夜の帳が下り、波の音だけが支配する静寂の時間。
しかし今、とある岩場の影に限っては、波音とは異なる熱を帯びた音が空気を震わせていた。
「……あいつら……やりすぎだろ……ッ」
岩陰に潜むシーザーが、顔を真っ赤にして岩肌をガリガリと義手で削っている。
無理もない。数メートル先、月明かりの下で行われているのは名目上は演技となっているものの、スキンシップを越えて情事の一歩手前まで行ってしまっている。
あまりにもあんまりな作戦行動を終始見届ける役目はリナのみが担っていた。
ヴィクトリア家政のメイド長として、リナは数々の修羅場やアバンチュールを目撃してきた自負がある。しかし、今夜の主役たちは格別だった。アキラとエレン。二人のシルエットは一つに溶け合うほど密着している。
最初は見られていることが前提という特殊な環境ゆえぎこちなく始まったはずの抱擁は、エレンの中に燻っていた巨大な執着が着火剤となり、またアキラの覚悟が油を注いだことで、瞬く間に燎原の火のごとく燃え上がっていた。
風に乗って聞こえる濡れた水音や、甘く切ない吐息。衣服が擦れ、乱れていく気配。それは生命の輝きそのものであり、覗き見る者にとっては毒にも薬にもなる猛烈な刺激だ。
「いくら必要と言っても、こんな風に覗きじみた真似っ……! インモラルすぎるのだわ……!!」
アリスが目を回してふらついている。彼女には少々早すぎたかもしれない。
「しょーがないじゃん。こうなったらもう楽しんだ方がいいんじゃない? 二人もノリノリみたいだし」
柚葉はニヤニヤと口元を緩めながら、しかしその目はしっかりと周囲の状況を観察している。
そしてリナは、手元にある小さな起動スイッチに指をかけながら、優雅に微笑んでいた。
「ふふ。若さとは素晴らしいものですわね。愛し合う二人の情熱は、時として世界をも歪める……文字通りの意味で」
リナの視線は二人の情事だけではなく、彼らの周囲にも注がれていた。
彼らが互いを求め合う熱量は、この島でこれまで発生していたイベントを児戯と呼び得るものになっていた。
アキラの推測は正しかったようだ。手元の端末が信号の受信を知らせる赤い光を点滅させ始めた。空間に開いている筈の覗き穴が、かつてないほど大きく開こうとしている。
それは同時に、覗き穴が扉になる瞬間でもある。
「今ですわね」
リナは迷わずスイッチを押し込んだ。瞬間、待機メンバーの傍でパリンッという硬質な音が響いた。
何もないはずの大気が、まるで薄氷のように砕け散る。アキラが設置したデータスタンドが強制的に覗き穴をこじ開け、漆黒の裂け目が口を開けていた。
覗かれているそばに生じない調整をアキラが行ったのは見られる方と見る方どちらを慮ったのか、あるいは素直に監視者への露見のリスクを少しでも低減させるためだけなのか。確かめる暇は無い。
「行くぞッ! これ以上見てらんねえ!」
先陣を切ったのはシーザーだった。羞恥と興奮を拳に込め、誰よりも速く裂け目へと飛び込んだ。
「ええ、お邪魔致しましょうか」
リナたちもそれに続く。裂け目を抜けた際に感じる独特の浮遊感。それを抜けた先は、冷たい空調の効いた、薄暗い部屋だった。
壁一面を埋め尽くす無数のモニター。部屋の中央に鎮座する巨大なサーバーラック。絵に描いたような悪の秘密基地の司令室といった装い。
だが、リナたちが突入したというのに、警報一つ鳴らない。
それもそのはず。この部屋の主は、背後の侵入者になど目もくれず、一心不乱にモニターに齧り付いていたのだから。
「いけーっ! そこだーっ! 生命の神秘を見せろーっ! その情動! 数値が跳ね上がっている! これぞ愛! これぞ『崑崙』の夜明け!」
操作卓の上に立つ丸っこいシルエット。ユニコによく似た形状のキシドウボンプが、ポンポンを振り回して絶叫していた。
彼が見上げている巨大モニターには、現在進行形で愛を深めているアキラとエレンの姿が大写しになっている。様々なバイタルデータや感情値らしきグラフが画面脇を流れているが、このボンプの熱狂ぶりは研究者のそれというよりは、推しのカップルを見守る熱狂的なファンのようだった。
「記録しろ! 一秒たりとも逃すな! ああっ、次はどう動く!? やはりそこは――」
「そこは、どうしたって?」
「ンナッ!?」
背後から伸びた剛腕がボンプの頭を鷲掴みにし、操作卓へと叩きつけた。
シーザーの顔は怒りと恥ずかしさで真っ赤に染まっているが、その左手の義手は容赦なくボンプを締め上げている。
「アキラのえっ……ぅ……とにかくっ、酒のつまみみたいにしてんじゃねえぞコラァ!」
「い、痛い! 頭が割れる! 誰だお前たち!?」
「それは、こちらの台詞ですと言っておきましょうか」
リナは浮遊しながらボンプの前に回り込み、冷ややかな視線で見下ろした。
背にしたモニターに映る映像――アキラたちのあられもない姿を後続の女子学生たちに見せないようにしつつ、にっこりと微笑む。
「さあ、可愛いボンプさん? 少し、お話をお聞かせ願えますかしら。……たっぷりと、ね?」
「ひぃッ!?」
リナの背後には、電撃を帯びた人形たちがバチバチと火花を散らして浮遊している。
制圧完了。あまりにもあっけない幕切れだった。
◇
「さて。まずは貴方のお名前と、この悪趣味な覗き見……その目的をお話しいただけますか?」
