状態異常シャーク   作:すばみずる

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バーサクシャーク

「リンと話してくる」

 

 固まった僕をそのままに、エレンは部屋を出ていく。呼び止めることも出来ず、もどかしさから見えない天井を仰いだ。

 エレンが変だ。

 手伝いにしてもいつもより妙に積極的だし、ひどく挑発的な態度を取るかと思えば、急に映画をしっかり観たいと言い出し、トドメに泊まると来た。

 何を考えているのやらと純粋無邪気に構えていられたら良かったが、邪気を勘定に入れられないようなら裏稼業なんてやっていられない。問題は、『それ』をどう言語化するか。もちろん害意とは呼べないし、悪戯心などという無駄極まる感情を彼女がストックするはずがない。

 もっと適切な語句が思考に浮かび上がろうとするが、検討の卓に乗せた時点である種の誹りを受ける覚悟がいる。そしてそんな覚悟をする前に自身の立場を自身の顔面に叩き付ける夢想をする方が早くて、これ以上はやめろと適切に思考をカットしてくれる。そう、だから意識するな。エレンはただの友人でただのお手伝いでただのメイドでそれ以上ではない。ただのメイドってなんだよいちビデオ屋にいる存在じゃないだろ。大体あのメイド服だって足癖悪いのを前提にしてるのかミニスカにしてるせいで滅茶苦茶めくれあがってイアスの視界だと平時戦闘関わらずほぼ中が見えたままで違う違う違うそういうのを今思い出すんじゃあない。

 

「ねぇアキラ。シャワーの順番って」

「うん、ちょっと頭冷やしてくる」

「はぁ? いや違」

 

 戻ってきたエレンの声が聞こえるのとほぼ同時に立ち上がり、シャワーへ向かう。これ以上思索という名の煩悩を回しても何の収穫もない。落ち着こう。落ち着くと決めたなら行動は早い方がいい。拙速は巧遅に勝ると言う。目が見えない? 何年この家に暮らしているんだ。部屋の扉から左手へ行けばいいだけだし、そこへの歩数なんて体がとっくに覚えている。

 頭の内外諸々の声を無視して脱衣場へと飛び込む。身に着けた電子機器を放り、上着を肌着ごと脱ぎ捨てて、ベルトに手を掛けて、

 

「あれ、エレン? どうかした? 後でいいって言ってたのに」

 

 狭いシャワー室を反響する、くぐもった声に身が竦んだ。

 それはまず間違えようのない隣人のもの。

 それはいま聞こえてはいけない人のもの。

 

「もしかして、一緒に入りたいとか~……」

 

 声を出すよりも先に体が動いた。せめてシャワー室から出てこなければ、対面さえ無ければいくらでもごまかしが効く。扉を押さえるため突き出した手は、そういう後付の思考を生んだ。

 問題は、ただでさえ不自由な身で、尚且つ慌てている時、まともに動けるかどうかという基本的なところ。

 

「──────」

 

 かくして指先は勢いよく壁にぶつかるだけで行動終了、風呂場の扉は呆気なく開き、その先にいる誰かと僕は時が止まったかのような時間を共有した。

 

「さいってー」

 

 背後から響いた極北のサメの一声が、静止を氷解させた。

 見えてない目の奥で火花が散る。いや星が瞬いたかもしれない。どっちにしろ一瞬だけど閃光のように眩しく燃えて兄の威厳と共に燃え尽きた。

 よろめいた体に鈍い音と共に重い打撃が何度か加わる。多趣味な妹の事だ。健康体操代わりに何かしら武芸でも嗜んでても驚かないぞ。

 勢いそのままに廊下へ押し飛ばされ、後頭部から倒れる。痛い。が、痛がっている資格は無い。

 最後に

 

「お兄ちゃんのバカ! スケベ!! 下半身無節操男!!!」

 

 謝罪の言葉を弾き飛ばすように──言う暇など無かったが──凄まじい音を立てて脱衣室の扉が閉まる。

 

「あんたさ、ほんとになにやってんの」

 

 あらゆるものがブレイクしているところにエレンの連携が差し込まれる。呆れきった声に返す言葉も無い。

 

