瞼の裏がぼんやりと赤い。
頬に触れているのは、ひやりとした硬い感触。木目調の、テーブルの天板だ。
「……ん」
重い頭を持ち上げた。突っ伏していた腕の跡がおでこに食い込んで、じんと痺れている。
半分ほど寝ぼけたまま辺りを見回して、ようやく自分がどこにいるのか思い出した。
喫茶店、COFF CAFE、そのルミナスクエア店の、二階のテラス席。ヴィクトリア家政の業務を片付けて、帰りに一服してから帰ろう。そう思って腰を下ろしたはずだった。
飲みかけのアイスティーは氷がすっかり溶けきって、グラスの表面に水滴が伝っている。
どうやら、そのまま眠りこけてしまったらしい。
「最っ悪」
毒づいてから、大きく伸びをする。スカートの下、サメの尻尾が寝起きの猫のようにぐぅと張ってぱたりと床に落ちた。
いつの間にか、辺りはすっかり暗い。テラスの手すりの向こうに臨む川は、ホロウの極彩色が瞬いている。それはきっと色々な人にとって良くない気持ちを抱かせるが、景色として見るだけなら不思議と悪くはない。
昼間の喧騒とは違う、浮ついた夜の色。仕事終わりの気怠さで、時間の感覚がまるごと溶けてしまっていたようだ。
夜風が首筋を撫でていく。それが思ったよりも冷たいくて、むき出しの二の腕に鳥肌が立つ。
夏も盛りになった頃だろうに、少し面白くない。
一階の店舗は、二階のテラスよりもいくらか暖かかった。
カウンターの奥には磨き上げられた金属のボディに柔らかな照明を反射させて、マスター・ティンが静かに佇んでいる。
無駄のない、それでいてどこか茶目っ気を感じさせる所作で、彼はエレンの来店を迎えた。
「いらっしゃいませ。よくお休みでしたね、お客様。お起こしするべきか迷いましたが、あまりに気持ちよさそうでしたので」
「……見てたんだ」
「それはもう、営業中ですので。眠気覚ましに何かお持ちしましょうか」
責めるでも茶化すでもない言葉だが、エレンはばつが悪くなって視線を逸らした。
メニューボードを見上げる。知らず冷えた体が、欲しいものを選ばせる。
「ココアのあったかいの。持ち帰りで」
「かしこまりました。今の時期でも夜は冷えますから、どうぞお気をつけて」
程なくして差し出された紙カップは、両手に包むとじんわりと熱を伝えてきた。
ちびちびとココアを啜りながら、ルミナスクエアの夜道を歩く。
暦の上ではもう夏のはずだ。それなのに、日差しの一つも無くなった途端に寒気まで覚えてしまう。
昼はあんなに汗ばむくらいだったのに、温度というやつはいつだって勝手だ。こっちの都合なんてお構いなしに、あるべきものをさっと引っ込めてしまう。
ひどく理不尽に思えて。残っていたココアをぐいと一息に呷る。喉を焼くような甘い熱が、胃の底に落ちていく。
「……全然、足りない」
こんな紙カップ一杯分の温もりじゃ、まるで足しにならない。
空になったカップを握り潰しながら周囲を見やる。いっそ、腹の底から温まるものが欲しい。多少太ったところでホロウで暴れれば帳消しだ。夜食にラーメンでもどうだろう。六分街の滝湯谷で、たまには激辛だって悪くない。そういえばルミナにも兄弟店だかがあったはず。
そんなことを考えながら、ふと横道に視線を投げた、その時だった。
「──…………あれ」
見慣れた人影が、そこにいた。
街灯の下でぺたんと力尽きたように倒れ込んだ一機のボンプ。その点検パネルを開いて、屈み込み、何やら細かい作業に没頭している男。
アキラだ。
なんで、こんなところで。問いかけようとした声を咄嗟に飲み込み、代わりに電柱の陰へするりと身を滑り込ませる。
別に深い理由はない。ただなんとなく、声を掛けるより先に、あいつが何をしているのか見てみたくなっただけだ。ゆらりと揺れた自分の尻尾の直感に従ってみよう。
「ンナ……ンナナ」
「おっと、痛かったかな。もう少しだけ我慢して。すぐ直るから」
弱々しく鳴くボンプに、アキラは穏やかな声で応じている。工具を手に露出した配線を一本ずつ丁寧に確かめ、繋ぎ直していく。その手つきは丁寧だが、どこか試行錯誤しているようにも見える。
本業はプロキシで、ボンプの整備は専門じゃないはずなのに、それでも指先はどこまでも辛抱強かった。
「ンナナナ、ンナ?」
「大丈夫だ。あと三分くらいで終わるさ」
今向き合っているボンプとは違う鳴き声が聞こえ、それにアキラが応じた。
そこでようやく気付く。アキラが向き合っているボンプの、後ろ。一機、二機。いや、もっと。
