六月の半ば。朦々たる夜闇に沈む洋上。
鹿島神宮は東方の方角に広がる鹿島灘……その沖合に海の水底に眠りについているはずの理想郷──ニライカナイ島は渾沌より生じた。国生みの神話をなぞるかのように鉾をつきたて搔きまぜて。
梅雨雲から降りしきる淫雨が火山島のごとく突如として生まれた島を濡らしていく。空は暗幕さながらの雲に覆われているが、しかし月光はニライカナイ島を照らし出していた。なぜか。
──空が、
天人相関の理を告げるかのようにニライカナイ島にほとばしる聖なる機運が天候にすら届く。密儀の祭壇としての神性が。聖なる理想郷としての聖性が。そして──魔王の戦場としての機運が太陰にかかる雲を千々に乱す。
片や、稲妻と化す神速の魔王 アレクサンドル・ガスコイン。
片や、十の鳥獣へ化身する義侠の魔王 草薙護堂。
竜虎相打つ。日ノ本に繰り広げられた争乱の因果はついに『王』たちを絡め取り、二王はついに対峙した。
アレクは洞から這い出てきた護堂を醒めた目で見下し。護堂はクオレ・ディ・レオーネを背に背負い、黙したままだった。
「貴様が出てくるまで少々俺の有利になるように準備をさせてもらった」
悪く思うなよ、アレクは続けた。
「なにせ俺には次の戦いがあるらしいからな……省エネというやつだ。貴様も戦いを避ける性質と聞き及んでいる。ほどほどに戦えば、丁度良いだろう」
「…………」
「ふん、話す気はないか。なら、さっさと済ませてもらおう──汝等、ここに入るもの一切の望みを棄てよ」
言霊を歌い上げるアレクの身体から呪力が吹き荒れた。
護堂が立っていた場所、その地面がいきなり消滅した。煉獄につながる門が開かれる。淪落する。少年が奈落にむかって重力に従い落ちていく。
「………………」
それでも、護堂は黙したままだった。
頭から真っ逆さまにフリーフォールしようと、一切の動揺も、一瞬の逡巡もなく。ゆっくりと瞬きを重ねながら──護堂は一つの決意とともに自由落下しつづけた。
不意に護堂が顔を上げた。
視線のさきにはアレクが虚空に浮かんでいた。おそらく浮遊しているのも護堂を地下に叩き込んだ権能なのだろう。猛牛神ミノスの権能『
アレクが
明らかに人の膂力で放てる速度ではない。雷光と幻惑の堕天使から簒奪したという権能。神速──『
護堂になすすべはなかった。
落下し身動きが取れない護堂は、武術の心得も無ければ神速を見切る目もない。ドスドス、という鈍く激しい異音が腕の数箇所から上がる。痛覚が悲鳴を挙げている。
護堂はひねくれた同族の攻撃方法にひそかに感心した。
アレクの武器はペンだった。金属製のアンティークペン、それを二本も突き刺してきたのだ。たしかに神速で飛び回るのだ、ナイフや槍などでなくとも十分な脅威となる。
「まだまだあるぞ、堪能するといい」
中空に浮かぶアレクがそう宣言し、指先にいくつものペンを『召喚』した。ペンは剣よりも強しだ、とでも言うようにアレクの意思によって一息に神速域に入ると護堂へと迫りくる。
膝に、鳩尾穴に、睾丸に、目に、脊椎に、脳天に。
「────」
何かを犠牲にしなくては、より大きな物を失う羽目になる。だから護堂は左腕を捨てた。
直感に任せて身体を動かし左腕でガードする。すべてのペンを左腕へ集中させる。左腕は使えなくなるが、それでも他の部位は十全に使える。ならこれでいい。
瞬く間に左腕がハリネズミの様相を呈したが、護堂は呻吟の一つだってこぼすことはない。
「厄介なことだ……だが、甘いな」
中空に浮かんでいたアレクから青白い稲妻がまたたく。間違いない。エリカが言っていたアレクサンドル・ガスコインは彼自身が神速域に踏み入るとき、決まって身体を稲妻に変えるという。つまり触れれば巨象ですら感電死する電撃を纏いながら──稲妻の速度で急襲するのだ!
