関東に帰ろうとした所で委員会の方から”待った”を掛けられた。
七雄神社の準備が整っていないので今日一晩はホテルで逗留してほしいとのことだった。
カンピオーネだから高待遇……っというより関係者以外は避難させられたと表現したほうが近い貸し切り状態のホテルへ入っていく。観光地として名高い八丈島の代表的なホテルで、赤い屋根と白い外壁のホテルで吹き抜けのエントランスホールがあり、二階に個室が並んでいる。
「よ、良いのでしょうか? このような綺羅びやかなホテルで宿をいただいて……それも貸し切りと聞いていますし……」
「仕方ないんじゃないか? 他のホテル客と神様を一緒の場所に置くほうが問題だろ」
浮世離れした媛巫女とはいえ一般的な金銭感覚をもっているらしい祐理は腰が引けていた。護堂もまあまあ腰が引けていたが、なんとか割り切ることにした。
アクの強い友人たちやろくでなしばかりの親戚の影響か、順応は早いほうだ。
「──って、なんで俺と万里谷が同じ部屋なんだ!?」
護堂が叫んだ。
前言撤回。全然順応できていなかった。
甘粕から渡された部屋鍵、改めて見れば祐理と同じ番号である。間違いなく正史編纂委員会の陰謀を感じる。ククク、と闇にひそむ忍者が暗い笑みを浮かべているのを幻視した。
アイエエエ!! ニンジャ!? ニンジャナンデ!?
「ちょ、ちょっとホテルの人に事情を説明して部屋を代えてもらおう! 俺、今からフロントに……」
「──いえ、お待ち下さい」
駆け出そうとした護堂の手を祐理が咄嗟に掴んだ。
つんのめって転びそうなところを無駄に敏捷な体で踏みとどまった。
いの一番に「いやらしいです、ふしだらです! 委員会の下劣ではしたない姦計など許せません!」などと激昂しそうな祐理が──驚くべき提案を口から放った。
「百合若ちゃんやメリッサ様とのお話もあります。こ、これから寝食をともにするとなれば、この程度の試練は乗り越えなければなりません。それで、その……本日はこのお部屋でお休みになりませんか?」
「えっ」
「そ、それに如何にカンピオーネの御方のために貸切になったといえど二部屋使ってしまうのは浪費というものです!」
驚愕で瞠目する護堂に貞淑な巫女は理路整然と言い放った。鼻白んだ護堂だったが「な、なるほど……!」と感じ入る。
祐理としてもこの先待ち受けるであろう非日常へ必死に順応しようとしているのだろう。責任感の強い媛巫女ならではの提案だった。
『その物言い……もしや草薙さまはそなたの伴侶ではなかったのですか?』
「は、伴侶!?」
『年頃の男女ふたりが懇ろになっているのに、そう思わぬほうが不自然でしょうに』
肩に乗っていたメリッサが興味深げな目線で、祐理に問いかけてきた。肩越しに覗く鮮やかなスミレ色の眼差しに、護堂の背筋がゾクリと震えてしまう。
瞳が呼び起こすものは、これまで護堂が相手取ってきた敵手のような恐怖でも不安でもない。拭いがたい魅惑の美しさ。凄絶な美の前には誰もが言葉を失うように、護堂もその美に翳る妖しさに呑まれそうになった。
衰えても常軌を逸した神の一柱。護堂はメリッサの特異性をかいま見てしまった。
「──まさか! 私、草薙さんとはそんな関係ではありません! く、草薙さんからも何かおっしゃってください……!」
「あ、ああ……」
なんとか踏みとどまれたのは祐理のピシャリと跳ね除ける声があったからだ。
祐理はメリッサと同性だから効果がないのか巫女だから耐性があるのか。眼差しに打たれても、頬を真っ赤に染めるばかりで効力がないようだ。
『ふふ。よく啼く子だと思いましたが、我が魅了を破るとはおもしろい子……』
「おまえ、あんまり妙なことをすると放り出すからな」
『まあ、恐ろしい。ですがこの程度の
少し前に百合若がまつろわぬ神なのか疑ったが、このメリッサの方も間違いないらしい。それに、出会ってきた神々とも同じくらい問題児でもあるようだ。
コイツらを抱えて聖秘儀とやらを開催している日本を駆けずり回るなんて、正気か? 護堂は早速とばかりに過去の選択を後悔しはじめた。前途多難だ、この先上手くやっていけるのか頭が痛くなる。
