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休日の澄輝坪は、新エリー都の中でも独特の熱気と匂いに包まれている。
そこいらから漂ってくる香辛料の刺激臭。出店から香るツンとしたハッカの刺激が場違いのようでありながら、むしろ心地よさを生み出す矛盾。飲茶仙の店先に置かれた蒸籠から立ち上る湯気の甘い匂い。全てが混ざり合って、なんとも食欲をそそり、鼻先だけで胸焼けしそうな空気を醸成している。
そんなおいしさの源泉の一つ、飲茶仙の一階席で、浮波柚葉は冷めたジャスミン茶を啜りながらスマホの画面を睨みつけていた。
「マジか。これ、本当に出るんだ」
表示されているのはインターノット上のオカルトフォーラム。普段は眉唾ものの都市伝説や、ただの見間違い報告が大半を占めるこの愛おしくもアホらしい掲示板で、今朝からあるスレッドが異様な盛り上がりを見せていた。
【発見】スロノス区湾内のある『島』について
『気まぐれ島』『あったりなかったり島』等々、ふざけた呼び方をされているけれど、古くからある知る人ぞ知る伝説だ。
嵐の夜に姿を現してその影を見せつけたかと思えば、翌日になると忽然と姿を消していたり。あるいはカンカン照りで日照りに喘ぐ人に豊かな土地を見せつけて、誘われて船を出した者を嘲笑うように掻き消えたり。漁師の間では霧の深い日にだけ現れる神様の場所と密かに崇められたり、ある時は海賊の幽霊船が停泊する港と恐れられていたりとかいないとか。
ホロウ災害の影響による空間の歪みのせいなのか、あるいは集団幻覚によるものか。理屈を付けようと躍起になっている人はいるものの、未だ真相は明かされていない。
その島がつい昨晩、スロノス区本区と衛非地区の間を航行していた漁船によって目視されたという。しかも写真付きで。
画質は荒いけれど、霧の向こうに鬱蒼と茂るジャングルのような緑と、奇妙に白い砂浜が写っている。
「行きたい……行ってみたいなぁ……ねぇ、かまちー?」
肩越しにスマホの画面をのぞき込んでくる釜之助も、どこかソワソワしている気がする。
これほどのネタ、怪啖屋として放っておく手はない。これだけ目撃数が数多ある怪現象なのだ、いつもの適当な都市伝説で味わう空振りの空虚さを味わう心配はまるでない。この地に踏み込むだけでもう怪異に追いついたも同然と言える。S級確定外れ無しすり抜け無しのガチャほど心躍るものは無い。
けれど、現実はいつだって世知辛い。
「でも、船のチャーター代がねぇ。ゼロが一個多いっての」
画面をスクロールして表示される個人の貸し切り船の相場に舌を出す。
いつもの取材気分とは桁が違う。学生の財布から出る金額じゃない。伝説を知る船乗りは恐れ多いのか怯えているのか、そもそも島に向かう船をなかなか出したがらないらしい。ケチって手漕ぎ舟を借りたところで、たどり着けるか怪しいものだ。
今から頑張ってディニーを稼ごうにも、工面する頃にはきっと気まぐれな島のことだ、影も形もなくなっているだろう。あるいは、他の物好きな暇人たちに先を越されてしまうかもしれない。それはそれで悔しい。とても悔しい。
ファンタジィリゾートにある釣り用の船でも出してもらう? 位置的には遠くない。一応関係者ではあるから無理を言えばあるいは。でも、リゾートの立て直しを手伝ったとはいえ、ここまでの私利私欲のお願いをするのはいくらなんでも厚顔が過ぎる。
はぁ、とつく溜め息は自然と重くなる。せっかくの休日なのに、目の前に極上の謎がぶら下がっているのに、指をくわえて見ているだけなんて。
「あら? 柚葉ったら難しい顔をして、どうしたのかしら?」
頭上から降ってきた声に、顔を上げる。
そこにいたのは、この雑多な澄輝坪には似つかわしくない令嬢、アリス・タイムフィールドだった。ウサギの耳をぴょこんと動かしながら、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
「なんだ、アリスか。奇遇だね」
「奇遇なのだわ。スマホを睨んで唸っていたけど、なにか困りごと?」
アリスは当然のように柚葉の向かいの席に腰を下ろす。洗練された所作からは、嫌味の無い育ちの良さを感じる。彼女の分のお茶を注いでから、柚葉はスマホの画面を彼女に向ける。
「これ見てよ。『あったりなかったり島』が見つかったらしいんだよね」
「あったり……? なにかしら、その変な名前」
「正式名称じゃないけどね。調査に行ってみたいけど、ここに行くための船代が結構吹っ掛けてきてるものだから。本当に怖いのは人間の欲だったんだーって世を儚んでたところ」
あくまで世間話のつもりだった。
アリスはビビリだからこういう怪しげな場所には興味を示さないだろうし、ふぅんの一言で終わる話だと思っていた。
けれど、アリスは少し考えるように視線を宙に漂わせた後、パチンと手を合わせた。
「なるほど、事情は分かったのだわ。──それなら、私が出すのだわ!」
ジャスミン茶を吹き出しそうになった。
今、この子は何と言った?
