死にかけるというのはいい気がしないものだ。意識が浮上しきっていない頭で護堂は思った。暗がりのなか腕時計をたしかめる。簒奪した当初は複雑な発動条件の数々に振り回されがちだったが、フェニキアの神王や同輩である剣の王と交戦し、随分と戦い慣れてきた。
使うほど習熟し扱い易くなっていくのは蘇生の化身である"雄羊"もまた然りだ。死と再生のスパンが短くなっていく。 最初は六時間。その次は二時間、その次は……とスパンは短くなり、しかし今回の蘇生時間は──ゆうに
「──最長記録更新、だな」
自嘲気味につぶやく。
権能は使い込むほど掌握していく代物だ。
どれほど鍛錬しても意味は薄く、戦いで揮ってのみ洗練されていく。まさに一日の実戦は千日の鍛錬に勝るを体現した力。
”雄羊”もそれに倣うなら蘇生のスパンは短くなって然るべき……なのだが。今の護堂が置かれた特殊な状況下では仕方がないとも言えた。
古代ペルシアの軍神から十の化身を簒奪した護堂は、ゆっくりとしかし確実に権能を掌握しつつあった。現在、掌握しているのは以下の通り。
一の化身『強風』──発動条件は護堂と宜を結んだ者が危機に瀕した時、名前を呼ぶこと。風とともに駆けつける瞬間移動の化身。
二の化身『雄牛』──発動条件は人間では対応不可能な質量や膂力無双の神と対峙した時。獲られる力はシチリア島を投げ飛ばした女神の豪腕に匹敵する剛力の化身。
三の化身『白馬』──発動条件は世に仇なす大罪人と対峙した時。太陽の欠片を空から叩きつけるという化身の中でも最高峰の火力を誇る怨敵滅殺の化身。
四の化身『駱駝』──発動条件は瀕死の重傷を負った時。激烈なキック力と卓越したバトルセンスをもたらす格闘の化身。
五の化身『猪』───発動条件は城やビルなどの巨大な建造物を標的に定めること。猪の姿をした神獣を召喚しこの世から標的を跡形もなく崩壊させる破壊の化身。
七の化身『鳳』───発動条件は飛来する弾丸や剣閃を受けた時。稲妻にも匹敵する速度を得る神速の化身。
八の化身『雄羊』──発動条件は瀕死の重傷を負うか死ぬこと。たとえ死亡しても即死しない限り蘇る蘇生の化身。
十の化身『戦士』──発動条件は知識を得た時。神々の力を切り裂く剣の化身。
掌握出来ていないのは六の化身『少年』と九の化身『山羊』だけだ。
そしてそれらの化身は護堂を生きながらえさせるため、日に日に進んで供犠されていった。
「また捧げてしまった……。悪い、"鳳"……俺のせいだ……」
眦に微かに垣間見えたのはなんだったのか。護堂の諦観に溢れたぼやきは晦冥の洞で陰々と木霊した。
護堂が囚われて──
生き延びるため自分の代わりに、ひとつ、また、ひとつ、と化身を捧げて……
もう残る化身は二つしかない。
護堂がこの金銀財宝以外何もない洞に囚われ、その間、生き長らえ権能すら行使可能だったのはひとえに化身を供犠していからだ。訪れる死に抗い"雄羊"で蘇生していたからだ。
いかに天上の神々を殺めたカンピオーネといえど、一応、人類の延長線上にある。物理法則に縛られるし、分類上は一応……生物だ。 つまり食事を取らなければいずれ餓死する。呼吸しなければ酸欠で死ぬ……そういった枠組みから外れたカンピオーネも何人か存在するが基本的には生き物の常識に従っている。
そして、護堂が生き長らえた要因はもうひとつあった。
───G i i i i i i ……。
護堂を包み込むようにとぐろを巻くオオムカデ。この神獣の存在がなければ護堂はとっくに渇死していたはずだ。 鹿島神宮で交戦してから不思議と縁が続いているこのオオムカデは、鎖を解いた護堂に恩義を覚えたのかはたまた洞から出られないからか、護堂の世話を焼いた。
