新エリー都の朝は、いつものように騒がしく、そして少しだけ特別な甘い匂いを残していた。
二月十五日。
『黄金の日』の直前でありながらも街中がピンク色に染まり、チョコレートの香りが漂っていた昨日から一夜明けた六分街は、祭りの後のような独特の静けさと、浮ついた空気の余韻を引きずっている。
そんな空気から逃れるように、自分はビデオ屋「Random Play」のバックヤード、H.D.Dシステムの前に座っていた。
手元には、昨晩もらったばかりの小さな紙箱がある。
黒を基調としたシックなデザインに、赤いリボンがかけられたその箱の中身は、言うまでもなくチョコレートだ。
一つだけ取り出し、口に放り込む。
ビターなカカオの風味の中に、ほんのりと洋酒の香りが混じり、最後に濃厚な甘さが舌の上に広がっていく。
おいしい。市販の高級チョコとはどこか違う、手作り特有の不揃いな形。だがその味は大雑把なものではなく、滑らかに口の中で溶けていく丁寧な作りを思わせる。
ヴィクトリア家政のメイドとしての彼女の腕前を舐めていたわけではない。しかし、あの気怠げなエレンが、僕のためにキッチンに立ち、これほどのものを丁寧に作ってくれたという事実が、甘さ以上に心をくすぐる。
昨日の夜、彼女はいつも通り、いや、いつも以上に不機嫌そうな顔でぶっきらぼうにこれを押し付けてきた。
受け取った時の彼女の耳が、少しだけ赤く染まっていたのを写真に収められなかったのが残念だ。
「さて、と」
口の中の甘韻をコーヒーで流し込み、僕はモニターに向き直った。
今日は久々に、プロキシ『パエトーン』としての依頼が入っている。
ここ最近は雲嶽山での修行や、アイドルがどうこうと厄介なトラブル解決に駆り出されることが多く、本業であるホロウ探索のガイド業務は少しご無沙汰だった。
依頼内容は、新エリー都の学生からのもの。
「ホロウに落とした大切な『プレゼント』を見つけてほしい」
よくある探し物依頼だ。バレンタインの翌日というタイミングを考えれば、その『プレゼント』が何を意味しているかは想像に難くない。渡し損ねたことを考えてしまうと少し可哀想ではあるが、気にするところではない。
僕はH.D.Dシステムを起動し、相棒であるイアスへと意識をダイブさせた。
「えっと……パエトーン、さん? だよね?」
指定された合流地点である、バレエツインズ駅前。
そこに立っていたのは、どこか見覚えのある制服を着た男子学生だった。
緊張した面持ちで、イアスの丸いボディを見下ろしている。
『ええ。依頼の品について、もう少し詳しく聞かせてもらえるかな』
イアスのスピーカーを通して、変声機越しの声を届ける。
「はい。あの、実は昨日、ある人に渡すつもりだったプレゼントを……落としてしまって」
詳しく話を聞いてみると、どうやら意中の相手に想いを伝えるために用意した渾身のプレゼントらしい。昨日渡せなかった分、今日こそは絶対に渡したいのだと彼は熱弁を振るった。
『なるほど。探す品物の特徴と、君が落としたおよその位置を教えてくれ。あと、参考までにその『想い人』のために選んだ物なら、中身も分かれば探しやすくなる』
「中身は……限定品の、新作ロリポップキャンディの詰め合わせです。彼女、いつも棒付きキャンディを舐めてるんで。それに、サメのキャラクターが好きみたいだから、サメのぬいぐるみも一緒に……」
ん? なんだか急に嫌な予感がしてきた。
『……ちなみに、その女の子って、どんな特徴があるんだ?』
学生は少し顔を赤らめながら、ぽつぽつと語り始めた。
彼が語る『ある人』の特徴。
同じ学校の生徒であること。
いつも眠そうで、気怠げな態度をとっていること。
黒髪のショートヘアで、赤い瞳が印象的なこと。
そして何より、特徴的な『サメの尻尾』を持っていること。
名前こそ伏せられてはいるが、彼の想い人がエレン・ジョーであることは疑いようがなかった。
プロキシとして、依頼人のプライベートに深く立ち入るべきではない。それはパエトーンの信条の一つだ。
しかし、今回ばかりは事情が違う。