「ぐぅ、ぁあああああっ?!?!?!!」
護堂は反応出来なかった。
神速を見切るなんて芸当、化身しなければ不可能だ。そして悠々と護堂の眼前に踏み込んできたアレクは、護堂の腹部へと雷撃と化した腕を突っ込んだ。
ダムが決壊するかのごとく莫大な電圧と電流が、突き破られた血管を踊り狂って護堂の全身をズタズタにしていく。沸騰した血管から赤い湯気が吹き出し、感電特有の樹状の裂傷が全身に刻まれる。
アレクが勝ち誇るように微笑し、離脱しようと手を引いた──瞬間。
ぐい、と腕を取られ離脱できなくなる。瞬間、アレクの背筋をゾッとおびただしい悪寒が走った。悟ったのだ、護堂は決して無抵抗だったわけではなかったのだ……虎視眈々と反撃の機会を伺っていたのだ。
「
これまで透徹としていた瞳が嘘のように爛々と輝いた。
「──ッ! 光あれ!」
咄嗟にアレクが全身から雷撃を放とうと火花を撒き散らし、直後、アレクの秀麗な顔に──
雷撃状態でも拳は強烈すぎた。軽い脳震盪に襲われ、三半規管が揺さぶられ平衡感覚を失った身体が中空できりもみ回転していく。
時を同じくして二人は地面へ叩きつけられた。
アレクは回転の慣性を減衰しきれずそのまま地面と水切りするように反跳していく。護堂はそのまま背中から地面と激突し余すことなく衝撃を受けた。
盛大なクロスカウンターは両者とも凄まじい衝撃を浴びせ合って地面に這いつくばらせた。アレクは久しくなかった殴打の直撃に明晰な脳がなかなか回復せず、護堂もそのまま硬い岩盤へ背中から叩きつけられ、いくつもの内臓が破裂したのを感覚で理解した。内臓から迫り上がる明らかに不味い出血だった。
先に立ち上がったのはアレクだった。
瀟洒なダークジャケットは早速粉塵にまみれ、ところどころ擦り切れている。鼻に違和感を感じて触れてみれば、明後日の方向へ折れていた。
皮膚を突き破った鼻骨が鼻から突き出し、鼻血が噴き荒れている。鋭い痛みにさらされながら、なんとか立ち上がる。
血の混じった唾とともに砕けた歯を吐きすて悪態をつく。鼻から下は血まみれ、顔の腫れも痛々しい。英国紳士の面子は丸つぶれだ。
ダメージでいえば護堂も相当だ。苦しみ方が尋常ではない。
こちらも吐血によって顔面を血だらけにしているが、それ以上に酷いのは"腹から"の出血だ。元から血塗れの制服だったから見落としていた。だが、よく見れば血痕が新しい。夥しいほどの出血が護堂の周りに滲んでいる。
そしてアレクは勘づいた。
「貴様ッ、はじめから自傷していたな……!」
服がめくれ、やがてその刀傷が露わになる。さしものアレクも瞠目した。
腹部に乱雑に五箇所の刺し傷。そしてかっさばいたような一文字。今でも夥しいほど出血は続いている。護堂は計六度の自傷行為で頑固すぎる化身を納得させていた。
複数の能力がある権能には、大きな制約や代償が必要なケースが多い。
代表的なのがアメリカ・ロサンゼルスで活動するカンピオーネj.p.sの権能だろう。彼の保有する権能も護堂と同じく、一つの権能のなかに数多の能力を有し、代償によって効果を発動する。
さきほどアレクを捕捉した一幕、いかにデタラメなカンピオーネの身体でも神速を見切れるものでは無い。ならば何らかの化身になったと考えた方が自然だった。おそらく重傷を負ったときのみに使える化身がある。アレクは草薙護堂の権能のなかにそういった類のものがあると推察していた。
そして最初から重傷を負っていた……おそらくクオレ・ディ・レオーネで傷をつけていたのだろう。つまり草薙護堂はアレクと対峙する以前から化身していたのだ……そしてそれを気取らせないよう息を潜め、挙げ句には左腕すら捨てた。
アレクに拳を叩き込む。そのためだけに。
「はぁ……はぁっ……! どうしても、あんたを……はぁはぁ……一発殴らないと、気が収まらなかったんで、なぁ……ゴホッ!」
護堂が言いながら夥しい血を吐いた。
「ハラキリという奴か。狂っているな」
アレクは冷や汗を伝うのを抑えられなかった。あまりにも思い切りが良すぎる。
あるいは、自責の念か。カンピオーネにそんなものがあったとは寡聞にして知らなかったが、とはいえ目の前に立ちはだかった男の覚悟は尋常ではない。
油断も慢心もなかったはずだ。
だが、アレクは次の戦いに備えて草薙護堂という敵手をよく見ようとしていなかった。桁外れの覚悟を秘めたあの男を見誤った。そして己のすべてを切り捨てる若き『王』の果断さにしてやられたのだ。
