ピーリングシャーク
朝焼けが新エリー都の街並みを薄く染める頃。早起きついでに店内の掃除を済ませていると、玄関扉が小さく鳴った。
視線を上げると、見慣れたサメの尻尾がドアの隙間からちらりと見える。エレンだ。ヴィクトリア家政の仕事上がりに、いつものようにビデオ店へ立ち寄ったらしい。
「おはよう、エレン。早いね」
「ん、おはよ。起きてたんだ」
エレンはメイド服の上からパーカーを羽織る珍しい着こなしをしていた。払暁前の冷え込みが厳しい時間帯、始発も動いていない街を歩いてきたのだろう。
フードを被ったまま入ってくる彼女の赤い瞳は少し眠そうで、尻尾の動きもいつもより緩慢だ。仕事明けの疲れが全身に纏わりついているのが見えるようだ。二階へ向かう足取りも、どこかふらついているように見える。
「早く目が覚めたから、少し掃除をね。仕事お疲れ様」
「うん……ちょっと着替えてくる」
エレンはそう言って、階段を上がっていく。リンは寝ていて扉も締まっているだろうし、また僕の私室で着替えることになるんだろう。もう日常の一部と言えるかもしれない。最近はメイド服から普段着に着替えるついでに、少し休んでいくことも多い。
……でも、もし僕がまだ寝ていたなら店の鍵は閉まっていたと思うけど、どうやって入るつもりだったのだろう。ノックノックで呼び出すような横暴さは無いと信じているが、少し気になる。
しばらくして、二階の薄い床は何かが寝転がる音を素通りさせた。掃除道具をしまって様子を見に行くと、私服に着替えたエレンはベッドに横になって目を閉じかけている。パーカーの袖が少しずり上がっていて、細い腕が無防備に伸びているのが目に入った。
「そのまま寝ていいよ。仕事明けならゆっくり休んでくれ」
「んー……ダメ。ボスからルミナモールでお使い頼まれてるから、行かないと」
エレンが口ではそう言うけど、声に力がない。瞼が重そうに下がっていて、今にも眠りに落ちそうだ。マットレスに沈む彼女の体は、疲れを隠しきれていない。買い出しとはいえ、この状態で出かけるのは心配になる。
「でも、もう着替えているじゃないか。私服で行くのかい?」
「ルミナモールで学生限定のアクセ、売ってるんだって。それが欲しいって依頼。午後まで残ってるか分かんないから、早めに行かないと」
「そうか。でもその様子じゃ、買い物どころかまた道で寝ちゃいそうだ」
「うるさい……大丈夫だって」
反論する声がますます小さくなって、尻尾がソファの端を弱々しく叩く。ダメそう。
「なら、僕も手伝うよ。ここからまたルミナスクエアに行くなら、一人じゃ大変だろう」
エレンが一瞬だけ目を開けて、僕を見る。眠気でぼんやりした瞳が、少し驚いたように揺れる。
「アキラが? 別にいいけど……」
「決まりだ。車を出したり荷物持ちをするくらいなら任せてくれ」
「……ん。じゃあ、お願い」
エレンが小さく頷いて、また目を閉じる。結局眠気に勝てなかったらしい。ソファに沈んだまま彼女の呼吸が静かになる。
ルミナモールの開店までまだ余裕がある筈だ。──限定100台のドローンを買いに行くなんて特殊なものでもなければ。ひとまず店内の掃除を済ませて開店準備を終わらせるまでは、彼女を少しでも休ませてあげよう。
◇
ルミナスクエアのショッピングモール、ルミナモールは平日の午前中だろうと人の流れが途切れることはない。家族連れやカップルで賑わう喧騒は、新エリー都の繁華街らしい活気だ。
そんな中、僕の手にはすでにいくつかの紙袋がぶら下がっていて、その重さが腕にじんわりと響いている。
「アキラ、これ見てよ。新作映画に出てるサメのキーホルダーだって。けっこう可愛いじゃん」
エレンが雑貨店のショーウィンドウに貼り付くように立ち止まり、赤い瞳をキラキラさせている。尻尾が小さく揺れていて、彼女の興味が丸見えだ。
三又の首を持ったサメという尖った意匠だが、鋭い歯のデザインが妙に愛嬌を帯びている。
「確かに可愛いね。欲しいなら買おうか?」
彼女が振り向いて、一瞬驚いたような顔をする。でもすぐに目を細めて、ニヤリと笑った。
「奢ってくれるの? 太っ腹だね、ご主人サマ」
「たまにこれくらいはね」
軽く返すと、エレンはさっとキーホルダーを手に取って僕に押し付けてくる。素直で躊躇が無いのは良いことだ。ある意味奢りがいがある。
