Sin and Punishment:Skyscraper   作:アイダカズキ

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展望台からの眺め3:過去は消えない

「……誰か来たよ、先生」

 書棚から分厚い医学書を一冊取り上げてしかめっ面でぱらぱらめくっていた少年が顔を上げる。島の子らしく、顔も、半袖半ズボンから覗くすんなりとした手足も、よく日に焼けたいかにも敏捷そうな少年だったが、にも関わらず幼くして文字の魔に取り憑かれているらしい。かつての自分がそうだったように。

 言われるまでもなく、彼は来客の存在を感じ取っていた。しかも招かれざる、という形容詞のつく類の客をだ。

「今日はもう帰りなさい。それから、お父さんやお母さんにも伝えるんだ。何があっても家から出てはいけない、と。何があってもだ。いいね?」

 そう言いながら、彼は若い頃に読んだ本の一節を思い出していた。ロマとともに一定期間、暮らしを共にしたジャーナリストの手記だった。いいところにお住まいですね、と言う著者にロマの老人は笑って言う。なあに、この小高い丘の上なら、麓の村人たちが焼き討ちに来た時によく見えるからね。

「先生……本当に大丈夫なの?」少年は顔を曇らせる。「まさか拳銃でやり合ったりしないよね? 皆噂してるよ。先生は拳銃を隠し持ってるんじゃないかって」

「それこそまさか、だ」苦笑いするしかない。「私は拳銃どころか、格闘技の心得さえないよ。さ、もう行きなさい。くれぐれも早まらないように。お客様を()()()()で狙い撃つなんてもっての他だ……私の時のようにね」

 わかってるよ、と口を尖らせて少年は書棚へ医学書を元の位置に押し込める。一度だけ振り返り──そして診療所の裏口から素早く姿を消した。いつものように。

 刺客が怖くないわけではない。若い頃から、暴力沙汰は苦手だ。だがこの島での暮らしをかなぐり捨てて行く当てもなく逃げ出すのは、銃やナイフを手にした刺客と真正面からやり合うのと同じくらい馬鹿げている。心配はただ一つ、島の人々に害が及ばないかだけだ。

 診療所の入り口に誰かが立った。男のものにしてはずいぶんと軽い足音だと思った。

「ご無沙汰しております。相良(さがら)浩一(こういち)先生」

 入り口で非の打ち所がない一礼をしたのは、彼がよく知る顔だった。

 金髪にターコイズ・ブルーの瞳。ファッション誌から抜け出てきたような美しい娘だったが、下手をするとネイティブより流暢な日本語と相まって、どこか作り物めいた印象を受けた。

「……君は」

「はい。今はアンジェリカ、と名乗っております」

 自分でも口元が歪むのがわかった。「君が刺客とは、さすがに予想外だったよ」

「刺客?」アンジェリカもまた、口元をおかしそうに綻ばせた。「我が主がその気になれば、相良先生が今頃口を聞いたりなさりません」

 その通りだ。初めから勝ち目がないどころか、勝負にすらならないとわかっていた。

「入りたまえ。茶の一杯は出そう」

 言葉通り、彼はアンジェリカを招き入れると冷蔵庫から作り置きの麦茶を出してコップに注ぎ、ついでに自らの分も注いだ。どのみちこの診療所ではそれ以上のもてなしはできなかった。

「どうせ〈竜殺し〉も、私が知っていたものよりはアップデートを重ねているんだろう?」初めから決定づけられている勝負ならなおのこと──少しでも情報を相手から引き出すしかない。「『何たらの冠計画』とやらから名前は変わったのか?」

「〈茨の冠(クラウンオブソーンズ)〉計画。相良先生がご存知のものから変えてはいません」

「……何一つ変えるつもりはないのだな。()()()()は」

 呼び捨てにされたその名に、アンジェリカはわずかに視線を上げた。

「君の主とやらは、今でも何一つ懲りていないらしいな」

 アンジェリカは麦茶入りのコップを手に取ったが、飲むためではなくコップの冷たさと感触を指先で楽しんでいるように見えた。

「それは相良先生が高を括っているだけでしょう。陛下が何かを諦めたことは、今まで何一つないのです」

「大した悲願だ」彼は吐き捨てる。「お前の息子を地の果てまで追いかけ回して殺す、と宣言することが何かの礼儀と思っているなら、そいつはまともじゃない」

 アンジェリカの完璧な曲線を描く唇に憫笑が浮かんだ。これを笑みというならなら笑みなど見たくないとさえ思える、恐ろしく意地の悪い憫笑だった。

「むしろ礼儀として、あの方はここに私を遣わしたのです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その言葉に込められたおぞましさに顔をしかめた。が、目の前の娘の笑顔は消えてなくなりはしない。

「〈茨の冠〉計画はまもなく発動します。HW──いくらでも量産・交換・アップデートが可能な人造兵士の量産技術と、あらゆる犯罪を未然に防ぐ犯罪予測システムは既に全世界で稼働中です。この変化は不可逆的なものであり、計画の発動を妨げるものは存在しません。ごく少数の聡い者たちはそれに気づいていますが……気づいたところで、もう手遅れです。加えて私どもは〈バビロン〉の確保に成功しました。〈茨の冠〉発動に必要不可欠な最後の部品(パーツ)を、です」

