六分街が茜色から暗く青く、夜の色へと塗り潰されていく頃。
路地に面した喫茶店のテラス席に座り、ミント味のコーヒーをマドラーで弄んでいると、はす向かいのゲームセンターの出入り口から見知った二人が連れ立って出てきた。
「なるほど。つまりあの矢印が昇ってくる機械は、反射神経を鍛える修行ではないのか」
「そ。あれに併せて体を動かせば、踊ってるみたいになるの。ほら、上半身も動かさないと転んじゃうから、勝手にバランス取ってればそれっぽいじゃん」
制服姿のエレンと、珍しく私服姿の雅さんだ。
エレンのパーカースタイルは割と見かける方だが、雅さんは落ち着いた色合いのブラウスにロングスカートという、彼女にしては『現代的』な装いをしている。どこぞのファッション誌を参考にしたのか、あるいは柳さん辺りのコーディネートだろうか。
先ほどまで遊んでいたゲームについて語り合っている様子は、傍から見れば年相応の友人同士のようでもある。しかし、彼女たちがどういうものかを知っていればいるほど、その光景の不可思議さが勝る。
「だがお前は後ろのバーを掴んだまま、足だけではなく尻尾も使っていなかったか。あれは踊りではないだろう」
「出来るってことは、そうしていいってことでしょ。ダメならシリオンの尻尾禁止って張り紙するって」
「……そういうものか」
釈然としない顔で頷く雅さんに、エレンが意地悪そうに笑う。
「それだったら、アキラにやらせてみる? たぶん二本の足で踊ってくれると思うから。笑えそう」
エレンがくるりとこちらを向き、テラス席にいる僕を指差した。目が合う。最初から気付いていたらしい。
雅さんも釣られるようにこちらを見て、真剣な眼差しで頷く。
「確かに興味深い。そういうわけだが、アキラはどうだ」
「その会話の流れを聞いて『よし行こうか』とはならないよ、普通」
苦笑しながら席を立ち、二人の元へと歩み寄る。
「奇遇だね。二人で遊んでいたのかい?」
「修行だ。エレンが『現代の若者の嗜み』を教授してくれるというのでな」
「ただの暇つぶし」
エレンが飴を噛み砕きながら、つまらなそうに、けれど満更でもなさそうに言う。
三人で並んで歩き出す。行き先は決めていないが、自然と足は駅の方へと向いていた。
「そういえば、明日からだっけ?」
不意に、エレンが切り出した。
視線は前を向いたまま。けれど、隣を歩く距離がわずかに縮まった気がする。
「ああ。しばらくは衛非地区の方で暮らすことになる」
「衛非地区というと、スロノス区か。ヤヌス区とは一つ地溝を越えた先になる」
雅さんが即座に反応する。てっきりそういう情報周りは副官任せにしていると思っていた。
岩山と海辺に挟まれるような形で構えられた衛非地区は、ヤヌス区とはまた異なる文化があるという。方言が出来るほど文化圏の違いというと、少しばかり不安も過ぎる。
「あっちに拠点を構えて市長からの依頼をこなしつつ、お世話になる宗派の下で修行をすることになっている。店はしばらくボンプ任せになるかな」
「リンも乗り気?」
「そうだね。最終決定は明日の打合せ次第だけど、十中八九依頼を受けて向こうに行くことになる」
僕とリン、二人揃っての長期出張だ。プロキシとして求められている仕事であり、僕らが望んだ情報へ辿り着ける足掛かりでもある。乗らない手はない。
反面、心配事も多い。店の事。市長づて以外の依頼の事。新しい環境。収入。
そして勿論、これまで共にしてきたエージェントとの縁も。あらゆるものとの距離が変わり、そして厄介な事に期限が決められていない。転勤族と呼ばれる方々はいったいどのように折り合いをつけているのだろうか。自宅兼店舗で生活する身の上としては疑問は尽きない。
「車で行けばそれほど遠くはないけど、別の区だからな。向こうでどうなるかは分からないけど、これまで通りに会えるかどうかは分からない。だから……」
言葉を濁す。
しばらく会えなくなる、と言いたかった。けれどそれを改めて口にするのは女々しい気がしてしまい、音にならない。
ふとエレンの反応を伺う。彼女は歩調を変えず、表情も変えない。
「ま、いいんじゃない。行ってきなよ」
返ってきたのは、拍子抜けするほど淡白な言葉だった。
