何!?1枚500円のチラシ配りだと!?
早速働き始めた錠前サオリだ。業務は普通のチラシ配りと変わらんな。だが指定された配布時間が人の少ない深夜なのは何故だ?歩合制だからなるべくたくさん配りたいのだが。まあ、それ故の高額な報酬のだろう。
「……ところで、チラシの内容だが」
私はチラシを1枚手に取り、雇い主のロボットに視線を向ける。チラシの内容は尋ね人、飲食店や不動産の広告、怪しい商法の勧誘、その他色々、バラバラだった。
「問題ありません、内容よりも配ることに意味があるのです」
「………そうか」
まあいい。深くは聞かない、真面目に、任された仕事をこなす。そこそこ色々なバイトをして身に付けた鉄則だ。それに人の少ない深夜……とは言っても、配る場所は繁華街の外れにある横断歩道の前で、夜の街から帰る市民がやってくるはずだ。1枚500円だから、たった20枚で1万円。気前がいいな、張り切っていこう。
チラシの束を受け取った後、雇い主は私にいくつかの注意事項を話してきた。時間は深夜の2時間だけ、押し付けるようなことはしない、付近の店や通行人に迷惑をかけない、業務終了後に余ったチラシは回収して給与を渡す。そして1番の注意事項は『赤い制服を着た生徒には絶対チラシを渡すこと』。
「彼女に渡すことに意味があります。きっと受け取るでしょうが、最悪押し付けても構いません。これだけは、絶対に、よろしくお願いします」
雇い主はそれ以上何も語らず、その場を去っていった。
………色々思うところはあるが、とりあえずやってみよう。
(1日目)
「どうぞ」
「うぃ〜、え?ああ、ありがとね!」
お酒を飲んだ帰りなのだろう、上機嫌な獣人(白猫)は笑顔でチラシを受け取ってくれた。
チラシ配りは順調に進んでいる。予想通り、この横断歩道前には繁華街で楽しんだ帰りの住民がよく通った。そして大抵の者が先ほどの獣人のように気持ちがふわふわしているため、チラシを快く受け取ってくれる。
1時間が経過して、配れた枚数は20枚。これで1万円だ。楽しくなってきたな。私は鼻歌混じりに次の通行人を待った。
少しすると、賑やかな話し声が近づいてくる。数は4人、生徒だ。身に付けている制服は……トリニティ?珍しいな、真夜中に出歩くのは校則違反だろうに。
(信号機の誘導音、カッコウの鳴き声)
「かなり遅くなったね、バレたらどうなるんだか……」
「ロマンの前には瑣末な問題だよカズサ。真夜中にしか空いてないスイーツショップ、そのために秘密の真夜中の冒険……スリルとロマンがあっていいじゃないか」
「このロマンはまずいって、ナツ」
私が立っている歩道とは反対側から、横断歩道を渡りながら楽しそうに言い合っている。
「バレたらどうしようかな、正義実現委員会の人達ってチョコミント好きかな?どう思うヨシミちゃん?」
「え?アイリ?その持ち帰りのスイーツで賄賂しようとしてる?色んな意味で通じないと思うけど」
「そうだよねっ、賄賂はダメだよね……!」
……なるほど、美味しいスイーツのために抜け出してきたと。事情はどうあれ、好きなことのために突き進んでいる姿は……眩しいな。
いや、感傷に浸っている場合ではない。仕事だ仕事。よく見ると四人組の中に赤い上着を着ている者がいる。あれも制服と判定していいかは分からないが、疑わしきはチラシを配れ、だ。押し付けてもいいらしいが、なるべく彼女らが受け取りそうなチラシの方がやりやすいだろう。私はチラシ束をパラパラと捲る。お、いいのがあるじゃないか。
「どうぞ」
横断歩道を渡り切り、こちらにやってきた生徒達に……いや赤上着の子にチラシを差し出す。
「え、ああチラシ?別にいらな……待って!!」
彼女は突然叫び、私からチラシを引ったくった。
「どうしたのヨシミちゃん?これ……さっき行ったお店のチラシ?」
「今更チラシもらっても意味な……いやこれは!」
「クーポン、ついてるね。半額のやつ……!」
たまたまスイーツショップのチラシを見つけたから渡してみたが、どうやら大当たりだったらしい。4人は大喜びで、またあのスイーツショップに行こうと計画を立てている。夜更かしや抜け出しを気にしていた先ほどまでの姿はどこかに飛んで行ってしまったようだ。いいことではないかも知れないが、これが青春という奴なんだろうな。
「「「「ありがとうございます!!」」」」
「ああ、役立ったのなら何よりだ」
帰路を軽やかに駆けて行った4人。自然と顔が綻び、その背中が見えなくなるまで見送ってやった。
……さて、仕事の続きだ。気持ちを切り替えよう。そう思った瞬間、
(信号機の誘導音、通りゃんせ)
「チラシ、貰っていいですか?」
「うわっ!?」
思わず変な声を出しながら飛び退く。油断していたことは認めよう、だが近づく気配を一切感じなかった。何者だ……!?
