どれだけ長く唇を重ねていても、酸素よりも先に理性が尽きていく。
エレンは名残を惜しむように音を立てて唇を離すと、まだ呼吸の整わないアキラの手首を掴んだ。
「こっち」
「え、ちょっと、エレン? 靴くらい脱がせて──」
「歩きながら脱げば」
問答無用で廊下を引きずっていく。アキラは器用に片足ずつ跳ねながら靴を脱ぎ捨て、なんとかついてきた。散らかしてごめんと言っていた気がする。彼のそういう妙な律儀さも、今夜は全部愛おしさに変換されてしまう。重症だ、と頭の隅で他人事のように思うものの、嫌とは思わない。
自室の扉を開け、ほとんど突き飛ばすようにしてアキラを中へ押し込む。尻尾が扉を後ろ手に閉めた。ばたん、という音が、二人きりの空間の完成を告げる。
冷え切っていたはずの部屋を少しも寒いと感じなかった。エレンはベッドの縁に腰を下ろし、目の前に立ち尽くしているアキラを見上げ、隣のシーツをぽんぽんと叩いた。
「座って」
「……お邪魔します」
アキラの肩はわずかに強張ったものの、それでも彼は逆らわず言われた通りにエレンの隣へ腰を下ろす。スプリングが軋み、マットレスが二人分の重みで沈んで、エレンの体が自然と彼の方へ傾いた。
傾いたなら、もう、預けてしまえばいい。
「……ん」
エレンはアキラの肩に頭をもたれさせ、同時に尻尾を彼の背中から腰へと回した。逃さないようにというよりは、ここにいると確かめるように。
自分の象徴たるものの内側で、彼の体温がある。脈打っている。土と汗と、夜の匂い。ボンプ越しには決して届かなかった、本物の匂いだ。
エレンの手が、無意識にアキラの太ももの上に置かれる。
ズボンの布地越しに、硬い筋肉の感触。指先でなぞり、掌で撫でる。付け根から膝へ、膝から付け根へ。何度も、何度も。
「え、エレン?」
「なに」
「いや。なんでも、ないです」
アキラの声が上擦っている。エレンは答えの代わりに、もう一度ゆっくりと掌を滑らせた。
頭の中は、もう一つのことしか考えられなくなっていた。
アキラと一つになりたい。温もりを確かめるとか、無事を喜ぶとか、そういう殊勝な段階はとっくに通り過ぎた。この体の全部で、彼の全部を確かめたい。それだけが、感情を行ったり来たりさせられた今日一日の、唯一の正解に思えた。
──ふと、脈絡もなく思い出す。
あれは確か、年越し前最後のテストが終わった頃の昼休みだったろうか。教室の隅でクラスメートの女子数人が一冊の雑誌を囲んで、きゃあきゃあと騒いでいた姿があった。凛やルビー、モナたちではない。ただクラスが同じというだけの、名前と顔がぼんやり一致する程度の子たちだ。
「見て見て、これこれ。『恋人にもらってうれしい誕生日プレゼント特集』だって」
「ランキングじゃん。えー、下から読んでみてよ」
興味はなかったが、机に突っ伏して休息を貪るエレンの耳に、その読み上げは勝手に流れ込んできた。
ランキングの下位は夢のない現実が並んでいた。ディニー。金券。サブスクの年間パス。「即物的すぎ」「彼氏が財布でしかない」と笑い声が上がる。
順位が上がるにつれて、内容は華やいでいく。専用にカスタマイズされたボンプ。夜景の見えるレストランでのディナー。ペアのアクセサリー。そのあたりで教室の一角の温度は一、二度上がった。
「で、栄えある第一位は──『二人っきりの、甘いひと時』!」
「きゃー!」
「何それずるい! プレゼントですらないじゃん!」
「いーじゃんいーじゃん、やっぱこれが一番なの! あーあ、あたしも彼氏欲しい! 誕生日はベッドで彼におねだりしたーい!」
黄色い悲鳴が弾けて、廊下から教師に窘められるまで騒ぎは続いた。
当時のエレンは机に伏せた腕の中で、ひっそりとほくそ笑んでいた。
悪いけど、こっちには彼氏がいるし。
しかも、あんたたちが夢見るような「おねだり」なんて必要ない。あの人誑しのことだ、こちらが何も言わずとも、勝手に甘いひと時とやらを用意して、これでもかと愛してくるに決まっている。根拠なんてどこにもないのに、その確信だけは揺るがなかった。
その上で、こうも思っていたのだ。
──そんなひと時が一位とか、変なの。