チッ、やはりあの女に関わると碌なことがおきん。だが……やり直しだ。
アレクは気持ちを仕切り直すように鼻を鳴らした。
──必ずアレクサンドル・ガスコインとかいうクソ野郎をぶん殴る。護堂の決意とはそれだった。
"駱駝"は野獣じみた格闘術と脚力、耐久力を持つ化身だ。世には雷すら一太刀の元に切り伏せる剣士がいるという。彼らはどんなに早い速度でも見切る"眼"を会得している超人たちだ。そして"駱駝"はにわか仕込みとはいえ、それを真似できる格闘センスを付与する化身だった。
アレクの速度を咄嗟に察知して強烈なカウンターを入れることができたのは、この勘のおかげだった。とはいえ"駱駝"は拳よりもキックの方が強力だ。というかキック主体の化身なのだ。
脚を使えば世界のどの金属よりも硬いと言われるカンピオーネの骨だって砕けただろうし、それも倍する威力でアレクに痛打を入れれたはずだ。
それでも護堂は拳を使った。何故か、理由は簡単だ。
必ずアレクサンドル・ガスコインとかいうクソ野郎をぶん殴る、そう決めていたから。
こいつがいなければ自体はここまで混迷していなかったかもしれない。こいつがいなければエリカは洞に来なかったかもしれない。こいつがいなければエリカは……。そういった汚穢じみた感情が込み上げて止められなかった。だから一発、余裕綽々とした顔を殴らなければ気が済まなかったのだ。
……切り替えなきゃな。
怒りに飲まれるのはもうごめんだ、一度大きく深呼吸して荒れ狂う感情に蓋をした。
──アレクサンドル・ガスコインと草薙護堂はふたたび対峙した。今度は本当の意味で。
たった一度、鉾を混じえただけで生命を脅かされた。ならば、この敵は油断ならない雄敵なのだと悟ったのだ。アレクに対してはキャリアと頭脳、護堂に対してはそれを埋める覚悟と大胆さで、両者は真逆の武器を手にし相対した。
とはいえ、下馬評で見れば九割の護堂は敗北になるだろう。それほど開きがあるのだ、十年のキャリアとは。
「話は聞いてる。アレクサンドル・ガスコイン……でいいんだったよな」
「ふん」
これまでのやり取りでなんとなく知っていたが素直に肯定出来ない人種のようだ。護堂は自分の口が「へ」を描いているのを自覚しつつ言葉を続けた。
「まずは礼を言っておく、あんたのおかげで間に合った。エリカが俺のもとに来れたのもあんたが力を貸してくれたからたらしいな。助かったよアレクサンドル・ガスコイン」
「アレクでいい。……その事なら気にするな。俺が必要だと思ったから動いただけで貴様を助けるためにやったわけじゃない」
「………………」
「………………」
何故だろう、一言一言喋るたびに癪に触るのは。本格的な殺し合いへのめり込む前に護堂が口を開いた。
「一応、聞いてけど。このまま儀式の参加を諦めてお前が退くって選択肢は選べないのか」
「愚問だな。逆に草薙護堂、貴様が退くべきだろう」
「……何?」
「もう何もしなくていい。そう言った」
護堂の目が眇られていく。アレクの前髪が紫電のまたたきで揺れる。
「貴様が争いを避ければ俺は目的を達成できなくなる。エリカ・ブランデッリから貴様の気性はおおよそ聞き及んでいる……争いを嫌っているんだろう。それに長期間虜囚の身にあったのは把握している。貴様が退く理由はごまんと並べられるぞ」
「それは出来ない相談だな」
「だろうな」
睨み合う両者だが、護堂の中にはまだ蟠るものが残った。まだ交渉の余地があるのではないか? そんな痼がなかなか戦いに踏み入ることを躊躇させた。『もう十分話し合っただろう。早くこいつをぶちのめそう』と破壊衝動じみた悪魔が囁き『まだ交渉の余地はある』と自制を促す天使が高らかに叫ぶ。
平和主義を貫くか衝動に身を任せるか、慎重に選択している時だった。アレクの口が動き、決定的な言葉が転がり出たのは。
「……エリカは死んだか」
──"赫怒"とはこんな色なのだと、護堂はその時はじめて知った。
視界が白む。夜闇が白に染まる。
冷静沈着な選択など無理だった。白い視界のなかでもアレクの姿は完璧に把握できていた。岩肌が抉れるほど地面を強烈に蹴って、アレクに向けて吶喊した。憤怒で化粧した悪鬼羅刹の表情で護堂は脚を振り上げた。