まるでコンビニに行ってくると言った時の反応だ。
「うむ」
雅さんも短く頷くだけ。
二人のあまりにあっさりとした態度に、逆にこちらが戸惑ってしまう。もう少し、こう、名残惜しむような空気があってもいいんじゃないだろうか。
思わず足を止めると、二人が不思議そうに振り返った。
「なに?」
「どうかしたか?」
「いや。気軽だね、二人は」
オブラートに包んだ言葉を言うと、エレンは鼻で笑った。
「別に、新エリー都の中ならどの区に居ても会おうとすれば簡単でしょ」
「スロノス区なら六課も出向くこともあり得る。心配は無い」
ごもっともだ。物理的な距離など、彼女たちの前では些細な問題でしかない。
エレンがにやりと口角を上げる。
「それとも、行かないでって泣いて欲しかったとか?」
「エレンに泣いてもらえるなら、それは見てみたい気もするけどね」
軽口で返すと、彼女は呆れたように肩をすくめた。
だが、その直後。雅さんが静かに口を開いた。
「お前がどこに居ようと、それは関係ない」
彼女の瞳が、街灯の光を反射して揺るぎなく輝いている。
「お前は私の――私たちのプロキシなのだからな」
エレンも何も言わず、ただ肯定するように目を伏せた。その仕草だけで十分だった。
「……そうだね。ありがとう」
僕が礼を言うと、雅さんは満足げに頷き、エレンはそっぽを向く。
「で、これからどうするの? 雅サンの休暇、丸一日なんでしょ? それとももう帰る?」
「家には朝帰る予定だと伝えてある。問題は無い」
「雅さん以外の全員に問題が生じかねない報連相だな……」
名家の人間である自覚はあるのだろうか。あるのだから性質が悪いんだよなこの人の場合は。
エレンが伸びをしながら提案する。
「じゃ、ライブハウス行こうよ。適当な曲聞いてるだけでも楽しいし」
「おや、今日のエレンはミュージシャンの気分かい?」
「ま、そんなとこ」
「音楽か。私もぜひ体験してみたい。ここでは即興で弾けるのか?」
「案外乗り気じゃん。飛び入りは無理だろうけど、それならバンド組む?」
雅さんが目を輝かせる。ライブハウスの爆音と熱気の中に、お忍びで新エリー都の精鋭が混ざる図を想像すると少し笑える。
エレンがベースを弾き、雅さんが……何だろう、和太鼓だろうか? いや、意外とボーカルかもしれない。
「詩と洋琴の類なら覚えがある」
「ようきん、ってピアノ? ライブハウスにあるかな」
「キーボードでいいんじゃないか? 知り合いへ面子を募ってみようか」
「アキラはなんかやらないの? 部屋に色々置いてるじゃん」
「リンなら覚えがあるけど、どうせなら僕は作曲でもしてみようか」
出発前の最後の夜。湿っぽい別れよりも、この凸凹な三人で騒ぐのも悪くない。
僕たちは夜の街へと歩き出す。
明日からの日々のことは一旦忘れて、今はこの心地よい喧騒に身を委ねることにした。
◆
ライブハウスの爆音と熱気がまだ耳の奥で燻る中。深夜の六分街は静まり返り、街灯の光がアスファルトに長い影を落としている。その影の一つは、少しばかり歪な形をしていた。
駅の改札口で、雅さんは満足げに息を吐いた。
「素晴らしい体験だった。音楽に合わせて体を揺らすというのは、体幹の訓練にもなり得る」
「それは良かった。雅さんが最前列で直立不動のまま目を閉じていた時はどうなることかと思ったけど」
「音の波を肌で感じていたのだ。……ふむ、また機会があれば誘ってくれ」
そう言い残し、彼女は改札の向こうへと消えていった。明日からの修行も問題なくこなせそうな足取りだ。
問題は、僕の背中に預けられたもう一人の方だ。
「……んぅ……」
耳元で甘い溜息が漏れる。
エレンは完全に脱力しきって、僕の首に腕を回したままぐったりとしていた。ライブハウスの熱気に当てられたのか、それともはしゃぎ過ぎたのか。
時折、吐息と共に甘い香りが鼻をくすぐる。それはいつもの飴の匂いとは少し違う、果実が熟れすぎたような、あるいは微量のアルコールを含んだような芳香。
ライブハウスのドリンクカウンターで、彼女が何を頼んでいたのか確認しなかったのが悔やまれる。いや、色とりどりのカクテルが並ぶ中で、ノンアルコールだと信じて渡されたものを飲んでいただけかもしれない。そういうことにしておこう。気付かないふりをするのも大人の作法だ。