オオムカデは護堂が覚醒したのに気づいたのか、身を寄せると胴部の内腹から触手のような細長いものをまろびだした。
「う、ぁ……んぐ、んグっ」
護堂はそれにゆるゆると手を伸ばし、口元へ運ぶと一も二もなく吸い付いた。じんわりと口内に水気が広がり、遅れてほのかな甘みを感じた。
あの触手は乳房の一瞬なのだろう。そして食べ物も水もないこの洞で、護堂が唯一摂取可能な食事だった。
鉱山や大地、或いは《鋼》と縁深いはずのオオムカデだが不思議と水を生み出しては護堂に与えていた。詳しい理屈は知らない。助かるならそれでいい。生き残れるなら、それで。
「はぁ、はぁ……、くそっ……ちくしょう、ちくしょう……!」
けれど心に蟠るものは大いにある。数日前まで圧倒的な力で痛めつけた相手に、生命を支えられている。唇を噛み切ってしまいそうなほど噛み締めた。と言っても血は出なかった。噛み切るほど余力が残っていなかったから。
反省も、後悔も、そして怒りも、何度繰り返しても打開の糸口にはなり得なかった。
護堂も座視していた訳では無い。脱出を試みたこともあったが、結局徒労に終わった。
最大火力の"白馬"は世を騒がす大罪人という条件を満たせず行使不可能。"猪"もそもそも場所を指定できず。条件を満たせそうで馬力のある"雄牛"は初日に早々に捧げてしまった。
異世界の壁すら飛び越える"強風"を使えば簡単に脱出できるのだが……都合良く外の誰かが救けを求める事はなく捧げる方が先になった。
自分が留守の間、友や相棒が死の危険に瀕した喜ぶべきではあるのだろうが……現状、護堂は枯死を待つほかなかった。
「エリカ……」
意図せず相棒へ思考が及んでしまう。ここ数日思考がそちらへ接続しないよう注意していたが、いよいよとなり抑えきれなかった。
護堂は感覚的に理解していた。
化身を捧げるたびに呪力というより生命力をすり潰しているのだろう、と。
外界からの繋がりを絶たれ、食事という供給源もない護堂が、権能という超越的な力を使うにはカンピオーネの膨大な生命力に縋るしかない。
カンピオーネは生き汚い。常人では既に事切れている状況でも何とか生き長らえているのはカンピオーネの生き汚さゆえか。
だが護堂は日に日に弱っていった。
肉体もそうだがメンタルも崖っぷちだ。暴れようにも武器を振り回す余力もなく、そして暴れたところで活路すら見出せない。蘇れば決まって傍らにいた騎士の姿がないのも護堂のメンタルに大きなマイナス要因となって一撃し続けていた。
「悪かった、俺が、間違ってた……」
慚愧の念を込めたうわ言を繰り返す。
普段、嫌忌してやまない化身たちでさえ身を挺して自分のために供犠されていく姿に、思うところがないと言えば嘘になった。
もっと用心深かったら。
もっと化身を使いこなせていたら。
もっと
もっと
現在のような暗澹たる結果ではない多少はマシな違う結果があったのではないか。そう思わずにはいられない。
草薙護堂はカンピオーネ。後先考えず神を弑逆した愚か者。エピメテウスの落し子。終わったあとに考えるのがカンピオーネであり草薙護堂の業なのだ。
──でも。それでも。
護堂は可能なら権能を使いたくなかった。
"雄羊"一つ取っても、一度死んでから蘇る桁外れの力だ。それに比肩する力が他に九つもある。
馬鹿げた話だ。
まつろわぬ神に勝利したとはいえ、精神というのは結局人の延長線上にある。馬鹿は死んでも治らないというが、馬鹿は神を弑逆しても変わらない。余計酷くなる。
肉体は大きく様変わりしても精神はそれほど変化しようがないのだ。それは護堂自身が一番理解していた。
権能とは人に不相応な代物だ。
