ガゼフに着いていって王国に仕官した単独転移アインズ様 作:万里支店
「ふぅ」
カッツェ平野にて帝国軍の布陣を終えた帝国四騎士がひとり、『激風』ニンブル・アーク・ディル・アノックは、常の彼らしくもなく、ため息にも似た吐息を漏らした。
例年通り行われる王国との戦争。例年との違いは王国軍先頭にいるはずのひとりと、今ニンブルの横に並んでいるひとり。いや、よく見ると半歩分前に、王国側に立っている。その立ち位置が、逸る気持ちがいかほどかを物語っていた。
年甲斐もなくそわそわした様を隠すそぶりもないその男こそ、帝国が誇る最高戦力。三重魔法詠唱者。『逸脱者』フールーダ・パラダインその人である。
「ううむ、見えんな。まだ前線に来てはいないのか……。ああ、早く語らいたいものだ。いったいどんな魔法を修めていることか」
ぶつぶつとうわ言のように呟くその姿は、一見すると曖昧になってしまった老人そのものであるが、その頭は明瞭にして聡明叡智。皇族の教育係や後進育成の手腕も見事なものだ。今もニンブルでは理解できない魔法のことで埋め尽くされているはずである。
そんな賢人がこうなってしまっているのは、ひとえにある情報ゆえのこと。
突如王国に舞い降りた魔法詠唱者、アインズ・ウール・ゴウン。
噂を聞いてから探し回り、しかしフールーダの捜索網を潜り抜けてみせた謎の男が、今日の戦争において先陣を切ると、帝国と通ずる王国貴族が、そう情報を寄越したからだ。
「パラダイン様。ゴウンという魔法詠唱者はまだ……?」
「うむ。未だ魔法の輝きは映らん。いくつか、第三位階ほどのものはちらほらあるがな」
フールーダはその眼に宿るタレントでもって魔法詠唱者の持つ力を把握することができる。遮るもののない前線に出てくれば、その輝きでゴウンの布陣はすぐにわかるはずだった。
「あるいは探知を阻害する術を用意しておるのやもしれん。今日まで行方が知れなかったのもそのせいか」
フールーダは貪欲なまでの魔法に対する知識欲を有している。近隣で最高の魔法詠唱者であるフールーダの目から逃れ続けているとあれば、すくなくともその分野においてフールーダより優れている可能性は高い。
であれば、ゴウンが現れた時フールーダはどんな態度を取るか。果たして戦争に参加してくれるものか。さすがに敵の前に無防備を曝すとは思えないが、言葉を交わそうとはするだろう。対してゴウンは? 帝国の最高戦力と悠長に談笑する理由は向こうにはない。おそらく問答無用で魔法を放ってくる。
そもそもが開戦の狼煙として魔法を放つ役割だと言う。
バハルス帝国皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスは、未知の魔法詠唱者アインズ・ウール・ゴウンを最大限警戒。フールーダの調査を掻い潜る手腕を以てゴウンをフールーダと同格かそれ以上の魔法詠唱者と仮定し、その実力を見極める役割を、フールーダとニンブルに与えていた。
フールーダはそのタレントでゴウンの使用位階を看破する役割。
ニンブルはフールーダが暴走した場合、ゴウンの使用した魔法をしかと見て生還し、ジルクニフに伝える役割だ。
ニンブルはちらと後ろを振り返った。そこには立派な体躯と装備の鷲馬と、それに騎乗する皇室空護兵団の隊長が控えている。
皇室空護兵団とは鷲馬ライダーを用いた対空戦力である。その隊長はライダーとしての腕前もさることながら、騎獣の能力を底上げするタレントを有していた。
隊長はニンブルの視線を受けて力強く頷く。その体には普段の任務では身に付けていない装備が散見された。
〈獅子のごとき心〉が付与されたペンダント。
移動阻害の耐性を持つアンクレット。
走るのが速くなる靴。
物理的なダメージを軽減する胴鎧。
指には視力を上げるものと聴力を上げる指輪をつけている。
騎獣たる鷲馬にもまた、魔法の装備だ。
