翌朝。太陽が今日も容赦なく照りつける中、朝食のテーブルには焼き魚やフルーツ、缶詰のスープが並んでいるが、その中の一席が空いてしまっている。
シーザーだ。
彼女一人が残されたテントの入り口は固く閉ざされたままで、中からは冬眠中の熊のような低い唸り声が時折聞こえてきている。昨晩の諸々のトラブルは彼女のキャパシティを超えさせるには十分だったのだろう。
無理もない。むしろ、顔を合わせたら水上バイクで引き回しの刑に処されるかもしれないと思っていただけに、引き籠ってくれているのは助かると言えるかもしれない。
だが、問題は別のところにあった。
「…………」
視線が、痛い。昨日感じたものではない。発生源は嫌となるほど分かりやすい。
テーブルの向かい側で、エレンがフォークでソーセージを突き刺しながら、ジト目でこちらを睨んでいる。
その赤く鋭い瞳からは、「昨日の夜ナニがあったわけ?」「海に落ちたって何?」「シーザーとナニしてたの?」という無言の尋問がレーザーのように照射されていた。
この殺気立った空気の中では今後さまざまな弊害が出てくる。第一に僕の胃壁の摩耗とか。早急な対処が必要だ。
カップを傾けるふりをして、隣に座るリナさんに目配せを送る。リナさんは優雅に紅茶を啜ってからカップを置くと、ふわりと微笑んでくれた。流石はヴィクトリア家政のメイド長、以心伝心だ。
「皆様。食後のデザートに新鮮なフルーツはいかがかしら?」
「お、いいね! まだなんかあるの?」
「ええ。森の奥に、良い香りのする果実が実っているのを見つけましたの。ただ、少し高い場所にありまして……エレン、手伝ってくださる?」
「ヤダ。めんどくさい。ボンプにやらせなよ」
即答で拒否するエレン。その視線は僕から外れない。
「あら、そうですか。店長様に『エレンが採ってくれた果実』を召し上がっていただこうと思いましたのに。残念ですわね」
エレンの眉がピクリと動いた。
リナさんは追い打ちをかけるように、僕に向かって「店長様も、エレンの活躍が見たいですわよね?」と同意を求めてくる。
「あ、ああ、そうだね。エレンが採ってきてくれたものなら、きっと格別だろうな」
「……」
あからさまに怪しい台詞にエレンは渋々と、本当に渋々という様子で立ち上がった。不自然さは感じ取りつつも、言葉にしないでいてくれたのは助かる。背を押してくれた時の信頼と昨日の不貞疑いで比較し、ギリギリ前者に傾いてくれたのだと思いたい。
彼女は僕にいま一度釘を刺すような視線を投げてから、いつもの剪定鋏を担いでリナさんの後を追って森へと消えていった。
場に残されたのは、僕と、レポートをまとめている柚葉、そして朝食の片付けを手伝ってくれているアリスの三人だけ。
僕は小さく息を吐き、今日の目的へ移行するために声を上げた。
「柚葉、アリス。ちょっといいかな」
「んー? どしたの、アキラ」
二人が顔を上げる。僕はもっともらしい顔を作り、懐からメモ帳を取り出した。
「実はさっき連絡が入ってね。リナさんが働いている例の依頼人の芸術家から、追加のオーダーが届いたんだ」
「追加? また変な注文?」
「ああ。なんでも、『ただの風景や遊びの風景には飽きた』そうでね。もっとこう……『楽園でのアバンチュール』を感じさせる、物語性のある写真が欲しいそうだ」
「アバンチュールってなに?」
「たしか冒険とか、一時の逢瀬とか、そういう意味だったと思うのだわ。ちょっと古い言い回しだけど、芸術家の方なら仕方がないのかしら」
自分の言葉のチョイスに世代間の溝を感じるのは後回しとして。
もちろん真っ赤な嘘だ。だが、二人を巻き込む為に仕事という大義名分を掲げるのは、普段の仕事柄、通りが良い。
「つまり……恋人同士のような写真が欲しいということ?」
「その通り。被写体は二人に留めて、ツーショットで親密な空気を演出してほしいらしい。協力してもらえないかな?」
「面白そう! やってみようよ、アリス!」
柚葉は面白そうに身を乗り出した。彼女のことだ、アリスが慌てる様を見たいという魂胆もあるのだろう。一方のアリスは、少し頬を赤らめつつも、コホンと咳払いをして背筋を伸ばした。
「わ、わかったのだわ。どのような役柄でも完璧にこなしてみせますもの! ……でも、お相手役は……」