どんな富や権力すら鼻で笑えるほど桁外れの力。今だって富や権力に溺れて身を破滅させる人間が絶えないというのに自分が権能に溺れて破滅しないと言い切れるはずがない。
だから時々、この力に溺れそうになるのが嫌だ。
否、溺れてしまいたくなる自分が嫌だ。
人間誰しも思うものだ、強大な力で暴れてみたいと。体育館の全校集会や教室の授業中にテロリストが、そんな妄想を誰しもやったことがあるはずだ。それらを瞬く間に制圧出来るし、もっと言えばいけ好かない組織や横暴な振る舞いをする国家だって屈服可能なのだ。
今はそんな蛮行が許される時代じゃない。
トマス・ホッブズが決別した常に闘争状態にある石器時代じゃない。立派な文明人なのだ。獣のごとき破壊衝動なんぞ認められるはずがない。
鹿島神宮でオオムカデと戦った時だって正直、嫌々だった。だって現代日本で普通に育ち、
だが。
護堂は思う。
その考え方がこの結果を生んだのなら……今は護堂自身が囚われた。といえ、もし囚われたのがエリカだったら。 ドクン、と大きく心臓が鼓動した。
目を開ける。絶望的な状況でさえ──護堂の目はまだ死んでいなかった。
それこそカンピオーネの真骨頂。たとえ敗色濃厚でも一縷の望みが潰えても、立ち上がって抗う根っからの
あと二つ残った化身、そしてオオムカデ。今、護堂が持ちえる手札だ。あまりにも少なく、活用手段も限られている。
傍にあった紙を手に取った。
「やられっぱなしってのも性にあわないからな……」
歯で指を噛む。普段なら瞬く間に治癒するのに今は酷く緩やかだ。
流れ出る血でゆるゆると文字を書き込んでいく。この手紙はエリカに届くだろうか、エリカは来てくれるだろうか。
それでも信じるのだ。
それしかできないなら、尚更。頑迷固陋なまでに。
護堂はオオムカデに身を預け、爪を研ぎながら決意を秘めた言葉を零した。
からん。ころん。
ここ数日で嫌というほど耳慣れた下駄の音が近づいてくる。音の主は知ってのとおり恰幅の良い墨色の坊主。 威嚇するオオムカデをなだめながら黒坊主と何度目かの対峙を果たした。
「時間ですぞ」
「随分と早いんだな」
「ほほ。拙僧が早いのではなくあなたの目覚めが遅かったのですよ」
黒坊主の手には長大な剣の他に、オオムカデの牙が握られていた。どちらも未だに乾かぬ護堂の血がぬらぬらと滴っていた。剣は血と脂で切れ味が落ちそうなものだが、そんな事がないのは文字通り身をもって知っている。
オオムカデの顎からは地面を溶かすほどの猛毒が滴っており、あれを剣で付けられた傷口から注がれるのだ。尋常じゃない痛みにまともな思考すら出来なくなってしまう。
「これで九日、供犠する化身も九柱目。いよいよあなたの命脈も風前の灯火となったようだ」
"雄羊"で蘇り続けた命だ。最後に供犠する化身は"雄羊"以外なく、護堂は堅守し続けていた。
ゆえに今日供犠するのは最後に残ったもうひとつの化身。心の中でその化身へ陳謝しつつ、護堂は覚悟を決めた。
黒坊主が剣を振り上げる。
立つのもやっと、といった風の護堂に抗う力はない。剣が振り下ろされ強かに護堂を切り裂いた。自分の裡にある大切な何かが無理やり引きちぎられた感覚とともに、護堂は残った化身がやっと発動条件を満たしたのを感じ取った。
化身が供犠され、それにともない帆を張った宝船が姿を現す。しかしその帆にはまだ何も描かれていない。
「ホ?」
黒坊主が訝しむ声が聞こえる。
これまで化身は供犠すればすぐさま宝船の帆に描かれ、護堂の身から離れていった。
しかし今は違った様相を呈していた。
そうだ、この化身は打たれ強い。たとえ致命傷を受けても驚くべき耐久力で多少の時間護堂の中に留まるほどには!