リナの操る人形たちが、逃げ出さないようにボンプの周囲をふわりと囲む。
操作卓の上でへたり込んだボンプ――バースと名乗ったその管理個体は、暴力への恐怖と、自身の崇高な実験を邪魔された憤慨がない交ぜになった表情で口を開いた。
「覗き見ではない! これは偉大なる『崑崙』計画の正しさを証明するための、神聖な学術研究なのだ!」
「学術研究、ですの?」
「そうだ! 過去の記録媒体には、楽園を与えられた小動物たちが、世代を重ねるごとに無気力になり、やがて繁殖を止めて滅亡したというデータがある。だが、私は信じていた。知性ある存在ならば、愛と情熱があれば、そんな停滞は打ち破れるはずだと!」
バースは短い手足を振り回し、熱弁を振るう。
要するに、衣食住の心配がない閉鎖環境においても、生物としての闘争本能や生殖本能が維持されるかを確認したかった、ということらしい。
「だから私は待ち構えていたのだ! いつかこの島に新たなサンプルが訪れ、壁を乗り越えるほどの愛を見せてくれる日を!」
「その研究方法が、この観察というわけですのね」
「その通りだ! 素晴らしいデータだ。ここまでの熱量は、過去のいかなる記録にもない!」
胸を張るバース。その瞳に一点の曇りもないのが、逆に始末に負えない。
リナは小さく溜め息をついた。目的はどうあれ、やっていることはただの覗き魔であることに変わりはない。
「目的は分かりましたわ。では次に、なぜこの島が急に姿を現したのか。そして、なぜ周囲の海がホロウの裂け目で閉ざされているのか。技術的な説明をお願いできますか?」
リナの問いかけに、バースは首を傾げる。
「分からん。先日、島の動力を賄う炉心に、外部からの衝撃による急激な揺らぎが発生した。そのせいでホロウの裂け目を利用した迷彩フィールドの制御が利かなくなり、島が露見したのだ。迷彩はともかく、幸い内部封鎖については効果を取り戻すことができたが」
「外部からの衝撃……」
リナは記憶の糸を手繰り寄せる。
そういえば、直近のニュースで『ラマニアンホロウ』にて大規模なエーテル活性化現象があったと報じられていた。あれは確か『パエトーン』も関わっていた。
座標的には遠く離れた場所での災害だが、そこの変容が影響していると考えると、ここの島の発電に何が使われているのか見当が付いてきた。
「リナさん、これをご覧になって」
操作卓の別の画面を覗き込んでいたアリスが、驚きの声を上げた。彼女は表示されている施設の構造図を指差し、目を見開いている。
「ここの構造は『式輿の塔』……あれよりは小規模のようだけど、似たような設備なのだわ。地中深くにある小型のホロウの抑制のためにエーテルを吸い上げて、それをどこかに送るのではなく、設備の発電に充てる仕組みになっているみたい。ずっと休眠状態のはずだったけど、一か月前くらいに急にエーテルの供給量が増えてからは不安定に活動していたようなのだわ」
その地中のホロウとは、おそらくラマニアンホロウの共生ホロウなのだろう。大本のホロウからの異常が共生ホロウに波及して、枯渇していた筈のこの島のホロウが活性化してしまったのかもしれない。
アリスの言葉に、傍らで聞いていた柚葉がポンと手を打った。
「で、ホロウを利用したシェルターを作ったのはいいけど忘れ去られて、このボンプが勝手に実験に使ってたってわけか」
「む……勝手にとは人聞きが悪い。私は与えられた使命を……」
「はいはい、言い訳はあとで聞くから」
柚葉は軽くあしらいながら、アリスと共にキーボードを叩き始めた。直ちに問題は無いとはいえ、脱出するためにはこの施設の制御権を奪い、島の周囲を封鎖している裂け目を解除しなければならない。
優秀な学生たちがテキパキと動く様子を頼もしく眺めつつ、リナはふと違和感を覚えた。
静かすぎる。率先してボンプを締め上げていた、あの血気盛んな王の声がしない。
「あら? シーザー様は?」
リナは部屋の中を見回した。
彼女は、部屋の奥。壁一面を埋め尽くすメインモニターの内、その一つの前で彫像のように立ち尽くしていた。
「……シーザー様?」
返事はない。
彼女が見ている画面には、先ほどからずっと、アキラとエレンの姿が映し出されている。作戦を継続したままの、そのままの姿で。
陽動という任務など、とうの昔に忘却の彼方へ消え去ったのだろう。
画面の中の二人は月明かりの下、互いの体温を確かめ合うように深く抱き合い、とろけるような表情を浮かべている。衣服は乱れ、もはや隠す気すらない愛の交歓。あまりにも濃密で、甘美な光景。
「……ぁ……えぇ……?」
シーザーの顔は、茹でたてのタコのように真っ赤に染まっていた。
だが、その目は画面から離れない。指の隙間から覗くとか、目を逸らすとか、そんな初々しい反応ではない。食い入るように、瞬きすら忘れて見入っている。
それは憧れか、それとも――。
「あらあら、うふふ」
その微笑ましくも背徳的な後ろ姿に、リナは口元に手を当てて笑みをこぼした。
アリスたちは作業に夢中で、まだこの光景には気付いていないのが幸いか。如何な状況であってもレーティングは守られるべきだ。
「……もう少し、止めるのを待って差し上げましょうか」
リナは心の中で二人に詫びつつ、この甘い時間がもう少しだけ続くことを独断で許容した。