「今のところ、男性は僕しかいないからね。力不足かもしれないけど、僕が相手役を務めさせてもらうよ」
ふと思う。こうやって女子学生を唆して撮影会に誘導する行為は、プロキシ業なんかよりもよほど罪深いのではないかと。
場所を少し移動し、岩場の影になった静かな入り江。
波音が響く中、まずはアリスと共に被写体としてカメラの前に立った。カメラを託した柚葉は殊更に愉快そうな表情を浮かべている。
「そ、それでは、よろしく、お願いするのだわ……!」
アリスはガチガチに緊張していた。両手を身体の横にピシッと付け直立不動。表情は硬く、証明写真なら満点だろうか。これではアバンチュールどころか採用試験でもやってるようなものだ。
「アリス、もっとリラックスして。恋人同士の設定だから、もう少し距離を詰めようか」
「は、はいっ! ……こ、これくらいでして?」
じり、と数センチだけ近づくアリス。ウサ耳が警戒するようにせわしなく動いている。
僕の見立てでは、この島で感じる視線は僕らの心拍数の上昇や異性への強い意識、露骨に言うなら生殖活動への予兆をトリガーとしているのでは、と踏んでいる。
それだけなら不愉快であっても害は無い。しかし今、閉じ込められている状況下である以上、その視線の源泉を辿ることには非常に意義がある。
こちらへ視線を感じさせるほど覗いている何かがあるのなら、そこへ乗り込むことが出来るのではないか。たとえばホロウのように空間の裂け目を利用しているのであれば、そこを抉じ開けて本拠地に殴り込みを掛けることだって考えられる。直に乗り込めなくとも、手がかりの一つにはなるはずだ。
仕掛ける時はきっと一発勝負になる。その時の為に、どういった条件下であれば視線が生まれるか。そしてそれが強くなる瞬間があるのではないか。密かに検証していかなければならない。
そういう意味では兎のシリオンであるアリスには少し期待していたのだが、突発的な撮影会で緊張しすぎてしまっているらしい。
それに、この状況では視線を感じない。やはりただ並んでいるだけではダメか。ならばもっと踏み込む必要がある。
「ごめん、少し失礼するよ」
「えっ、あ、ちょっ……!?」
僕は一歩踏み出し、アリスの正面に立った。
吐息が掛かる距離。アリスの瞳が大きく見開かれ、赤と黄の虹彩が揺れるのがはっきりと見える。ゆっくりと手を伸ばし、彼女の華奢な腰に手を回した。
「ひゃうっ!?」
アリスが可愛らしい悲鳴を上げて硬直する。
腰に回した手に力を込め、ぐっと引き寄せる。彼女の身体は熱く、心臓の音がトクトクと早鐘を打っているのが伝わってきた。
「こ、こ、恋人って、こんなに近いですの……!?」
「ああ。見つめ合って。目を逸らさないで」
「うぅ……っ、無理、無理ですわ……胸が、破裂しそうで……!」
アリスの顔は既に茹でダコのように真っ赤だ。瞳は潤み、口元はわなないている。演技を超えた、純粋な羞恥と異性への意識。
こちらも彼女の無垢な反応に罪悪感と、男として抗えないものを感じていた。
心拍数が上がる。体温が上がる。そして背筋に、冷たく湿ったものが張り付いた。
来た。
無機質で、それでいて粘着質な、得体の知れない観察の気配。僕たちの高ぶりをじっと見つめる目。
「アキラ……?」
アリスがとろんとした目で僕を見上げる。彼女は気付いていないようだ。だが確信出来る。
やはり、この島の何かは見ている。僕たちが理性を失うその瞬間を今か今かと待ち構えている。
電子音が鳴るのと同時、アリスは熱に浮かされたようにその場へへたり込んだ。膝から崩れ落ち、両手で真っ赤な顔を覆っている。湯気が出そうなうめき声を聞き届け、カメラマン役の柚葉は口角を吊り上げる。
「はい、お疲れ様。いやー、いいリアクションだったよアリス。これなら芸術家の先生も大満足間違いなしだって」
「ゆ、柚葉ぁ……もう、無理……アキラったら、容赦がないのだわ……」
「だらしないなぁ。ほら、次はあたしの番ね。カメラお願い」
柚葉はまだ目の焦点が定まっていないアリスに強引にカメラを握らせると、軽やかな足取りで僕の目の前に立った。
挑発的な視線。余裕綽々の笑み。彼女は自身の魅力を完全に把握している。
