状態異常シャーク   作:すばみずる

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アブルームシャーク

 窓から差し込む光がモニターの放つブルーライトと混ざり合い、部屋の床を薄い群青色に染め上げている。

 

「よし、こんなところか」

 

 エンターキーを軽く叩き、データの転送完了を知らせるプログレスバーが右端まで到達したのを見届けてから、長く息を吐いていく。

 依頼されていたホロウ内のルート解析と、それに付随するキャロットの更新作業、およびその作業報告書の偽造をようやく終えることが出来た。Fairyに頼れば幾分楽だが、その対価の電気代が依頼料より足が出るとなると人力にならざるを得ないのがもどかしい。

 夜通しモニタに噛り付いていたせいで、首の裏側が石のように強張っている。両手を組んでぐっと背伸びをすると、関節がポキポキと小さな悲鳴を上げた。

 

 徹夜作業の疲労感に目を擦りながら、ふと背後に目を向ける。

 規則正しい、微かな寝息。

 六分街に来る時、自分の納得を優先して選びこだわったベッドの上には、いつの間にかこの部屋の主のような顔をして居座るようになった少女が丸くなっていた。

 エレンだ。毛布の隙間から、黒いサメの尻尾がだらりと垂れ下がっている。

 昨晩、仕事終わりに『Random Play』へ立ち寄った彼女は、そのまま夕食を共にし、僕が作業をしている間にいつの間にかベッドを占拠して眠りについてしまったのだ。ここ最近、彼女が僕の部屋で夜を明かす頻度は明らかに増えている。

 サメの尾が、シーツを擦るようにゆるりと動いた。

 

「ん……ぁ……」

 

 寝返りを打つ音と共に、毛布が擦れる音が部屋に響く。どうやら、朝日を感じて目を覚ましたらしい。

 モニタに向き直り、チェック項目へ再度視線を滑らせる。

 

「おはよう、エレン。よく眠れたかい?」

 

 背中越しに声を掛けると、少し遅れてぼけた声が返ってくる。

 

「……おはよ。アキラ、ずっと起きてたの」

「まあね。急ぎの依頼が入っていたから」

「ふーん。相変わらずブラックな働き方してんね。……ふわぁ」

 

 気だるげな欠伸の音が聞こえる。ベッドの軋む音からして、上体を起こしたのだろう。

 

「別に好きでブラックやってるわけじゃないさ。馴染みの職員だからって断らなかったのは僕の判断だ。それに、君に比べれば安全な椅子の上に座っているだけだしね」

 

 冗談めかして返しつつ、僕はあえて振り返らないように努めた。

 背後からは、布が擦れる衣擦れの音がはっきりと聞こえてきている。エレンがパジャマ──僕が以前貸した、少しサイズの大きなスウェット──を脱ぎ、着てきた制服へと着替えている音だ。

 

「ねぇ、アキラ」

「なんだい?」

「ブラのホック、ちょっと手伝って」

「…………自分でできるだろう」

「冗談。本気で動揺するのやめてくんない」

 

 からかうような鼻で笑う音が聞こえ、内心でため息をついた。

 以前の僕なら、彼女が着替えを始めた気配を察知した時点で、気を遣って部屋の外へと退避していた。年頃の女の子が着替える空間に男が居座るなど紳士的とは言い難いからだ。

 だが、その配慮は随分前から当のエレン本人によって木端微塵に粉砕され続けている。

 

『別に減るもんじゃないし。いちいち慌てて出ていかれる方がウザいんだけど』

『いや、でも、倫理的に……』

『背中向けて、モニターでも見てれば見えないでしょ。それとも何、我慢できなくなる?』

『まさか』

『じゃあ座ってて』

 

 そんな不毛なやり取りを何度か繰り返した結果、僕は『エレンが背後で着替えている間は、モニターの隅のシミを真顔で数え続ける』という謎の苦行を強いられることになってしまっていた。

 居心地が悪いことこの上ないが、彼女がそれでいいと言うのなら、僕からこれ以上口を出すのは許されない。世間的に許されないのは自分なのだろうけど。

 サメの尾がパタパタと空気を切る音。スカートのジッパーが引き上げられる音。

 やがて、背後から近づいてくる足音が聞こえた。

 

「はい、これ」

 

 視界の端から伸びてきた手が、ぽすんと僕の頭の上に丸められた布の塊を乗せた。彼女の体温が残るスウェットだ。

 

「洗濯、よろしく」

「メイドが雇い主に洗濯物を押し付けるのは、ヴィクトリア家政の教えに反していないかい?」

「ここは仕事場じゃないし、今はメイドじゃなくてただの女子高生だからセーフ。それとも、泊めてもらったお礼に洗えって、ご主人サマはおっしゃるんですかー」

「分かったよ。ご主人サマが洗っておくから、ちゃんと学校に行きなさい」

 

