深く一礼して去っていったエリカを見送り、やがてアレクは重々しくため息を吐いた。
「……やはり惜しい人材を失ったものだな」
アレクの言葉通り、エリカはエクセレントな人材だった。盲い、聾して、すべてが手探りだった状態でアレクに正史編纂委員会と折衝の後、紆余曲折はあたもののアレクの企みすら看破に成功している。
エリカがこちらへ鞍替えし、更に多くの情報を得ていたなら、また全く別の結果を得ていただろう。そう確信させるほどだった。
欲しい。『王立工廠』の長であり探求者であるアレクサンドル・ガスコインの本音だった。
アレクは唐突に虚空へ向けて険の籠った言葉を投げつけた。
「チッ、相も変わらずどこにでも湧いて出てくるな貴様は? 何の用だ、悪趣味な覗き魔め」
するどどういう理屈なのか。どこから現れたのか。
グリニッジ賢人議会が『白き巫女姫』と敬慕するプリンセス・アリスがプラチナブロンドを靡かせて虚空をふわふわと漂いながらアレクの傍までやってきた。
「まあ、随分な言い分ですこと。若い女子に振られたあなたの顔を眺めにきたのは確かにはしたない行為と誹られても仕方ないですが……」
「見当はずれな言い方をするなっ」
毒を含ませた言葉に荒い口調で切り返す。公爵令嬢よろしく普段おしとやかな姿で取り繕う彼女だが、もう十数年ほど殴り合ってきた仲である。アレクに対して遠慮するところなんて何も無い。
半端な悪漢気取りの男と常習的に人をあざむく見栄っぱり女は、普段通りのやり取りを終えてそれからエリカが去った方向を見やった。
「どうやら事件も佳境なようですので」
今のいままで何処かで事件の推移を覗いていたのだろう。相変わらず趣味が悪いことだ、古い付き合いだが野次馬の悪癖がある彼女に鼻を鳴らす。
「そういえばアレクサンドル。先ほどエリカに対してなにかを言いかけたようですが……何だったのです?」
「あの洞に入っても意味は無いかもしれない──と」
「……なるほど」
「宝船の状況から読み取って草薙護堂は権能のほとんどを奪われていると見ていい。権能の所在は黒坊主にあるだろう、しかし、対価もなしに神に連なるものどもが権能をそう易々と返すとは思えん、黒坊主にすがったとしても無駄だろうしな」
「それはそうでしょうね」
権能は天上の神々のみが行使を許された特権だ。
才に優れるとはいえ人間の娘が差し出せる対価など存在しない。権能に比べれば人ひとりの生命などたかが知れている……なら、エリカが生命を差し出して希っても黒坊主は取り合わない。
「なぜエリカに伝えなかったのですか?」
「やつの覚悟を侮辱するほど重要なことでも無い。そう思っただけだ」
まあ、とアリスは感心したように声を上げた。アレクとの長いつきあいのあるアリスは賛嘆の視線を向けて手を叩いた。
「そんなアレクサンドル……。あなたも言葉をひかえることが出来たのですね……!」
「………………」
「いえ、あなたったらときどき、空気を読まない発言で女の子の心をズタズタに切り裂くことも多いから……。それでこそ紳士というものです!」
「感受性に問題がある人間のように俺を語るのは、そろそろやめろ」
かつてないほど渋い顔をしながらアレクが吐き捨てた。それからアリスはいまだに仏頂面を酷くしている白皙の青年に問いかけた。
「あなたが日本へ旅立った後、欧州事情は激変していますよ。調べたいことは調べ、やりたいこともやり終えたのでしょうアレクサンドル?」
「ああ、あとは仕上げだけだ」
からん。ころん。
特徴的な高い音を鳴らして下駄を履いた男──アレクが接触を試み続けたこの儀式の首謀者がやってきた。