「はあ。……とにかく飯にしよう」
思考を打ち切った護堂はさっさと部屋に荷物をおろしてレストランへ向かった。
「も、申し訳ありません……百合若ちゃんのみならずお皿まで……。草薙さまのお身分を考えたら私が持たなければなりませんのに……」
「ま、いいって。仕方ないだろ?」
レストランは所謂ビュッフェスタイルというやつで思い思いに料理を取りわける形式だったのだが……そこで問題が起きた。
悄然と祐理がうなだれ、護堂が苦笑していた。
事情ができてしまったのだ。さきほどまで腕に抱いていた百合若も抱けず、ビュッフェなのに料理のお皿も持てなくなった祐理の、その驚きの理由とは──
「……ぅう、もう少し逞しければ……」
──そう、筋肉痛である。
箸より重いものも持ったことがないような
今度は護堂が百合若を抱き上げ、料理をとってあげていた。
「……いた、だきます…………」
「あー、万里谷。そんな気にするなって。俺だって女の子に持ってもらう方が居心地悪いし」
『かよわい仕草で男を
肩に止まったメリッサが呆れを多分に含めた口調で祐理を咎めた。
「は、はい。申し訳ありませんメリッサさま」
「万里谷さえ良ければ今度ランニングに付き合ってみるか? 野球はやめたけど朝はちょっとだけ走ってるんだ」
「あ、ありがとうございます……! 今度、ご一緒させてください……!」
恥じ入ったように顔をうつむかせた祐理が蚊の鳴くような声でいった。
『草薙さまは獣の戦士とは思えないほど常識的で女には甘いように思えますわね。……ご寵愛をいただくチャンスがわたくしにもありそうで安心しますわオホホ』
「怖いこと言うなよ……さてと、明日から本格的に大変そうだし今日はパーッとやるか」
そう音頭を取りつつ健啖家な護堂は食事を開始した。
期せずして持ち込むことに成ったハモなどの長物が捌かれて豪勢につきる。それだけではなく、八丈島の鮮やかな島寿司にもついつい箸が伸びてしまう。
そして祐理が冷水を注ぐ横で淡い色合いの
百合若にもなにかとってやるか、と思ったが採れたてのココナッツジュースを飲んでいてお腹が満たされているのか、むずがることなく大人しい。
だけど。
じっ、と硝子玉みたいな目で見つめられるのは居心地が悪い。赤ん坊特有の丸々とした目が顔の中で異様に目立って見える。
百合若をよく見ると少々薄汚い。身を包んでいる麻織りらしき目の荒い毛布は、以前までは派手派手しく鮮やかな装飾が施してあったのだろうが、今はボロボロになっている。途中から引き裂かれたような跡もあって、少ない布地から伸びる足は裸足で泥まみれだ。それは手や頬も変わらない。
「先に風呂で洗えばよかったな」
神様の美しさはこういうところで損かもしれない。
よく見たら食事するにはふさわしくないくらい汚れているのに、その美麗な雰囲気に隠れてしまっていた。
ほっぺをぐにぃ〜とっつねってみると驚くほど柔らかな感触が返ってきた。餅かウミウシさながらの軟体動物みたいな低反発さだ。まさか神様とこんな気安く触れ合えるとは、つくづく奇妙な事になったな。
護堂は内心そんな事を思った。
『草薙さま! タコ! タコをお忘れです!』
赤ん坊の百合若はともかくバッサバッサと翼を振って催促するメリッサはすでに神としての威厳を投げ捨てている。さっきの魅了の戯れが嘘のようだ。
彼女の皿に盛られた料理は怪物に食い散らかされたように無惨だ。
「……もうちょっとキレイに食えよな。……で、タコが食べたいのか? 鷹だったら小さな鳥を食べるイメージがあるけど」
『鳥を食すのは気分ではありませんわ。毒はそのまま毒にも薬にもなり、そして食事を彩る調味料にもなるもの! さきほど釣り上げた魚のなかにドクウツボがおりましたので、今度はタコを、と』
「ドクウツボって……毒をもってた魚がいたのか!?」
「き、気づきませんでした……。海蛇はほぼ全種類毒を持っている、とは聞いたことがありますから注意していたんですが……」
