ルミナスクエアの昼下がり。仕入れた映画ソフトが詰まった紙袋を抱えて駐車場に向かっていた僕の足が、ある景色によって止めさせられた。
視線の先は広場の一角。ベンチに腰掛ける見慣れたシルエット。
垂れた黒い尾が規則的に石畳を掃いている、学生服の少女。エレンだ。放課後の帰り道か、あるいは仕事前の寄り道か。
それに寄り添うように立つ人影がひとつあった。
こちらは知らない顔だ。エレンより小柄で、少し明るい茶髪の少女。学生服のような格好だが、制服のデザインが違うからエレンとは別の学校なのだろう。
エレンが路上で話しかけられているのは、そう珍しいことじゃない。
以前にも通りすがりの学生に格好いいと声を掛けられて困惑しているところを見かけたし、メイド服姿で歩いていた時にはコスプレ撮影をせがまれて、怠そうに応じていた事もあった。シリオンの中でもサメは見た目の迫力があるくせに、当人は気怠げで隙が多いのだから、話しかけやすいのかもしれない。
ここは気付かれないように通り過ぎるのが大人の対応だろうか。エレンの交友関係に逐一首を突っ込むのは過保護が過ぎる。
そう思ってはいたが、しかし。
正直なところ、好奇心がくすぐられる。別に如何わしい意味は無い。最近の若者とは一体何を好んでいるのか、流行に棹さす業種を回している身でありながらそれを知る機会は少ない。
サンプルとしてエレンを観察するのは、そう悪い選択ではないはずだ。
紙袋の位置を調整する体で建物の影へ移動し、自然な佇まいを装いつつ耳を澄ませる。
「──先輩って、放課後はいつもこのへんにいるんですか?」
「ん、まぁ。帰り道だし。たまにね」
後輩のような口ぶりの少女の声は高く、少し上擦っている。対してエレンの声はいつも通りの気怠げだ。
「この間も、ここで先輩を見かけたんです。すっごく様になってて、思わず目で追っちゃって……」
「へぇ。それはどーも」
「あの、先輩の尻尾、すごく綺麗ですよね。触ってもいいですか?」
「それはやだ」
にべもない返事。それでも後輩は怯むどころか、ぐいぐいとにじり寄っている気配がする。
「じゃ、じゃあ見てるだけならいいですよね? 先輩のスカートからこう、出てるところ、すごくかっこいいなって」
「なんか変な見方してない? べつにいいけど」
エレンの呆れた声。しかし邪険に追い払う様子はない。面倒だが悪い子じゃなさそうだから適当に相手してやるか、という彼女なりの寛容さが窺える。
僕はほっと息をつき、そろそろ離れようとした。
が。
「先輩の制服、このシャツの質感とか、すごくいいですよね。腕のラインが出てて」
後輩の声色が、微妙に変わった。
さっきまでの弾むような明るさの底に、ぬるりとした粘度が混じっている。
「制服なんか、どこも同じでしょ」
「そんなことないです。先輩が着てるから特別に見えるんです。……ここの、こう、ウエストのくびれのところとか」
「ちょっと、近いって」
隅から頭を出し、様子を窺う。
後輩の少女はエレンの隣にぴったりとくっつき、視線がエレンの全身を忙しなく往復している。その目は憧れを通り越した熱を帯びていて、制服の上からエレンの体のラインをなぞるように動いていた。
まぁ、そういうことなのだろう。同性の格好いい先輩に憧れ、それが恋心に変わるのは学生の間では不思議なことじゃない。多様性は尊重されるべきだし、エレンの魅力は僕でも分かる。
「先輩って、運動とかしてます? 脚がすごくきれいで」
「バイトが体力仕事だから」
「すごい……この太ももの張りとか、もう芸術品ですよ」
「は? いや、太ももは別に普通じゃん。太くないし」
「鎖骨のラインとか、もう本当に……はぁ」
だが、この恋心はどうなんだ。ため息の質がまずい方向に突き進んでいる。彼女の視線は芸術鑑賞から逸脱して肉体讃美のフェーズに入っている。あの後輩の視線は美術館で絵画を眺める客のそれではなく、ビュッフェで料理を物色する餓狼のそれだ。
エレンは鋭いクセに鈍い。自分に向けられる好意に関しては特に意識しない。ドロついた今の会話であっても、ただの人懐っこい後輩だと思ってぼんやりと対処しているに違いない。