「さてと。アリスみたいにウブな反応は期待しないでよね? あたしはこういうの慣れてるし」
そう言って彼女は、自然な動作で僕の胸に背中を預け、流し目を送ってきた。確かに落ち着いており撮影には持ってこいの女優っぷりだ。だが、それでは検証にならない。僕が必要としているのは余裕ではなく、理性の均衡が崩れる瞬間だ。邪な気持ちは無い。決して無い。
「慣れてるなら、もっと踏み込んでも大丈夫かな」
「ん? ああ、全然いいよ? アバンチュールなんでしょ? もっと大胆なのでもどんとこいって感じ」
柚葉は僕を見上げ、悪戯っ子のように笑う。
僕が何かを企んでいることなどお見通しだと言わんばかりの表情だ。なら、その推察ごと利用させてもらおう。
「分かった。じゃあ、遠慮なく」
「えっ?」
僕は彼女の腰に回した腕に力を込め、身体ごと反転させた。
背中を預ける形から、正面から抱き合う形へ。
予期せぬ動きに柚葉が体勢を崩す。その隙を逃さず、僕は彼女を背後の岩壁へと押しやった。
背中が岩に当たる。逃げ場を塞ぐように、僕は彼女の顔の横に手をついた。
「ちょ、アキラ……?」
いわゆる壁ドンの体勢。至近距離で見下ろすと、柚葉の余裕の仮面が僅かにひび割れるのが見えた。
だが、まだ足りない。視線を外さず、彼女の頬を指先でなぞった。
「物語性が必要なんだろう? たとえば……燃えるような恋に落ちて、今すぐ口付けたくてたまらない、とか」
「いッ!?」
柚葉の目が大きく見開かれる。
僕の目は笑っていないはずだ。真剣に、彼女を女として見ている演技。いや、この状況下で演技だけで済ませられるほど僕も聖人ではない。
指先が顎に触れ、上向かせる。柚葉の呼吸が止まった。
彼女の頬が一気に朱に染まり、いつも強気な瞳が潤んで揺れる。
「ま、マジで……するの……?」
か細い声。拒絶ではない。むしろ、期待と困惑が入り混じった、無防備な反応。
彼女が瞼を閉じかけ、唇がわずかに開く。
その受け入れる姿勢へ応じるように、空気がねっとりと重くなった。
先ほどのアリスの時とは比較にならない。まるで空間そのものが僕たちを舐め回すような、強烈な視線。
岩肌から、木々のざわめきから、あるいは打ち寄せる波飛沫の一つ一つから急かされているような感覚。
間違いない。感情の振れ幅が大きければ大きいほど、この島のシステムは強く干渉してくる。
あまりの重圧に僕が顔をしかめた、その時だ。
「そ、そこまでなのだわッ!!」
悲鳴のような制止の声が入った。
ハッとして横を見ると、顔を真っ赤にしたアリスが、バッテンを作った両腕を振り回して割って入ろうとしていた。
「ち、近すぎ! 破廉恥なのだわ! アバンチュールにも限度というものがあるんではなくて!?」
「あ……」
柚葉が我に返る。
彼女は弾かれたように僕から身を離すと、手で口元を覆い、耳まで真っ赤にして俯いた。
「……やりすぎ」
ボソリと呟かれた抗議に対して、ただひたすら頭を下げるしかなかった。
撮影会という名目の検証を終え、キャンプ地へと戻る道すがら。
まだ興奮冷めやらぬ様子でブツブツ言っているアリスの後ろを歩いていると、少し遅れて歩いていた柚葉がすっと僕の横に並んだ。
「ねぇ」
誰にも聞こえないような、小さな声。
「……何、確かめたかったの?」
鋭い声。確信に満ちた色だ。やはり彼女には、僕の行動が単なる撮影や悪ふざけではないと勘付かれていたらしい。
前を歩くアリスに聞こえないよう、声を潜めて答える。
「……見られている気がするんだ」
返答は無い。それだけで柚葉は雄弁に語っていた。僅かに目を見開き、それからコクリと頷く。
「あんまり話すとヤバい? 見られるだけじゃなくて聞かれるとか?」
「考えても仕方がないからある程度は開き直るさ。柚葉、君はどういう感じがしていた?」
「……誰かにすぐ耳元で息を吹きかけられてるみたいな……そういう視線が、アキラと近くなればなるほど、どんどん強くなっていった気がする」
「やっぱり、そうか」
個人の感覚などという不確かなものに頼るのは甚だ遺憾だが、とりあえず自分の思い込みだけではないと分かっただけまだマシだろう。
道筋を立てるための情報は揃いつつある。――いささか以上に不純だが。それでもプロキシとして、彼女たちを家に帰せるよう、努力を惜しむべきではない。