嘘をついた代償は、行き場のない空白の時間として重くのしかかってきた。
仕事だと言って飛び出したものの、当然ながらヴィクトリア家政からの呼び出しなどない。かといって、この寒空の下、あてもなく街を彷徨うほど物好きでもなかった。
結局、エレンは誰にも見つからないよう路地裏を抜け、自宅へと逃げ帰るしかなかった。
静まり返った自宅。
暖房のスイッチを入れても、部屋の空気は冷え切ったままだ。
エレンはコートも脱がずにベッドへ倒れ込み、天井のシミをぼんやりと見上げた。
尻尾が、不愉快そうにシーツを叩く。バン、バン、と乾いた音が、誰もいない部屋に虚しく響いた。
「……最悪」
呟いた声は、掠れていた。
ポケットの中でスマホが何度も震えている。アキラからの着信だろうか、それともメッセージだろうか。確認する気すら起きない。
今、彼と繋がったとして、何を話せばいい?
『大丈夫だよ』と物分かりの良いフリをするのか。それとも『早く来てよ』と泣き言を言うのか。
どちらも想像するだけで反吐が出る。
不意に、玄関のチャイムが鳴る。ささくれをつつくような不快な音。
扉の前まで足は動くものの、もしかして、という鼓動と、ありえない、と諭す氷塊が胸の中でぶつかり合う。
「エレン? 戻っているのかしら」
「……リナ?」
扉の前に立っている気配でも感じたのか。メイド長、アレクサンドリナ・セバスチャンの柔らかな声色がエレンを呼ぶ。
消えた鼓動のいた場所に居座る氷塊が、当たり前だと嗤う。来るわけがない。
「入ってもよろしくて?」
無言で扉を開ける。リナが大事そうに両手で白い紙箱を持って立っていた。その後ろには、恭しく一礼するライカンと、おどおどと様子を伺うカリンの姿もある。
「もしかして、起こしてしまったかしら? お友達と夜にお祝いしていたと聞いていたけども、あまり寝れてないみたいね」
「ちょっと前に起きてたから、だいじょぶ」
また嘘が積み重なる。けど仕方がない。寝る気にもなれないのだから。
家の中に三人を通すエレン。手狭ではあるものの、家政を生業としてきた者たちらしく、不思議と圧迫感を感じさせない。
「お友達と盛大に祝った後でお腹も空いていないでしょうけれど……私たちからも、形だけでもと思いましてね」
リナが箱を開けると、中には小さなホールケーキが鎮座していた。毒々しいまでの鮮やかな色味に、エレンの顔がわずかに引きつる。
仲間たちが祝ってくれるのは悪い気分ではないし、リナの料理もエレンの腹なら大丈夫ではある。ではあるのだが、食欲がない上に今の精神状態でリナの手料理による追い打ちは勘弁してほしい。
ライカンが手際よく紅茶を淹れ、カリンがおずおずと取り皿を並べていく。その僅かな時間、顔を硬くするエレンの元へ、カリンがすっと近寄ってきた。食器を置くふりをして、耳元で早口に囁く。
「あ、あの、安心してくださいエレンさん……! リナさんが作ったケーキは、焼いている間にライカンさんが手作りした安全なものとすり替えてありますから……! 見た目も味も、完璧です!」
カリンの必死な報告に、エレンは思わず脱力したようなため息をついた。ライカンのほうを見れば、執事は涼しい顔で一礼している。相変わらずボスは気が回る。
「……ん。ありがと」
口に運んだケーキは、カリンの言葉通り、洗練された上品な甘さだった。
けれど、舌の上でとろけるクリームも、香り高いスポンジも、今のエレンにとってはただのカロリーの塊でしかなかった。
美味しいはずなのに、砂を噛んでいるように味がしない。
仲間たちの笑顔も、お祝いの言葉も、今のエレンには薄い膜の向こう側にある出来事のように感じられた。
日が落ち、夜が訪れる。
皆が帰ったあと、再び静寂が戻った部屋。明かりもつけず、闇に沈んだ視界の隅で、放り出されたスマートフォンの通知ランプだけが薄く明滅していた。
『不在着信:アキラ』『ビデオ着信:アキラ』『メッセージ──』
通知画面を見て、エレンは鼻で笑った。
ビデオ通話? 画面越しの会話?