「だから、私がお金を出すと言ったのだわ。船くらい軽いものよ」
「いやいやいや、待ってアリス。船のチャーターだよ? 都市伝説を確かめるためだけに、ディニーがいくら飛ぶと思ってんの」
「柚葉にはいつも助けられてばかりだもの。これくらいお安い御用よ」
お安くはない。この娘の金銭感覚は未だ危険域までズレている。
柚葉の危惧を知らぬまま、アリスは真剣な眼差しで身を乗り出してきた。
「この間の廃病院の探検の時も、その前の地下水路でお化けワニを探した時も……私が腰を抜かしている間に、柚葉が冷静に対処してくれたおかげで助かったのだもの。私だって、たまには柚葉の助けになりたいのだわ!」
いや、あの時は単にメモを取るのに夢中で動かなかっただけで、アリスが勝手にしがみついてきただけなんだけど。
だが二色の瞳はキラキラと輝いている。「役に立ちたい」「恩を返したい」という純粋な善意が、眩しいくらいに溢れ出ている。ここで断るのは、逆に彼女のプライドを傷つけるかもしれない。
それに何より。無垢な友人にたかってしまう形になったとしても、謎が潜む島に行きたいという欲求には抗えない。
「……本当にいいの?」
「平気よ! ちょっと待ってて頂戴」
言うが早いか、アリスは懐からスマホを取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。話し声が聞こえてくる。
「……ええ、スロノス区の。そうなのだわ。……そうね、一番速くて、快適で、安全なやつをお願いしたいのだわ。あと……そう、丁度良いのだわ、じゃあそこに……」
数分もしないうちに、通話を終えたアリスがドヤ顔で振り返った。
「手配完了! すぐにでも出航できるクルーザーを一隻、スロノス区本区の方で押さえたのだわ!」
「く、クルーザー……?」
電話一本で押さえるには大きすぎる乗り物だ。というか行動が早すぎる。
引きつった笑みを隠せない柚葉だったが、通話を終えたアリスは満足感に溢れていて気付く様子はない。新しく頼んだジャスミン茶を優雅に一口飲む姿は、まさに完璧なお嬢様だった。
けれど、茶碗を置くカチャリという音が、少し震えていたかもしれない。
「ところで、柚葉」
「ん、なに?」
「その、『あったりなかったり島』というのは、あくまで俗称なのよね? 正式名称とか、由来とか、そういうのはご存じ?」
アリスの視線が少し泳いでいる。勢いで手配をしたものの、自分がどこへ行こうとしているのか今更になって不安になり始めたらしい。
柚葉はフォーラムのページをスクロールさせ、該当する記述を探し当てた。
「えっとね、正式名称は『横濫島(おうらんとう)』っていうらしいよ。古い文献に出てくる名前で、横に連なる波の間に隠れる島、って意味みたい」
「横濫島……なんだか、字面からして荒々しいのだわ」
「海流がキツめの海域だからね。で、まつわる伝説なんかもあるんだけど……聞きたい?」
意地悪く訊ねると、アリスは一瞬ビクリと肩を跳ねさせた。短いウサギの耳がピーンと立って、警戒するようにこちらを向く。
「……一応、予備知識として知っておくのはやぶさかではないのだわ。私も怪啖屋の一員として、しっかり情報を理解しておかないと」
「りょーかい。えーっとねぇ」
スマホの画面を見ながら、柚葉は投稿されている内容を読み上げ始める。
「一番有名なのは『海賊の隠し財宝伝説』だね。昔、この辺りを荒らしていた海賊たちが、奪った金銀財宝をその島に隠したらしい。だけど、仲間割れが起きて全員が殺し合った。だから今でも、霧の夜には首のない海賊たちが自分の首と財宝を探して彷徨っている……とか」
「く、首……っ」
「あとは『踊るエーテリアス』の話かな。島全体が特殊な磁場の影響下にあって、沖合から見えたエーテリアスたちが、苦痛なのか歓喜なのか奇妙な踊りを繰り返しているらしいよ。その踊りを見た人間は、精神を汚染されて一緒に踊り狂うことになるんだって」
エーテリアスがホロウの外に出るわけないのに、いったい何を見たのだろう?
