(4日目)
段々小慣れてきた錠前サオリだ。初日と比べたら手際が良くなっているのだが、早くなった分水槽鑑賞に時間を取ってしまっているから業務時間は全く変わっていない。バイトとしてどうかと思うが、雇い主からは「ちゃんと仕事は終わらせているからそれでいいですよ!」と許可をいただいている。いけないことだが、甘えさせてもらおう。
(無線機の呼び出し音)
「お疲れ様ですバイトさん!今の進捗はどれくらいですか?」
「ん?雇い主か。ちょうど17階に取り掛かろうとしたところだ」
「そうでしたか!そしたら今日は申し訳ないのですが、急ぎで終わらせて欲しいんです。大丈夫ですか?」
「急ぎか!?そ、そうか……了解した………」
……いや何をがっかりしているんだ私は!?確かに17階の水槽を見れなくなるのは残念だが……ううむ………って、いや良くない!雇い主にそう注文されたのだから、文句を言わず手早く終わらせるべきだ、何考えてるんだ私は……。
「……フフッ。残念そうな声、ここまで聞こえてきましたよ?」
「なっ……!?あ、あぁ………すまない。白状すると、17階の水槽を見るのが楽しみになっていたんだ。雇い主から眺めていていい許可を貰えたのが嬉しくて、今日も眺めようと考えていたのだが……いや、甘え過ぎだな、バイトとして恥ずべきことだ。謝罪する」
「いえいえ!そんなに気に入ってくれて私も嬉しいです!フフッ、そんなバイトさんにお聞きしたいのですが……水槽、ホテルの中から見たくないですか?」
「………………詳しく」
つまり雇い主は17階の水槽フロアへ私を案内することにしたらしい。ゴンドラで眺めるのもいいが外は暑いから、たまには涼しい室内で水槽を見て欲しいと言う粋な計らいだ。私は二つ返事で了承した。
その後これまでで1番手早く、だが丁寧に掃除を終わらせて17階へ向かった。普段は夕方までかかる作業も空が青い内に終わらせることができて、これが本来の能率なのかと自分で自分に呆れ果てる。でも楽しみで仕方ない。ああ、ゴンドラが上に行く速度が遅くていじらしい!自動の巻き上げ装置が壊れてるから手回しで装置を動かしているのだが、己の限界まで回しても速度は全然出なくて疲労と乳酸が溜まる一方だ。
そうしてようやっと屋上まで戻ったら片付けもそこそこに私は非常階段へ向かった。エレベーターは現在故障中、高級ホテルのくせにあちこち壊れてるな。下の階に降りるのが煩わしくて屋上と17階の私の客室を往復する日々、客室に入ったら夕飯と身支度を簡単に済ませてすぐに眠っている。初日に観光したいなんて言っていたのに酷い有様だ。
(色々見て回る予定だったんだがな。例えば……そう、柴関ラーメン。是非とも食べてみたい)
シャーレの仕事を手伝っている時、徹夜3日目くらいになると先生が譫言のように「柴関ぃ……柴関ラーメンキメたいなぁ………動脈から」と吐き散らしているのをよく目の当たりにする。ピンク髪の救護騎士団生徒が(誇張抜きで虚空から現れて)無理矢理寝かしつけるまでがセットのその光景……その時に宣っていた柴関ラーメンと言う料理の名前。それがここアビドスにあるのだと思い出したのはつい昨日のことだ。
「________新しいバイトを探してる?だったら柴関ラーメンのお仕事はどうかな?」
「柴関……先生がよく言っている所か」
「うん、言っているし行っている。とっても美味しいんだよ!配達サービスをやってみたいらしくて、そのテスターをしてくれる人を探してるって言ってた。サオリ、興味ある?」
「ああ、ラーメンにも仕事にも。何より先生が紹介してくれた仕事だからな」
「………前の仕事は本当にごめんね。危ない目に遭わせるつもりなんてなかったのに……」
「あれは事故みたいなものだ、先生は悪く無い。むしろ私がいなかったらサヤが1人で行って大変なことになっていたかも知れない。これでよかったんだと思うぞ」
「ありがとう、サオリ……。うん、でも今回は大丈夫だから!」
「こちらこそ感謝する、先生。ああそうだ、便利屋68のあいつらに伝言を頼んでいいか?」
……ゲヘナを出る前に、まだ復興で忙しい先生に別れの挨拶をしに行った。その時の会話を思い出す。水槽を眺める時間を減らして今度行ってみようか、先生オススメなんだからきっと美味しいだろう。中々重労働なこのバイトを頑張るためにもしっかり食べないといけないから…………アルバイト?
