背中が重い。
肩を下に寝ているせいだろうか、身を横たえていても体が休まる気配がない。なんだったら足も重いし頭も重い。
プロキシという裏稼業をやっていれば背負い込んでしまう恨み嫉み諸々あるものと悲壮を誘えれば良かったが、今感じているプレッシャーは捻りのない物理的なものだ。
足にはサメの尾が乗って動かせず。
背中は背もたれとして扱われ。
頭、というか後頭部にはぐりぐりと頭が押し付けられている。
そしてそこから逃れようにも膝を少しでも曲げれば眼前の壁にぶつかってしまうという有り様。
そう、人類はベッドという領土の八割をサメに明け渡してしまっていたのだ。なんて完璧な煽り文句だろう。今年度の黄金の木苺賞をかっさらいにいける。
さて。ここに至るまでの経緯を振り返ろう。
もちろん、ただ無抵抗にこうして侵略されたわけではない。シャワーの後の温もりを押し付けてくるエレンに、そういえばリンはいつもベッドを散らかしているから今のうちに綺麗にしておくのはどうかなとさりげなく妹の部屋への誘導を試みていた。権謀術数とは人間の持てる偉大な力の一つだ。
しかしサメにとって小賢しい細工など跳ね除けるなど容易いことである。サメ映画でもそう撮影されている。
「別にいい。アキラのベッドで寝るから」
なにを見ていいと言ってるんだろう? 僕が見えていないからって彼女には一体何が見えているのか。
ここは真正面からぶつかるのは危険だ。出来るだけ安全策を取る。
「……じゃあ、毛布の予備がベッド脇にあるはずだから、それをソファに置いてもらえるかい」
「なんで?」
「ちょっとでもソファを寝床らしくしておきたいからね」
侵略を受けるのであれば、いっそ圏外への脱出を図る。これは敗走なのではなく戦略的撤退なので何ら恥ではない。
しかし、一度歯を立てた獲物をみすみす逃がすサメがいるだろうか。
「一緒にベッドで寝ればいいじゃん」
最短距離のど真ん中直球勝負。
そんな曲解も聞き間違えも出来ない球を放られてしまえば荒野の放蕩野球娘だって顔を真っ赤にしてお排泄物ですわと鞭を振るうことだろう。場外乱闘待ったなしだ。
「エレン、それは、ダメだ」
「さっきも一緒に寝てたし、今更でしょ」
「さっきと今とじゃあ色々違う」
眠鮫懐に入れば猟師も殺さず。ああも素早く不意打ちで潜り込まれてしまえば無碍に出来るわけがない。
あと正直逃げるには惜しいと思ったし。
ともかく、あまりに無神経が過ぎる。怒ればいいのか呆れればいいのか迷うい、それを不機嫌そうに唸るサメ。サメが唸ったり笑ったりするくらいは普通だって僕の地元じゃ子供でも知ってる。
「人にはベッドで寝ろって言っておいて、自分はそうしないの?」
「それは……」
工房のソファで寝たりH.D.D.の前で寝落ちしていたり、普段から褒められた生活態度ではないのは確かだ。だが、そうやって開き直るのはあまりにみっともない。偉そうにベッドで寝ろと言った過去の自分を殴りに行きたい。
「じゃあ、僕がリンの部屋に」
「さっきやらかしておいて近付けちゃダメでしょ。空気読みなよ」
それはまぁ、そう。リンなら内心気にしていないと思うけど。
この状況を作ってる本人に空気読めって言われるのはひどく釈然としないけど、藪をつついてサメを出す気はない。
思わず顔を覆って何かないか言葉を探していると、溜め息を一つ投げ掛けられる。
「そんなに拒否られると、ちょっと傷付くんだけど」
「イヤとかじゃなくて、何かあったらとか考えないのか──」
気が付くと、腹にとぐろを巻いていた熱が口を衝いて出た。喉元を過ぎて舌が冷めた後には、後悔と羞恥が顔面を焼き始める。
何かあったら、という心配は、何かが起こることを想定しなければ発生し得ない。
エレンが隣に寝ていて、誰のせいで、何が起こると、自分は想定したんだ?