恋人同士なら、そういうことはいつだって出来る。わざわざ誕生日の枠を使う意味が分からない。せっかくの誕生日プレゼントなら、おいしいものを胃袋の限界まで奢ってもらうとか、あるいはみんなで豪華なケーキを囲むとか、そういう方がよっぽど嬉しいのに。形の残らない「ひと時」なんかに一位を明け渡すなんて、世の恋人たちは燃費が悪すぎる。
そう思っていた。
「……はぁ」
過去の自分の首を絞めたい。
いつだって出来る? どこの誰の話だ。区境を跨がれて、ホロウに阻まれて、電話一本で今日という日が丸ごと空白になりかけた。いつでも会える保証なんて、この街のどこを探したってありはしない。
そして今、その空白が埋まった途端に思い知らされている。
アキラと愛し合う時間に自分がどれほど飢えていたのか。それがどれほど待ち遠しいものだったのか。
こうして隣にいて、肩に触れて、太ももの感触を確かめている。たったそれだけのことが、どんなご馳走よりも嬉しい。腹の底から満たされて、それなのにもっと欲しくなる。愛おしさが呼吸のたびに濃くなっていく。
ランキング一位というのは間違いない。あの雑誌は正しかった。世の恋人たちに、心の中でだけ深く謝罪した。
「……アキラ」
「は、はいっ」
返事が硬い。さっきから、アキラはおかしなほど動かなかった。
肩を貸したまま、膝の上の手の蹂躙を許したまま、置物のようにじっとしている。呼吸だけが浅く、速い。
怒っているのではない。それくらいは分かる。緊張だろうか。このビデオ屋のプレイボーイが?
横目で盗み見た彼の耳は暗がりでも分かるほど赤く染まっていて、喉仏が時折、言い訳を飲み込むように上下していた。
興奮している。それを、必死に抑え込んでいる。そういう風にエレンは解釈した。
本人はどう思っているか分からないが、アキラは結構分かりやすい。我慢が利いて強がりはするものの、芯にあるものは至って健全だ。
時々自罰的なのはその普通さと境遇の摩擦だろうか、とエレンは思うものの、そこはどうでもいい。誰にでも触れられたくない逆立った鱗はある。
とにかく。そういうアキラは興奮していると、多少なりこちらにモーションを掛けてくる。たとえばこちらになにかして欲しいか聞いてきたり、ボディタッチを返してきたり。色々言っていてもこれも男だ。喜ばしい。
それが動いてこない。
大方、興奮したサメのシリオンを下手に刺激したらどうなるか分からない、とでも考えているのだろう。野生動物への対処法か何かと勘違いしていそうな慎重さだった。プロキシとしての判断力とやらをこんなところで発揮しないでほしい。
けれど。
その、じっと動かない態度が。
据えられた膳のような無防備さが。
エレンの中で、ひとつの考えをすくすくと育てていた。
──これ、襲っていいんじゃない?
尻尾の先が、シーツの上でゆらりと持ち上がる。
だって、動かないのが悪い。抵抗しないのが悪い。こんな夜にまで紳士でいようとするのが、一番悪い。
舌先でちろりと唇を湿らせて、獲物を映した赤い瞳を細めた。
巻き付けていた尻尾を、するりとほどく。
拘束が解けたことにアキラが戸惑いの気配を見せるのを尻目に、エレンは立ち上がった。一歩、二歩。ベッドに腰掛けたままのアキラの正面へと回り込む。
見下ろす格好になる。前髪の隙間から、アキラの目がエレンを見上げていた。観念と、期待と、それでもまだ理性にしがみつこうとする往生際の悪さが同居した目。
いい目してるじゃん。
「アキラ」
名前を呼んで、エレンは彼の両肩に手を置いた。
そのまま、体重を掛ける。
押し倒すという行為にしては、あまりに手応えがなかった。アキラは声も上げず、逆らいもせず、糸の切れた人形のように背中からシーツへと沈んでいく。ある程度は覚悟していたのだろう。受け身すら取らない潔さだった。
スプリングが大きく軋んで、跳ねて、静まる。
組み敷いた男は、暗がりの中でエレンだけを見ていた。
「抵抗、しないんだ」
「⋯⋯した方が良かった?」
「ばか。減点」
殊勝な態度がたまらなかった。エレンは吸い寄せられるように顔を落とし、アキラの唇に口づけた。