だが護堂の敵手はカンピオーネ中で最速を誇る『王』──先手はふたたびアレクが奪った。奪い取った。脚を蹴り上げた護堂の視界から消えたのだ。
冥莫たる迷宮に輝きがまたたく。雷光はまたたく頻度を増やしていき……やがて護堂はアレクを完全に見失った。
「あの脳みそまで筋肉至上主義や剣バカの真似ができるようだが、所詮真似事だな……ボロを見せたな」
アレクの声が響く。が、姿は見えない。護堂に捉えきれない速さで眩惑し、"駱駝"の視界を無理やり振り切ったのだ。"駱駝"の勘で強烈な後ろ蹴りを放ったが、高速で動くなにかを捉えられなかった。
気付いた時には数十メートルほど上空に
「ぐ、はぁっ!?」
「殴り合いをしたがる敵にわざわざつきあってやるような真似は、あまり俺好みでもないが……これくらいなら付き合ってやる」
数十メートルもの上空から岩盤に叩きつけられ、受け流し切れなかった衝撃が体内を荒れ狂う。最初の落下で吐いた血に、追加で血が嵩増しされていく。そしてついでのように腹部の刺し傷に電撃が流れ込み、血管を通って全身で暴れ狂う。
"駱駝"は重傷を負わなければ使用できない化身だ。その条件の反動か、"駱駝"へ化身すると異常なほど打たれ強くなる。だが、何度も耐え切れるほどでは無い。
全身という傷という傷から煙をだしながらふらつく足に活を入れて立ち上がる。だがアレクが捉えられない以上、護堂は備えるしかない。
備える? そうか!
ハッとした護堂は臍下丹田で呪力を練り上げ、そして高めた。カンピオーネの身体には権能以外にも様々な特殊能力が備わっている。デタラメと言ってほどに。神が近づいたとき戦闘状態に移行するセンサー、呆れるほど頑丈な肉体に世界最硬の骨、異常な快復力、夜目、千の言霊……。
そしてあらゆる魔術をはじく魔力の鎧だ。
「我、掲げるは──蹄の聖印なり!」
聖句を謳い、懐へ飛び込んできたアレクへ強烈な蹴りを放った。だが甘い。ジャケットのいくらかを持っていっただけで終わった。
「浅いか!」
「チッ、二度も三度もないか」
アレクが接近したことで雷撃が飛び込んでくるが……護堂へ触れる前に急速に減衰していき、静電気以下になった。象すら触れた瞬間、感電死する高電圧すらまたたく間に消滅させる……それがカンピオーネの肉体の真価。
「やはり戦いのなかで洗練していくか。さっさと倒れてくれれば手間もはぶけるが……流石に戦好きの野蛮人だな!」
「あんたは洗練どころか手抜きだっただろ! さも手間暇かけた戦いをしていたぞ、みたいな顔をするな!」
戦法を看破したというように反論するとアレクは口角を吊り上げた。おそらく護堂を落下させた原理はこうだ。神速で護堂のふところに飛び込んで、組みつく。そのまま護堂を抱えて直上にジャンプ。適当なところで護堂を落とし、自分は華麗に着地。
神速は早すぎて重力を置き去りにする。そして自身は羽のように軽くなる。あまりにも普段と感覚が違いすぎて繊細な動作が出来なくなるのだが、アレクの方法なら格闘技に疎くとも確実な効果を見込める。
……これは本当にはじめて戦うタイプの敵だな。
イタリアの剣王やフェニキアの神王は良くも悪くも実直な性格と戦い方だった。トリッキーさと人を食った戦法は護堂のキャリアのなかにはまだ経験のないものだった。"駱駝"を扱い慣れていない護堂の目では見失いがちになる。だが、鋭い眼を持つ"鳳"は捉えられる。
なぜなら"鳳"はアレクと同じ神速域へと踏み入れる最速の化身だ。
だが使えない。否。使わない。
護堂は端っから神速の権能という選択肢を捨てていた。"鳳"は諸刃の剣だ。行使を続ければ行動不能になる欠点がある。手数も少なく切り札も怪しい状況で、アレクサンドル・ガスコインという大敵に対してその欠点は致命的だ。
代償をペイする何かしらの手段があれば別だが、ないものねだりでしかない。無い袖は振れないのだ。
それに認めるのは癪だが神速下ではアレクに一日の長がある。同じ土俵に上がったところで手酷くやられるのは目に見えていた。
「一、二発なら格闘戦に付き合っても良かったが……やはり趣味じゃない。趣向を変えさせてもらおう」
アレクの周囲に紫電がまたたく。神速の権能を行使する予兆だ。護堂は身構えてアレクの挙動をつぶさに凝視した。"駱駝"の勘は神速の稲妻を見逃さず、動きを捉えることができた。
しかし、これがいけなかった。
