状態異常シャーク   作:すばみずる

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冬コミの新刊入稿しました。

【挿絵表示】

一日目X-09bにいます。よろしゅう。


シャークシャーク

「触って」

 

 吐息交じりの命令。

 拒否できるはずもなかった。

 伸ばした手が彼女の背中に触れる。パーカー越しの温もりが掌に伝わり、上下に撫でるとエレンは猫のように目を細め、喉の奥で小さく鳴いた。

 

「ん……もっと」

 

 欲しがる声に突き動かされ、あやすように撫で続けた。パーカーの裾から入り込んだ指先が、ひんやりとした肌に触れる。滑らかな感触。背骨のラインをなぞり、腰の方へと降りていくと、サメの尾がビクリと反応して僕の太ももを押してくる。

 首筋、肩甲骨、そして腰。触れるたびにエレンの力が抜け、僕の胸に全体重を預けてくる。甘い匂いが鼻腔を満たし、頭がくらくらする。

 これはただのスキンシップだ。酔った友人を介抱しているだけだ。必死に自分に言い聞かせるが、鼓動の早さは誤魔化しようがない。

 しばらくそうしていると、エレンの呼吸が落ち着いてきた。このまま眠ってくれるかもしれない。そう期待した矢先、胸元に顔を埋めたままエレンがぽつりと呟いた。

 

「……負けちゃった」

 

 撫でていた手が止まる。

 唐突な言葉だったが、何を指しているかは明白だ。

 先日の決勝戦。星見雅との一騎打ち。

 

「雅サン、強かったな」

 

 悔しさよりも、諦めに似た響きがあった。

 

「あたし、勝つって言ったのに。いいとこ見せるつもりだったのに」

 

 エレンの指が、僕のシャツをきゅっと掴む。

 

「……かっこ悪い」

 

 自嘲するような笑い声が、布越しに響く。

 かけるべき言葉を探す。そんなことない、惜しかった、次は勝てる。どれも薄っぺらで、今の彼女には届かない気がした。エレンは顔を上げないまま、続ける。

 

「やっぱさ、あたしなんかじゃダメなのかな」

「エレン?」

「所詮は学生のバイトだし。本職のとか、あんな化け物みたいな連中に比べたら、遊び半分に見えるよね」

 

 彼女の声が、次第に小さくなる。

 

「……足手まといかな」

 

 その言葉が、鋭い棘となって胸に刺さった。

 普段の彼女なら吐露しないだろう言葉。酔いのせいで舌が滑るのか、余程堪えているのだろうか。

 足手まとい。そんなわけがない。即座に否定しようとした。喉まで出かかった慰めの言葉は幾千とある。

だが。雅に完敗したのは事実だ。技術、経験、そして覚悟。その差を見せつけられ、打ちのめされた彼女に対して君は凄かったと褒めることは、彼女の敗北を、彼女が感じた悔しさを、誤魔化すことになるのではないか。

 それは、戦う者への敬意を欠いた、ただの甘い嘘になりはしないか。

 一方で、肯定するのも嫌だ。

 そうだね、君は学生だ。危険な世界からは足を洗った方がいい。そう突き放し、プロキシとエージェントという危険な関係を清算し、普通の学生としての生活に戻してやる。それが、大人としての正しい振る舞いなのかもしれない。

 でもそれは、彼女の根幹に掠る話になる。彼女とヴィクトリア家政との繋がり、それだけでは済まない話へ、僕が土足で入り込んではいけないだろう。

 そして、何より。僕自身が、耐えられない。

 エレンがいなくなること。

 あの不機嫌そうな顔が見れなくなること。

 尻尾で叩かれる痛みがなくなること。

 隣で飴を舐める音が聞こえなくなること。

 手放したくない。たとえ危険に晒すことになっても、彼女の時間を奪うことになっても、僕はエレン・ジョーという存在を、僕の世界に繋ぎ止めておきたい。

 それはプロキシとしての判断でも、友人としての気遣いでもない。ただの、僕のエゴだ。

 

 肯定も否定もできないまま、僕は沈黙した。

 部屋の中に、二人の呼吸音だけが響く。

 エレンは答えを待っているのだろうか。それとも、沈黙こそが答えだと思っているのだろうか。

 掴まれたシャツの皺が、深くなっていくのを感じた。

 沈黙を埋めるように、僕の手は無意識に彼女の頭を撫でていた。指先に絡まる髪は柔らかく、少し汗ばんでいて、離れがたい。

 

「エレン」

「ん」

「君が足手まといだなんて、僕は一度だって思ったことはない。君の頑張りや個人的好悪を抜きにして、エージェントとしての君はとても優秀だ」

 

 シャツを掴む指の震えが、少しだけ収まる。言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。

 

「でも、僕がどう思っているなんかよりも……君がどうしたいか、それを一番に考えてほしい」

 

 プロキシの都合でも、大人の事情でもなく。エレンが、どうありたいか。それを優先してくれという願いは、ある種、僕自身の決断を先送りにする卑怯な言い草かもしれない。けれど、今はそう伝えることしかできなかった。

 

「あんたの事だから、もっと全肯定してくるかと思った」

「しているつもりだし、するつもりだけど、今そういう事は望んでいないだろう?」

 