声の主を見やると、私くらいの年頃の女だった。赤い制服を着ていて、目は黒い髪で隠れて見えない。そしてキヴォトスの生徒ならあるはずのヘイローが見当たらない。ヘイローは意識を失うか、死なない限り消えないものだ。それがないと言うことは、外の世界の人間か?でも何故ここに?
警戒の視線を送りながら彼女をよく観察する。何か……まずい気がする。形容できない気配……恐怖を感じる。こんなのに気付かれずに近付かれたと理解し恐怖が倍増する。よく分からないが、こいつは絶対にまずい……!
そんなことを考えていると、彼女は口を開いた。
「チラシ、欲しいんですけど」
「あ……ああ、分かった」
自分からチラシを要求してくる奴は初めてだ。それに赤い制服……。こいつが注意事項の生徒なのか。それなら尚更渡さないといけない。私は適当なチラシをつまみ、彼女に手渡した。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
ボソボソと、しかし脳に直接入り込んでくるような声だ。彼女はチラシを受け取るとすぐに立ち去り、夜の闇に消えてしまった。
何だったのかは分からない。だが私は、彼女にチラシを渡せたことを心から安堵していた。信号が赤に変わり、また誘導音が流れる。カッコウの鳴き声……あれ?さっきは通りゃんせが流れていたような……?
(4日目)
「どうぞ」
「ああどうも〜、何これ?アハハ〜」
今日も元気にチラシを配る錠前サオリだ。繁華街帰りの千鳥足達が嬉しそうにチラシを持って行くおかげで、結構稼げてるのではないだろうか?今日も給与が楽しみだ。
そんなことを考えてると、「お〜い!」と私を呼ぶ声。初日に会ったトリニティの生徒達が、横断歩道の向こうからこちらに手を振っていた。
(信号機の誘導音、カッコウの鳴き声)
私も手を振り、渡ってくる彼女達を出迎えた。
「お久しぶりです、チラシのお姉さん」
「ああ、久しぶりだな。あのスイーツショップに行ったのか?」
「お姉さんから貰ったクーポン……じゃなくてチラシを使ってね。本当にありがとうございます」
緑のリボンを付けた生徒と猫耳の生徒が丁寧にお辞儀してくる。その横で赤上着の生徒が今日の戦利品を誇らしそうに掲げて見せた。
「おかげでいっぱい買えちゃった!だからお姉さんにも少しあげるわ!」
「何?……気持ちはありがたいが、ただチラシを渡しただけだ。そこまでされるようなことじゃない」
「まあまあお姉さん。こう言う小さな出会いもロマン、私達はそれを分かち合いたいのだよ」
そう言ってピンク髪の生徒はケーキの入った紙箱を私に押し付けてくる。少し開けてみると、中にはイチゴのショートケーキが入っていた。甘い香りが私の頬を緩ませる。
「……せっかくだから受け取ろう。感謝する」
「どういたしまして。これもまた、イチゴだけに一期一会ってね」
「ブッッ!!」
「ナツ、何その親父ギャグ?全然面白くな……え?」
「お姉さん?大丈夫ですか!?」
「ゲホッゲホッ……フフフ……ああ、いや。大丈夫だ」
「へー、お姉さんそう言うの好きなんだ。まぁいいんじゃない?」
赤上着はそう言って私の背中をさすってくれた。恥ずかしくて顔が熱い、多分今真っ赤になっている。私はそれをこの子らに見られたくなくて顔を逸らしたのだった。
(信号機の誘導音、通りゃんせ)
「チラシ、貰っていいですか?」
「っ……」
突然の来訪、4日目だが慣れんな。びっくりしたことを悟られないよう冷静を装って、声の方に向き直る。そこにいたのはあの赤い制服の生徒。
「うっ……!」
「ひっ……!」
猫耳とピンク髪は彼女に、私と同じように嫌な気配を感じたのだろうか?彼女に気づいた2人はその顔を青ざめさせ、肩が跳ね上げていた。
「何よ?今私達がお姉さんと話してるんだけど?」
「ヨシミ、やめて」