ヴィクトリア家政の任務はあっさりと完了した。店を出る前の休憩と車内でのうたた寝が功を奏したのか、エレンはすっかり元気を取り戻し、ご依頼のペアネックレスを獲得する事が出来たのだった。
強いて言えば、1ケースで一組のセット販売だと言うのにエレンは何故か2ケース買っていたのが少し不安だ。もしかして転売でもするつもりだろうか。
とにかく、あっけなく終わったお陰で予定の空いたエレンは、そのままルミナモールの中を見て回りたいと宣言。荷物待ちと言ってしまった手前、喜んでついて行く他ない自分を引き連れてウィンドウショッピングすることになった。
モールの中を歩きながら、エレンは自然と僕の隣にぴったり寄り添ってくる。距離が近いのはいつものことだが、今日は特に近い気がする。腕に軽く肘が当たったり、買い物袋を覗き込むついでに肩をくっつけてきたり。普段女子高生同士で遊んでいるのだし、そういう距離感は普通なんだろう。
「次はあっち、食材売り場行こう。今日はボスがお昼に賄い作ってくれるから、フルーツでも持っていけばなんか用意してくれるかも」
エレンが指差したのは生鮮食品コーナーだ。色とりどりの果物が並んだ棚が目に入る。彼女の尻尾が少し速めに揺れ始めているのは期待の表れなんだろう。
「ライカンさんが用意するなら間違いない。席が空いてるならお邪魔したいところだ」
「ボスだったらなんとかするでしょ。一緒に来ればいいじゃん」
そう言うと、エレンは目を細めて笑う。苦労するのは上司の常か、とライカンさんを心の中で労わるが、それはそれとしてご相伴に預かりたい。
生鮮コーナーに着くと、エレンは迷わず果物棚の前に立った。イチゴやバナナ、マンゴーなど定番の品々が並んでいる。僕はその後ろで紙袋を調整しながら、彼女が何を選ぶのか眺めていた。
「アキラ、これどう思う? ケーキに合いそうじゃない?」
エレンが振り返って、イチゴのパックを手に持って聞いてくる。赤い実が鮮やかで、確かに美味しそうだ。
「良さそうだ。さすがメイド、良い目利きだね」
「じゃあこれと、バナナも少し取っとこ。リナがスムージー作るって言ってたし」
途端に食欲が失せることを言うのはやめて欲しい。
エレンは満足そうに頷いて、イチゴとバナナをカゴに入れる。
「じゃ、これも重いから持ってて」
「了解、メイド様」
「あと何か買っていくのあるかな。ボスに聞いてみよ」
そう言ってエレンはスマホを取り出し、ライカンさんへノックノックで質問を送った。返事はすぐに来たようで、食材コーナーを回りながら、エレンは次々と必要そうなものをカゴに放り込んでいく。鶏肉、玉ねぎ、ニンジン。賄いのメニューが何になるのか想像しながら、僕はただ荷物持ちに徹する。
会計を済ませると、エレンは周囲を見回して呟く。
「こんなとこかな。ちょっと休憩しない?」
エレンがベンチを指差して提案してきた。賄いの買い出しで歩き回った疲れが溜まってきたらしい。僕も腕にぶら下がる買い物袋の重さに少し参っていたから、休憩するのはちょうどいい。
ベンチに並んで座る。自然と口の端から吐息が零れる。
「だいじょぶ? もうへばっちゃった?」
「そこまでじゃあないよ。ほら、ホロウの中でも元気だっただろう? あれから体の調子は良いんだ」
「あー……あれね。確かに調子は……うん……」
ごにょごにょ何か呟いたかと思えば、エレンは顔を背けてしまった。
そのまま黙りこくってしまったので気にせず買い物袋の整理をしていると、エレンは自然と僕の肩に寄りかかってきた。
横目で様子を伺ってみると、エレンの赤い目が段々と細くなっていくのが見えた。尻尾の動きがゆっくりになり、呼吸が少しずつ深くなっていく。うたた寝し始めたんだろう。彼女のこういう癖はホロウでの仕事後によく見るが、ショッピングモールの喧騒の中でも眠れるのは大したものだ。
あまり切れ切れに寝るのは良くないと聞くけれど、こうして眠られてしまうと咎めるのは憚られる。
人のざわめきがどこか遠く耳に届く中、ぼんやりと時間を過ごしていると、視界に見慣れたシルエットが入ってきた。
ツーサイドアップに黒のベスト。自身の容姿を最大限引き出す着こなしは、無骨なアタッシュケースを煙に巻くには十分な魅力がある。