 その名を聞いて無関心を装うことだけはできなかった。

「瀬川のお嬢さんも巻き込んだのか……!」

 まるで宥めるように彼女は首を振った。年長者に対する態度ではない。「巻き込む、なんて。そもそも相良龍一も瀬川夏姫も、言わば母胎を同じくする兄妹なのです。同じ〈竜〉を母胎とする、ね。彼ら彼女らが〈竜〉を巡る戦いに身を投じていくのは、むしろ不可避の選択だったのでしょう。いずれも自分の意志で選んだ結果だと思っているのでしょうが……まあ、事実はどうあれ、そう思っていた方が幸せではありますね。少なくとも、人としては」

 睨みつけたが、彼女の美貌は涼しげなままだ。

「ヨハネスはそれを告げるためにわざわざ君を?」

「あのお方はそれを告げるためだけに私をここに遣わしました。先生には来るべき時まで、ただ心静かにお待ちいただければ、と」

 彼は麦茶を半分ほど飲み干したが、胃が不愉快に蠕動しただけだった。「つまりは一方的な勝利宣言か」

「滅相もない。陛下はどこまでも無慈悲であり、同時にどこまでも慈悲深い。あなたを排除することは簡単ですが、それは相良龍一を怒り狂わせる以外に何一つメリットがありません。……それに」

 彼女の口の端に、またあの憫笑が浮かび上がる。「気を悪くなさったら申し訳ありませんが、相良先生の今の生き様が何の贖罪となるのですか? 小さいけれどごくごく居心地の良い離れ小島で、住民たちに感謝されながら不自由ない生活をすることが、何の?」

「それに関しては……返す言葉がない」

「私たちは皆、同一の罪を共有しているのです。陛下も、高塔も、〈機関(エンジン)〉も、あなたも、あなたの奥様──失礼、元奥様も。そして当然、あの相良龍一も。たとえ裁かれなかったところで、誰も自分の罪からは逃れられないのです」

 ……龍一。

 

 ──どうだい。()()()()()()()

 病院のベッドの上。汗に濡れ、げっそりとやつれた、それでいて今までに見たことがないほど、嬉しげで誇らしげな彼女の顔を思い出す。そしてその傍らの、小さな頭とくちゃくちゃの顔をした、指先で捻り潰せそうなほど小さな生き物のことを。まるで昨日あった出来事のように。

 ──この子は、君と私の子だよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ヨハネスの目論見も、高塔の爺いの目論見も、〈機関〉の目論見も、何もかもこれでご破産だ。ざまあみろだよ。

 ほら、見て……君に気づいてびっくりしている。まだ目も見えないはずなのに。

 

「一つだけ言っておく」

 彼の口調の変化に気づいたのか、アンジェリカの笑みがやや硬くなった。

「私の息子は犯罪者には違いない。罪は償うべきだ──たとえ一生を費やそうと。だが、それを裁くべきは君の主人ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 一瞬にしてアンジェリカの優美な貌が、獣じみてさえいる憤怒で塗り潰された。手中のコップどころか、この診療所を彼もろとも握り潰しかねない憤怒だった。

 だが即座に、その憤怒は元通りの作り物じみた笑みで覆い隠された。「その言葉を、そっくりそのまま陛下に伝えてもよろしいのですね?」

「好きにしたまえ。さぞかし顔を赤くしてもじもじするんじゃないのかね」

 彼の子なら、そう言ったはずだ。

「承りました」アンジェリカはそう言うと一礼し、静かに戸口から出ていった。麦茶には結局口をつけずじまいだった。

 彼女の気配が完全に消えて、初めて全身からどっと汗が噴き出してきた。自分がどれだけ怯えていたのかを実感せずにはいられなかった。結局、アンジェリカが──そしてあの男が、殺すつもりがなかったから生きている。それだけの話だ。

 龍一、お前はこんな選択を日々強制されているのか? 地の果てのさらに果てまで逃げるか、さもなければ追っ手を殺すか、そんなどう考えても間違えている二者択一を?

 彼は傍らの写真立てを見た。カメラの前で顔を強張らせている、痩せぎすの少年。真新しい、真新しすぎる学生服は身体に合っておらず、服を着ているより着られているように見えた。

「……馬鹿息子が」

 思わず、その言葉が口を突いて出た。「何もかもなくしたんなら、ここへ戻ってくればいいだけの話だろうが」

 それともそんな選択肢は、初めからあの子の思考の端にすら上らなかったのだろうか。あるいは、ただ単に無意味だったからか。

 そうかも知れない。もし息子がここに戻ってきたとして──その時はどうしたのだろう? いずれ確実にやってくるヨハネスの刺客に怯えながら、親子肩寄せ合って日々を過ごすのか。それに気づいたからこそ、妻は──元妻は出ていったのではないのか。

 わからない。わかるはずもない。本人に聞いてもわかるかどうかさえわからない、答えのない問いだ。

 視線を上げる──窓の向こうに広がる大海原、その彼方に暗雲が湧き上がりつつあった。微かに稲光が煌めいているのが見える。黙示録を思わせる、不吉で禍々しい光景だった。まるで蛇のような──あるいは竜のような。

「嵐が来るな……」

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