「何よカズサ!……って、どうしたの?何でそんな震えてるの?」
「ナツちゃん……?い、痛いよ……」
「ごめんアイリ……ごめん」
猫耳は赤上着の、ピンク髪は緑リボンの腕をそれぞれ掴んでいる。必死過ぎて力加減ができずにいるようだ。その様子を一瞥し、私は後ろにいる4人を守るように立ち塞がる。赤い制服の生徒は表情も纏う雰囲気も一切変えず、手を差し出してきた。
「……どうぞ」
「ありがとうございます」
私からチラシを受け取った彼女は何事もなかったかのように立ち去った。彼女が見えなくなるその瞬間まで、私達はその背中を凝視していた。
「カズサ、ナツ、大丈夫?」
「うん……大丈夫」
「…………何?アイツ」
「どこの制服かな?見たことがないね……」
口々に不安と恐怖を語る4人。やってしまったな、私はともかく、一般人のこの子らをアレと関わらせちゃいけないはず。4日続けていて、確信に近いものがあった。こう、感覚的で、言語化が難しいのだが、あの時のユスティナ達と同じ気配?雰囲気?とにかくそんなものを彼女には感じるのだ。
『問題ありません、内容よりも配ることに意味があるのです』
『彼女に渡すことに意味があります。きっと受け取るでしょうが、最悪押し付けても構いません。これだけは、絶対に、よろしくお願いします』
雇い主の言葉を思い出す。念を押された理由、このバイトの給与が高額な理由、注意事項。全てあの赤い制服の生徒が原因なんだ。ならやることは決まってる。注意事項に従って真面目に働く、そして………。
「………お前達、早く帰れ。もう二度とこの横断歩道には近づくな」
「あっちょっ、押さないでよ!」
赤上着の背中を押し出し、残りの生徒も同じようにする。猫耳とピンク髪は気持ち優しく押してやった。
とにかくこの4人はトリニティに帰らせよう。そして二度と来ないように釘を刺す。こう言うのは首を突っ込まなきゃいいんだ。距離を取れば、安全だ。
「……お、お姉さんは大丈夫なんですか?」
「何?私か?」
不意に緑リボンが私に問いかけてくる。表情を見ると、不安と困惑、そして私への心配が浮かんでいた。他の3人も同じように私を心配するそぶりを見せていた。
……たまたまクーポンのついたチラシをくれてやっただけなのに、ケーキを買ってくれた上に心配もしてくれる。彼女達は、律儀というかお人好しというか。
「ケーキをありがとう、美味しく食べさせてもらう。……私は大丈夫だから、気をつけて帰れよ」
そう言って、私は笑顔を作り、手を振った。4人は納得はしてないが、飲み込んでくれたようで、わたしに手を振り返して去って行った。これで大丈夫だろう。……さて、仕事の続きだ。
その後、数人にチラシを配ったところで今日の業務は終わった。
あの4人にああ言った手前、引き際は考えないとな。もう少しだけやったらバイトを辞めよう。そんなことを考えながら拠点の廃墟に帰った。
(5日目)
バイトを始めて5日が経過、段々こなれてきたな。ここを通る市民にチラシを渡すだけのバイト。普通のチラシ配りと違う所は、不気味な奴が1人、毎日来ること。
あの赤い制服の生徒は、今のところ変な動きはしていない。毎日決まった時間に来て、チラシを貰ってどこかに行く。それの繰り返しだ。
私がこの仕事を続けているのもそれが理由だ。チラシを渡せば大人しく帰るから。渡さなかったらどうなるか……試すつもりはない。
昨日来たあの4人……トリニティの生徒達は大丈夫だろうか?ちゃんと帰れてるといいのだが。あと私もいつ頃バイトを辞めようか。あと2日は続けてもいいか?……まあ、チラシを配りながら考えようか。
「どうぞ」
「あらどうも〜……って、あれ!」
チラシを受け取った獣人(ポメラニアン)の婦人が急に叫んだ。
(車のエンジン音)
フラフラと、だがすごいスピードで走る車がこっちに近づいて来る……いや、突っ込んでくる!暴走車両だと!?