その男、黒坊主はアレクの面前まで歩み寄ってくると待ち望んだ賓客を迎え入れるように恭しく頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。遥か西方の王子の名で呼ばれる『王』よ」
「ああ、やっと会えて光栄だ。黒坊主とやら」
黒坊主は御仏の笑みが彫られた福面を揺らした。
「俺は無駄な時間が嫌いだ。貴様とも長々と話し込む気分でも必要性も感じていない──手短に済ませてもらおうか」
「ホホ。そう邪険にせずともよろしいではないですかな? 智謀に優れたるあなたはこの”救済をもたらす聖秘儀の祭壇”を顕現させたのですから? なにか感想があっても良いのでは?」
宿願成就を目前にし上機嫌なのか擦り切れた黒衣を振り、黒坊主は身振り手振りでニライカナイ島を示した。アレクはその質問に鬱陶しそうに返すだけだった。
「救済をもたらす聖秘儀の祭壇にしてはつまらん場所だな」
「………………」
「…………」
「………………。ホホ、でははじめると致しましょうか」
流しましたね、アリスはアレクの失点を書き綴った心のメモ帳に新たに一文を追加しつつ成り行きを見守った。やがて黒坊主は問いかけた。人類にとって忌々しく悍ましい聖秘儀への入信儀式を。
「汝──『王』なりや?」
「ふん。俺は『王』だが……地球が太陽に飲み込まれた頃にやってくるような遅刻魔の『王』ではないな」
黒坊主の復活をのぞむまつろわぬ神ははるか遠くの未来に救済をなすと定められた神格だった。あまりにも気の遠くなるような未来、年数にしてその数……56億7000万年。
そして、これまで何度も飛び交ったこの問いかけの本質とは、つまりはこういうことだった。
『王』であること否定することで、自分が『王』であることを肯定する。
密儀の最奥に座す真の『王』を、『王』が肯定することでより強烈に権威を高める。
否定と肯定。そして否定によって契約を破棄することで、より強固に契約を結ぶ。
一見、真逆に思える概念を加えることで儀式はより高次元へと昇り詰めるのだ。雨が降って地面が固まるという故事のように。物乞いのような貧者の姿をした僧がどこか気高い神聖さを得るように。
背反する概念を清濁併せ飲むことで合一した概念はより上位へと至るのである。
「ホホ。結構でございます──ここに誓いは樹てられました。後は猛き愚者の落とし子よ、勇者としての証をお示しくだされ」
そう言い残して黒坊主は去った。エリカが消えた洞のなかへと。
「いにしえの密儀宗教。戦士たちが奉る”女人禁制の入信儀式”ですか」
アリスがつまらなそうに呟いた。
「ふん、さすがに見抜いていたか。……女神の多くは地母神だ。そして多くの地母神は『蛇』に連なる地母神だ。ゆえに蛇を狩り尽くすマングース……蛇殺しの《鋼》が守護するこの日本はたしかに”女人禁制の聖域”と言っても過言ではないからな」
エリカに『弼馬温』で封じられた蛇殺しの《鋼》が”場”を提供していると言ったのは、つまりそういう理由だった。黒坊主が聖秘儀のモデルとした宗教は、戦士たちによる信仰が始まりだったとされている。
古来より戦場は男の領分である。ゆえに女人が軽々に踏み入れることを許さない。そして、その性格はいにしえの帝国に広く伝わりはじめても保持しつづけた。
女人禁制の密儀宗教の主神にして、勇猛なる戦士たちが崇め奉った《鋼》の救済神はそうやって形成されていったのだ。
「まだ日本に滞在するつもりですかアレクサンドル?」
黒坊主が去ったあとアリスが問いかけて来た。おそらくこれが本題なのだろう、日本での目的をおおよそ終えたはずだが……アレクは首を縦に振った。
「ああ、これからが本番だ。黒坊主の主催するこの聖秘儀……数多の神々と神殺しを相争わせ、捧げ物にする馬鹿げた儀式の最後に何が現れるのか確かめなければ英国には帰れん」