「全ての悪しき者よ、我が力を畏れよ!」
臍下丹田から吹き上がる残り少ない生命力をかき集めて賛美の言霊を称揚する。
「今こそ我は、十の山の強さを、百の大河の強さを得ん! 雄強なる我が掲げしは──」
これは二つ残った化身の一つ。発動条件はダメージを受けること、それも生半可なダメージではいけない。 今のように剣で切り裂かれるくらいの代償がなければこのグルメはOKサインを出さないサディストだ。
この化身の名を──
「──猛る”駱駝”の印なり!」
『駱駝』
肉体が悲鳴を上げている。消耗しきった身体が無理やり動かされてブチブチと筋肉や関節の至る所から千切れる音が鳴り響く。
それでも護堂は歯を食い縛って立ち上がった。体力はもうギリギリ、短期決戦で臨まねばならない。
"駱駝"がもたらすのは異常な程の打たれ強さと鉄の身体をもつ《鋼》すら粉砕する凶悪なキック力。
護堂は眼前の隙だらけの黒坊主へ絶大な威力を誇るハイキックを叩き込もうとして──鋼の意思で抑え込んだ。
どうせ黒坊主をここで殺めても洞から出ることは叶わない。それはここ数日の間に結論付けたこと。護堂の狙いは別にある。今にもくずおれそうな身体に活を入れる。
「荒っぽくてすまないな……でも我慢してくれ!」
そのままオオムカデに飛びつくと"駱駝"の脚力で、宝船にまで蹴っ飛ばした。
──GYAAAAAAAA!?!?
遠くでオオムカデの悲鳴が聞こえる。
身体からふっとなにか大切なものが抜け落ちていくのを感じる。帆に駱駝の絵が描かれていくのが見えた。
(すまない。すまない。いつか、必ず、お前を、お前たちを取り返す……だから今は……)
「……エリカの、ところへ!」
これは賭けだ。あのオオムカデを載せた宝船がエリカの元までたどり着く保証は無い。
よしんばたどり着いても護堂の元まで馳せ参じる可能性は限りなくゼロに近い。それでも護堂は賭けた。元々、歩の悪い賭けは嫌いじゃない。
あとはエリカに全てを託すのみ。
限界を迎えた護堂は倒れ込みながら、だが、満足そうに微笑した。オオムカデが宝船とともに消え去るのを網膜に焼き付けながら。
「はは……。やったぁ……ぞ……」
万感の思いを吐き出しながら、右手に冷たい刃の切っ先が入り込んできた。皮を割いて、肉を裂き、骨まで達した剣に護堂はたまらず苦悶の声をあげた。
「が、ぁが……っ」
「余計なマネをなされますな草薙王」
冥府からせり上って来たのかと錯覚するほど底冷えした声だった。福面とは名ばかりの能面のごとき雰囲気で黒坊主は護堂を見下ろしていた。
「大願成就はほど近い。妙な真似をされるのは困るのです」
右手に突き立てられたままの刀身が骨に添うように腕まで切り裂いていく。激烈な痛みに絶叫もあげる体力がない護堂は夥しい血の海に沈みながら呻吟を零した。
魔術なら弾けるが物理攻撃ではそうもいかない。
カンピオーネの身体は異常なほど治りが早い。
普段なら瞬く間に治癒するのに傷の治りが遅い。骨に添って肩まで達し、やっと終わったと護堂が安堵したのもつかの間だった。
「次は左ですな」
カンピオーネは生命力旺盛だ。
護堂が力尽きて"雄羊"とともに死へ向かったのは左手と右足を蹂躙され、左足を切り裂かれる途中のことだった。
落ちる。墜ちる。堕ちる。
もう何度目になるか、この感覚を護堂は知っている。当たり前のことだが、人は死を認識できない。だから死の1歩手前の場所なのだろう。
──劫。
奈落の底へ墜ちる途上で、何かが瞬いた気がした。あまりにも遠くて良く見えない。でも護堂はアレの正体を識っていた。
「ああ、あんな所にあったのか」
ずっと失くしたと思っていた。けれど思い違いだった。
"アレ"はきっと草薙護堂というカンピオーネとひとつになっていたのだ。だから気付くことが出来なかった。