「危ない!」
(衝突音と破砕音)
咄嗟に婦人を抱き寄せ、飛び退く。彼女を抱えながら歩道をコロコロと転がり、距離を取った。投げ捨てたチラシがパラパラと舞い落ちる。
「おい、大丈夫か?……おい!しっかりしろ!」
まずいな、頭を打ったらしい。気を失っている。まあ安静にしていれば良いだろう。それよりも……。
「信号機が折れてる……あの場にいたら下敷きになってたな」
私は婦人を歩道の隅に寝かせながら、先ほどまで自分達がいた場所を見た。信号機に車が突っ込み、その衝撃で折れてしまっていた。車も酷いものだ、盛大に凹んでいる。早く中の人間を助けなくては。
「お姉さん!大丈夫ですか!」
「っ!?」
覚えのある声の方へすぐに顔を向けた。あの4人だ、車が通らないのをいいことに信号無視してこちらに駆け寄ってきた。いやそれよりも!
「来るなと言っただろ!どうして!」
「危険だって昨日言ってたけど、だったらアンタもヤバいんじゃないの!?」
「だから様子を見に来たんです。ごめんなさい……!」
「私とナツは反対したんだけど……ヨシミとアイリはお姉さんを心配していたよ」
「………全く」
見ず知らずの私のことなど、気にかけてもしょうがないだろうに。今みたいに目の前で事故が起きたからほっとけない、というのなら分からんでもないが。……いや、彼女らにとっては同じことなのだろう。本当に眩しいな。先生や、あの時空を晴らしたアズサの友人ファウストのような、心の眩しさを私は感じた。
「急がないとまずいんじゃない?中にまだ誰かいるんでしょ?」
いつの間にか隣に立ち、私のコートの裾を引っ張って来るピンク髪の生徒。見上げて来る彼女に私は頷いた。
「助けるぞ!手伝ってくれ!」
「はい!頑張ります!」
「了解」
「まっかせなさい!」
「おー」
思い思いの声を上げる4人を引き連れ、私は車に駆け寄った。手始めにピンク髪にヴァルキューレへの通報を頼み、緑リボンと赤上着が手当の準備とついでに婦人の介抱、猫耳は私と共にドアの破壊をするよう指示を飛ばす。猫耳は歩き方や警戒の仕方が他3人と比べて手慣れていた。訓練を受けていたわけではないが、荒事慣れしているのだろう。それを見込んでの人選だった。
実際その勘は当たっていたようで、猫耳は割れた窓ガラスや鋭利な破損跡に怖じ気づくことなく車に手を伸ばし、ドアの破壊を手伝ってくれた。それどころか、
「うわ……ちょっと入らないと運転手さん引っ張り出せなさそうだね」
「そうか、なら私が」
「待って、お姉さん色々大きいからダメだと思う。私に任せて」
そう言うや否や、猫耳はまるで本当の猫のようにするりとひしゃげた車の中に入って行った。
「ハハッ……頼もしいな」
「意識はないけど無事みたい。お姉さん、掴んだよ!」
「よし、お前ごと引っ張るぞ!」
私はニヤリと笑って、猫耳の足首を掴んだ。
(信号機の誘導音、通りゃんせ)
「チラシ、貰っていいですか?」
「っ!!」
このタイミングでか!!視線だけ真横に向けると、あの赤い制服の生徒が私を凝視していた。……いや、目が前髪に隠れて実際のところは分からないのだが、刺すような視線をひしひしと感じるから見ているのだろう。
「お、お姉さん!?アイツいるの!?ねえ!!」
車の中の猫耳も気配を感じたのだろう、震えた声を上げている。
「ナツ、下がっていいわよ!」
「ナツちゃん、こっちおいで……!」
「分かった、ごめん……」
向こうの3人を見る。顔色を悪くしたピンク髪を緑リボンが抱き寄せ、赤上着が一歩前に出て守るように両手を広げていた。
「チラシ、欲しいんですけど」
もう一度赤い制服の生徒を見る。表情から感情は窺えない……いや、ないのか?コイツに感情は。どちらにせよ視線は私に向けたまま、その手をこちらに伸ばしている。