「お、俺も毒は大丈夫だと思ってた……」
護堂たちの預かり知らぬところでメリッサが処理してくれていたようだ。
『勇猛果敢な英雄方でも毒と病には相性が悪うございます。毒はあらゆるものに潜み、そして毒を潜ませるのが女のたしなみでしてよ。草薙さまも魔女と毒婦の奸計には重々お気をつけくださいませ!』
「お、おう」
メリッサが胸を反らして声高にいった。
彼女たちが血風の色濃い日本でどうやって生き延びてきたか実感させられる言葉だった。
食事を終えると満足したのかメリッサがどこかへ飛び去っていき、百合若の汚れ具合も気になった護堂たちは風呂に入ることにした。
フロントで貸し出されたタオルと館内着を持って、備え付けの温泉へと向かう。
その間、祐理は少し護堂から離れた場所、三歩後ろあたりを進んでいた。
「そんなに離れることないじゃないか」
「いえっ、やはり殿方との過度な接触は控えるべきかと……それに草薙さんは羅刹の君であらせられますし……!」
「今更じゃないか? それ?」
「だ、ぅぅ?」
「ほら、百合若も離れたがらないじゃないか」
「いえっ、やはりあまりお近くに侍るのは控えるべきです! ……せめてお湯をいただくまでは……」
古き良き大和撫子の控えめさ……というより汗をかいてしまった上に、鮮魚の生臭さと海草の磯臭さ、それらが混ざりあった体臭を祐理はずっと自覚していた。色恋に疎くても花も恥じらう乙女、体臭は気になる。それが気になっている相手の前だとすれば尚更だった。
朴念仁の草薙護堂にそんな機微が分かるわけないため、訝しげな視線を向けていた。
「これからどうなるのでしょう……?」
思わず漏れたつぶやきを耳ざとく護堂が拾った。
「やっぱり不安だよな。悪い」
「い、いえ!……そ、それにメリッサさまや百合若ちゃんが草薙さんのもとにやってきたのも不可解ですし……」
「まあな」
(メリッサさまがおっしゃていたように、本当に『
チラつくのは朝引いたクリアカード。あんな霊験なんて皆無そうな代物でも、効果は本物だったらしい。見事、神様を導いて……否、誘引してしまった。
そう思うと護堂への申し訳なさが募った。
「すみません草薙さん……」
「? どうして万里谷が謝るんだ」
何故か突然愁眉をひそめた万里谷に謝られてしまい戸惑う。さきほどから百面相をしてえらく情緒不安定気味な巫女に、百合若と目を合わせた。星団でも瞳に隠したのかと錯覚するほど眩い金の虹彩がぱちくりと護堂の瞳と噛み合った。
とはいえ、護堂も彼らがやってきた理由を測りかねていたから気になるところだ。
「俺達のもとにメリッサたちがやってきた理由かぁ。あー……」
そういえば彼らがあらわれる直前「もう好きにしてくれ」など「メゾン・ド・ゴドー 入居者募集中!」などと考えていた気がする。
「すまん……」
「? なぜ草薙さんが謝るのでしょう……?」
頭を抱えそうになったが気を取りなして祐理へ肩越しに振り返った。
「い、いやっこっちの話だ。それに、妙な流れでアイツらの面倒を見ることにはなったけど……おれはそこまで煩わしいと思ってないし、悲観もしちゃいないんだ」
「そうなのですか?」
「ああ。それどころか奇貨だと思ってるよ。
博奕の末に神を殺めた少年は百合若を眺めながらいった。
「まつろわぬ神ってのが全部が全部、相容れないって俺は考えたくない。諦めなきゃ……なにか別の形があるんじゃないかって思いたい。根拠はないけどな」
「…………」
「一週間前にもあの布袋だかミルクだかにいいようにようにやられたのは身を以て理解してる。でも、その時はやりかえせば済む話だ」
護堂が微苦笑した。
「
「草薙さん……」
甘すぎる護堂の言葉。およそ神殺しの魔王が語るにはふさわしくない腑抜けた言葉だ。もし仮に、カンピオーネとして円熟した戦士となった草薙護堂と戦いを望む同族や戦女神がいるならば苦笑と頭痛を禁じ得ないはずだ。
しかし祐理は好感を覚えてしまった。兇悪無慚なる羅刹の君からは想像できない言は、なにより祐理の心を動かした。
「それに、打算がないわけじゃないぞ」