「あーあ、鼻血出てるし。妹相手に興奮するとか」

「違う。絶対に違う。それだけは違うから」

 

 尊厳に関わるの弁解も鼻を摘ままれ鼻声になってるせいで滑稽に聞こえる。実際、滑稽極まりないんだけど。

 

「プロキシ様。……その、ご無事でしょうか」

「うん。大丈夫。そういう事にしておいて欲しい」

 

 階段の方からライカンさんの声がする。彼ほどの執事でも、いやむしろ彼ほど人間が出来ているならば、先の状況では飛び出せるわけがない。兄としても止めたい。

 

「エレン。僕はいいから、リンについてあげて」

 

 鼻をつまんでくれていたエレンの手を押し退け、体を起こす。

 しかしエレンはその答えが気に食わなかったようで、鼻の代わりに僕の首根っこを掴んできた。

 

「うっさい。ボス、あと任せたから」

 

 今日だけで何度、我が家のドアが酷使されただろうか。ライカンさんが止める間も僕が反抗の間もなく引きずられ、またもや激しい音を立てて自室が閉ざされた。

 引っ張られた勢いのまま放り出されて、何かにぶつかって体が止まる。ベッドの端だ。手探りで立ち上がり、その縁に座る。

 

「エレン。いくらライカンさんでも、あの状況じゃ対処に困るんじゃないか? 今は同性であるエレンがついてあげるべきだ」

「それ、やらかした本人が言う?」

 

 ぐうの音も出ない。

 

「ボスだったらうまく宥めるよ。女の子の扱いには慣れてるだろうし。……アキラほどじゃないだろうけど」

「僕がそういうのに慣れてるんだったら、エレンをそんなに怒らせたりしないよ」

「怒ってなんかないし」

 

 そう言って怒っていない人なんて見たことがない。

 実際、そういう女慣れをしていると思われるのは心外だ。誰に対しても誠意をもって接しているのに。

 

「とりあえず、ソレ止まるまで大人しくすること」

「メイド様の仰る通りに」

 

 これ以上の反論は認めない。そういう風に言い切ったエレンは黙り、部屋の隅でなにやらゴソゴソとし始めた。

 部屋の外からはライカンさんがリンへ何やら話しかけている風な声が聞こえている。尻拭いをさせてしまって申し訳ないが、今ばかりは全面的に頼るしかない。とはいえ妹もそこまでショックを受けているとは思わないが。

 ……そういえば、ライカンさんも泊まるつもりなのだろうか。毛深いシリオンが入ったあとのシャワー室がどうなるか少し気になる。彼の事だから全て清掃した上で出てきそうだが。

 濡れて細くなったライカンさんのシルエットを想像していた時。不意に、濡れた何かが頰を触った。

 

「う、わ」

「何その反応。そんなにビックリしなくてもいいじゃん」

 

 間近にエレンの声。先の冷たさと打って変わって、どこか面白がるような色を感じる。

 

「エレン、さっきのは?」

「濡れタオル。汚れちゃったから拭かなきゃでしょ」

 

 何か用意していると思えばそれか。そういえば鼻血が出ていると言われていた。

 思わず鼻の下を擦りそうになるが、掃除の手間を手に広げることはないだろう。むず痒さを我慢してされるがままに構える。

 

「続けるよ」

 

 ぎぃ。ベッドが鳴きながら沈み、自分の体が左方に傾く。座ったエレンに寄りかかりそうになるのを体幹が堪えようとするものの、巻き付くようなサメの尾のせいで結局捕まってしまった。

 それを諦めて受け入れていたのが、最初の隙だったんだろう。

 冷たい布が鼻孔の周りから人中を下り、唇の輪郭をなぞっていく。顎の先から首まで折り返すように触れられると、自然と顎が上がってしまう。

 

「なんか猫みたい」

「こうしないと拭きにくいだろう」

「そうだね。ありがと」

 

 そのまま首をぐるりと回り、肩まで拭かれていく。

 胸元を撫でられ始めた辺りでそういえば脱衣所で上半身は脱いだままだと思い出した。ふと、いま突然治安官がサプライズ入場してきた時に合法であることを主張出来る格好だろうかと益体もない不安がよぎった。