だがアレクサンドル・ガスコインは雷"光"の王子。暗闇に慣れ切っていた護堂の視界に強烈な光が広がり──視神経を焼いた。
「光あれ!」
「ぐあっ!?」
突然のことに、よろめきながらたたらを踏む。眼球が一時的に機能停止に陥り、視界が白に染まったまま戻らない。ガスコインは……! 焦燥とともに気配を鋭敏にして次の攻撃に備えていたところで──直後、岩肌の断面から吹き出した間欠泉によって空高く打ち上げられた──。
アレクは護堂との戦闘する前から戦いの準備を進めていた。
彼が保有する権能はどれもこれも”回りくどい”。すべてを一刀の下に両断するだとか、膂力無双の大力を得るだとか、そんな分かりやすく真っ向勝負ができるような代物はひとつもなく、そしてひねくれている。
数時間かけて『
せっせと準備を整え、護堂が洞穴から出てくるのと、作業を終えるのはほんの紙一重の差だった。余裕の態度に見えて実はかなりカツカツのスケジュールだったりする。
「我が墓標のそばを歩む者たちよ……何人も我が影を踏むあたわず。しかと心得よ」
護堂を放って言霊を唱えながらニライカナイ島の地表と海域を迷宮化した。これでニライカナイ島は完全に権能の支配域と化した。
口角が歪む。戦闘は相当優位に進められるだろう。
ニライカナイ島の海岸線長は4,5km、面積も1.0km²ほどだろう。徒歩でも1,2時間あれば一周できる小さい島だ。だから把握も容易だった……というより天之逆鉾で島を作るときそう調整したからなのだが。
『
ダンジョン内を迷いの森や魔の海域へ作り替えるのはもちろん、ダンジョン内で瞬間移動したりと非常に多彩で自由度の高い権限を得られる。
そのためいくつもの壁を隔てた地下迷宮の最奥でも、護堂の様子も逐一確認ができた。
今はおそらく"雄牛"だろう、どこからか大岩を担いで間欠泉が吹き出る穴を塞いでまわりアレクを探している。その光景を眺めながら、これまでの戦闘データを吟味し草薙護堂攻略の策を立てていく。
「しかし、思いの外手酷くやられたものだ」
やっと軽く脳震盪を起こしていた頭が快復したのに気がついた。多少の吐き気はあるがもう気にするほどでは無い。へし折れていた鼻も治癒している、相変わらず馬鹿げた身体だ。
とはいえ、自分がああも容易く攻撃を受けてしまうのは想定外だった。見くびっていた訳でも油断していた訳でもない。
アリスの手回しによって草薙護堂という敵手をしっかり見据えていないのもあるだろう。だが、最大の理由は……
「……俺も苛立っていたらしいな」
エリカ・ブランデッリは想像以上に献身的だった。
利害だけで結びついたすぐに途切れる現地協力者だと考えていた。敵に回ると厄介だと思った。脅迫じみた手段で手元に置いたはずだ。だが……それでも多少の情はあったらしい。
ターニングポイントは正史編纂委員会との会談後の一件か。
あれがきっかけだったような気がする。英国紳士ゆえか、研究に没頭し母に見限られた父の手で育てられたという数少ない父からの薫陶ゆえか、どうにも
情を湧かずには居られないほど、エリカの献身は大きかった。それこそ己を燃え尽くさんばかりに。アレクは露悪的でありながら甘さを捨てきれない男だった。
『ガスコイン! 聞いているんだろう!』
と、唐突に護堂の声が届いた。
これも『
「ふん、なぜ俺が貴様のために素直に姿を現せねばならない? このダンジョンに挑んでいるのは貴様だ──なら貴様の方から出向くのが筋だろう?」
『いいのか? お前が出てこないなら俺は
手っ取り早い方法だと? 訝しむアレクとは対照的に、護堂は素早く動いた。護堂から火山の噴火じみた呪力が噴出し──瞬間、アレクは観察と考察を投げ捨て遮二無二『
莫大な呪力は掲げられた手に導かれ──空へと捧げられていく。そう、聖なる東の空へと。
地表の大地を壁のごとく直立させる。海水を中空へと舞い上げる。地中の岩盤をせり上げる。まるで要塞。アレクはニライカナイ島を要塞へと再構築しはじめた。
だが、それでも焦燥は止まない。それでも猛烈な悪寒が拭えない。
アレクもさすがに悟った。
護堂が行使しようとしている化身は賢人議会の調書やエリカから聴取していた、おそらく化身中トップクラスの破壊力を誇る化身。シチリアはパレルモの港を焼き払ったという怨敵覆滅の化身。
そして決定的な口訣が結ばれた。太陽のカケラをぶち込む化身の言霊を!