「では……やはりわたしの危惧と”策”は現実のものとなりそうですね。アレクサンドル、早晩──あなたは英国に戻ることとなるでしょう」
「なんだと?」
魔王の眼光に怯むことなく天の位を極めた魔女は一通の書状を取り出してアレクに掲げた。封蠟に捺印された紋章はミラノの魔術結社『赤銅黒十字』の紋章だった。
「日本での騒動に加えてパオロ叔父様の姪たるエリカ・ブランデッリへの不義理。此度のあなたの所業、異国のこととはいえ少々目に余りましたので同じ国家の同胞としていくつか手を回せていただきました」
「なるほど絶縁状というわけか」
手渡された書状には『赤銅黒十字』の総帥にしてエリカ・ブランデッリの叔父パオロ・ブランデッリからのメッセージが綴られていた。これより敵対行動を取るとご丁寧に。
「わたしもパオロの叔父様と志をともにする由、お伝えしておきます」
アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールは公爵令嬢に恥じない見事な所作で、スカートをつまみ片足を後ろに引き膝を曲げて『王』へと一礼した。
「ふん、いつかの一件を繰り返すというわけだ」
かつて若かりしアレクの兇悪無惨な振る舞いを阻もうとアリスと手を結んだのがパオロであった。その功績を讃えられ『紅き悪魔』の称号を得たイタリア最高の騎士である。欧州でも五人といない騎士の最高位”聖騎士”でもある。
「だが侮りだな。パオロと貴様だけで俺に太刀打ちできると? それとも以前のような奇跡が続くと本気でおもっているのか?」
人間はまつろわぬ神々と同じようにカンピオーネには勝てない。その大原則はいかに人類の最高峰の武力や霊力を持っていようが変わらない。アリスがアレクの敵手が務まっているのは政敵として直接的な武力を放棄しているからだ。
それに聖騎士はアレクの側近であり留守居のサー・アイスマンもおなじだ。手薄とはいえアレクが帰還を急ぐ必要はなかった。
「それとも同族に頼る気か? だが他の同族が動いた兆候も報告されてはいない。貴様と接触したという報告もな」
ひとつひとつ可能性を潰すようにアレクは淡々と続けた。
「剣バカは行方をくらまし、夫人も相変わらず音沙汰がないが貴様らと接触した連絡も来ていない。老いぼれも例の一件以来、傷を負い静かなものだ。j.p.sも《蝿の王》との決戦を控え動けず仕舞い。筋肉至上主義者はいつも通り引きこもったまま」
地上に数人しかいない同族を丁寧に数えながら、最後に洞穴を顎でしゃくった。
「そして草薙護堂はあのザマだ──それともまつろわぬ神とでも手を組んだか?」
「ご心配なく。アレクサンドル、あなたが日本にいる間……欧州事情は激変したといったでしょう? 私はとある方と新たな知己を得たんですよ」
一切動揺を見せないアリスに、アレクの脳裏にひとつの報告書が駆け抜けた。
平穏だった欧州をアレクが英国を離れてすぐの事だ。北欧のとある都市で世を揺るがす大事件が起きたのは。短い平和を謳歌していた欧州魔術師たちの横っ面を殴り飛ばした一件。
都市の名をスウェーデンの『学術都市ルンド』
そこに本拠地をおく『
一人は齢三百を越すと言われる世界最古にして最悪の魔王。
そしてもう一人は──
「──ッ! 戦女神アテナを殺めた八人目……最新の魔王《
ついに正解に行き当たったアレク、アリスはうっそりと微笑んだ。
西欧の魔王アレクサンドル・ガスコイン
南欧の魔王サルバトーレ・ドニ
東欧の魔王デヤンスタール・ヴォバン
そしてこれまで空白地帯だった間隙を埋めるように現れた──北欧の魔王《
銀髪の髪に青褪めた面差し。