「何かって、なに?」
舌を噛みちぎりたくなる衝動に襲われているこちらをよそに、真実理解していないような声を出すエレン。
これは男女が同衾して行われる夜の連携スキルの意味を理解していない──のは有り得ないだろうから、プロキシごときがメガロドンに勝てると思うなということだろうか。実際エージェントに勝てるような腕力なんて持ち合わせていないから事実なのだが。
意識した事を恥じていた事すら吹き飛ばす冷めた態度のお陰で、頭が幾分かマシに動く。というか、考えるのが馬鹿らしくなった。
どうせダブルベッドだから幅に余裕はあるにはあるし、壁際に寄っていれば困る事態にもならないだろう。
「いや、気にしなくていい。エレンの好きにしてくれ。ただ、僕は奥側で寝かせて貰えると助かる」
「分かった」
こうして人類とサメとの講和は成され、冒頭に戻る。
こちらが良かれと思って壁際に張り付いて寝ていたところに、卑劣にも足に尾を載せて機動力を奪った上で背中にピタリと張り付き、寝にくいだろうに頭をしきりにぶつけてくる。講和とは名ばかりの捕食者による侵略がそこにはあった。
……そろそろB級映画フィルターを取っ払おう。
要するに、エレンが背中合わせにくっついてきている。なんで? 分からない。個人事業主として社会的な立場がある人間が女子学生相手に意識をするなんてダメに決まってるだろと我欲を捨てようとしているところに、どうしてこういうことをしてくるのか。
黙っていても埒が開かない。人間同士言葉が通じるなら話し合いが第一だ。
「エレン。もうちょっとそっちに行ってくれると嬉しいなぁって」
「やだ」
「もう少し、逆側にスペースがあると思うんだけど」
「全然」
「何だったらソファのクッションとか挟んでもいいし」
「もう動きたくない」
「あんまり近いと寝心地悪くなるんじゃないか?」
「私は悪くない」
自分が不当な要求でもしているのかもしれないと不安になってきた。少し離れて寝ようって言ってるだけなのにその頑なさは一体どうしたって言うんだ。
「そんなに気になるなら、さっさと寝ちゃえば?」
そう言いながら、エレンが毛布を掛けてくる。暖かいけどその程度で眠れるだろうか。
一つの毛布に二人で入っているせいで、少しの身動きで毛布が引っ張られ、余計に彼女との距離が近くに感じる。
「ほら、暖かくしてればすぐだって」
「そういう問題じゃない気がするんだけど」
これがヴィクトリア家政の寝かし付け方なんだろうか。現場責任者がバイトであるエレンにこんな依頼まで請け負わせるとは思えない。シリオンの身体能力を考えれば、ちょっとした身動きで客に危険が及ぶことを想定する必要が出てくるだろうし。
あれ? そうするとひょっとすれば、いま自分はなかなかの危機と背中合わせにあるのでは? 下半身、特に尾ひれがくすぐってきている脛に悪寒が走る。
そんな考えを巡らせている最中に前触れもなく尾が足から離れていったので、これはもしやと身構えてしまったのは仕方がないことだろう。
尾と共に、背中が軽くなる。エレンが体を起こしているらしい。
ようやく弄るのを飽きてくれたのか。そう思った次の瞬間。
「はい、ぎゅー」
耳の真横で囁かれる声。唇の先が掠めかねないほど近い。
尻尾の代わりに、足が足に絡みつき、挟まれる。
背筋を撫でて被さるように、少女としての柔らかさが押し付けられ。
毛布の上から滑り込むエレンの手が、衿の内側に触れてくる。
「エレン、急にどうした?」
「こうやって、もっとくっついてたほうが暖かいから」
確かに暖かい。耳はポンプが貼り付いたように激しく血流が動いている。
背中は触れられているところから感覚が鋭敏になり神経が焼け付くようだ。
抱き締められた足は血が通っている筈なのに痺れるような甘さが包み込んでいる。
「ちょっと、待て」
たまらず服に差し込まれた手を押し返す。もうここまで来るとやんわり言うのも無理がある。はっきり言ってやらないと自分のためにもエレンの為にもならない。