『我が元に来たれ勝利のために──!』
──『白馬』推参。
「やはり『白馬』の化身かっ……!」
アレクが叫んだ直後、東方の彼方より薔薇色の曙光が輝く。白き神馬はまばゆい光輝を引き連れあらわれた。アレクは驚愕も冷めやらぬままギリギリで要塞化したニライカナイ島で受け止めた。
ずうん、地下迷宮が鳴動する。ダンジョンに迷い込んだ魔王は地道にトラップや迷路を攻略する素直な性根をしていなかった。ダンジョンごとぶち壊するという攻略法を提示してきたのだ。
第三の化身"白馬"の使用条件は案外緩い。その破壊力を加味すれば破格と言っていい。
使用条件は"世に災いを為す大悪人"。つまり人に仇なすまつろわぬ神や、神を弑逆するようなカンピオーネのほとんどが照準に入ってしまうのだ。
アレクもその例に漏れず使用条件を満たしていた。英国をはじめ世界中で盗人働きをしているし、興味本位で遺跡を巡っては騒乱を起こす。十年余年もそんな活動をしていれば許されざる罪科だ。
「不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬を遣わし給え。駿足にして霊妙なる馬よ、汝の主たる光輪を疾く運べ!」
『白馬』の言霊が完成し、呪力を注ぎ込むだけ威力が跳ね上がっていく。威力を絞ることも、範囲を狭めることもしない。全力全開で地下迷宮を破壊する。そのためにはニライカナイ島を焼き払うのも厭わない。
「やつめ、正気か!」
まさか、という思いがある。どうせ、とタカをくくっていたのもある。まさか自分の足場であるニライカナイ島を、
だが
秀麗な顔に脂汗を大量に滲ませてニライカナイ島の防備と防御をこなしていく。
アレクサンドル・ガスコインは真正面から戦いするタイプでは無い。少なくともアレク自身そういった自負があった。ニライカナイ島を犠牲にし撤退すれば大技を盛大にすかされた護堂は窮地に陥るのは分かりきっている。
だがアレクは退けない。ニライカナイ島は布袋が儀式の祭壇と定めた場所だ。この祭壇をぶち壊されれば聖秘儀は上手く機能する保証はない。聖秘儀へ参加できなくなるかもしれない。
知りたい。
黒サンタを発端としたこの儀式の全容を。まつろわぬ神を集め、カンピオーネを誘い出し、日本列島を祭壇とする大秘儀の最奥にはなにがあるのか。
調べ尽くさねば終われない!
ニライカナイ島の岩礁をかき集めて太陽の槍を受け止める。触れた傍から蒸発していく石くれに構わず、後から後から岩を積み上げ海水を注いでいく。
だが太陽の進撃は止まらない。夜を引き裂き空に上るように謎の散りばめられた地下迷宮を詳らかされていく。
祭壇を恨みすらもって破壊しようとする魔王と、可能な限り保全しつつ防御する魔王とでは差が生まれて当然だ。
「だがジリ貧か……! いつかはこの綱引きも限界が来る……ならば!」
──根幹を絶つしかない。
仁王立ちする護堂へと視線を移し、地下迷宮と海中とを繋ぐ。地下迷宮に莫大な海水が流れ込んでいく。草薙護堂に海を闊歩するような権能はないはずだ、水を操る権能も持っていない。
なら地下に発生した津波で押し流し、そして天井を塞いでしまえばやつも音を上げる。
アレクはそう目論み、
『
ゾッと凄まじい悪寒が背筋を舐めた。この戦いが始まって以来の脅威が眼前に
──燦めく。
中空にまたたく光の粒は数を増やし、さんざめく燦めきとなった。夜が深まるほど数を増やしていく星屑さながらに地下迷宮のなかで煌々と輝きはじめた。
あれこそ草薙護堂の化身中、最も警戒すべき化身。あらゆる神力を切り裂く『智慧の剣』を振るう──『戦士』の化身。
「化身の同時行使、だと!」
天下る『白馬』を従えながら『剣』を握る化身の二段構え。グリニッジの賢人議会やエリカの話からは聞き及んでいなかった戦術。なら、この戦いで成長したと見るべきだろう。
「全く厄介なことだ……だが、負荷は相当だな」
アレクが苦悶を浮かべているように護堂もまた動きは鈍い。強烈な頭痛に苛まれているのか足取りは曖昧で、鼻と目から血が滲んでいる。アレクは確信した。この攻勢を凌げば勝利は確実となる。
彼は徹底的に防御へ回ることを決意した。
痛い。痛い。痛い。とんでもなく痛い!