何せ"アレ"の性質と由来は、
あの神具は石だ。石板に神代の叡智が刻まれた魔導書だ。
そして人間は石だ。
大洪水のあと、生き残ったデウカリオーンとピュラーは後ろに石を投げ、それが人になったのだから。
《偸盗》を宿した石と『簒奪』を宿した人。
プロメテウスの息子デウカリオーンの投げた石と、エピメテウスとパンドラの娘ピュラーの投げた石。
きっと全く別のようでいてルーツは同じなのだ。
護堂がカンピオーネへ作り変えられる途中、すぐ手元にあった"アレ"はカンピオーネ自身が保有する"簒奪"という権能に引っ張られた。
そして同化とも呼べる現象に合い、跡形もなくなったのだろう。
まるでコーヒーに溶ける砂糖やミルクのように。
一度溶け合ったなら分離は不可能だ。だからこそ護堂が何度死にかけても比喩抜きに死んだとしても気配すら感じ取れなかった。
……けれど黒坊主によって化身を供犠しつづけ、器用にコーヒーだけを追い出している内にようやく顔を出した。
護堂の裡にあった十の灯しは最後の一つを残して消え去った。
そして風前の灯火は、隠れ潜んでいた盗人の火を詳らかに照らし出した。
護堂はその光へ向けて手を伸ばし……。
『──約束──。必ず──のために───』
陽の完全に落ちきった夜分遅くに一本の連絡を受けたエリカは、少々肌寒さを感じながらマンションの前で待ち人を待った。
「さっきぶりですねエリカさん」
やがて待ち人は来た。訪ねて来たのは男装の麗人、沙耶宮馨だった。少し先に車が駐車してあり、運転席には甘粕の姿があった。
とはいえ今はエリカと馨だけだ。エリカは昼の会談と変わらず辛辣な視線を向けながら要件を問いただした。
「なんの用かしら? あなたが東照宮への許可を出してくれたお陰で明日は早くなりそうなの。大した用事が内容なら日を改めていただきたいものね」
「あはは、そんなに棘のある言い方をしないでください。確かにこんな夜更けに美しい貴婦人の部屋を呼びつけるの無礼千万と悩みはしましたけどね」
肩を竦めてなんとも色気のある微笑を浮かべながらエリカへ視線を送った。
「くだらない話に付き合わせるつもりなら帰らせて貰うわ」
スッと目を細め、顎でしゃくるようにマンションの出入口を示した。
「ああ、申し訳ありません。癖のようなものでして、ご不快でしたら謝罪します。……早速ですが本題に入りましょう……時間もないことですし」
馨の言葉に返答せず、視線で先を促す。
「正史編纂委員会側の僕と黒王子側に鞍替えしたエリカさん。本来敵対とは言わなくも微妙な関係にある僕らですが……昼の会談で確信を抱きました」
「確信?」
「ええ、どうやら僕とエリカさんは手を取り合える余地がある、とね」
「……どういうこと?」
のっけから予想通りであり予想外の話だった。馨から接触があるとすればアレクに隠れて内応の打診が来ると思っていた。
内応と言っても東照宮の調査の妨害が精々だろうと踏んでいた。しかし、どうも様子が妙だ。エリカの直感がこの話を逃してはならないと警鐘を鳴らす程度には妙であった。
「その確信を確証にするために不躾ながらこの場を設けました。そしてこれから二つの質問をエリカさんに投げかける無礼をお許しください」
「嫌よ。私はアレクと共にあるのよ? 今更、あなた達と手を結んでなんの得があると言うの?」
言うが早いかせせら笑うようにエリカは席を立ち、馨へ背を向けた。
「ヒールを装う段階はもう終わったんですよ」
立ち去ろうとしたエリカの背中に馨はついに無視できない言葉を投げかけた。
やはり沙耶宮馨は理解している。多少の揺さぶりでは動じないほどに現在の盤面が見えているようだ……それもエリカ自身見通せていない部分まで。
