波の音が先ほどよりも近く、荒々しく聞こえる。
海面から突き出た岩礁の上。ずぶ濡れになった僕は、カメラのプレビュー画面を最大までズームして遥か頭上の絶壁を見上げていた。
「……なるほど。こんなところに隠れていたのか」
液晶画面の中、荒々しい岩肌に穿たれた深い亀裂の奥に、ひしゃげて開いた黒い穴が見える。僕らが先ほど落ちてきた場所だ。
いま居るのはV字型に切り込んだ崖の底、入り江のようになっている場所だ。仰げば空は見えるものの、両脇は岸壁に挟まれており、隠し港のような地形になっている。落ちた直下の水深がそこそこあったから助かったものの、よく怪我や気絶をしなかったものだと我ながら感心する。
おそらく、あの扉はシェルター設備のメンテナンス用のハッチか何かだったのだろう。先ほど閲覧した計画の資料によれば、あのシェルター内は完全な閉鎖環境を想定していた。ならばあの扉も、本来は内側から厳重にロックされて二度と開かれるべきではなかったはずだ。
「この施設を設計した人たちも、まさか力ずくで扉をぶち破って出てくるなんて、想定外だったろうね」
僕は努めて明るい声を出して、背後に向かって話しかけた。
返事はない。
代わりに聞こえてくるのは波の音とは異なる水音と、布が絞られる音だけだ。
「……」
振り返る勇気はなかった。
気配で分かる。今、僕の背後で、一緒に落ちた『幽霊』――シーザーが着ていた白いワンピースを脱いでいる。
水が滴る音。続いて、パン! パン! と濡れた布を勢いよく振って水を切る音が響いた。その音がまるで、僕への怒りを表明する平手打ちのように聞こえて、思わず首をすくめる。
足音が遠ざかっていく。岩礁の奥にある、波に削られてできた浅い洞穴の方へ向かったようだ。
「……怒ってる、よな」
独り言が夜風に溶ける。
当然かもしれない。正体不明の幽霊だと思い込んで追い回し、挙句の果てに崖から心中ダイブをかましたのだ。いくらカリュドーンの子の王者が寛大だとしても、限度というものがある。
だが、解せないこともある。
そもそも、なぜシーザーはあんなワンピースを着ていたのか? なぜそんな姿で深夜のシェルターに居たのか? そして、追跡者が僕だと気付いていただろうに、なぜ逃げ続けていたのか?
どれ一つとして答えが出ない。ただ分かるのは、僕が地雷を踏み抜いたという事実だけだ。
「おい、アキラ」
洞穴の奥から、低くぶっきらぼうな声が掛かった。
「火、点いたぞ。こっち来ないと冷えるぞ」
「あ、ああ。すぐ行くよ」
思ったよりも普通のトーンだ。少し安心して、僕は岩場を歩き洞穴へと入った。
水辺から少し離れるだけでも、想像以上に暖かい。中央には流木が集められ、小さな焚き火がパチパチと頼りない明かりを灯している。
その向こう側に、シーザーが座り込んでいた。
「ほらよ」
何かが投げ渡される。僕のツールバッグだ。中に入れていた発火具を使ったのだろう。
僕はそれを受け取りつつ、視線のやり場に困って宙を彷徨わせた。
「……あの、シーザー?」
「なんだ」
「いや、その……」
焚き火のオレンジ色の光が、彼女の姿を陰影深く照らし出している。膝を抱えて座り込む姿に怪我一つないのは重畳だが、怪我が無いと見て分かってしまうこと自体に問題がある。
絞ったワンピースは近くの岩に干してあり、素肌が良く見えたお陰で無事もよく分かるということで。
つまり、その。今のシーザーは、一糸纏わぬ姿だった。
鍛え上げられたしなやかな肢体。健康的な肌にまだ乾ききっていない海水が玉のように光っている。
本来なら直視することすら憚られる光景だが、今の僕にはそれを意識する余裕すらなかった。
怖い。シーザーが、膝を抱えたまま、焚き火をじっと見つめて黙り込んでいるのが、とても怖い。
「…………」
いつもならこまけえことはいいんだよと豪快に笑う彼女が、眉間に深い皺を寄せ、口を真一文字に結んでいる。その沈黙は話しかけるなと語っているようにしか見えない。
やはり、相当怒っている。それも、下手に触れると爆発するレベルで。
全裸であることへの動揺など吹き飛ぶほどのプレッシャーに生きた心地がしない。一体どれほど機嫌を損ねてしまったのか。謝罪の言葉を探すが、何に対して謝ればいいのかも分からず、喉が引きつる。
焚き火の爆ぜる音だけが、重苦しい沈黙の中に響いていた。
僕はシーザーの正面、焚き火を挟んだ対岸に腰を下ろそうとした。物理的な距離を取り、火越しに会話をすることで、少しでもこの張り詰めた空気を緩和しようという算段だ。
だが、腰を落としかけたその時、シーザーがおいと低い声で制した。