いや、事情が違うというよりも、僕自身の心がざわついているのを無視できなかった。
『……なるほど。そのプレゼントは、どうしても昨日渡したかったものなのかな?』
「はい……! 一生懸命選んだ、特別なものなんです。彼女、最近なんだか疲れているみたいで……少しでも喜んでほしくて」
学生は必死に訴えかける。その目は真剣そのもので、恋する若者特有の熱を帯びていた。
人の恋路を邪魔するのもなぁ。
僕は内心でため息をつきつつ、イアスの丸い手を顎に当てるポーズをとらせた。
『ちなみに、確認なんだけど。その子って、恋人とか……そういう特別な関係の人はいないのかな?』
さりげなさを装って尋ねてみる。
学生は少し言い淀んだ後、決意を秘めたような表情で口を開いた。
「……いないと思います。ただ、最近……」
『最近?』
「六分街にあるビデオ屋……あそこに、夜遅くに出入りしているのをよく見るんです。それに、そこの店主らしき男と一緒にいることも多くて」
『ほう』
「彼女は真面目な子です。だから、きっとあのビデオ屋に弱みを握られているか、何かトラブルに巻き込まれているに違いないんです! だから、僕が助けてあげないと……!」
熱弁を振るう学生の言葉に、僕はH.D.Dシステムの前で盛大に咳き込んだ。
怪しいビデオ屋。
店主らしき男。
弱みを握られている。
これ、僕のことか。
いや、確かに夜遅くにエレンがうちに来ることは多い。着替えたり、少し休んでいったり、たまにそのまま泊まっていくこともある。
しかし、それは決して弱みを握っているからではない。むしろ、僕の方が彼女のペースに巻き込まれているくらいだ。
とはいえ、端から見ればそう見えなくもないという事実に気づき、頭を抱えた。
この学生は、エレンを僕という『悪党』から救い出し、そしてプレゼントを渡して想いを伝えるつもりなのだ。
まるで、三流のヒロイックファンタジーの主人公のように。
『…………』
僕はイアスのカメラ越しに、彼をじっと見つめた。
純粋で、まっすぐで、そして見当違いな正義感。
彼を手伝ってプレゼントを見つけ出し、エレンの元へ送り届けるのが、プロキシとしての正しい仕事だろう。
だが。
昨日もらったチョコレートの甘い香りが、まだ口の中に残っている。
「パエトーンさん……?」
沈黙が長引いたことで、学生が不安そうに声をかけてくる。
僕は長く、深く息を吐き出した。
『……ごめん』
「え?」
『この依頼、パエトーンとしては受けられない』
「な、なんでですか!? 報酬なら、いくらでも……!」
『報酬の問題じゃないんだ。ただ……少し、事情が変わってね』
「えっ!? ちょ、待って……!」
僕はそれ以上何も言わず、イアスのシステムに帰還コマンドを入力した。
「イアス、自力で戻ってきて」
困惑する学生を置き去りにし、僕はイアスからの接続を切断した。
暗転したモニターに、自分の疲れた顔が映り込んでいる。
「……大人げないな、僕も」
独り言を呟きながら、手元の端末を手に取る。
メッセージアプリを開き、エレンの連絡先をタップした。
なんて送ればいいだろうか。
『君に想いを寄せている学生が、僕を悪党扱いして君を救い出そうとしているよ』
いや、そんなことを送ったとしてもエレンを困らせるだけだ。少し迷った後、僕は短いメッセージを打ち込んだ。
『もし学校で、友達から変なことを言われたり、僕のことで誤解されたりしても、遠慮なく僕を悪人にしていいからね』
送信ボタンを押す。
しばらくして、短い通知音が鳴った。
画面には、エレンからの返信が表示されている。
『何言ってるか分かんないけど。今日も行くから、よろしく』
気怠げな声が聞こえてきそうな、そっけない文面。
だが、その裏にある彼女の意志の強さを、僕は痛いほど理解していた。
僕は苦笑しながら、端末を机に置いた。
悪党上等。
誰にどう思われようと、彼女がここへ来ることを選ぶのなら、僕はそれを全力で受け止めるだけだ。
箱に残ったチョコレートをもう一つ、口に放り込む。
今度は、少しだけビターな味が強く感じられた。