この世で最も硬い鱗であらゆる害意と敵意を挫き、生命を刈り取る大鎌で生きとし生けるものの根源を断つ、死神のごとき蛇。死を遠ざける聖水を生み出し、軍門に降ったものたちへ分け与える慈悲深くも生命を弄ぶ、富の分配者。黄金の爪持つ少女のすがたをした女魔王。
最近になって賢人議会が権能に『
カンピオーネとして活動を開始して二、三ヶ月という最も若い身空でありながらその戦歴は、アレクを以てして瞠目するほど華々しい。
始まりはノルウェーで勃発した大事件”ベルゲン・トライアングル”。
ローマの魔術師たちが持て余していた神具『ゴルゴネイオン』をとあるまつろわぬ神が奪取したことを発端とする事件だ。ゴルゴネイオンを奪取したまつろわぬ神とそれを追うギリシアの戦女神アテナの二柱がノルウェーはベルゲンにて激突し、その漁夫の利を奪いとる形で神を殺めカンピオーネの資格を得たという。
カンピオーネとなった後も、同地ベルゲンに現れた慈悲深き水の女神と交戦しこれを弑逆している。
慈悲深い女神はその慈悲深さ故にあらゆる生命から死を遠ざける女神だった。だがまつろわぬ神は人に仇なす。はじめは傷や飢えをなくし死から遠ざけていた女神もやがて、死そのものを奪いはじめ、果てには”死”と表裏一体の概念”生”すら奪い取りはじめた。
これを由とせず、水の女神と対峙した『王』は瞬く間に弑逆し新たな権能を簒奪したという。
そして先日起きたスコーネ継承戦争。
18世紀ごろまで活動が確認されている『智慧の王』と呼ばれた過去のカンピオーネ、その遺産を巡って”東欧のヴォバン侯爵”と”北欧の《
スウェーデン南部スコーネ県の都市ルンドに本拠地を置く『
そこへどこから嗅ぎつけたのか『智慧の王』の遺産を求め、かつては『智慧の王』と宿敵関係であったとされるヴォバン侯爵が乗り込できたという。
これを偶然ルンドに訪れていた《
試合に敗けて勝負に勝つ、負けて強しを印象付けた。
権能はまだ二つだが少なくとも五つ以上の神具をその身に宿し、側近には地の位を極めたルクレチア・ゾラの弟子を据えている。
これに長らく奉じる主がいなかった学術都市ルンドを本拠地とする『
その大勢力がアリスやパオロと手を組み戦女神さながらに英国に乗り込んでくる。北欧からブリテン島に攻め込むならカンピオーネという蛮王の存在も相まってヴァイキングと顕したほうが近いか。
ともかく英国に残した戦力では明らかに処理能力を大幅に超える。それどころかアレクが居たとしても相当厳しい戦いになるのは明白だった。
日本に拘っている状況ではなくなった。
しかもアリスはアレクが勇者としての証……同族との一線を控えた時に開示したのだ。嫌らしいにもほどがある。少なからずアレクは、後と先を考える必要が出てきた。
「それではお暇いたします王子。プリンセスのわたしは
「
アレクは仏頂面を消して完全に無表情でこれまでないほど冷めた声を発した。
「──
「それはお互い様でしょうアレクサンドル」
「ふん」
あとは語ることは何も無い。アリスは現れた時と同じように虚空へ姿を消し、アレクも思考を切り替えるように傲岸に腕を組んだ。
「まあ、いい」
いくらか思考に耽り、やがて瞑目していた目を開いた。月満つる夜のニライカナイ島に、アレクサンドルガスコインの影が
「俺のやるべきことに変わりはない……さてエリカ・ブランデッリと草薙護堂はどう結論を出すのか。高みの見物と行こうか」
しかしどのような結論に至ろうが、これだけは絶対だ。
紫電がアレクの周囲を迸った。黒い瞳に一条の猛々しい稲妻が駆け抜ける。
雷光によって燻り出された影が黒い翼のように伸びる……カンピオーネの異名には堕天使と呼ばれるのを示すかのように。
理知的でありながらやはりアレクもカンピオーネ。人の身でありながら神を殺めた戦の申し子。
『雷光の王』アレクサンドル・ガスコインは久方ぶりの戦いの予感に戦意をたぎらせた。