ポート・エルピスの桟橋に、艀のエンジン音が小さく響く。夕暮れの海は、まるで新エリー都の日々過ぎゆく平穏を水面で溶かしたかのように穏やかだ。
だが、僕の手元にあるバケツの中身はその裏側にある混沌と等しい。ガラクタの金属音がガチャンと鳴り響き、釣果の惨敗を嘲笑うようだ。
「ゴミ拾いでもしてた?」
艀から降りた僕を出迎えたのは、エレンの開口一番の辛辣な一言だった。彼女のシルエットを柔らかく縁取る夕陽が目に染みる。泣いてなんかない。
「一応、釣りのつもりだったんだけどね」
ただ事実を言っているだけなのに、何故だか虚しい言い訳に聞こえる。バケツの中の空き缶ブーツ塩漬けバッテリー達が賑やかす異音がどう考えても釣り竿で引き上げるべきものじゃないことを物語っている。バケツを提げた手がひたすら重い。今日の不運を象徴する中身どもめ。リサイクルして音動機用のエネルギーモジュールにでもなってくれないかな。
「そういうエレンは何を? 仕事じゃないようだけど」
話題を逸らそうと、彼女の姿に目をやる。エレンはヴィクトリア家政のメイド服ではなく、白のTシャツに淡いブルーのホットパンツという、制服姿よりもっとカジュアルな格好だ。髪飾りのワンポイントはいつものサメの顎めいたカチューシャよりも大人しいが、だからこそ彼女本来の姿を際立たせていた。白い布地は空と水面の夕日を受けて、優しい橙色を放つように煌めいて見える。
「ま、釣りみたいなもんかな」
「エレンが? 珍しいな」
それにしては釣り竿もバケツなんかの道具が見当たらない。借りたのだろうか。
「あたしはほら、尻尾でパシャッといけるから」
お尻をこちらに向けて、桟橋を擦るようにヒレを振るエレン。さながら渓流を逆上がる淡水魚を狙う熊が如し。
「……冗談だろう?」
「当たり前じゃん」
シリオンの身体能力を知っていると、あながち無いと思えない。ネコの祖先は尻尾の釣りをやったと聞くが。
「で、本当は何を釣ろうとしてたんだい?」
「あんた」
その一言に、思わずバケツを取り落とす。敗残の音がまた鳴った。飛び出た塩漬けバッテリーが海底に戻る。
「最近、また釣りしてるって聞いたから。ここにいれば釣れるかなって」
ふぃーっしゅ、とばかりに腕を振ってニヤリと笑う。エレンは釣り竿のつもりらしいが、その振り方はどう見てもバットのスイングだ。
「釣り針を垂らすのは自由だけど、魚がそれに食いつくとは限らないぞ」
軽口で返すと、エレンはフンと鼻を鳴らし、桟橋の端に腰を下ろした。尾が水面を軽く叩き、波紋が広がる。逃げるように散る小魚が見えた気がした。海風が彼女の髪を軽く揺らし、シャツの裾をわずかに持ち上げる。
「魚が食いつかないなら、泳いで捕まえに行くだけ」
通り過ぎたら追い掛けてきてくれるのかい、と混ぜ返したら、本当に捕まえられそうだ。おとなしく食いついていた方がいいらしい。
「性急すぎる。釣りは待つものだよ」
エレンと並んで桟橋の縁に座る。足の間を海面を撫でる風が走り、思いのほか心地良い。夕陽が水平線に沈み始め、空が橙から紫へ変わりゆく。
「だね。泳ぐの面倒だし。こうやって待ってる方がラク」
ぽちゃん、ぽちゃん。膝を抱えるようにエレンは身を屈め、尾が水を鳴らす。本人は涼しげだが、見ているこっちは落ちやしないかヒヤヒヤする。
「暑くなったら、もっと水遊び出来る場所に行こうか」
「『パエトーン』だったら、プライベートビーチとか、リゾート地持ってる大富豪から依頼受けたりしないの? 依頼ついでに遊びに行くからさ」
「それはヴィクトリア家政の方があるんじゃないかい? 避暑地にメイドさんや執事を連れてバカンスなんてありがちだろう」
「そーかも。水着で接待しろとか言われたりして。だる」
耐水仕様ヴィクトリア家政? そういうのもあるのか。いつもと別の姿の彼ら彼女らを見たい気持ちは大いにあるが、戦闘スタイルまで違うと戦術も変調するからなんとか着替えだけで済ませてくれないものか。
「リナの水着はすごいよ」
「何も言ってないよ」
あと言わなくても分かるよ。