 僕がスウェットを手に取ってため息をつくと、エレンは満足そうに口角を少しだけ上げた。

 

「じゃ、私下行くから。リン起こして、朝ごはん作ってもらお。アキラも降りてきなよ」

「ああ、顔を洗ったら行くよ」

 

 エレンはそれだけ言い残すと、鞄を肩に掛け、ひらひらと手を振って部屋を出ていった。

 パタン、と扉が閉まる音を聞いて、僕はようやくゲーミングチェアから立ち上がる。

 大きく伸びをしてから、ふと部屋の一角に視線を向ける。

 

「…………」

 

 そこには先ほどまで彼女が使っていたベッドがあった。

 しかし、毛布は無造作に蹴飛ばされているわけではなく、シーツの皺は律儀にも綺麗に伸ばされ、掛け布団も元の形に整えられている。枕の配置まで完璧だ。

 あれだけ傍若無人な振る舞いをしておきながら、こういうところはきっちりと『ヴィクトリア家政』の矜持を覗かせるのだからズルい。

 

「手玉に取られてるな」

 

 苦笑いしか出てこない。

 そのまま、エレンの着ていたスウェットを抱えて部屋を出ようと動く。そこに。

 

「ん?」

 

 どこからか、微かに風が吹き込むのを感じた。足元を通り抜けた冷たい空気に首を傾げ、部屋を見回す。

 視線が部屋の奥、ベッドの上にある窓で止まった。

 換気のために開けた覚えはないのだが、窓ガラスが数センチほど開き、そこから明け方の冷たい空気が流れ込んでいる。

 

「閉め忘れていたかな?」

 

 スウェットを片手に持ったままベッドへ踏み入る。窓を開けて外の空気を取り込もうとした──その瞬間。

 

「おはようございます、『パエトーン』様」

「うぉっ!?」

 

 思わず、情けない声が喉から飛び出した。

 僕の部屋は2階にある。窓の外は当然ながら空中で、足場になるようなベランダや庇は存在しない。

 だが、開け放った窓のすぐ外。

 垂直な外壁に、紫色の傘を差したフリルスカートの少女が、まるで重力を無視した虫のようにペタリと張り付いていたのだ。

 新エリー都を騒がせる怪盗団『モッキンバード』のメンバーにして、僕らの──パエトーンの狂信的なファン。ビビアンだ。

 

「ビ、ビビアン……? 君、こんな朝早くから、しかもこんなところで何をしてるんだい……?」

 

 スカートに仕込まれた推進装置を使っているのか、あるいは怪盗七つ道具とか言い出すのか。どちらにせよ、2階の垂直な外壁に張り付き続けるなど、並大抵の根性でできることではない。

 感心する気持ちが半分。そして、また僕の寝顔(今日は徹夜していたから起きていたが)を盗撮、あるいは観察しに来たのかという呆れが半分。

 そして何より。今さっきまで、この部屋にはエレンがいた。

 着替えの様子も、僕との会話も、この距離で張り付いていたのなら見聞きされてたのだろう。

 

「パエトーン様のお目覚めに合わせて、モーニングコールをして差し上げるつもりだったのです……。鳥は愛を運び、朝の光と共にあなた様の元へ馳せ参じる……。ですが、いらぬ小鳥が先に囀っていたようですわね」

 

 ビビアンの瞳は、どこか焦点が合っていないように虚空を見つめ、ハイライトが消えていた。

 その声はか細く、丁寧な口調でありながら、隠しきれない情念と微かな殺意のようなものが滲み出ている。

 

「ええと、ビビアン。君が僕を気にかけてくれるのはありがたいんだけど……」

 

 努めて平静を装い、優しい声色を作る努力をする。図らずも女性に慣れるようになったつもりでも、そういう瞳は普通にこわい。

 

「こう言っては何だけど、僕にもプライバシーというものがあってね。不法侵入まがいのモーニングコールは、さすがの僕もちょっと困ってしまうんだ。それにここは2階だし、危ないじゃないか」

 

 論理的に、そして彼女の身を案じるふりをして説き伏せようとする。

 しかし、ビビアンの耳には僕の正論など届いていないようだった。

 

「パエトーン様」

 

 僕の言葉を遮り、彼女は壁に張り付いたまま、ぬっと顔を近づけてきた。

 窓枠に置かれた彼女の白い手が、ギリッと音を立てて枠を握りしめている。

 