全ては帝国魔法省の誇る珠玉の成果たち。ゴウンの魔法を見た後、ニンブルを連れて戦線を離脱するという、たったひとつの任務のため特別に貸し与えられた宝物たちだ。彼の忠誠を思えばありえないが、もし持ち逃げしようものなら、一族郎党命はない。
「おおっ!?」
もう何度も確認したそれらが問題なく装備されていることを見ていると、フールーダが驚愕の声を発した。慌ててニンブルも王国軍に目をやる。すると王国全軍に、青い半球状で半透明の蓋がかかっていた。
「パラダイン様、あれは?」
「わからん。おそらくは障壁のようなものだとは思うが、ああも覆ってしまっては進軍もままならないはず。いったいどんな効果が……」
返事こそしてくれたが、後半につれて尻すぼみに、自分の考えを垂れ流すだけになっていった。それでも価千金だ。魔法の研究において一線を画すフールーダをして、知らない魔法とは。
術者の存在を探すと、すぐに見つかった。青い蓋の外、帝国軍側にひとりの人物が立っている。
漆黒のローブ。泣いているようにも怒っているようにも見える仮面。王国貴族の言う特徴と一致する。
「あれがアインズ・ウール・ゴウン……」
それが腕を一振りする。それに合わせるように、突如として10メートルにもなろうかという巨大な球状の魔法陣が展開された。あまりにも幻想的な光景に一瞬戦場にいることを忘れかけた。
魔法陣は蒼白い光を放つ、半透明の文字とも記号ともいえるようなものを浮かべている。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ形を浮かべていないようだった。
「ふぉぉぉぉ……! あれはいったい!?」
フールーダが目を輝かせて魔法陣を凝視している。今のところ飛び出す様子がないのは、目の前の魔法への興味が頭を埋め尽くしたいるためだろうか。
ニンブルの背後からどよめきが聞こえる。帝国軍の兵士たちの戸惑いの声だ。
帝国軍人は法国を除いた他国の人間たちと比べて、魔法を見る機会が多い。ひとえにフールーダの存在ゆえだが、魔法研究をしていないも同然の王国民とは比べ物にならないほどの魔法を見て、聞いて、知っている。魔法学院出身の者だって少なくない。
そんな自分達の知らない魔法。どころか、魔法の第一人者たるフールーダすらも知らない様子を見て、激しく動揺しているのだ。
(まずいな。士気が落ちかけている)
ニンブルはあえて鎧の音も大きく振り返り、肺腑の限界まで息を吸い込んだ。次の瞬間にも叱咤と激励を飛ばそうとまなじりを吊り上げ、
「な、なんだあれは!?」
いっそう大きなどよめき。見れば兵士の全員が上を見上げている。ニンブルが慌てて向き直った先で目にしたものは、熱にうなされてみる悪夢のような光景だった。
「こ、こんなものが……魔法だと……!?」
ニンブルの目の先には一国の城のような大きさの岩。明々と灼熱に燃えるそれが、王国軍の頭上からこちらへと、落ちてくるではないか。
死。
死だ。
死が降ってくる。
あんなものを相手に剣の一本、鎧の一揃いでなにをしろと言うのだ。
「アノック殿、こちらへ!」
至近で声が聞こえるがそれが誰の声でなんの意味があるのか、もはやニンブルには理解出来なかった。ただただ、非現実的な死の到来を待つことしか出来ないでいた。
「失礼いたします!」
ぐいと腕を引っ張られ、ようやくニンブルは正気を取り戻した。
「パラダイン様!!」
咄嗟に呼び掛けるが、フールーダはそれを合図にしたかのように《飛行》の魔法で王国側へと飛び出してしまった。
「間に合いません! こちらへ!」
「くっ!」
「さあ、飛べ! 全力だ!」
隊長に促されるまま鷲馬の背に乗ると、彼は素早く手綱を操り、絶叫のように命令を出して飛んだ。
眼下に見える帝国兵たちが、幽鬼のような表情で大人しく死を待っている。虚ろに見開かれた目が、呆然と開かれた口が、次第に赤く照らされていく様を、ニンブルは後々まで夢に見ることになる。