 少しの間。

 エレンが胸元から顔を上げる。赤い瞳が、潤んだまま僕を射抜く。

 

「あたしが弱くても、使い物にならなくても、あたし自身が望むなら、あんたと一緒にいていいって?」

「ああ」

 

 エレンの瞳が揺れる。唇が結ばれ、そして微かに緩む。

 

「結局、お情けに縋るしかないわけね」

「逆だよ。僕の方が、情けをかけてもらってるんだ」

 

 僕がそう言うと、エレンは呆れたように鼻を鳴らした。

 そして、抱き着く腕に、ぎゅう、と強い力を込める。肋骨が軋むほどの、痛いほどの力。

 

「エレンが望むなら、いつでも離れてくれていい」

「……」

 

 僕の言葉に、エレンは顔をぶつけるように首筋にうずめてくる。鋭い歯を立てるような仕草で、低く呟いた。

 

「それって、さ」

「うん」

 

「泊まりたいって駄々こねて、ベッド引っ張り込んで、こうやって抱きついてきてる女に言うこと?」

 

 痛みと熱が、首筋から全身へ走る。

 彼女の尾が、逃がさないとばかりに僕の足を絡め取る。

 

「離れられるわけ、ないじゃん」

 

 耳元で囁かれたその言葉は、どんな契約書よりも重く、そして甘く、僕を縛り付けた

 

 

 

 ◆

 

 

 

 衛非地区へ向かう空路の旅。飛行船センターにて諸々の手続きを済ませ、待合室にある硬いベンチに腰を下ろすとき、思わず「ぐっ」と呻き声が出そうになるのを咳払いでごまかした。

 普段着慣れない、雲嶽山の道着。初めて袖を通したものの着心地は悪くない。詰襟のような首元は少し息が詰まるが、慣れるまでの辛抱だろう。

 だが、服で隠せても体の内側に残るダメージまでは隠せない。昨晩から今朝にかけての文字通り夜を徹した激戦の代償は、腰から背中にかけて重い鉛のように沈殿していた。

 

「お前さん、脚でも痛めたのか」

 

 隣で古本を読んでいた儀玄さんが、視線だけをこちらに向けて唐突に聞いてきた。

 その鋭い眼光に心臓が跳ねる。彼女はただの引率者ではない。武芸の達人であり、体の動きを見るプロだ。

 

「脚? いや、特には」

「なら腰か。歩き方がどうもぎこちない。重心が定まっておらんぞ」

「……この間、大会に出たもので。その影響かな」

 

 嘘ではない。VR大会での疲労も多少は残っているはずだ。主な原因がその後の「延長戦」にあるとしても、大会関連と言い張れば通るだろう。

 

「調査協会でやっていた奴か。あれなら私も観ていたぞ、惜しかったな」

「ありがとうございます。……観ていたんですか?」

「ああ、エージェントどもがどういう戦い方をするのか興味があってな。あそこの機械での『ぶいあーる』体験なら私もやったことがあるが、仮想空間で動いたところで現実の体をいわす事は無いんじゃないか?」

 

 痛いところを突いてくる。確かにVRは脳へのフィードバックはあるものの、筋肉痛や関節痛が残るわけではない。

 

「いやその。普段運動し慣れてないから、変に力んだせいかな。ずっと同じ姿勢で緊張していたし」

「そうか。まぁ基礎体力をつけるのは何にも通じる地盤だ。向こうに着いたら術法ついでに見てやる」

 

 儀玄さんは納得したように頷き、再び本に目を落とす。

 助かった、と安堵の息を吐こうとした瞬間、彼女は独り言のように付け加えた。

 

「念の為に言っておくが、うちでは房中術の修行などせんからな。溜まったら外で発散しろよ」

「…………」

 

 表情筋を総動員して、無表情を保つ。

 房中術。つまりは交わりによる何とかかんとか。なぜ今、そんな単語が出てくるのか。

 まさか匂いが残っているのか? シャワーは浴びたはずだ。それとも雰囲気が? 何か顔に出ている?

 思考が高速回転する中、儀玄さんがニヤリと笑ってこちらを見た。

 

「冗談だ。そんなに固まるな」

「衛非地区にセクハラ対応窓口があるか聞いても?」

「だが、図星だったか? 首筋に紅い痕が見えたんでな」

 

 反射的に手が首元へ伸びそうになるのを、鋼の意志で止める。

 昨晩エレンからの『口撃』により確かに痕は残っているかもしれない。だが、今着ている道着は普段着より襟が高い。鏡で確認した時も完全に見えなくなっていたはずだ。

 

「首まで隠れているはずですけどね、この服」

 

 冷静さを装い、襟元を正すフリをして答える。

 僕の反応を見た儀玄さんは、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 

「なんだ、引っ掛からんか。からかい甲斐の無い」

「これが雲嶽山流なら、色々考えさせてもらいますよ」

「はっはっは、すまんすまん。だがまぁ、精力が有り余っているなら、修行の進みも早いだろうさ」

 

 儀玄さんは笑い、僕の背中をバンと叩いた。

 衝撃が腰に響き、またしても呻き声を噛み殺す羽目になった。

 スロノス区への旅路は、体力的な意味で前途多難かもしれなかった。

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