人生ドロップアウトTS娘は今日も飯を食う 作:てぬてぬ@TSF
「おっとと」
予想外の跳ね方をしたボールを取り損ね、俺はアパートの壁に当たった所をグローブで捉えた。うーん、庭は別に整地されているわけでもないので、バウンドする方向が予測し辛い。その分キャッチの反射神経を鍛えられるのでよしとしよう。
アパートの庭。曇り空の下で、俺は塀を利用した壁当てでキャッチの練習をしていた。少しずつ感覚は取り戻せているけど、部活で扱かれていた頃に比べたらまだまだだ。さっきの予想外なバウンドも全盛期だったら簡単にキャッチ出来ていたはず。
いや、そう簡単な話でもないか。そもそも手足の長さが違う。筋力はそこまで関係無いが、リーチの差は案外重要だ。まぁ、どれだけミスをしても一人で練習しているだけなので、誰かに迷惑はかけていない。継続することで慣らしていけばいいだろう。
「ふぅっ」
暫く壁当てキャッチを続け、キリの良い所で休憩を挟んだ。曇り空で過ごしやすい気温だけど、汗は流れるし息も上がる。タオルで顔を拭ってからボトルの薄めたスポドリに口をつけた。あー、沁みる・・・・・・。運動後の水分は、女性の肉体でも変わらず美味しいんだよな。
さて。後は軽く素振りをして終わらせようか。体幹もブレなくなってきたし、そろそろバッティングセンターにも行ってみたい。アパートの近所には無いが、バスを3、40分乗り継いだ辺りに建っているのは知っていた。今の体でどこまで打てるかは分からないけど物は試しだ。軽快にバットを振りながら、俺は脳内で予定を組み立て始めた。
庭での運動後、シャワーを浴びてからバッティングセンターの詳細を調べてみた俺は愕然とした。どうやら目を付けていた所は改装工事中で、秋の終わり頃まで利用出来ないらしい。出鼻を挫かれてしまい溜め息が出てしまう。
「はぁ、間が悪い・・・・・・いや、最初に調べていなかった俺にも責任があるか」
落ち込みつつも作り置きの寒天ゼリーを口に運ぶ。冷たくて美味しい。今回はみかんの缶詰を入れてあって、プチプチした食感も楽しめた。とはいえどうしよう。他に近場のバッティングセンターは・・・・・・無さそうだ。
更に範囲を広げて調べると、かなり離れた場所に別のバッティングセンターを発見した。電車に乗らないといけない程の距離だ。うーん、こうなるとちょっと躊躇っちゃうな。近場のバッティングセンターの工事が終わるのを待つか。いやでも、年末近くまでお預けは・・・・・・。
うんうん悩みながらも結論は出ない。無駄な時間を浪費している内に日が傾き始めてしまった。おっと、そろそろ夕飯の準備をしないと。気持ちを切り替え、スマホを充電器に繋いだ後立ち上がる。前みたいに考え込んで自炊をすっぽかすわけにはいかないからな。
「よし」
さて。今晩作る料理はもう決めていた。先日偶然ネットで見かけた時に食べてみたいと思い、昨日の内に材料を揃えておいたのだ。その名も生春巻き。ベトナムで親しまれている家庭料理らしい。
まずはきゅうりとニンジンを千切りに、ニラは適当な長さに切っていく。サニーレタスは手で千切って程良い大きさに。事前に解凍しておいたチルドの茹でエビは半分にカットした。これで包丁を使う作業は終了。次はソース作りだ。
このソースが結構独特で、味噌とピーナッツバターをベースにしている。味噌はまぁ分かるけど、ピーナッツって生春巻きと合うんだろうか。まぁ初めてだしレシピ通りにやってみよう。
小さめの鍋に水を少量入れ、さっと沸かす。そこに赤味噌、ピーナッツバターを加えて混ぜ合わせた。全体が溶けたら甜麺醤も投入、再び混ぜる。軽く塩で味を調えて容器に移した。最後に細かく砕いたピーナッツを振りかけて完成だ。
で、次はビーフンを茹でないと。大きめの鍋を用意し、たっぷりと水を張る。そこにビーフンを入れて火にかけた。沸騰したら火を弱め、煮立ち過ぎないようにする。4、5分くらい茹でたらザルに移して水で締めた。ちゃんと冷えたら水気を絞って一旦OK。ここまでは順調だな。
問題はここからである。ライスペーパーというものを水で戻さないといけない。ライスペーパーとは、文字通りお米を原料にした極薄の生地だ。これを透明になるまで水に浸し、柔らかくする必要があった。
ボウルに水を入れて、一枚ずつ浸す。大体20秒くらいで一度取り出し、ちょっと折り目を付けて反発しなかったら成功だ。水気を取った後、さっき切った野菜とエビ、ビーフンに少量のパクチーを乗せてくるっと巻いた。左右の部分を内側に折り畳みつつ形を整え、生春巻きの完成だ。
これを具材が無くなるまで繰り返す。気付けば、11個の生春巻きが形になっていた。思ってたよりも数が多いな。それでもライスペーパーは余っているので、今度別の料理に使ってみよう。それはそれとして生春巻きが乗った大皿とソースの入った容器をちゃぶ台に運び、腰を下ろして手を合わせた。
「いただきます」
生春巻きの一つを手に取ってソースにディップする。具材を多めにしたから一口では厳しそうだ。とりあえずかぶりついてみると、ソースの独特な風味が口内に広がった。野菜とエビ、そして砕いたピーナッツの食感が咀嚼していて楽しい。心配だったソースも具材によく絡んでマッチしている。
そして、少量だけ混ぜたパクチー。このエスニックな香りも実は好みだった。偏見かもしれないけど、いかにもベトナムっぽい感じがする。それらがライスペーパーでぐるりとまとめられて、とても美味しい料理に仕上がっていた。
後はビーフンだな。これが白米の代わりになっていて、食べ応えも十分だ。こうなるとちょっと作り過ぎたかもしれない。一個目の残りを噛んで飲み込む。あと十個か・・・・・・。
が。そんな心配も杞憂だった。運動を始めてから増大している俺の食欲は、大量の生春巻きを次々と平らげていく。というかソースと具材の風味がいい。食欲が更に加速し、いくらでも食べられそうだ。
「ごちそうさまでした」
11個の生春巻きを食べ切り、俺は何も乗っていない皿に向けて手を合わせた。いやぁ、美味しかった。流石にお腹が苦しいけど案外いけるもんだな。思っていたよりも簡単に作れたし、また今度具材を変えて試してもいいかもしれない。
洗い物も楽だ。お湯は沸かしたけど油とかは使わなかったからな。ぱっぱと終わらせて寝間着に着替えると、俺はスマホを操作してプロ野球中継を映した。さっきまで悩んでいたバッティングセンターの件が脳裏をよぎるけど、今は気にしなくてもいいだろう。
食後の時間は穏やかに過ぎていく。プロ選手のプレーを見ながら、のんびりとした気分を味わい始めた。
生春巻き、人生で片手で数えられる回数しか食べたことがありません。作る工程も楽しいんですよね。