「そこは止めとけ。風がモロに来る」
「えっ? ああ、そうか。そうだね、ありがとう」
言われてみれば、入り口からの風が通り抜けるラインかもしれない。気遣いのような言葉に適当な返事をしながら、別の場所を探そうと視線を巡らせる。
「こっち、来いよ」
シーザーが自身の隣、平らな岩場を顎でしゃくった。
そう言われてしまえば拒否権はない。今の彼女は絶対君主であり、僕はその怒りを鎮めなければならない下僕だ。
大人しく従い、彼女の隣へと移動した。とはいえ、裸の女性と密着するわけにはいかない。人一人分ほどのスペースを空けて、慎重に腰を下ろそうとした。
「……遠い」
「うわっ!?」
グイッ、と強い力で腕を引かれる。
シーザーの左腕、金属の義手が僕の腕を掴み、強引に引き寄せたのだ。体勢を崩した僕は、そのまま彼女の肩と自分の肩がぶつかる距離にまで強制移動させられた。
触れ合う肩。伝わってくる体温と、濡れた肌の質感。だが、不幸中の幸いと言うべきか。密着している彼女の左半身、僕と触れている二の腕から先は、無機質な金属の義手だった。
もしこれが生身の肌だったらその柔らかさと熱をダイレクトに感じてしまっていただろう。ヒヤリとした金属の冷たさに密かに安堵の息を吐いた。
しかし、沈黙は依然として重い。
このままでは心臓の音が聞こえてしまいそうだ。僕は何か話題を振らなければと、必死に思考を巡らせ、触れているその腕に意識を向けた。
「その……丈夫で良かったよ、その義手。さすが、ビリーの予備部品だ」
「ああ、まあな」
「岩礁を登る時も、僕を担いでくれただろう? 重かっただろうに、すまない」
「あれくらい、なんともねえよ。海ん中泳ぐ方が大変だった」
シーザーは焚き火を見つめたまま、ぶっきらぼうに答える。
言葉は強気だが、どこか上の空だ。怒りが持続しているのか、それとも呆れられているのか。
意図を汲みかねるが正視するのは憚られる。チラチラと横目を振っていると、ふと、彼女の肩が小刻みに震えているのが目に入った。
焚き火があるとはいえ、夜の海風は冷たい。ましてや彼女は裸で、髪も濡れたままだ。
強がってはいるが、体は正直なのだろう。
このままでは風邪を引いてしまう。もしここで彼女が倒れでもしたら、それこそ取り返しがつかない。
自分の着ているラッシュパーカーを脱ぐ。速乾性のもので僅かだが焚き火にも当たっていたから、水濡れの不快感は少ないはず。
「シーザー」
「っ、な、なんだ!?」
名前を呼んだだけなのに、シーザーがビクリと肩を跳ねさせて過剰に反応した。やはり寒さで神経が過敏になっているのかもしれない。
脱いだパーカーを広げ、彼女の震える背中と肩を包み込むようにそっと掛けた。
「寒かっただろ。濡れてるけど、風除けくらいにはなるはずだ」
「え、あ、う」
シーザーの動きが、カチコチに凍り付いたように停止した。
目を見開き、口を半開きにして、肩に掛かった僕のジャケットと、僕の顔を交互に見ている。
余計なことすんなと怒られるか、機嫌を持ち直してくれるか、とりあえず後者寄りの反応に安堵する。
これで少しは落ち着けるといいのだけど。赤々と照る彼女の肌を冷まさせないように、薪をくべ直す。
爆ぜた薪の火の粉が、ふわりと舞い上がって闇に消える。重苦しい沈黙。
耐え兼ねて岩の上に干されている白い布へ視線を向け、意を決して口を開いた。
「似合ってたよ」
「あ?」
「その、ワンピース。落ちながらだったけど、すごく綺麗だった」
お世辞ではなかった。月光を浴びて翻る純白の装束は、荒野の覇者とは違う、深窓の令嬢のような儚さを感じさせたのだ。
僕の言葉に、シーザーは目に見えて狼狽えた。カッと頬が朱に染まり、視線を泳がせる。
「あ、あれは、オレ様の趣味じゃねえ!」
「まぁ、だろうけど」
「ああ!?」
「いや違う。ええと、じゃあどうして?」
「あいつだ……ルーシーの奴が、勝手に荷物に忍ばせてやがったんだよ。『頭目が無骨な服ばかり着ていてはカリュドーンの子としてのブランドに傷が付きかねませんわ。というわけで、たまにはお洒落でもしてみなさい』だの何だのと、余計な手紙まで添えてな!」
憤慨したように捲し立てるが、その声には照れ隠しの色が滲んでいる。
ルーシーらしい気遣いというか、お節介だ。
「着るつもりなんて無かったんだぞ。ただ、その……サイズが合うか気になっただけだ。もし着れなくて破いたりしたら、あいつに何言われるか分かんねえからな」
ボソボソと言い訳を重ねる姿と普段の豪快の姿とのギャップに思わず頬が緩む。