●
バハルス帝国首都アーウィンタール。輝かしき皇城が夕暮れに照らされる時分。その周囲を警戒している皇室空護兵団たちへ隊長章を示して警護を素通りし、ニンブルは直接執務室のベランダへと飛び降りた。
「何事だ!」
全身鎧の成人男性が着地したことによる轟音。それに反応した四騎士がひとり、『雷光』バジウッド・ペシュメルが抜剣してやってきた。自分の顔をみて緊張を緩めた同僚を半ば無視するように、ニンブルは室内へと乱暴に入っていった。
「失礼します。陛下」
ドカドカと足音も高く踏み込むようすに、普段の涼やかさは微塵も残っていない。戦場から離れたこと、首に隊長から渡された〈獅子の如き心〉を付与したネックレスをつけることで平静を保ってはいるが、事の重大さが態度の優雅さを消した。
「よくぞ戻った、ニンブルよ。バジウッドも戻れ」
ジルクニフの言葉でバジウッドは剣を鞘に納めてジルクニフの背後に控えた。室内にいるのは皇帝その人と四騎士のバジウッド、レイナース、ナザミ。ロウネをはじめとした一部の文官。フールーダの高弟数人。他にもジルクニフの信任篤い側近たち。中にはニンブルの轟音への動揺を隠せない者、不敬とも言える拙速さに不満げな者もいるが、他ならないジルクニフ本人が問題にしていないため何も言うことはなかった。
「さて、私は《伝言》で先に聞いているが、この者たちには教えていない。ニンブル。おまえの口から説明するがいい」
「はっ」
返事をしたニンブルは己を落ち着かせるように、騎乗の疲れを飲み下すように、一呼吸の間を空け、答えた。
「今回の戦いにおいて帝国側の死傷者は、遠方からの確認になりますが、おそらく五万に及ぶかと思われます」
その言葉に、室内の幾人かが穏やかな笑い声で応じた。顔を見合わせ、和やかな様子でさえある。皇帝本人に捧げる戦況報告という場でありながら、冗談としか思えない内容であったためだ。
今回帝国が動員した兵力は六万超。兵士、騎士、神官、魔法詠唱者からなる混成軍と、兵站だ。純粋な戦闘員だけで言えば五万人ほどだろうか。被害五万とは、すなわち兵士、騎士など前線の全滅に等しい。
いかに総数に倍以上の差があろうとも、専業軍人からなる帝国軍が、農民に武器を持たせただけの王国軍に壊滅させられるなどありえない。
そう考えての笑いであったのだが、ニンブルの表情が、それを受けるジルクニフの態度が、その笑いを尻すぼみに消えさせた。
「俺とて信じられん。ありえないと切り捨てたい。だが、この場にフールーダがいないことが、俺にそれをさせないのだ」
先ほど笑った者たちがハッとして顔を見合わせる。フールーダがいないということは、すなわち彼以上の魔法詠唱者の存在を示唆している。
「どうせ被害の算出はせねばならないのだ。まずはニンブル。お前の見たものをそのままに教えてくれ」
「はっ。私がまず見たのは、王国全軍を覆う薄青い天蓋のようなものでした。パラダイン様は、魔法による障壁ではないか、と。全軍を覆ってしまっては進軍もできないはずだと仰っていましたが」
「バカな。王国は寡兵だったのですか?」
「いえ、目算ですが、二十万はいたかと」
「その全軍を覆うほどの障壁など……」
「魔法談義は後だ。ニンブル。続きを」
「はっ。その障壁が張られたことで、我々は件の魔法詠唱者、アインズ・ウール・ゴウンを発見しました。彼奴は障壁の外、王国全軍の先頭におりました。遠目ゆえよく見えませんでしたが、貴族のような装いに、邪悪な仮面をつけた大柄の人物です。彼奴が腕をひと振りすると、今度は彼奴を中心とした文字とも記号ともつかない羅列が半球状に現れたのです。パラダイン様も見たことがないご様子で、その次の瞬間には……」
ろくな息継ぎもなく語られる内容に目を白黒させていた者たちは、ニンブルが言葉を詰まらせたことで咀嚼する時間を得た。ニンブルはしゅん巡するように言い淀むが、すぐにキッと前を、皇帝を見据えて続けた。