泣く子も指を差して笑うA級エージェント、邪兎屋のニコだ。ショッピングモールという値切りが通じない空間では場違いだろう彼女が、ニヤニヤしながら近づいてくる。
「ごきげんねアキラ。朝からメイドとデートだなんて優雅じゃない」
ニコがベンチの前に立って、腕を組んでからかうように言う。彼女の目はエレンの寝顔と僕の肩を交互に見て、明らかに楽しんでいる様子だ。
「デートじゃないよ。ヴィクトリア家政の依頼に付き合っただけさ」
素直に返すと、ニコは一瞬だけ目を丸くして、それから呆れたように溜息をついた。
「アキラ、あんたほんとそういうとこ変わらないわね。真面目すぎるっていうか、鈍感すぎるっていうか」
「買い出しに付き合うのがそんなに変かい?」
「変じゃないけど。メイドが肩に寄りかかって寝てる状況で、普通そんな淡々としてられる?」
昨日から依頼で疲れてるんだから、休憩中に寄りかかるのは自然だろう。肩を貸すのだってどうってことない。
「エレンは仕事で疲れてるだけだよ。肩くらい貸すさ」
「はいはい、分かったわよ。あんたはそういう奴だもんね」
ニコが手を振って話を切り上げるけど、その目にはまだ何か言いたげな色が残っている。彼女が一歩近づいてきて、小声で呟く。
「でも、あんたそんな態度だと、いつか刺されるわよ」
「怖いことを言う。誰がそんなことをするって言うんだ?」
「さあねぇ。メイドちゃんかもしれないし、別の誰かかもしれないし」
自分の胸に聞きなさいな、と人差し指を突き立ててくる。随分な言い草だ。まるでそんな無茶をする子が僕の知り合いにいるみたいじゃないか。
特に何も言い返さないでいると、ニコが打って変わって笑顔を見せる。
「ところでさ。午前中はその子のお守りをするとして、午後からちょっと付き合えない?」
「なるほど。延滞料金の支払期限延長の相談ならここの会議室を借りようか。この間、仕事の付き合いで初めて通してもらったけど、意外と居心地が良かったよ」
身近にあっても普段は立ち入らないスペースというのは、いざ経験してみると意外な魅力を秘めている。HIAセンターの仮眠室とか、治安局の休憩室とか。
「そんなしみったれた相談をしたいんじゃないわよ。ただ、あんたとの金銭関係を良好にするって意味なら、悪い話じゃないと思うけど」
ニコは前かがみになって顔を寄せてくる。ニコの常套手段だ。自身の策に乗せようとする時、彼女は必要以上に絶対性や完璧性を主張しようとする。
「ニコ。君に時間を使うのは構わないが、そうやって怪しい態度を取られると警戒せざるを得なくなるからやめた方が良い」
「なんでよ! 私はちゃんと、とりあえず私が儲けるために今は無償で手伝って欲しいけど、最終的にはあんたにも利益があるって言ってるでしょ!」
「言葉の外に意味を持たせるのはコミュニケーションとは言わないんだよ?」
あと、その最終的と表現する段階は一体どの程度先なのか示さなければ詐欺では?
その時。僕とニコとの間に、黒い鞭のようなものが走った。それはニコの前髪を掠って振り下ろされ、ニコの胸元の手前で停止した。
そのまま黒いもの──鮫の尻尾はゆっくりと、しかしニコがたたらを踏む程度には力強く押し返していく。
「ごめんエレン、起こしちゃったか」
少しうるさくし過ぎたかもしれない。兎にも角にも謝罪するが、眠りを妨げられたサメがその程度で牙を収めるはずがなかった。
得物が無かったのがさいわいだったか。エレンは僕の腕を握ったままニコを睨みつけている。ひょっとすれば剪定鋏の代わりに蹴り出されるのかもしれない。
「邪兎屋の、ニコだっけ。なんか用?」
「ああ──いや、その──」
不機嫌そうな声色を隠すことなく、唸るように話すエレン。口ごもるニコを見るのは珍しいかもしれない。
「と、とりあえずコレ、あんたも見ておいて! それじゃ!」
そのまま皮を剝がされかねないとでも思ったのか、ニコは脱兎の如く退散していった。
残されたのはニコに押し付けられた、HIAセンターのチラシ一枚。そこには開催予定のVRイベントが掲載されていた。
「『乱撃壺中天目』か。行ってみるかい?」
「お腹減ったから、お昼のあと考える」
伸びをしながら欠伸をするエレンは、どこまでもマイペースだった。