「それで、深夜のシェルターでこっそりファッションショーをしていたわけか」
「う、うるせえ! テントの中じゃ狭いし、誰かが起きてきて見つかったら嫌だろ! だから、誰もいねえあそこを使ったんだよ。鏡もあったしな」
「なるほどね。で、僕の足音が聞こえてパニックになったと」
「……当たり前だろ。あんなフリフリした格好でニヤついてるところを、お前に見られたりしたら……」
シーザーは言葉を濁し、膝に顔を埋めるようにして小さくなった。
「笑われると思ったんだよ」
「笑うわけがないだろう。現に、とても似合っていたと言ったはずだ」
「……ふん」
拗ねたような鼻声。だが、拒絶の色は薄れている。
僕の言葉が少しは届いたのか、張り詰めていた空気が和らぎ、代わりにどこか甘く、湿った空気が洞穴を満たし始めた。
「……なぁ、アキラ」
不意に、シーザーが顔を上げた。
焚き火の明かりに揺れる瞳が、じっと僕を見つめている。
「なんか、変じゃねえか」
「変?」
「ああ。さっきから、肌がピリピリするというか、体の芯が妙に熱いんだ」
シーザーは自身の胸元を、義手ではない方の手でぎゅっと掴んだ。
「この洞穴でお前と並んでると、こう……ずっと背中を撫でられているような、落ち着かねえ気分になる。じっとしていられなくて、叫びだしたくなるような」
「それは……」
僕は言葉に詰まった。
彼女の頬は上気し、瞳は潤んでいる。荒くなった息遣いが、静かな洞穴に響いている。
誰がどう見ても、それは――吊り橋効果か、それとも密室の雰囲気がそうさせているのか。だが本人はそれを自覚できず、何かの予兆だと捉えているらしい。
「アキラ……」
シーザーが僕の方へ体を傾ける。
肩に掛けていたパーカーが滑り落ちかけ、無防備な鎖骨と、豊かな胸元のラインが露わになる。熱っぽい瞳。半開きの唇。
理性を保とうとする僕の脳裏に、警鐘が鳴り響く。だが、それ以上に強い衝動が突き上げてくる。
僕は吸い寄せられるように、彼女の頬へと手を伸ばし――視線を、感じた。
「ッ……!?」
反射的に手を止める。
昼間、浜辺でリナさんと写真を撮っていた時に感じた、視線。あの時はエレンに睨まれたのかと思ったが、違う。
誰かが見ているわけではない。暗闇の奥から、あるいはこの空間そのものから観察されているような重圧。
『生殖および育成活動へのリソース集中による人口増加』
先ほど読んだ資料の一文が脳裏にフラッシュバックする。
もし、この島の機能がどこかで生きていたら?
衣食住を与えてストレスを排除した先に目的として設定されている種の保存。それが確実に行えわれているかの確認の為、僕たちの振る舞いがデータの一つとして記録されているとしたら。
一気に血の気が引いた。だが、シーザーは止まらない。僕の腕を掴んで引き寄せようとする。
「アキラ、オレは……」
「ま、待ってくれシーザー」
「いいから……」
彼女の手が、羽織っていたパーカーの前を広げようとした、その時。
無機質な電子音が、洞穴の中にけたたましく鳴り響いた。
僕のポケットに入っている通信機だ。
シーザーの動きが止まる。僕も弾かれたように彼女から距離を取った。
「つ、通信だ!」
慌てて端末を取り出し、通話ボタンを押す。
『もしもし、店長様? 夜分遅くに申し訳ございません』
リナさんの落ち着いた声だ。その背後で、何かを訴えるようなエレンの声も微かに聞こえる。
『エレンが、何かが海に落ちる音を聞いたと騒いでおりまして。店長様のお姿も見えませんし、確認のご連絡をさせていただきましたの』
「あ、ああ……ごめん、リナさん。ちょっと、散歩中に足を滑らせてしまってね。海に落ちたんだ」
『まあ。お怪我はありませんの?』
「大丈夫だ。あー、シーザーが助けてくれたから」
通信機の向こうで、安堵の息遣いが聞こえた気がした。
現在地と、すぐに戻る旨を伝えて通信を切る。
静寂が戻った洞穴。
僕は恐る恐る、隣を見た。
「…………」
シーザーは、僕のパーカーを着直していた。
それも、ジッパーを一番上、顎が隠れるくらいまでしっかりと引き上げて。
彼女は体育座りのように膝を抱え、僕に完全に背中を向けてしまっている。
「……帰るぞ」
「え?」
「帰るって言ってんだよ! バカ!」
耳まで真っ赤になっているのが、後ろからでも見て取れた。
自分が何をしようとしていたのか、正気に戻って気付いたのだろう。
何かの影響か、それとも本心だったのか。その答え合わせは、どうやらお預けになりそうだ。
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