「打算、ですか?」
護堂の頬をつねる百合若と、百合若の鼻をつまみながらお返しするふたりを眺めながら、聞き返した。
「神様といるんだ。この聖秘儀だかなんだかよく分からない祭りで何かが掴めるかもしれないだろ?」
そして少し真剣味を帯びた眼差しを作った。
「──エリカの手がかりになるかもしれないからな」
「ぁ……、そう、ですね」
エリカ。
その言葉を聞いた瞬間、さっきまで浮足立っていた祐理の心が極寒の大地に叩きつけられ氷漬けになった。
草薙護堂というカンピオーネの介添人。イタリアからやってきた頭脳明晰で美麗なる金と紅の愛人。名門魔術結社が輩出した大騎士にして神を殺めた護堂の見届人。
彼女の前にはあらゆる女性も
今は囚われの身だが、彼女が不在であっても護堂の中でその地位は揺らぐことはない。どれだけ時間が経とうと彼女の存在は護堂の記憶に刻み込まれ風化されることはない……万里谷祐理がまるで太刀打ちできない女性──。
「あいつのことだから大丈夫だとは思うけど」
なんてこと無さそうに語る護堂の顔が見れない。
顔を伏せた。ちょっと前まで湧き上がっていたはずの胸の奥に灯ったじんわりとした熱は、腹底から雪崩打つ寒風にたやすく飲み込まれてしまった。
護堂の声音が平凡なほど祐理の心は揺らいで掻き乱されてしまう。彼の変化が少ないほどエリカ・ブランデッリへの信頼が大きいに違いない。
「私、お風呂を頂いてきますね」
「おう。また後でな」
手をあげた護堂に返答せず、暖簾の裏へと逃げ込んだ。今日が貸切だったのは良かった。誰にもこの顔を見せずに済む。
──とくとくとく。
湯口から流れる水音だけが響く湯船で、祐理は俯いたまま水面を見つめていた。噴出する湯とともに立ち上る湯気の一団は、白い雲のようで水面に映る情けない顔を多少誤魔化してくれている。
硫黄臭をごまかす香料が入り混じり、茶と緑に濁った湯のなかで祐理はだれもいないはずなのに息を殺して湯船に身を潜めていた。
(やはり草薙さんは、エリカさんのことを。それなのに私は……共同生活と聞き、慌てて……浮ついて……みっともない。私と護堂さんはそもそもお友達ですらない王と巫女の関係でしかありません)
瞼を瞑った。
(そうでなければ、いけません)
潮風に当たって少しごわついた長髪を撫でる。普段なら髪を後ろにまとめ上げる。いや、そもそも祐理は服を脱いだあと、髪も身体も洗わずに湯船に浸かってしまった。
丁寧で何事にもおろそかにしない祐理にしては稀なこと。
そんな気力など残っていなかったのだ。
……ふと、自分の茶髪と言っても違和感のない髪に触れる。
(私のような雑味のある髪色ではなく、黒髪がお好みだったりするのでしょうか……?)
媛巫女の立場にある祐理だが、正直、大和撫子と評するには不相応に明るい茶髪はながらくコンプレックスだ。
媛巫女仲間と一緒に修行する機会は何度かあったが、皆、濡羽色の黒髪ばかり。とくに幼馴染と言ってもいい『剣の巫女』と呼ばれる友人の黒髪は美しかった。巫女の中では最強、家柄も良く、容姿も良く、そして胸や臀部も一段と発育のいい友人は友情のなかに羨望の入り混じった感情があった。
そんな自分が、エリカ・ブランデッリと一人の男を巡って争うなど土台無理な話なのだ。彼女と自分は違う。七雄の社務所で剣を抜き、その生命を彼のために捧げ果てた、燃え上がる情愛の
「やはり、私などでは……」
ぽたぽた。
水面に映る顔が円をえがいて歪んだ。
その理由を探る気も起きずに、手首を掲げた。内側の健のあたり──放課後、倒れ込んできた護堂の唇が触れてしまった場所をなぞる。
胸の締め付けられる苦しさが祐理の心だけでなく身体も縮こまらせた。膝をおって、胸に抱き、首を傾けながら……近づけた手首へと、唇を強く、強く。
押し当てて──やがて祐理は自分の想いに蓋をした。
はずだった。
『──あら。なんとも、男を誑かすに秀でた娘ですこと』
「きゃあああ!? ……メ、め、メリッサさま! いらっしゃったのですか!?」
牝鷹……女神メリッサが唐突に湯船に乱入してきた。