玄関での時とは違う。噛み付くのでも奪うのでもない、啄むような軽いキス。触れて、離れて、角度を変えてまた触れる。何度も、何度も。鼻先で撫で合うみたいなキスを重ねるたび、アキラの唇が微かに追いかけてくるのが分かって、そのいじらしさにまた一つ落としたくなる。
キスの雨を降らせながら、エレンはアキラの腰の上に跨った。
膝でマットレスを挟み、体を伏せて上半身をぴったりと重ねる。冬服の布地が二枚、間に挟まっているのがもどかしい。それでも押し付け合った胸の奥から、呼び交わすような鼓動はちゃんと伝わってきた。
速い。
どっちのものか分からないくらい、同じ速さで、二つの心臓が鳴っている。
言葉はいらなかった。重なる唇の熱で、絡む視線で、震える指先で、愛情と興奮が溢れて混ざり合っていくのが分かる。ボンプ越しの信号なんかじゃない。生の、剥き出しの、アキラだ。
「ぷは」
息継ぎをするように、唇だけが離れた。
鼻先が触れ合う距離で、荒い呼吸が交差する。
「エレン⋯⋯」
息も絶え絶えに、アキラが名前を呼んだ。
ん、と応じながらエレンは顔の位置をずらし、彼の耳朶を唇だけでやわく挟んだ。
「ぅっ……!?」
びくん、と組み敷いた体が跳ねる。跨った腰の下で、面白いくらいに素直な反応。エレンは唇に挟んだまま、返事の続きを促すように、はむ、とまた食んだ。
「ちょ、エレン、待った、話が……っ」
「聞いてるって。……で?」
「……その」
アキラは一度、大きく息を吸った。理性の残りをかき集めるような間があって、観念した声が落ちてくる。
「そういうことを、したいなら……止めないから。その前に、せめてシャワーに行かせてくれないか。ホロウを抜けてきた直後なんだ。汚れや、汗だって……こんな状態で、エレンに触れるのは」
止めないから。その一言が、エレンの胸の真ん中にとぷんと落ちて、甘く波紋を広げた。
受け入れてもらえている。拒まれていない。今夜の飢えごと、全部。喜びが胸郭の内側で膨らんで、尻尾の先までじんわりと痺れていく。
同時に、小さな異議が心の隅で手を挙げていた。
止めないから、って言う割には。シャワーに行っている間、触れ合えないじゃん。
この期に及んで数分とはいえお預けを食らわせようとするあたり、この男は本当に分かっていない。どれだけの空白を耐えたと思っているのか。
なら一緒にシャワーに行くか、という考えも一瞬よぎった。それはそれで悪くないが、今この瞬間の密着を、ほんのわずかでも手放すのが惜しい。脱衣所までの数メートルすら遠い。体を離して、服を脱いで、お湯が温まるのを待つ。その全部の工程が、今のエレンには耐え難い空白の再来に思えた。
どうしたものか。思考を巡らせて、ふと名案が頭の中でぴこんと音を立てた。
エレンは愛撫していた耳朶から、ゆっくりと唇を離す。ほっとしたように緩みかけたアキラの体に、しかし逃げる暇は与えない。
代わりに、出した舌先を耳の裏へと押し当てた。
「えあっ」
そのまま、つう、と。
耳から顎の裏、首筋へと、熱い舌がなぞり下りていく。汗の塩気と、微かな土埃の味。自分のためにここまで来た男の味だ。まずいわけがなかった。
シャツの襟元を指で押し広げ、鎖骨の窪みまでくすぐるように舐め上げる。アキラの喉から、声にならない呼吸が漏れた。
「エレン、なに、を……」
「ん──⋯⋯分かんない?」
エレンは鎖骨に唇を触れさせたまま、上目遣いに見上げる。口元が緩んでいたかもしれない。
「こうやって舐めてあげれば、お風呂で洗う必要なんて無いでしょ」
「理屈がおかしい……!」
抗議は聞こえないものとした。月夜の魔物は恐ろしいのだ。
首筋から鎖骨へと滑り落ちたエレンの舌先は、獲物の急所を探り当てるかのように、ゆっくりとアキラの肌を這い回った。
●あなたのサークル「解水堂」は、コミックマーケット108で「土曜日 西地区 “へ”ブロック-45b (西1ホール)」に配置されました!
そういうわけでまたコミケに行きます。
リモートシャーク~クレジットシャークまでの範囲を加筆編集エロ追加した版になります。
また近付いてきたら告知がてら更新出来たらいいな。どうぞよろしく。