「次の瞬間にはこの皇城にも匹敵しようかという大きさの岩石が、紅蓮の炎を纏って王国軍上空に現れ、帝国軍へと落ちてきたのです」
沈黙が部屋を支配した。時間が止まってしまったかのようだった。面々はみなニンブルから視線を外さないが、その色はそれぞれ異なる。ジルクニフは見通すように鋭い眼光で見据え、側近たちは眉を潜め、高弟たちは口元に揶揄の笑みを浮かべ、バジウッドとナザミはどこか気遣わしげだ。そしてそれらを一身に受けるニンブルは、ピンと背筋を伸ばし決然とジルクニフと視線を合わせている。
「……………………魔法詠唱者としての意見を聞こう」
長く重い沈黙を終えたのはジルクニフだ。頬杖をついたままフールーダの高弟たちに問う。
答えたのは、召集された中でも一番位の高い男だった。
「はっ。率直に申し上げますと、アノック様はゴウンなる敵の魔法詠唱者によって洗脳、あるいは幻覚を見せられたのではないかと」
「なぜそう思う?」
「そのような魔法、あり得ぬからです。我が師、パラダイン様がそのお力を増幅させるいかなる大儀式を用いたとて不可能でしょう」
「自分の知らないものは存在しない。そういうわけか? お前がフールーダを知らなかったとして、第六位階魔法を使いこなす二○○歳の老人の話を聞いて、真摯に受け止めたか?」
「それは……、失礼いたしました。しかしながら、それほどの大魔法詠唱者がこれまで無名でいた不自然は残ります」
「そうだな。では洗脳や幻覚だったとして、フールーダがいない理由はどう説明する」
高弟はやや間を空けて答えた。
「もっとも可能性が高いのは、《生まれながらの異能》ではないでしょうか。師も含めて《生まれながらの異能》で惑わされたのでは? 無名であったのも、最近まで自身のタレントに無自覚であったと考えれば……」
「では聞くが、人が豆粒に見えるような遠方から、恐らくは複数人または広範囲に洗脳や幻覚を見せる《生まれながらの異能》持ちがいた可能性と、ニンブルの言う大魔法を行使する魔法詠唱者がいた可能性。具体的にどれ程の開きがある?」
「…………」
高弟は返事をできずに口を噤んだ。《生まれながらの異能》は発生の条件がわかっておらず、恐らくはランダムに人に授けられる。その内容も多岐に亘り、通常本人に前もって知る術もない。それを自覚せずに生涯を終えるものもいるだろう。そんなものを持った人間が生まれる確率など出しようがない。
「無論《生まれながらの異能》は考慮に入れる必要があるが、前提として考えるには置かねばならない仮定が多すぎる。俺には、『ニンブルの見たものを否定したい』という結果ありきの推論に見えるな」
「……申し訳ございません」
「よい。意見とは貴重なものだ。無駄に萎縮する必要はない。お前たちは省に戻りニンブルの話す魔法が実在する前提で、想定されうる儀式や代償などを考えてくれ。類例がないかも探せ。書庫をひっくり返しても構わん」
「はっ」
「へ、陛下ッ!!」
突如、ひとりの文官が部屋に入ってきた。
「何事かっ!」
ロウネが叱責する。バジウッドに剣を納めるよう手で示し、ジルクニフは声をかけた。
「どうした? その袖の血と関係があるんだろうな?」
言われて皆の視線が男の右袖に向く。そこには並ならぬ血が、べったりと付着していた。
「ぱ、パラダイン様が塔の研究室に、血塗れで倒れているのを発見いたしました!」
「なんだとっ!?」
さしものジルクニフも腰を上げた。
ニンブルと共に帰らなかったフールーダが塔にいるのはまだいい。転移魔法が使える爺のこと、それを使ったと思えば納得もいく。だが血塗れで、とはどういうことか。魔法の余波に巻き込まれでもしたか。
「既に神殿に運び、複数の神官が治療に当たっております。出血こそ多いものの、回復は叶うとのことでした。陛下にはパラダイン様のお言葉を伝えに参りました!」