「――あのベッドでの就寝は、どのように予約をすればよろしいのでしょうか!?」

「……はい?」

「あのように! あなた様と同じ空間で、あなた様の気配を感じながら朝を迎えるという至高の権利! あれは、一体どこでチケットが販売されているのです!? インターノットの裏掲示板ですか!? それとも、何か特別な儀式が必要なのですか!?」

 

 あまりにも想定外の角度からの質問に言葉を失う。そんなものが予約販売されてなるものか。

 

「い、いや、予約とかそういうものじゃなくてね。エレンはたまたま泊まっていっただけで……というか、うちはビデオ屋だから、ビデオ以外は貸し出さないよ」

「それでは、『視聴室』という名目はいかがでしょう!?」

 

 ビビアンは食い下がる。その瞳には、異様なまでの熱が帯びていた。

 

「ビデオを鑑賞するための個室として、あのベッドをお借りするのです! もちろん、一晩中パエトーン様のお傍にいられるというのなら、料金はいくらでもお支払いします! 必要であれば、ビデオ屋の最上級会員へのアップグレードも辞さないのです!!」

「最上級……会員……?」

 

 その単語を聞いた瞬間、脳内で無意識のうちにソロバンが弾き始められた。

 ビデオ屋の経営は、決して火の車というわけではない。だがボンプたちのメンテナンス費用や、システムの維持費、何より金食い虫なのに万能安心のワガママ妖精を養う電気代という名の必要経費を考えると、ディニーはいくらあっても困らないのが現実だ。

 ビビアンのこの様子であれば、掛け持ちしているバイトを増やしてでも桁違いのディニーを落としてくれる可能性は極めて高い。

 視聴室としての深夜貸出プラン。最上級会員費としての特別徴収。

 もし、ビビアンにこの部屋を貸し出すだけでそれだけの利益が得られるのなら。でもそれっていかがわしい商売では? プロキシ業はルール無用だろう。

 プロキシとしての倫理観、ビデオ屋店長としての悲哀、一般常識。三者がそれぞれ心を大きく揺さぶっていく。

 

「う、うーん……視聴室か。それなら、一応ビデオ屋のサービスの一環として説明がつかないこともない、かな……? 年会費としてこれくらいなら……」

 

 顎に手を当てて本気で悩み始めていた、そんな僕を咎めるような快音が響く。

 

「わっ!?」

 

 バン、と。背後から突然伸びてきた白い手が、僕の目の前で勢いよく窓を閉ざした。

 

「……何、朝っぱらから変な女と密会してんの」

 

 振り返ると、そこには不機嫌そうに眉をひそめたエレンがいた。朝食へと呼ぶために再び2階へと戻ってきていたのか。

 

「エ、エレン。これは違うんだ、彼女はただ」

 

 僕が言い訳をする間もなくエレンは僕の腕をガシッと掴み、そしてそのまま強引な力で腕を引いてきた。ベッドのような不安定な足元でそれをやれば、当然バランスを大きく崩す。

 

「うわっ」

 

 あっという間に、ベッドの上に引き倒される。スプリングが大きく軋み、僕の上に制服姿のエレンが覆い被さるような体勢で倒れ込んでくる。

 反射的に立てた膝は両の脚に挟まれ、サメの尾がもう一つの足に絡みつくように重なった。

 

「エレン、急に何を」

「…………リンが朝ご飯作るまで、二度寝するから。大人しくしてて」

 

 僕が慌てて身を起こそうとするが、エレンは僕の胸に顔を埋めたまま、両腕で僕の背中をしっかりとホールドして離さない。

 

「寝るのなら止めないから、僕を巻き込まないでくれ……!」

「うるさい。そっちも徹夜してるんだから、抱き枕になって休んでればいいの。……ほら、あったかい」

 

 エレンの体温が、制服越しに伝わってくる。完全にマウントを取るようなその姿勢は間違いなく、窓の外にいる者への当てつけだった。マウントを取るってそういう意味じゃない。

 

「ちょ、エレン……本当に苦しいから……」

 

 咎める声をいくら上げても彼女は全く気にする素振りを見せず、ただ満足げに目を閉じて僕にすり寄ってくる。

 身動きが取れなくなった僕はベッドに沈み込みながら、視線だけを巡らせる。

 閉ざされた窓ガラスの向こうに、垂直な壁にへばりついたままのビビアン・バンシーがいる。ガラスにベッタリと顔を押し付け、ハイライトの完全に消えた虚無の瞳で、僕たちの様子を食い入るように見つめ続けていた。

 その光景のあまりの恐ろしさに、僕は心の中で静かに助けを求めた。

 

『リン、頼むから早く来てくれ……!』

 

 新エリー都の朝は、今日も今日とてひどく騒がしく幕を開けるのだった。

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