「……見て分かるだろ、今はそれどころじゃない。そこに散らばってる奴を持って行ってくれ」
「貴女からチラシを貰いたいんですけど?」
「は!?」
「早くチラシ下さい」
意味が分からない。常識的な発言と行動をして欲しい。ちょっと常識に疎かった元アリウスの私にそう思われるの相当だぞお前。
『赤い制服を着た生徒には絶対チラシを渡すこと』
不意に注意事項が頭をよぎったが、緊急事態なんだ。もういい、無視だ無視。私は赤い制服の生徒から顔を逸らし、猫耳の足首を引っ張った。
「ぷはっ!」
猫耳がしっかり掴んでくれていたおかげで、運転手がヌルッと出てきた。ボロボロで意識はないが、命に別状はなさそうだ。私は運転手の肩を持ち上げた。
「チラシ下さい」
「よし、お前はそっちを持て。みんなと合流するぞ」
「チラシ下さい」
「でも、アイツ大丈夫なの?」
「チラシ下さい」
「全部終わって、それでも待ってたらくれてやるさ。今はこっちが最優先だ」
「チラシ下さい」
「……それにお前も、コイツの近くにはいたくないだろう?」
「チラシ下さい」
「……うん。分かりました」
「チラシ下さい」
私達は運転手を抱えながら、3人と合流した。運転手を婦人の隣に寝かせ、改めて外傷がないか確認する。細かい擦り傷と、鞭打ちと、大きなたんこぶくらいか。キヴォトス人の頑丈さが功を奏したな。……いや待て、酒臭いな。飲酒運転か?私は顔を顰めた。
「チラシ下さい」
「お姉さん、大丈夫ですか?あの人、ずっとチラシ下さいって……」
「チラシ下さい」
「……その2人についてやれ」
「チラシ下さい」
赤い制服の生徒はこちらを凝視している。私はその視線から隠すように、4人を抱き寄せた。チラシを渡しに行こうかと思ったが、震えているピンク髪と猫耳、それを見て不安になっている赤上着と緑リボンを放っておけず、寄り添ってやることにした。
「チラシ下さい」
もうすぐヴァルキューレが来るはず。
「チラシ下さい」
その時に怪我人とこの4人を救急車かパトカーに乗せてやって、
「チラシ下さい」
その後にでも渡せばいいだろう。
「チラシ下さい」
きっとそれでも遅くはないはず。
「チラシ下さい」
だから早く来てくれヴァルキューレ。
「チラシ下さい」
早く来い……!
「チラシ下さい」
「もういいです」
その瞬間、私は全ての選択を後悔した。
さっさとチラシを渡せばよかった。人命救助や怯える4人の保護などかなぐり捨てて、最優先であいつにチラシを渡すべきだった。仮に運転手が大怪我で死にかけてたとしても、いや今すぐ助けないと死ぬとしても、無視してチラシを渡すべきだったんだ。
注意事項のその意味を、あの赤い制服の生徒が突如発した悍ましいプレッシャーを理解した。余りにも遅かった。
「おい!待て!今チラシを________」
(足音)
「うっ、ああああああ!!」
奴に駆け寄ろうとした瞬間、強烈な頭痛が私に襲いかかった。耐えられず、その場に倒れた。
「きゃあああああ!!」
「いっ、痛い痛い痛い!!」
「み……みんな……!」
「うぅ……ひっぐ……つぅ……!」
振り返ると、4人も頭を押さえて呻いている。それだけじゃない、まだ意識のない婦人と運転手も苦しそうに顔を歪めていた。
(足音)
その足音が聞こえた瞬間、痛みがもう一段上がった。痛みで涙が出て来る。いや、違う!普通の涙じゃない!
尋常じゃない量の水が目から溢れ出ている。それと同時に体が乾いていくような感覚がする。搾り取られる……頭痛に水を搾り取られる!
(足音)
苦しんでいる場合じゃない、チラシを渡さなければ。私はちょうど近くに落ちていたチラシを手に取り、なんとか立ち上がった。
確信めいたものがあった。これは全てあの赤い制服の生徒のせいだ。奴にチラシを渡さなかったせいだ。だからチラシを渡せばなんとかなるはず……!