治療中との言葉にジルクニフは息を吐いて荒く座った。フールーダを失うことは帝国として損失が大きすぎる。彼がいるといないとで戦力の多寡が大きく変わる。周辺への睨みがまるで違う。
そしてジルクニフ個人としても、ある意味では親よりも親密な間柄なのだ。
幾分冷静になったジルクニフの脳に疑問がひとつ。フールーダは既に治療中で命も助かる。ならば喫緊の事態ではない。皇帝たる自分のいる部屋へ、入室の礼儀も欠くほどに慌てるようなモノが、まだ控えている。
「伝言か……。フールーダの言葉を直接聞いたのはお前か?」
「はっ。その通りです」
「脚色も要約もいらぬ。一言一句違わず復唱せよ」
「承知いたしました。ですが、パラダイン様は発見時すでに相当な血を失われており、曖昧なご様子であったことをお知り置きください」
「よい。どのような内容であれそなたも爺も罰するようなことはない」
「ありがとうございます」
文官の男は、微かな間を置いて話した。
「パラダイン様曰く、『ゴウン様は第十位階を扱う魔法の神であられる』と……。曖昧なご様子ではあったものの、お言葉自体は非常に明朗で、聞き間違いは無かったとお思いください」
室内は静寂に包まれた。
驚愕か、疑義か、絶望か、あるいはそれらのないまぜか、色濃く重い静寂であった。
「…………感謝する。下がれ」
「はっ」
辛うじてそれだけ口にすると、ジルクニフは深く深く背を倒し、片手で顔を覆った。指輪同士がカチリ、と音を立てた。
「……陛下」
どれ程長く続いただろう。ロウネが労るように声をかけると、ジルクニフは強い眼差しで顔を上げた。
「まずは欺瞞の可能性をはっきりさせねばならん。戦場跡を見に行くぞ。可能な限り急げ。誰か、フールーダの様子を確認してくるのだ」
●
「もうよいのか、爺」
「お恥ずかしいところをお見せしましたな」
フールーダは翌日には眼を覚ました。戦場跡の視察には是非に連れていきたかったジルクニフとしては、一日待つくらいはなんということもない。
目を覚ましたとはいえ本調子ではない。魔法で飛ぶのは控え、鷲馬に乗るつもりであった。もし万全であったなら、すぐにでも王国へと飛んでいってしまったかもしれない。
今、フールーダの腰にはさながら罪人のように縄が巻かれ、ジルクニフの腰と繋がれている。名目上はジルクニフの落下時にフールーダが魔法で救うためだが、その実、フールーダがひとりで王国へ赴くのを阻止するためだった。
「ゴウンは今回の一件で授爵するだろう。暗殺への対策も並のものではあるまい」
「そう釘をさされますな。私も承知しております。ゆえにこそ、ジルには国交を保ってもらわねばならん!」
ジルクニフは苦笑で応じた。陛下でなくジルと呼ぶ辺り、気もそぞろなのは明らかだった。
王国では今頃ゴウンへの受勲式が行われていることが、密偵によりわかっている。戦場跡に詰めているわけもない。
「陛下」
「出来たか。急ぐぞ」
「はっ」
皇室空護兵団がジルクニフに準備の完了を告げる。今回の視察にはジルクニフ本人が直接向かうこともあり、万全の備えを要した。《飛行》を使える魔法詠唱者も多数同行するが、通常であれば随行する四騎士は、今日は全員留守番だ。皇室空護兵団以外の人員は、全員が自分で飛行出来る者に限られている。高高度からの隠密が今回の目的だからだ。
鳥を見かけることすらない平穏な空を旅することしばらく。いよいよカッツェ平野の上空に達した。ジルクニフも、その他の者も、誰も、なにも口にしない。
無論、ここに着くまでにも見えていた。見えてはいたが、信じられなかった。
ジルクニフやフールーダ、一部の高弟が遠見のマジックアイテムで眼下を見下ろす。地表にあるのは破壊の痕跡のみ。大きく抉れた地面は奇妙なほどに滑らかで、細かな凹凸は飛行によって角度が変わるとキラキラと輝いている。