ふざけないでほしい。
六日前、ボンプ越しに触れ合った時は、あんなに満たされたはずだった。けれど、「来てくれる」という期待を得てしまったあとの飢餓感は、デジタルな信号なんかじゃ埋まらない。
画面越しの顔を見れば、スピーカー越しの声を聞けば、余計に惨めになるだけだ。
あるいは。その
欲しいのは映像じゃない。
聞きたいのは音声じゃない。
それをビデオ屋の店長に望むなんて、あまりに滑稽と誰かが嗤う。
枕元の時計を見る。二十三時五十分。あと十分でこの日は終わる。
期待していたこの夜は、冷たいシーツと自己嫌悪にまみれて終わるのだ。
「……もう、寝よ」
エレンは重たい溜め息と共に布団を頭から被り、瞼を閉じた。
これ以上起きていたって、今の気分が続くだけだ。諦めて、明日になれば、この胸の痛みも多少はマシになっているはずだ。
枕の下で、またスマホが震える。
どうせまた謝罪のメッセージか、機嫌取りのスタンプか。無視しようとして、ふと、その振動がさっきより長く、しつこいことに気付いた。
舌打ち混じりに画面を覗き込む。
そこには『アキラ』の名前と、一言だけのメッセージ通知が重なって表示されていた。
『開けて』
思考が停止する。
開けて? 何を? ビデオ通話の回線を? いや、違う。
それ以上の意味を読もうとする頭に、家のチャイムが響く。死んだはずの鼓動が息を吹き返す。冷たさは水も残さずに消えて、むしろ蒸発するほどに熱い。
エレンは跳ねるようにベッドから起き上がった。布団が床に滑り落ちるのも構わず、素足でフローリングを踏みしめて玄関へと走る。
心臓が肋骨を内側から叩いていた。期待するな。期待するな。もし違ったら、もし別の意味だったら、その時こそ本当に立ち直れない。
凍えるような金属製のドアノブを掴み、乱暴に回す。
重たいドアが開き、冷たい夜気が一気に室内に流れ込んできた。
「──ッ、はぁ、はぁ……!」
白い息が重なる。
月明かりの下、肩で息をするアキラが立っていた。
「……師匠が……ホロウを抜けて、ショートカットしたのを……光……姉弟子に頼んで、飛んで運んで……もらって、それで……」
絶え絶えの呼吸に混ざる言葉は、弁明か、言い訳だろうか。どちらであったとしても、今のエレンには届かない。
「途中、プレゼントが侵食しそうになって、焦っていたらエーテリアスに……」
「うるさい」
エレンは呻くように漏らすと、アキラが抱える泥だらけの箱ごと、彼の胸ぐらを掴んで強引に屋内へと引きずり込んだ。
背足でドアを尻尾が無理矢理閉める。重たい金属音が響き、外の世界と冷たい夜気を遮断した瞬間、エレンはアキラを玄関の壁に押し付けていた。
「え、うわっ、エレン?」
「だから、うるさいって言ってんの」
驚くアキラの唇を、エレンは自身の唇で塞いで黙らせた。
キスというにはあまりに乱暴で、捕食というにはあまりに必死な接触。
口の中に鉄の味が広がった。彼が唇を切っているのか、それとも自分が噛み付いてしまったのか。そんなことはどうでもいい。
冷え切った服の感触。けれどその下にある、激しく脈打つ心臓の音。荒い息遣い。汗と、土と、微かな潮の匂い。
五感のすべてが本物と叫んでいる。
機械越しの電子信号ではない。紛れもないアキラの実存が、今、腕の中にある。
「……ん、はぁ……っ」
長い時間をかけて唇を離すと、アキラは酸欠になった魚のようにパクパクと口を開閉させていた。
至近距離で睨みつける。その顔は酷い有様だった。髪はボサボサで、頬には擦り傷があり、どことなく金木犀の香りが漂ってくるのが理由もなく何故か腹立たしい。
たかが誕生日に。たかがアタシに会うために。
その事実が、胸の奥をどうしようもなく掻き乱す。
「ええと、ごめん、エレン。プレゼント、箱が潰れちゃって……中身は無事だと思うんだけど」
「……バカじゃないの」
唇を交わした相手に今言うことか、それは。
アキラが大事そうに抱えていた箱を、エレンは奪い取ると無造作に靴箱の上へと放り投げた。
あっけにとられるアキラの首に腕を回し、その体に全体重を預ける。
「いらない」
「え?」
「プレゼントなんか、いらないって言ってんの。……来てくれたんだし」
震える声をごまかすように、エレンはアキラの首筋に顔を埋めた。
熱い。外気の冷たさをものともしない熱がそこにある。
涙が出そうになるのを堪えて、代わりにサメの尾を彼の足に絡みつかせた。
「……間に合ったな」
アキラが安堵の息を漏らしながら、消え入りそうな声で呟く。
時計を見るまでもない。日付が変わるまであと数秒。たとえ形式のうえであっても、その日の内で何よりだったと。
その言葉を聞いて、エレンの中で何かが弾けた。
安堵と、愛おしさと、そして自分をここまで不安にさせた男への理不尽な独占欲。それらが混ざり合い、強烈な衝動となって体を突き抜ける。
「間に合った? 何言ってんの」
エレンは顔を上げ、潤んだ瞳で、けれど獰猛な牙を覗かせながらアキラを見上げた。
「それっぽいこと言っておいて、泣きそうな気分にさせて、挙句ボロボロになって現れて……『間に合った』なんて言えちゃうんだ
「いや、その。正直居場所が分からなかったから連絡して聞こうとしたのにエレンが出てくれなくて」
「問答無用」
話なんて通じるわけないじゃん。ほら、満月だし。
エレンはアキラの手を取り、自分の腰へと導く。耳元で低く囁く。
「日付が変わったって関係ない。ここからは延長戦」
その宣言は、獲物を前にしたサメの捕食のサインそのものだった。
アキラが観念したように、けれど優しくエレンの腰から背中に腕を回すのを感じて、エレンは満足げに身体を寄りかからせる。
遅れてやってきた誕生日の宴はこれからが本番だ。空白だった時間は、その数倍濃密な時間で埋め尽くせばいい。
エレンは再びアキラの唇を奪い、今度は優しく、深く、その存在を確かめるように舌を絡めた。
健全