「あれ?私の……、次のアルバイトは、柴関ラーメンで………」
先生から紹介されて、早速電話したら採用されて、アルバイトをするためにアビドスに来た。そのアルバイトはどうなった?私はアビドスに来て、それからのことが思い出せない。どうして私はここにいる?確か私は………、
(錆びた扉が開く音)
非常階段の扉が上げた悲鳴にはたと我に帰る。いつの間にか階段を下り終えて17階の扉の前に辿り着いていた。開けた覚えのない扉、開かれた先に笑顔の雇い主がこちらを見ている。……道中の記憶が一切ない。考え事をしてぼーっとしていたか?何を考えていたかは……思い出せない。引っかかる、何か大事なことのような気がして私はその場に立ち止まった。今にもスキップし始めてそうな高揚が打ち消されて頭の中をモヤモヤしたものが支配する。何か大切なことを忘れているようなこの感じ、だがすぐに何でも無い、どうでもいいが塗り潰していく。
「……まあ、いいか」
最終的に口からそんな言葉が漏れ、完全に頭が切り替わった。そんなことより水槽だ、私は扉を潜り抜け、雇い主の前に歩み寄った。
「来ましたねバイトさん!」
「ああ、待たせてしまったか?」
「ちょうど来た所ですよ……って、何だかデートみたいですね。フフッ」
雇い主の笑顔がアビドスの校章に刻まれた太陽の様で眩しい。そう言えば直接会うのは初日ぶりだ。ずっと無線で仕事の報告を済ませてしまっていた。だが毎回の報告の度に雇い主は「見ているから大丈夫」と言っていた。業務中、視線を感じた覚えはない。もしかしたら私の感覚が鈍っているだけかも知れないが、ともかく雇い主はどこかのタイミングで私の様子を見ているのだろう。さすがこのホテルの支配人と言ったところか。
「それじゃあ早速水槽を見ましょうか。この扉の向こうにあるんですよ」
「楽しみだ……って、そこは私の客室じゃないか」
扉に記された番号は確かに私が使わせてもらっている客室のもので間違いない。驚いて指摘すると雇い主は戯けたように笑いドアノブを回した。
「やだなぁ、ずっとそうだったじゃないですか」
瞬間、扉が開かれて部屋の中が露わになる。そこは私の荷物が無造作に置かれた客室……ではなくて、外で見た通りの巨大な水槽が鎮座する部屋だった。水槽を引き立てるために照明はあえて暗くされ、しかし水槽の向こう側から入る陽の光が部屋を淡く照らしている。輝く水槽はゴンドラの上、外から見た時とは違った雰囲気で息を飲んだ。こう……外は太陽と言う大きな光源があったが中の光源は実質水槽だけ。光っているものは水槽だけなんだ、だからより一層その美しさと存在感を際立たせているように感じたのだ。
「見る場所が違うだけでこんなに変わるなんて……だがそれでも、この水の世界は美しい」
「フフッ、そうですね……。でも本物は、こんなものではないんですよ」
「オアシスの再現と言っていたな。雇い主は本物を見たことがあるのか」
聞いてすぐに、現地の人間なんだから当然知っているだろうと思い至る。変な質問をしてしまった。そう思って雇い主の顔色を伺うと、彼女は涙を流しながら水槽を見ていた。
「や、雇い主……?」