「けど、あのメイド服じゃないと浮けないから業務に差し障りますって断りそう。残念でした」
「何も言ってないよ」
残念なのはそうだけど。
「カリンちゃんは着替えるかもだけど、丸鋸錆びるからヤだろうし、ボスは毛が水吸ったらヤバい位笑えそう」
いつかあった夢の話を語るような口振りで、夏の様子がエレンの内側で踊っているのが伺える。クールで面倒くさがりな直情娘なのに、意外と夢見がちなところは隠そうとしないのが不思議だ。
「そーなると、あたし一人で、水着で、お金持ちの接待」
パチャン、パチャン、チャポン、びちゃ。
海水で濡れたサメの尻尾が、単語を区切るように水を切り、最後にこちらへ乗せられる──ことはさすがに遠慮したのか、桟橋の上に釣り上げられた魚のように投げ出される。
「なんか、想像した?」
「とりあえず相手の無事は祈ったかな」
題名はメイドシャークバイトか鮫噛館の殺人か。どう足掻いてもB級からは逃げられそうもない。柳さんなら喜んで借りていきそうな気がする。エレンの尻尾が再び動き、彼女の不満を表すように強く桟橋を叩いた。
「そうじゃなくて。もうちょっとこう、心配とか」
調子に乗った金持ちを次々襲うパニックホラーものの感想は求められていなかったかもしれない。眉がじわじわと上がってきている表情は可愛らしい。一息だけ置く。海風が冷たくなり、夜の気配が近づいている。
「最近の映画はモンスター側が勝つのも珍しくないよ」
溜め息を吐かれた。エレンの無双ぶりを知っていると、どうしてもそっちに想像が行ってしまうのだから仕方がない。お詫びの代わりにタオルを取り出して、投げ出されたヒレを包む。不満げな吐息が聞こえるものの、尻尾を丸められて避けられる風でもないため、受け入れてもらえたと判断して海水を拭き取ってやる。
「そこは何があっても助けに行く、とかでしょ」
「エレンに何かあれば絶対に助けに行く。安心していい」
気障と思いながらも望まれたとおりに言ってみる。ご希望通りだと言うのにじっと見つめ返してくるエレンは無表情だったが、突然、あー、とどこか納得したような声をあげた。
「アキラが助けるって言われても、なんか頼りない」
「えっ」
予想外の返事に、思わず間の抜けた声になった。桟橋の下で波が砕け、塩気の強い風が顔を叩く。
「助けてくれるのは間違いないんだろうけど」
「けど?」
「現場に来るのがイアスって思ったら、ちょっと間抜け」
倒れ伏すエレンに迫る魔の手。その時爆散する扉。黒煙の中、颯爽と現れたのはンナンナと鳴くイアス。
……自分で想像しても、コミカルさはごまかせない。というか、もう効果音を背負うコミックスのような絵面が思い浮かべてしまう。
「近い内にホロウ内でも動き回れるよう修行を付けさせてもらう予定だから、期待して待っていてくれ」
「ボスと一緒に店行った時のアレ関係?」
「そう、アレ」
諸々の数奇な縁によって、市長閣下からの支援によって僕ら兄妹は難儀な体質を克服しつつある。時が経てばエーテルを制御する術法を学ばせてもらう予定だが、その話はまだ先の事だ。
「ふーん。……リンなら安心なのに」
「いい加減、僕がモヤシって前提から離れてくれないか」
多少インドアなだけで弱き者として扱われるのは憤懣やる方ない。リンの方が頼りになりそうなのは…………否定はしないけど。
「こう見えても筋トレしているし、たまに工事現場でバイトしているんだ。水着になっても恥ずかしくない体付きだって自負しているよ」
「へー」
服の上からさわさわと腹を触ってくる。くすぐったい。
「ふーん」
裾をめくりペタペタと腹を触ってくる。むずがゆい。
「まあまあかな」
「それはどうも」
お眼鏡に適ったらしいあとも、エレンは触れるのをやめようとしない。指先は肌の感触を楽しむ様に円を描く。流石にそろそろ、周囲の目が気になってくる。
「エレン。もう行こうか。家まで送るよ」
「ん」
ピタリと手を止めるエレン。ようやく解放されると胸を撫で下ろす。下ろせると思っていた。
「じゃ、続きは車でね」
服の中で撫で下ろされた胸が、高鳴った気がした