「アレク王子の目的。そして彼の王が何をしているのか……エリカさん、あなたは知りたくないですか?」
「…………」
「検討が付いていない。付いていなくとも確信が持てていないのなら、僕の話を聞いてみてください。損にはならないと保証しますよ」
エリカはため息をついて馨の前に戻った。
「一つ目の質問です……エリカさんは東照宮に封印されている神の見当は付いていますか?」
「そう問われれば否と答えるしかないわ。だって明日、調査する予定なのよ?でもそうね……予想するなら、"聖杯"に関わる蛇殺し《鋼》の神格。となれば、円卓の騎士やナルト叙事詩の軍神の名前が挙がるかしら」
"聖杯"と関係が深い伝承は多くあるが、"聖杯"と関係する英雄神となればアーサー王をはじめとした円卓の騎士、それらの起源とされるケルト神話やナルト叙事詩の英雄たち。それらの顔ぶれが思い浮かぶだろうか。
「確かに"聖杯"が関わるならそうでしょう。では"聖杯"とは全く関係がなかったとしたら?」
「"聖杯"と関係がない……?」
「ええ。……エリカさんは疑問に思いませんでしたか? 我が身の恥を晒すようですが今現在、我々正史編纂委員会はあなたがたの奇襲によって良いようにやられているのが現状です。アレク王子やブルターニュの魔女が"聖杯"の探求者であることは世界的に有名な話ですが……なら東照宮の神が"聖杯"に関係がある──本当にそうなら我々は彼らに対して警戒をしていても良かった、とそう思いませんか?」
「それは……」
確かにそれはそうだ。
正史編纂委員会は東照宮の神について間違いなく把握している。自分たちで封印したなら当然のこと。
そして日本に縁がほぼ皆無な英国のカンピオーネとはいえ、アレクが"聖杯"の探求者で東照宮に"聖杯"に由来する神がいるなら警戒はしていていいはずだ。
だがアレクの暗躍に全く抵抗できていない。それはもう情けないほど。
完全に意識外からの接触だったのだと、部外者のエリカですらわかったほどだ。
人にせよ、組織にせよ、意識外からの奇襲というものには非常に脆弱だ。"聖杯"と絡んだアレクによる東照宮の調査は正史編纂委員会にとっての奇襲だったのだ。
そして。
「そしてこれが次の質問です。あなたは今──アレク王子が何処にいるか知っていますか?」
「……ホテルで休んでいるのではなくて?」
ゾッとする質問だった。正史編纂委員会にとっての奇襲が東照宮なら、エリカにとっての奇襲は”これ”だった。
足元がなくなるような意識外からの奇襲。馨たちが味わった感覚をエリカは追体験しているのだ、そう思えるほどの恐怖だった。
「僕の部下は優秀でしてね」と馨は運転席にのほほんと座る甘粕を見やると苦笑した。
「今日の会談、甘粕さんにあなたとアレク王子を迎えに行かせたのには理由があります。アレク王子は知っての通り、神出鬼没な王です。そして彼は我々の監視を振り切り、夜な夜な何処かへ出掛けていたようです……そして今日の会談の前に、彼に特別な発信機を仕込むことに成功しました」
「まあ、王子が稲妻になったらすぐ壊れてしまうんですが……」と馨は苦笑した。
「これは正史編纂委員会としても博打でした。神速で移動する彼が稲妻となるのはほんの短い時間ですが、それまでに目的地へ到着し一瞬でも位置情報を受け取れれば我々の勝ち。発信機が壊れても、王子に気づかれても、王子が目的の場所に向かわなくても我々の負け。……ですが今回は我々の勝利といっていいでしょう。ついに彼の居場所を突き止めました」
「彼は、どこに居るというの?」
沙耶宮馨は今まで浮かべていた微笑を取り払って、厳しい顔をしながら答えを口にした。
「アレクサンドル・ガスコインは今、千葉県の木更津市。その砂浜にある正史編纂委員会が管理する鳥居のもとにいます」