「エレン、大丈夫かい? 少し飲み過ぎ……いや、疲れが出たかな」
背中を揺すり上げるようにして声を掛けるが、返ってくるのは微かな唸り声だけだ。
さて、どうするか。
このまま家まで送り届けるには、僕の足では少し遠い。タクシーを拾うにも、この時間の六分街は流しが少ない。
店に戻って社用車を出すか、それともライカンさんに連絡して迎えに来てもらうか。あの完璧な執事なら、連絡一つでリムジンでもなんでも回してくれるだろうが、こんな深夜に泥酔(と誤解されかねない)した部下の姿を見せるのは、エレンの評価に関わるかもしれない。
「……んー……」
「エレン? 起きているなら、どうしたいか言ってくれると助かるんだけど」
首筋に熱い額が擦り付けられる。くすぐったさに身を竦めると、湿った唇が耳朶に触れるほどの距離で囁いた。
「……泊まる」
「え?」
「帰るの、めんどい……アキラんとこ、泊めて」
その声は、普段のぶっきらぼうさを含んでいるようで、どこか甘えるような粘り気を帯びていた。
拒否権はないらしい。彼女の腕が、逃がさないとばかりに首への締め付けを強める。
明日からはしばらく店を空けるのだから、寝る前に片付けや準備をしようと思っていたのだけど。だが、この状態のエレンを放り出すわけにもいかない。
「……仕方ないな。リンには僕から説明しておくよ」
諦めて歩き出すと、背中で「ん」と満足げな声がした。
Random Playの裏口を通り、静まり返った店内に入る。
カウンターを覗き込んでもリンの気配はない。ボンプたちの充電音が微かに聞こえるだけだ。、明日の出発に備えて早めに休んでいるのだろう。あるいは、気を利かせて隠れてくれているのか。後者だとすれば、後で高くつきそうだ。
階段を慎重に上り、自室の扉を開ける。
背中の荷物は相変わらず重いが、心地よい重みでもある。そんなことを考えてしまう自分に苦笑しながら、ソファのへりまで辿り着いた。
「よし、着いたよ。とりあえずここに座って──」
膝を折ってエレンをソファに降ろそうとする。
だが、エレンは腕を離そうとしない。それどころか、嫌がるように足をバタつかせて抵抗する。
「やだ」
「やだ、じゃないよ。着替えるにしても、まずは降りないと」
「ソファやだ。……ベッド」
むずかる子供のような物言い。だが、その赤い瞳はとろんと潤んでいて、抗いがたい魔力がある。
「……。僕のベッドは君の巣じゃないんだよ」
「だーって……」
エレンが、僕の耳元でくすりと笑った。
「寝るときは、なるべくベッドで寝るようにって。……言ったの、誰だっけ?」
かつて彼女とのメッセージのやり取りを思い出す。それをこんな場面で、こんな声色で返されるとは。
酔っているのか素面なのか分からないが、鋭く僕の急所を突けたことを得意げに思っているらしい。
言い返せないまま、僕は降参するように息を吐いた。
「……分かったよ。君の勝ちだ」
ソファを通り過ぎ、ベッドの縁へと向かう。
そっと背中から降ろすと、エレンは素直にシーツの上に座り込んだ。
乱れた髪、上気した頬、少しだけはだけた制服の襟元。薄暗い部屋の中で、その姿はあまりに無防備で、艶めかしい。
目のやり場に困り、視線を逸らしながら布団を整えようと手を伸ばす。
「じゃあ、僕はソファを使うから。君はここでゆっくり──」
言いかけた言葉は、手首を掴む強い力によって遮られた。
驚いて振り返ると、エレンが下から僕を見上げている。
「どこ行くの」
「え、いや、だからソファに……」
「ベッドで寝ろって言ったの、あんたでしょ」
ぐい、と腕を引かれる。
不意を突かれた体はバランスを崩し、抗う間もなくベッドへと倒れ込んだ。
柔らかいマットの感触と、甘い香り。そして、覆いかぶさってくる熱い体温。
「また一緒に寝てよ。……ご主人サマ」
耳元で囁かれた言葉が、理性のヒューズを溶断しかけた。
覆いかぶさってくるエレンの重みは、想像していたよりもずっと軽くて、熱い。
見上げれば、赤い瞳がとろんと潤んで揺蕩っている。アルコールのせいか、照明のせいか、それとも僕自身の目が眩んでいるのか。彼女の輪郭が滲んで、夢の中にいるような錯覚を覚える。