「エレン、君はもっと慎みを持ってくれ。僕だって我慢には限度があるんだからな」
あくまで感情的にはならないよう、しかししっかりと問題を伝えられるように言葉を選ぶ。
「自分が魅力的な女性であるという事をもっと自覚してくれ。そうやって無闇に接触していると、男として意識せざるを得ないところも出てくる。同級生にでもやっていたら変な気を起こされたっておかしくないぞ」
もっとも、美男美女揃いのヴィクトリア家政でバイトしていれば、学校の男子生徒なんて農作物ほどの関心も向けられないだろう。だが相手からしてみればまったくの別だ。
「君のことはとても好ましく思っているけど、それはあくまで節度のある距離感のもとで──エレン? 聞いてるかい?」
少し黙り、耳を澄ます。
やかましく鳴る自分の心臓を無視すると、耳をくすぐるゆっくりとした吐息が聞こえてくるだけだった。
「……嘘だろう」
思わず感想そのままが口から溢れ落ちた。エレンにとって僕の懊悩なんて、数学の授業よりも退屈なものなのかもしれない。
一体どこまでは聞いていたのだろうか。どうせなら全部聞いてない方が気が楽なんだが。それだとハナから興味を持たれていないということになるから複雑な気持ちだ。
こんな状況でも眠れるだなんて、エレンは一体どういう神経をしているんだろう。こっちは朝まで緊張しっぱなしに違いない。
と、思っていたのだが。
脱力のせいか暖かさを受け入れ寝息を聞いてるうちに、あっけなく意識は落ちてしまった。
気付けば夢を見ていた。体のあちこちをエーテリアスに齧られる夢だ。
食われる端から炎になって、燃え残った体で吸えない空気を吸おうとする。
息が限界を迎える直前。現実での呼吸と共に、夢が晴れた。
「……」
ひどく苦しかったことを思い出しつつ、しかしそこから解放されたことへの安堵感が体をベッドへ余計に深く沈みこませる。きっと今なら気持ちよく寝直せるだろう。
いや、今、本当に自分は起きているのか?
疑いを晴らすために目を開けても光は無い。起きていたとしても深夜か朝か、昼まで寝たのかの判別も付かない。ともするとここは自室でもないのかもしれない。確信を得られるものが何もない。見えない。
泥土の中で藻掻くような疎外感。絡みつく不安をごまかそうと身をよじろうとした時、違和感に気付いた。
肩が軽い。背中が熱くない。右腕が動かない。
どうやら寝ている間に仰向けになっていたらしい。いかなサメといえど自分の寝相まで貫くことは出来なかったか。良かった良かった。
で、なんで右腕が動かないのか。正確には右肩から先、何かに潰されたように持ち上がらない。
いや、まぁ、何に潰されているかはなんとなく察しはつくけども。
それでも怖いもの見たさ──いや、触りたさか? とにもかくにも、とりあえず右肩へとゆっくりと手を伸ばす。
決して爪を立てたり、付いてしまう事の無いよう慎重に。たっぷり数十秒を使い、指先がそれを捉えた。
しっとりとした触り心地。ゆっくりと撫でたせいで、まるで泡を触れたように柔らかさが指に残る。指先を右肩の方へ動かしていくと、少し冷たいひだのようなものに触れた。
耳たぶだ。輪郭をなぞると、ひどく小さく感じる。癖になる手触りなのは不思議だ。
つまり、背中から離れたエレンはこちらに頭を移していたと。頭が右肩に乗っかっているのなら、その下に繋がるものも同じように腕を抱き枕代わりにしてくれているのは想像に難くない。
動かせないのは少し窮屈だが、血流が止まるほどの圧力じゃない。
これくらいなら、まぁ、いいか。
状況が分かってくると、また眠気が瞼を撫でる。どうせエレンが起きるまでは何も出来ないのだから、もう一度寝直そう。
呼吸へ意識を向けて、枕へ、布団へ沈んでいく。
意識が沈みきる寸前。
「腕に掴まるくらいの距離感なら、大丈夫なんだ」
そんな言葉が聞こえたのは、きっと夢の一部に違いない。