化身の同時行使、その可能性は戦うたびに頭をよぎったがついに使う派目になるとは。化身を同時に使えるのは確かに強力だが、長丁場は不可能だ。短期決戦で臨まねば息切れしてしまう。そうなれば護堂の負けだ。
「俺は知ってる。あんたが殺めた冥府の豊穣神を!」
地下迷宮、アレクと護堂を隔てる防壁を目前にして叫んだ。エリカから教授してもらった知識によって、アレクの権能を切り伏せる知識がある。
誂られる『剣』は一振りのみ。アレクの握る五枚のカードから一枚を選ばなければならなかった。そして護堂は賭けに勝った。エリカと選んだ選択肢に間違いなどなかった。
防壁に剣を突きたてる。濃霧が光球によってさんざんばらに引き裂かれていく。アレクとニライカナイ島を繋いでいた経路が寸断され、権能によって防衛機能を失った箇所から『白馬』で焼き払っていく。
「ギリシアの都市国家群の黎明期、近海のクレタ島には強力な文明が栄えていた! 文明の名を"ミノア文明"──そして、その名の由来となったクノッソスの王『ミノス』こそあんたが殺めた神なんだ!」
「くっ──!」
光球が狂ったように眩い光を放つ。光は刃の性質を備えながらアレクの権能を引き裂いていった。防壁の一枚を両断しきり、次の防壁が見えた。護堂は駆けながら、言霊を紡ぐ。
ミノア文明は謎多き古代文明だ。
エーゲ文明に構成されるミノア文明だが、ギリシア人が起こした文明ではなくアジア……特に
当時では先進的だった青銅器を作り、周囲の国々のなかでは抜きん出ており、有名なミノタウロスの伝説も都市国家であったアテーナイを強大な軍事力で服属させた暗喩だと言われている。
「クノッソス王ミノスは傲慢にして横暴な性格だったとされる」
息子である牛頭人身の怪物ミノタウロスをイカロスの父ダイダロスの作った
「だが他にもミノス王は多くの顔を持つ王だ。豊穣を司る男神の擬人化でもあり天空や雷を操る者でもあった。彼の天空神としての顔はミノスの王権の象徴のひとつだった
《鋼》の英雄神は天空神としての顔を持つものが多い。地母神を崇めた農耕民族を天空神を崇める騎馬民族が打ち破ることが《鋼》の成立過程だから当然だ。そして雷もまた天空神の職能のひとつだ。
ふたたび護堂の前に壁が立ちふさがった。だが──護堂は言霊という刃を掲げた。
「だがミノス王は天空神としての顔を持ちながらミノス王は《鋼》ではなかった。ミノス王がなぜ《鋼》ではないのか。それを知るための鍵は──”牛”にある!』
ギリシアにおいて主神にして天空神ゼウスの化身や聖獣ともされた牛。《鋼》でもあり天空神の象徴でもある牛にはもう一つの側面がある。
「ミノア文明は謎が多い。だけど考古学的な視点から分かっていることがある。それは……女神が絶対的に優越していたことだ」
ミノア文明に残された女神像は他の地域に比べ、あきらかに
フリュギアの母神キュベレー、エフェソスのアルテミス……クレタ島の東方にあるアナトリア半島は女神の権威が強い地域だ。その影響を色濃く受け継いだクノッソスも女神が強力な権威を誇っていたのだ。
「ミノスは王でありながらも女神を崇拝する司祭だった。王権を保証するのは神であり宗教だ。母系信仰が圧倒的に優越するクノッソスにおいてミノス王は、地母神の忠実なる下僕として振る舞っていたんだ。ゆえに地母神を陵辱し支配する《鋼》の英雄神にはなり得なかった!」
第二の壁が崩れていく。アレクというゴールまで続く迷路は紐解かれ、その残骸が地に投げ捨てられていく。『白馬』の対応にかかるアレクも散発的に槍や岩石を降らせるが、護堂は歴戦の勇士のごとく躱しきった。
”戦士”の権能は”駱駝”と同じく、神々の戦士とも打ち合えるバトルセンスをもたらすのだ。
「