ぼやけた視界を拭って奴を見る。奴は横断歩道に向かって歩いていた。私は無理矢理体を動かした。
(足音)
こんな状態の私となんともなさそうな奴とを比べたら、当然だが奴の方が早く目的地に着く。奴は横断歩道に向かっていたようだ。幸い歩行者用信号のランプは赤、律儀に立ち止まって青になるのを待っている。これ幸いと私は重い体を引きずって赤い制服の生徒に歩み寄った。愛用のアサルトライフルを杖にしつつ、あと少し、あと少し。数メートルの距離が、さっきは運転手を抱えて難なく歩いた距離が絶望的に遠く感じる。それでもチラシを渡さなければ。
脂汗と涙で体の水が足りなくなって、涙ではなく脱水で視界がぼやけてきた。ついに足がふらつき、自分の涙でできた水溜りで足を滑らせ、こけてしまった。そして同時にそのメロディを聴き、絶望した。
(信号機の誘導音、通りゃんせ)
ああ、本当にまずい!歩行者用信号が青になった!誘導音が流れた!横断歩道を渡ってしまう!!
どうして赤い制服の生徒は横断歩道を渡ろうとしているのかは分からない。いつもはチラシを貰うと、普通に歩道に沿ってどこかへと消えていく。だが今回はチラシを渡されなかったから来た道を戻っている、あの横断歩道を渡ろうとしている。ああそうか、奴は横断歩道から、向こう側から来たんだ。そしてこのバイトは、チラシ配りは奴が向こう側に戻らないようにするためのものなんだ。渡ってしまったら、きっと大変なことになるから!!
「止まれ……!チラシを……受け取れ………!!」
叫びを絞り出すが、それで奴が止まることはない。私は這いずって少しでも近づこうとする。ああ、ダメだ。もうすぐ奴の足が車道に踏み入れられる。そう思った瞬間、私の体は反射的に動いた。
「うおおおおおおおっ!!!」
(乱射音)
アサルトライフルを前に向け、闇雲に発砲。視界が悪過ぎて狙いなんて定まらなくて、何かに当たれ、何とかなれと祈りながら引き金を引いた。
その祈りは…………届いた!
(破壊音)
弾丸は反対側の信号機にある歩行者用信号と誘導音を鳴らすスピーカーに命中、機械が破損したのだ。信号の青は消え、誘導音もなくなる。
すると赤い制服の生徒は足を引っ込めた。信号待ちをしていた時のように突っ立った。いや、実際に信号待ちをしているのだろう。次の青を待っている。
不意に先程信号無視をして駆けつけてくれた4人を思い出して苦笑する。ああ、お前は信号を守るんだな。
私はゆっくりと立ち上がり、赤い制服の生徒に近寄る。右手で奴肩を掴み、こちらに半身を向けさせる。そして左手に持ったチラシを、奴の胸元に叩きつけた。
「ほら、チラシはくれてやる……!」
「………………」
赤い制服の生徒はふらつくことなくチラシを受け取り、対する私は勢いのまま倒れ伏す。
赤い制服の生徒はチラシを眺め、そして私に視線を向けた。
「…………ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、頭痛と涙がすぐに止まった。思わず呼吸が荒れて、何とか息を吸いながら目元に触れて確認する。水が湧き出てくるような感触はもうない。頭も大丈夫そうだ、むしろ寝起きのように思考がスッキリしていた。私は寝転がりながら、安堵の溜め息を吐いた。
『彼女に渡すことに意味があります。きっと受け取るでしょうが、最悪押し付けても構いません。これだけは、絶対に、よろしくお願いします』
「まさか本当に押し付ける羽目になるとはな……」
(足音)
頭を上げる。赤い制服の生徒がいつも通り、歩道を歩いて闇夜に消えていくのを見送った。横断歩道には戻らない、いつものルート。よかった、これで大丈夫だ。
「お前達、大丈夫か……?」
私はまた立ち上がった。倦怠感と脱水でフラフラする中、4人に駆け寄ったのだった。
________その後、婦人と運転手、そして私とあの4人は仲良く病院送りになった。皆軽傷のため1日入院で済んだが、運転手は飲酒運転の罪でヴァルキューレに連れて行かれた。当然だな。
4人は深夜徘徊の件でわざわざトリニティの人間が病室まで来て怒られていた。散々な夜だな、彼女達に迷惑をかけてしまった。謝らないとな。
婦人は旦那さんが迎えに来て普通に帰った。仲睦まじい夫婦だったが……、
「今回はあそこのホストクラブに行ったのよ」