「……ああ、ごめんなさい。その、本物はもっと綺麗だったんです。透明で、冷たくて、心地よくて。……ほら、そこにいる小魚。ダイビングの時に一緒に泳いでいました。あそこのカラフルな子は警戒心が強いんですけど、たまに近づいてきてくれて……他にもたくさん思い出があるんです。……私は、もっとたくさんの人にアビドスを、オアシスを知ってもらいたかった。だからたくさんの人が遊びにきてくれるホテルの経営を頑張っていたんです……」
上擦った声が無音の部屋に響き、水槽を叩く。数匹の小魚が雇い主をじっと見つめている。どうしたらいいのか分からなくて、私も彼女を見つめた。水槽の光が青からオレンジになるまで、私は雇い主の涙を目で追っていた。
そうしてしばらくしたら雇い主は泣き止み、水槽の鑑賞会も終わりを迎える。扉を潜って部屋から出て、そして扉を閉める。すると雇い主が突然頭を下げてきた。
「ごめんなさい、せっかくお誘いしたのに、私のせいでゆっくり見れませんでしたよね……?」
「ああ、それなら気にしていない。十分楽しめたし、雇い主のオアシスへの熱意も感じられた。私も本物を見てみたいものだ」
「……そう、ですね。ありがとうございます。……うん!今日は楽しんでもらえてよかったです、またお会いしましょう!」
最後は元の調子を取り戻し、涙も引っ込んだ雇い主にホッとする。とにかく、今回の水槽見学のおかげでアルバイトに対するモチベーションが上がったと思う。そのことに感謝を伝えようとした瞬間、一陣の風が私の肌を撫でた。アビドスの熱された砂が混ざったそれはやすりの様で、生温くて痒く感じる。勢いも中々強くて思わず目を閉じる。
そして風が止んだ頃、私は目を開けて雇い主に大丈夫かと声をかけた。だが今度の雇い主は酷く怒っている様子だった。
いつの間にか部屋は水槽が消え、私の客室に戻っていて、私の荷物も元の場所に置かれている。だが窓が無くなっており、そこから風が吹き込んだのだろう。そんな窓の外を、雇い主はじっと睨みつけていた。眼下に広がるのはアビドスの大砂漠、そして枯れて久しいオアシスの亡骸。眉間に皺を寄せ、喉から無理矢理絞り出したかの様な重い声色で雇い主は話し始めた。
「この部屋が1番オアシスを綺麗に眺めることができたんです。上でもなく、下でもなく、ここが1番ちょうどいい。お気に入りの部屋……」
「そう、だったのか……」
「はい………ああ、私達は砂漠に殺される……」
突然の感情の変化に戸惑い、かける言葉を選んでいると、それを待つことなく雇い主は客室を出て、階段を降りて行った。すぐに追いかけるが私が非常階段に辿り着いた頃には姿が見えなくなっており、どう言うわけか足音も聞こえなくなっていた。こんな短時間で降り切ったのだろうか?それとも別の階に入ったのか?分からないが、今はそっとしておいた方が良さそうだ。私は不安を飲み込んで客室に戻った。ちょうど日が暮れて夜になっている。持ち込んだ携帯食料を食べ、早めに眠ることにした。締め切った窓から入る風が冷たく、タオルケットに深く入り込んだ。
幕間・サオリのバイト飯
27.ウィンウィンゼリー
食べた時のバイト:救急医学部案件・売血調査
説明:バランス栄養食の一種。砕いたゼリーの飲料で、身体が弱っている時でも食べやすく栄養満点。
コメント:簡単に栄養が取れてそこそこお腹も膨れるので重宝している。セナも箱ごと買っていると言っていた。救急医学部でも大活躍なんだな。
マスカット味のイメージが強いが他の味もある。グレープフルーツ、ヨーグルト、レモン……思えばどれも酸っぱいな。そんなものか?