ミノタウロスの伝説において、ミノス王は海神ポセイドンから贈られた牛を惜しむあまり生贄に捧げなかった。海神への背信行為にも思える行為は、見方を変えれば地母神の象徴である牛を保護したとも考えられる。
地母神を象徴する動物は”蛇”だ。
だが蛇は不死を象徴するという意味合いが強い。豊穣を象徴するとなれば、相応しいのは”牛”だ。ゆえにクレタ島やギリシアのみならず、世界各地で牛は聖なる生き物として考えられてきた。
地母神を崇拝するミノス王にとって牛を殺めることこそ最大の禁忌だった。それこそ四方八方を海で囲まれながら海神に背く行為だとしても。
第二の壁を超え、ついに最後の門の前に来た。”戦士”のカンが教えてくれる……この先にガスコンはいる!言霊という燃料を燃やす。
「そして"牛"は豊穣をもたらす地母神の象徴だ。だからこそ古代において最も重要視される──豊穣を乞い願う儀式の生贄になりえた!」
牛は現代のように飽食とは程遠い時代では捨てる所のない陸の鯨のような存在だった。創造神話で牛を殺すことで世界を創造する、そんな神話すら存在するほど。聖なるものであり恵みをもたらす牛を殺める行為は禁忌でありながら、恵みをもたらす聖なる儀式でもあった。
「古代、呪術的な究極の儀式とは"
一閃、二閃、それでも最後の壁は崩れない。分厚さもそうだが、『剣』の切れ味が落ちているのだ。護堂の望み次第で自由自在に操れる、化身中最強と言ってもいい黄金の剣だが無制限に使えるわけではない。
剣が切れば切るほど切れ味が落ちるように、『剣』もそれに倣う。”戦士”という破格のカードに付随する大きな制限であった。
「地母神と結ばれ、天空神でありながら天空神の権能を豊穣をもたらす機能として使う男神の豊穣神……それこそミノス王の本質なんだ!」
それでもなまくら気味になった刃を一閃させ──最後の壁が崩れていく。
ついに黒い王子の眼前へ、護堂はたどり着いた。迷宮の最奥で籠城の構えを取っていたアレクの喉元まで刃が届く。勝利を目前にし……だが、何故だろう? 護堂のなかで全く勝利の予感が生まれない。勝ち筋を引き寄せた感覚がない。
それどころか、大きく引き離されていく感覚が急速に膨らんでいく!
「随分と好き勝手してくれたな……。だが俺もこれで踏ん切りがついた」
──アレクサンドル・ガスコインは用意周到な戦い方を好む。それに応えるように権能もひねくれていると前述した。アレクもただやられていた訳ではない。護堂が何枚もの壁を切り裂くほど、ほくそ笑んでいたのだ。
なぜならアレクは壁の一枚一枚に細工を施していた。数十分の瞑想という準備は必要だが、それを於いても十分利益を享受できる、強かで回りくどい権能を!
──
護堂が見咎めたのは昏い地下の底にゆらめく一枚の羽根だった。影より昏く、闇より濃密な、漆黒の羽根。護堂はそれから怖気を生むほどの脅威を感じ取った。
全力で光球を後退させ──それが無意味なほど大量の黒羽が影より生じる。光球が、塗り潰されていく。太陽の欠片の進撃が、止まる。
黒き羽が縦横無尽に地下に吹き荒れ、護堂の『白馬』と『戦士』が獣の爪牙にかかるように引き裂かれていく。護堂が神から簒奪した権能が──脅かされる。
黒王子が手繰る漆黒の羽根。
祖は──
「鬼女メガイラよ、復讐者ティシポネーよ、時を止めぬ名状しがたきアレクトーよ! 疾く呪詛を返し、報復を成せ! ──今こそ復讐の時!」
漆黒の羽根が黒き極光を放つ。
光はより強い光に呑まれるのを体現するかのように護堂の『剣』をアレクの『羽根』が呑み込んで行く。そしてアレクは決定的な
「貴様が殺めたのは古代ペルシアの軍神。火を崇拝したペルシアの古代宗教、ゾロアスター教で
護堂は瞠目した。
これによく似た権能を見知っていた……なにせ今現在、行使している化身そのものなのだから!
「神の名を──ウルスラグナ! 正義と民衆の守護神たる常勝不敗の軍神を殺めたのが貴様だな!」
これは──『