「そうかい?心配だったが、楽しめたのならよかったよ」
……という会話をしていた。狂っていると思う。
そして私は……私は指名手配をされているから長居していたら捕まってしまう。適当なところで病院を抜け出した。そしてその夜、あの横断歩道に行った。
もう修理の工事は始まっていた。深夜だから誰もいないが、簡単に整備されて車も通れるようになっている。
そこで待っていると、雇い主がやってきた。いつもならここでチラシを受け取り、業務開始だ。しかし今日の雇い主はチラシを持っていなかった。
「こんばんは、アルバイトさん。どうやらしくじったようですね」
「……ああ、すまない」
「事情は把握しております。ちゃんとチラシを渡すこともできたようで何よりです。しかし、一度しくじった方に続けてもらうわけには行きません。残念ですが解雇とさせていただきます」
「了解した」
辞めると言うつもりだったからちょうどいい。私はその処分を甘んじて受け入れた。
雇い主は私に残りの給料を払い、踵を返して歩き出す。
「……雇い主」
「はい、何でしょう?」
「あれは一体何なんだ?そして私が辞めた後……また新しいバイトを探すのか?」
ふと気になった疑問をぶつけてみる。それに対して雇い主は立ち止まり、微笑んだ。
「もう部外者の貴女に、話すことなどありませんよ」
そう言って雇い主は去って行った。私は黙ってそれを見送った。
________そんな夜から数日後。私は用事があってトリニティ自治区に潜伏していたのだが、そこであの4人とばったり出くわした。4人は私を見つけるとすぐに取り囲み、私を捕まえ、近くのスイーツショップに引き摺り込んだ。
「ちょっと待て!どう言うことだ!?どうしてこんなところに連れて来た!?」
「お姉さんどうして病院から脱走したんですか!?看護師さん達怒ってましたよ!」
「それは……すまない。私にも事情があるんだ」
頬を膨らませる緑リボンの生徒。迷惑をかけたことに少し罪悪感を覚え、私は目を逸らす。しかし逸らした先には怒って湯気を上げてる赤上着の生徒がいた。
「それに!私達も心配したのよ!あんたが大丈夫なのかって!それと……まだあのバイト続けてるのかって……」
赤上着がそう言った瞬間、4人は顔を曇らせた。本当に優しい子達だ。あの事故の時と言い、ショートケーキといい、私は貰ってばかり、迷惑をかけてばかりだ。
「あのバイトは辞めたよ。あんな目に遭っても続けるほど図太くはないさ。……お前達には本当に迷惑をかけた。謝罪する」
私が頭を下げると、4人は慌ててそれを止めるように言ってきた。
「むしろお姉さん、あの時私達のこと守ろうとしてくれてたでしょ?お姉さんがいなかったら、私達あの場で死んでいたかも知れない。本当にありがとうございました」
猫耳の生徒は私に頭を下げて、他の面々もそれに続いた。
「……いいんだ。お前達が無事でよかった」
私は微笑み、そう言い返した。するとピンク髪の生徒が私にメニュー表を押し付けてきた。
「というわけだから、今日は同じロマンを分かち合ったもの同士でスイーツを食べようじゃないか。……またお姉さんと会ったら、こうやってスイーツを食べながらゆっくり話がしたいとみんなで考えていたんだ」
「ああ、そう言うことなら付き合おう」
そう言って私はみんなが見れるようにメニュー表を開く。それぞれ好きな物を注文し、甘いスイーツに舌鼓を打ったのだった。
「________そういえばお姉さん、お名前は何ですか?」
「私か?」
「あ、私達はトリニティ総合学園の放課後スイーツ部で、私の名前は栗原アイリです!」
「杏山カズサです」
「伊原木ヨシミよ!」
「柚鳥ナツ、よろしく〜」
「アイリ、カズサ、ヨシミ、ナツか。私は、私は………」
「________ただのアルバイトの錠前サオリだ、よろしく頼む」
ここだけサオリが裏バイトで働いていて、ひどい目にあったりあわなかったりする世界
錠前サオリの裏バイト奇譚5
業務内容:チラシ配り
注意事項: 『赤い制服を着た生徒には絶対チラシを渡すこと』
勤務期間:5日間
給与額:チラシ1枚500円×勤務期間中に配ったチラシ152枚=76000円
コメント:放課後スイーツ部とのスイーツパーティーの支払いは、お詫びも兼ねて私が全額払った。そのため実質の利益は69300円となる。また一緒にスイーツを食べたいものだな。