平時であれば霧が立ち込め見通すことは出来ないが、その霧すらも蹴散らされている。穀倉地として目を付けていたなだらかな土地が、今や巨人が横たわれるような大穴ではないか。
「擬装の類いは?」
「お待ちください。…………ありません」
ジルクニフの疑問にフールーダの高弟のひとりが答える。マジックアイテムによる精査の結果、擬装の痕跡は見付けられなかった。
「いかがなさいますか?」
皇室空護兵団の団長が伺う。降りるかどうかと問うているのだ。
王国兵の姿はない。降りるなら今か。
「待たれよ!」
途端、フールーダが鋭い声を発した。どうしたのかと聞く前に、眼下に異変を見つけた。いったいいつからそこにいたというのか、明らかにリ・エスティーゼ王国国王が率いる一団が、そこにいるではないか。
「魔法か?」
「おそらく」
ジルクニフの短い問いに、フールーダもまた短く答える。短いが、その返答の意味は重い。フールーダをもってして、突如現れたかに見える現象が魔法かどうかすらわからない。
その眼は眼下においても一際目立つ、仮面の大男に向けられていた。ジルクニフはあえて腰の縄を引く。フールーダに自分の立場を思い出させようとした。
次の瞬間。
「ふおおおおぉぉぉぉ! これはまさしくあの時の……!!」
仮面の大男を中心として、薄青い半球が展開したのだ。
「これは、ニンブルの報告にあった……!? 爺! 転移だ! 爺!?」
フールーダは心ここにあらず。亡我の様子でよだれすら垂らしながら半球の文字を眺めている。とてもジルクニフを連れて転移することなど出来ないだろう。
「全員、全速力で待避!!」
ジルクニフの血を吐くような命令と重なるように、遥か下方で、微かにガラスの割れるような音がした。
変化は一瞬であった。
仮面の大男を起点として、緑が侵食していく。無事であった王国側は元より、巨大な大穴はどこから土を持ってきたのか平らな平地へと変わり、草花の生い茂る生命力溢れる草原と化してしまっている。
誰も、なにも、意味が分からなかった。
離散し、明らかに目減りしていた土はどうした? 草や花はどこから持ってきた? 見間違いでなければあれは蝶ではないか?
答えのでない問いが、ジルクニフの脳内を回遊する。縋るような目で擬装看破要員に目を向けるが、冷や汗まみれの顔でゆっくりと首を振っていた。ああ、なんということか。回収の間に合っていなかった我が国の兵の遺体は、遺品は、のどかな緑の侵食に呑まれてしまったのか。
「先に城に戻る。皆、決して御方を刺激するな」
誰のものかと思うほど、厳格な威厳に満ちたフールーダの声。それを聞いた次の瞬間には、ジルクニフの周囲の景色は皇城のものへと変わっていた。周囲のどよめき、四騎士の問い掛けが厚い皮の向こうのようにボヤけて聞こえる中、腰縄の先のフールーダが、かつてないほどに真剣な眼差しを向けてくる。
「なるほどな、フールーダよ……。お前が言っていた魔法の神という評価、あながち間違っていないのかもしれないな」
辛うじて絞り出した強がりそのものの軽口も、喉が掠れてうまく出ない。統治者としての威厳を感じさせない己に、しかしフールーダは厳かにうなずいた。
「然り。あの御方こそまさしく魔法の神。それも、私の信仰する小神なぞ比較にもならない一柱。未だ戦の穢れ色濃いこの身ではとてもとても……」
あぁ、この魔法狂いが大人しいのはそれが原因か。
ジルクニフは遅まきながら得心した。自分より優れた魔法詠唱者とあらば、狂喜乱舞して足元に跪いてもおかしくないと思っていたが、どうやらそれどころではない相手らしい。
ジルクニフはこれまで、フールーダの魔法の知識と審美眼に助けられてきた。当然大きく買っている。
それが、こうなっているのだ。
ひとまず、戦争は終らせるべきだ。
降伏。よくて停戦。
ジルクニフはボヤけた頭で、王国への書状の文言を考え始めた。