「あ、そうだ先輩! わたしの家、ここから近いんです。おいしいお菓子がいっぱいあるんですけど、良かったら寄ってきませんか?」
「お菓子?」
エレンの尻尾がピクリと跳ねた。不味い。
「はい! 最近話題のやつとか、限定のやつとか揃えてて。先輩に食べてもらいたくて」
「ふーん……。まぁ、ちょっとくらいなら」
立ち上がりかけるエレン。後輩の顔がぱあっと輝き、その手がエレンの腕に伸びた。腕を組もうとしているらしい。
お菓子で釣って自室に連行。エレンの戦闘力をもってすれば何の心配もないのだが、問題はそこではない。あの後輩が暴走でもすれば、エレンがうっかり過剰防衛で尻尾を振ってしまう可能性がある。被害者が加害者になりかねない。
なによりもっと根本的な、人として見過ごせない何かが腹の底からせり上がってくる。
「――やぁ、エレン」
建物の影から出て、さも今この瞬間に通りかかったかのような顔を作る。演技力にはいささか不安があるが、勢いでなんとかするしかない。
「あれ、アキラ? なんでこんなとこに」
「仕入れの帰りだよ。奇遇だね」
努めて自然に、けれど迷いなく、僕はエレンの手を取った。
立ち上がりかけていた彼女の指に自分の指を滑り込ませ、しっかりと握る。
「丁度いい。ちょっと付き合ってほしいことがあるんだけど、いいかな」
「え? いいけど、なに急に」
エレンは目を丸くしている。
握られた手を振り解く素振りはなかった。むしろ、こちらから手を繋いできたという事実に面食らっているようで、赤い瞳がわずかに揺れた。
「あの……先輩?」
後輩の少女が、エレンの腕を掴もうとしていた手を宙に浮かせたまま固まっていた。戸惑いと、急に現れた男への警戒がない交ぜになった顔をしている。
「急にごめんよ。ちょっと急いでいてね」
にっこりと微笑みかけるのは慣れたものだ。プロキシ業で培った、嘘と友好を兼ね備えた営業スマイル。
「先輩のお知り合い、ですか?」
「まぁ、そんなところ」
エレンが気怠げに答える。
「じゃ。バイバイ」
素っ気なく片手を上げるエレンを引くようにして、僕は足早にその場を離れた。
後ろから恨めしそうな視線が背中に突き刺さるのを感じたが、振り返ることはしなかった。
見晴らしのいい駐車場に向かうのはすこし憚られる――このまま車に連れ込めば、治安局にでも連れ込まれかねない。商業ビルの角を曲がり、二人きりの路地裏へ入って十数メートル。ようやく僕は足を緩めた。
まだ手は繋いだままだ。
「で? 急用ってなに」
エレンが隣を見上げてくる。
咎めるでもなく、怒るでもないのはありがたいが、弁明に苦労しそうだ。その声にはからかいの色が混じっていて、繋がれた手を解こうとする気配は微塵もなかった。
「えっと」
「アキラから手繋いできたの、珍しくない?」
赤い瞳が細まり弧を描く。
勢いで行動してしまったが、大義名分がまったくない。あの後輩が危なっかしかったから、という理由はエレンに説明するには具体性を欠くし、詳細に説明するのはいささか憚られる。
言葉を探す僕の逡巡を、エレンはじっと観察している。分かっていないようで分かっている、あの目。飴を舐めているような笑みを湛えた、据わった上目遣い。
「エレンと少し、話をしたくなってね」
苦し紛れに出た台詞は、本音と言い訳の境界線の上をぎりぎり綱渡りしていた。
「ふーん」
エレンは鼻を鳴らした。それだけだった。追及も、からかいもしない。ただ、繋いだ手の指が、僕の指の隙間に深く絡み直された。
それから五秒ほどの沈黙を経て、エレンが唐突に口を開いた。
「お菓子」
「え?」
「あの子のとこ行ったらお菓子食べられたのに、アキラが連れ出すから食べ損ねたんだけど」
エレンは恨みがましくこちらを見上げ、空いている方の手で腹を指差した。
「責任取ってよ。ファミレスでも入ろ」
「……はいはい」
溜め息混じりに応じると、エレンは満足げに頷き、僕の腕にぶら下がるように体重を預けてきた。
ルミナスクエアの雑踏の中を、二人分の足音と一本の尻尾が進んでいく。
紙袋を片腕で抱えるのは少し大変だったが、反対の手を離す選択肢は、今の僕には存在しなかった。