらりと見たせいかもしれない。少し恥ずかしくなり、気を紛らわせようと口を開く。
「今日はあまり釣れていませんね。というか、オケラです」
「優勝者殿であっても、そういう時もあるだろうな」
エルピス最強釣り師決定戦での事を言っているのだろう。あれを自分の実力として認められるのは面映ゆい気持ちより、申し訳なさが混じるところがある。
「あるいは。その竿先に乗った憂いが、魚を遠ざけているのでは」
ポチャン、と水音が鳴った。釣り人の竿がブレたかと思えば、その糸先には立派なコブウオが元気良く身をくねらせていた。
「見て分かるほどでしたか?」
「うむ。優勝者殿は隠しているつもりであろうが、端から見れば瞭然。悪事や謀りが苦手な性質とお見受けする」
ふふふ、と笑われているのは感謝するべきなのだろうか。悪人面と言われないのは上等な生得だが、『パエトーン』として思えば箔が足りていないかのようだ。もっとも、犯罪者だとしても悪人として振る舞っているつもりは無いから別にいいのだけど。
何も言わずにはおれず、仕方なしに心に溜まっていたものを少し吐き出す。
「実は最近、家に少し居づらい事情があって。憂いがあるとしたら、それでしょうね」
「ほほう、それは難儀な。ご家族と喧嘩でもされたか?」
「喧嘩なんてとんでもない。仲は良好ですよ」
今朝だって布団を引っ剥がしてリンを起こしたり、買ってきたエリー速報を肩を並べて読んだり、リンの頬についていたパン屑を取ってあげたり、仲が悪ければそんなことは出来ない。
「であれば、どのような理由で?」
当然の追及に、口が重くなってしまう。が、ここまで話せば止めるのも変だ。円滑なコミュニケーションのために良心を眠らせる。
「家に、猫が多くなってしまって」
「猫」
「ええ、猫です」
断言する。
「前から黒猫が居ついていたんですけど、最近友人から預けられる事が多くなり、少し大変なんです」
「なんと。それほど任されるのは、信頼されている証であろう。気苦労が絶えぬのもむべなるかな」
「そうですね。みんな良い子で手間は掛からないんですが、それぞれ事情が違うこともあって、悩みはつきません」
「猫もそれぞれか。たとえば、どのような来歴の者が?」
「たとえば白猫なんかは、古い友人が飼っているんですが、最近抜け出してきたんです。うちが居心地いいのかたびたび居つくようになって、古い友人も猫が満足するまでそうして欲しいと任されてしまいました」
「元の飼い主との友誼が感じられる。結構なことだ」
「ただ、その子が怪我をした友達を連れてきたこともあって、どこかで無茶をしないか心配になるんです。ああ、連れてきた事は全然良いんです。ただ危ない目に遭っていないか、気になってしまって」
「成程。確認するが、猫の話であったな?」
「はい、猫です」
繰り返し断言する。
「ふむ。他にはどういった子をチャンピオン殿は迎えておられるのかな?」
「あとは、最近知り合った新しい友人から、品のある猫を預けられました。大切にしていたようですが、友人が……遠くに行ってしまうということで、どうかと頼まれたんです」
「人徳を積まれている証左よな」
「こちらも礼儀正しくて、手間の掛からない良い子なんですけど、ちょっと……その、なんというか。僕や家族のことが、好き過ぎるようで」
「好き過ぎる」
「ええ、まぁ。興奮させ過ぎてしまうと体に毒だと思うので、適度な距離を測っているんですが、その心遣いにも反応してしまうらしく。飼い主に巡り合うまでにもつらい経験があるようなので、どうにか慰めてあげたいとも考えたりと」
「成程、成程。確認するが、猫の話であったな?」
「ええ、猫です」
それ以外に何があるというのか。
「前々から居ついていた黒猫、というのは?」
「少し事情があって貸してもらったところ、気が付けば家を縄張りにしていた子です。巡回するように家の中を歩き回ったり、僕や妹の後をついて回ったり、布団に潜り込んできたり。気が付いたら棚を一つ占領しているようなちゃっかりしたところもあって、一番傍若無人かもしれませんね」
「それにしては、迷惑がっているようには見えないようだ」
「実際、迷惑に思ったことなんて一度もありませんから」
「猫に寛容であるな、お若いのは」
「猫の話ですから」
猫は布団に入ってくるものだ。燃料を司る郊外のネ申もそう言ってた。たぶんあれは自分から入りに行ってると思うけど。
「他にも青い子や茶色い子なんかも来たり。昔には考えられないほど賑やかになりました」
「その賑やかさに、居づらいと?」
言われ、少し軽口がつっかえる。
「ええ。自分は軽薄な人間なので」
空言が、岩礁に打ち付けられる波に攫われた。
釣り人のわざとらしい溜め息の方が、よほど真実味があったかもしれない。
「優勝者殿」
「そういう事にしておいて下さい。少しばかりの猫の世話を負担に思う、しみったれた人間なんです」
「その度量と懐の深さで無理を言う」
「違いますよ。度量も懐も無いから、真似事をしたいだけです」
「まぁ、己を過大評価するよりはましであろうが。しかしな」
釣り人の声が、不思議と耳朶を撫でるほど近く感じた。
「どれほど底の浅さを演じようが、器から注いだ情には責任が伴うことは、ゆめ忘れぬようにな」
「……猫の話ですよ?」
「ああ、そうであった。うむ、うむ」
不意に、釣り人は立ち上がった。どうやらいつの間にか、持ち込んだバケツが満杯になっていたらしい。同じ岩礁にいながら、どうしてここまで差が付くのだろう。
「さて、我は心を虚ろにしていたため何も覚えておらぬが、十分な釣果は得られたらしい。早々に魚と塩漬けバッテリーを交換してもらうとしよう。ではな、優勝者殿」
「羨ましい限りだ。じゃあまたいずれ、治安官殿」
桟橋へ歩き去る玉偶へ、背中越しに手を振る。岩礁には再び、静寂が戻る。
「せめて一人一皿くらいのお土産は……っと!」
彼女の艀が岩礁を去ってすぐ、早速ウキが反応した。愚痴を言うのも案外馬鹿に出来ないのかもしれない。
弾む心は、ここから空き缶を立て続けに三度釣り上げる事をまだ知らない。
ビデオ屋のゴミ「店に集まって頼られたり好かれたりするのはいいけど、自分に依存し過ぎるのは自分がいなくなったあと彼ら彼女らに悪いから、情けない所を見せておけば幻滅してくれないかな」