順番を待つように、何機ものボンプがずらりと列を成して並んでいるのだ。まるで診療所の待合室のようだ。
どうやら、どこからか壊れたボンプが噂を聞きつけて集まってきたらしい。わざわざ路上でこれを散らさずにいるなんて、お人好しにもほどがある。
エレンが呆れ半分でその列を眺めていると、後方の一機に目が留まった。
紙袋をすっぽりと頭から被ったタイプのボンプだ。くり抜かれた穴からは電光パネルの目が赤く、怪しく明滅している。
そして、その手に握られているのはよく研がれた包丁。
「うわ」
思わず漏れた声を手のひらで抑える。
なんだあれは。戦闘タイプのボンプまでいるなんて、暴走でもしてしてみればどうなるか分かったものじゃない。思わず肩に力が籠る。
もしあの物騒なボンプが少しでもおかしな動きを見せたら、その時はいつもの得物、まではしなくとも、尻尾の一薙ぎで叩き伏せてやる。
けれど、当のアキラときたら。
「はい、次。……おや、君はなかなか年季の入った子だね。その包丁、研ぎ直し先の紹介が要るかな」
「ンナ! ンナナ!」
警戒の欠片もない。ぎょっとするような風体のボンプにさえ、まるで馴染みの客をあしらうように、にこやかに応じている。
本当に危なっかしい。いつか刺されるのではないか。
結局、その列が捌けるまでたっぷり一時間はかかった。
交換パーツの手配先を紹介し、配線を繋ぎ、緩んだネジを締め直し、最後の一機がワタンナと嬉しそうに跳ねて去っていくのを見送るアキラ。
じっと見ている内に、ココアからもらった熱はとっくに冷めきっている。だが不思議と、寒さはもう気にならなかった。
最後のボンプが夜の街へ消えると、アキラはふぅと息をつき、凝った肩を回すのが見えた。
無防備に晒された、その背中。それを見せたままだとどうなるか、実際に味わってもらおう。
隠れていたところから音を立てずに抜け出し、猫が獲物に忍び寄るのを思い浮かべながら一歩、また一歩と距離を詰める。
そして、あと一歩の距離まで近づいて。
「わっ」
「うわぁっ!?」
耳元で低く囁いてやると、アキラは文字通り飛び上がった。工具を取り落としそうになりながら勢いよく振り返り、そこに立っているエレンを見て、心底ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「エ、エレン……。びっくりした。心臓に悪いな、もう」
「お疲れ」
狼狽えるアキラを見下ろして、ようやく溜飲が下がるというもの。スカートのポケットからいつも常備している棒付きの飴を一本、取り出す。
「ほら。がんばったご褒美」
「……ありがとう。いただくよ」
苦笑いを浮かべながら、アキラは素直にそれを受け取った。
油のような、煤のような汚れが付いたその手。一仕事終えた直後なのだから当然なのだけど、いつもの色素の薄いアキラの手とはまた違う。あちこち細かい擦り傷切り傷もありそうだ。
「エレンの飴を貰うのも久しぶりな気がするよ」
汚れた手のまま飴の包装を解いたアキラ。口へとやったその隙に、その手を両手でつかみ取る。
「おっと……エレン?」
飴を咥えたまま、アキラが目を丸くする。指をぴくぴくと動かすのがどうしたのかと聞いているようだが、答える気にはなれない。
ただ、少し冷たくて、汚れて傷だらけのその手を、自分の両の手のひらでそっと挟み込む。指の一本一本を確かめるように、包んで、擦って、じわじわと残っていた自分の熱を移していく。
夜遅くにわざわざボンプに尽くして、すっかり冷えきったその手を。
「ええと。汚れがついてしまうから、また後にしておかないかな」
「いいの。別に」
きっと困った表情を浮かべているその顔から目を逸らし、じっと手を見る。確かに手触りは良くない。柔らかいのはいつも通りだけど、がさついているし滑る部分もあって心地よくはない。
冷えたその手が少しずつ、自分の体温を吸って温もっていくのが分かる。
紙カップ一杯のココアじゃ足りなかったくせに。ラーメンで腹の底から温まろうなんて考えてたくせに。
「……エレン」
「なに」
「うん。……ありがとう」
なんで見てたのとも、いつからいたのとも余計なことは何も聞かず、ただ静かにされるがままになって、アキラは小さくそう言った。
その声があんまり優しかったものだから、尻尾が勝手にぱたりと一度、夜の路面を叩いた。
包んだ手のひらの奥。りんご味の甘い匂いに混じって、油と、金属と、ほんの少しの夜の匂い。
温め終わるまでは離してやらない。
ラーメンは、その後でいい。