 

「腕、上げて」

「そんなところまで汚れてるかな」

「だって、そうしないと拭けないじゃん。脇の下とか」

 

 そうかな。そうかも。いやそうじゃなくてなんでそこまでやってるんだろう。

 でも腹まで拭かれている時点で突っ込んでいなかった僕も悪い気がする。

 釈然としないまま自身の怠惰を楯に丸め込まれ、言われるままに腕を前に突き出すようにして上げる。

 

「はーい、そのままにしててくださいねー、ご主人さまー」

 

 あやす口ぶりでくすぐるように脇腹が清められていく。しかし間近に座られている方はともかく、反対側に腕を回すと半ば抱き着かれているのと同じだ。

 

「いちいち場所動くの、面倒だし」

 

 指摘に対してはなるほど合理的な回答が得られた。その合理にこちらの気持ちが含まれていない事以外には問題ない。

 かなりの忍耐と自制心を消耗したものの、その感触について感想を持たないことが出来た事実は自分に対してプライドの復古に少しばかり寄与したと勝手に思うことにする。

 脇を触ることだけは断固として拒否した後、エレンは次のターゲットに両の手を定めた。

 

「手、思ったより大きい」

「そりゃあ、エレンよりはね」

「爪も綺麗。そういうの気にするんだ」

「身嗜みは全ての基本だから」

「ボスもリナも同じような事言ってた。ビデオ屋でもそうなんだ」

 

 なんてことない会話をしながら、指先から指の間まで、丁寧に拭き取られていく。爪の間に詰まった垢まで掻き出すような細かさは、よく気が利いているが複雑な気分だ。辱める意図など無いと分かってはいるが、自分の身の丈に合わないもてなしはそれと変わらない。

 しかし、ここまでやってもまだエレンは満足しないらしい。

 

「血だけじゃなくて、もう顔も全部拭いとこ。シャワーの代わりになるでしょ」

 

 そんな事を言って、あっけなく目隠しの布も外されてしまった。鼻先から眉間、おでこ。目元。耳の穴まで柔らかい布がねじ込まれていく。

 

「これ、本当に見えてないの? 閉じてるだけじゃなくて?」

「見えてないよ。瞼を開けても閉めても同じだけど、目に何か入ったら危ないから閉じてるんだ」

 

 ふーん、と言いながら瞼を弄んでくる。別に感覚が無くなっているわけじゃないからやめてほしい。

 

「まつ毛なが。化粧とかしてないよね」

「たとえそういう習慣があっても、今は出来ないよ」

「それもそっか。リナにでも教えてもらえば?」

「おもちゃにされる未来しか見えないかな」

 

 だんだん顔を洗うという名分は薄れてきたのか、顔のあちこちを触られるだけになってきている。

 快不快を言うより、肌寒さとむず痒さからくしゃみが出そう。

 

「そろそろいいかい? 寒くなってきたし、上着を着たいんだけど」

「もうちょっと待って」

 

 頬を両側から抑えられて、無理矢理エレンが座る方へと首を回される。

 

「あと一箇所だけ」

 

 もう好きなようにやらせよう。そう思い力を抜いて身を委ねていると、唇に濡れたものが触れた。

 たいして力も掛かっていないから、汚れが取れそうにない。ただ柔らかくて温かいだけの接触。頬を抑えられたまま、ただ触れ合うだけの時間が続く。

 少し果実の匂いがした後、その接触はなくなった。

 腹の底の蛇がのたうつような、身を焼く息苦しさ。その熱が邪魔をして喉が鳴らない。

 

「拭いただけ」

 

 ただ一言、エレンが呟いた。そう言い切られてしまえば、それ以上の追求は出来ない。僕には見えていないのだから。

 

「着替えは右手側に置いとく。リンがシャワー出たみたいだし、アタシも浴びてくる」

 

 慌ただしい足音が遠ざかる。

 遠くに水道が流れる音が聞こえてくるまで、動く事が出来なかった。

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