コケオドシだよねと笑い合おうと思い柚葉が顔を上げると、アリスの顔色が明らかに悪くなっていた。
茶椀を覆う手が小刻みに震えているし、さっきまであんなに動いていた耳がぺたりと頭に張り付いている。
あ、これは完全にビビってるな。そう確信すると同時に、柚葉の中のイタズラ心が鎌首をもたげた。
せっかくだ。もう少し演出してあげよう。声を一段低くして、わざとおどろおどろしい口調に切り替えた。
「それにね、アリス。あの写真、見たでしょ? 砂浜が真っ白だったよね」
「え、ええ。綺麗な白だったのだわ……」
「綺麗、かなぁ? 投稿者のコメントによるとね、あの砂……普通の砂でも、ましてやサンゴの欠片でもないらしいよ」
「……え?」
「数十年にわたって海賊たちが殺し合い、遭難者たちが食い合い……そうやって積み重なった『骨』が波に洗われて、粉々になったものだって噂があるんだ」
もちろん、そんな記述はどこにもない。即興だ。けれど効果は覿面らしく、アリスはひゅっと短く息を呑み、血の気が引いた顔で口元を押さえた。
「ほ、ほね……っ!? じ、じじじ人骨のビーチだというの!?」
「あくまで噂だけどね。でも、夜になると砂の下から無数の手が生えてきて、そこを歩く人の足を掴んで引きずり込むんだってさ。『寂しいから一緒に眠ろう』って」
「い、いやぁああああ!!」
釜之助が彼女の足元に駆け寄って、その足首にそっと抱き着いたのも効いたことだろう。アリスは往来の目も気にしないほどの悲鳴を上げて、テーブルに突っ伏した。楽しい。
アリスは涙目で顔を上げると、震える声で精一杯の虚勢を張った。
「そ、そそそそんな非科学的なこと、あるわけないのだわ! 私はタイムフィールド家の娘……その程度の作り話、眉一つ動かしませんことよ!」
「へぇ、頼もしいね。じゃあ二人だけで行っても大丈夫か」
「……で、でもっ!」
アリスが食い気味に叫んだ。
「そ、そう! 安全管理! リスクマネジメントなのだわ! 万が一、その……野犬とか? たちの悪い密漁者とかがいたら大変なのだもの! 私と柚葉だけでは、荷物を持つのも大変ですし!」
「クルーザーならスタッフがいるんじゃない?」
「信用できないのだわ! もっとこう、腕が立って、口が堅くて、何かあった時に絶対に守ってくれる……そういう専門家が必要なのだわ!」
アリスの瞳が必死に訴えている。
要約すると『怖いから最強のボディガードを呼んでくださいお願いします死にたくないんです』ということだ。ホロウ内での実習でも好成績で、お得意のサーベルを使えばエーテリアスなんて簡単に蹴散らしてしまうお嬢様だというのに、どうしてそこまで怖がるのだろうか。それが可愛らしいのだから、簡単に克服されても困るけど。
とはいえ、柚葉からしても誰かを誘うのに異論は無かった。未知の領域に行くのに、戦力は多い方がいい。それに、もし噂で言うようにエーテリアスでも出てくるようなら一般の船員だけじゃ心許ないし、何より帰ってこられなくなるリスクがある。
それに。もし大したことのない結末に終わったとしても、ちょっとしたプライベートビーチを共有する仲間というのは、多い方がいい。
「専門家、かぁ。心当たりはあるけど……高くつくよ?」
「お金の問題じゃなくて、今の私に必要なのは安心、いえっ、快適な旅のサポートよ!」
「その言葉が聞きたかった」
今ならどんな冗談でも本気にしかねないアリスが半泣きで黒いカードを振りかざすのをどうどうと宥めつつ、スマホからノックノックを立ち上げる。
ホロウに詳しくて、腕が立って、荒事に強い……わけじゃないけど、そういう知り合いが沢山いて、二人とも顔見知り。そして何より、こういう「楽しい」案件に首を突っ込んでくれる人。
「りょーかい。じゃあ、一番頼りになる人に連絡してみよっか」
表示された『ビデオ屋店長』の名前をタップし、通話ボタンを押した。
プルル、という呼び出し音が、喧騒の中に吸い込まれていった。
イドリーと狛野くんはデカすぎるから出禁