『かーっ! やれやれ本当に可愛い声で啼く娘ですね。力が衰えていなければその生命尽きるまで鳥かごの中で飼いましたのに……』
「と、鳥かごにございますか!? お、恐ろしいことを言わないでくださいませ!」
『仮の話でしてよ娘。先程も申しましたが
そう傲岸に言い放ったメリッサと名乗っている鷹の女神はじぃぃぃっと祐理を観察した。仮にもまつろわぬ神だあるのに。
他者からこれほど不躾に見られたことのない祐理は困惑した。巫女の地位にあり、容姿にも優れ、華族の末席にあって血統も確かという立場の彼女は蟻でも観察するような無感動な目を向けられるのは初めてだった。
『……わたくしも勇士たる男たちに情欲と愛を捧げてきた身、女の色香を十分介しているつもりです。が、そなたは”それ”を無自覚に振きますね』
「はい?」
小首を傾げる祐理だが、女神が色香ありと評した裁定に間違いはない。
透き通るように白い象牙の肌。腰つきはほっそりとして筋肉もたいしてないのに、必要な部分には十分な
もともと女性の蠱惑さや魅惑さ、そして魔性を神格したような女神だったのだ。
火の女神であり恋の女神とも名乗れるメリッサの目利きは本物である。まあ本人の恋が成就したという話は寡聞にしてあまり聞かないから、仮に彼女の神社が建てられても恋愛成就の御札は売ってないに違いない。
『ふむ。地母を司る女神たちの遠き裔でしたか。ただの下女とするにも惜しい才をそなたからは感じます──
冷厳な言葉が響き渡った。……浴場に、だが。
締まりの無い場所でも。それもタオル片手に素っ裸の祐理相手でも。
それでも宣言した言霊には侵し難い神聖さがあった。腐っても女神ということか。
『そういえばそなたの名をきちんと聞けておりませんでした。人の子の名などという小事を記憶に留めておくのは億劫ですし、ゆるしなさい。今一度、改めて名乗ることを許しましょう』
「は、はい、女神メリッサさま。万里谷祐理と申します。こちらこそ一糸も纏わぬご無礼をお詫びいたします。改めてこの度は拝謁の栄に浴し、誠に祝着至極にございます……」
『マリヤ・ユリ……ほう、マリアのユリですか。『
『
クラスのマドンナなどと言って勝手に死語扱いされるマドンナだが、マドンナはそもそもとして子を抱く聖母マリアを意味する言葉だ。
可憐な花弁を咲かせる百合はかの聖母マリアとともによく描かれる。特に天使ガブリエルが聖母マリアにキリストの妊娠を告げる『受胎告知』──そのワンシーンを描いたキリスト教の美術には白い百合を添えられていることが多い。
処女受胎そのものはそう珍しくない。『エリクトニオスを生んだアテナ』『オシホミミらを生んだアマテラス』『ソスランを生んだサタナ』『釈迦を生んだマーヤー』など幅広い地域で普遍的に見られる。
百合の花が聖母マリアと結びつけられるのは純潔をあらわす白い花弁をつけるからだけではなく"百合の金色の
「あ、ありがとうございます? あの……メリッサ様、
神の寿ぎに深く頭をたれたのはいいが……百合の耳には聞き捨てならないワードも聞こえた。
『察しが悪いですねマリヤ・ユリ。そっくりそのまま赤子である
ヨヨヨ、と悲哀の涙をながして倒れる小芝居をするメリッサに神職にあって生真面目な祐理でさえ微妙な視線を送った。
胡乱な視線を感じ取ったメリッサは何事も無かったように、硫黄の積み上がる湯口に立った。この厚顔無恥さと不屈の姿勢こそ女神が女神たる所以なのかもしれない。
とはいえ祐理は大きく否定した。
「む、無理です! お言葉ですがメリッサさま! ま、まだ未熟な修行中の身で、天上のまつろわぬ神のおそばに控えるという大役を務めるにはあまりに役者不足ですっ!」
『そうでしょうとも。見た所、そなたは男を知らぬ
「そ、それは……」
『それにわたくしは
「!?」
『しかし! あの方は見事なる勇士ではありますが、子を養育するにはふさわしくありません。それをそなたが補佐せよと言っているのです』
「いいえ、草薙さんはそんな方ではありません! 親切でおおらかですし、かの侯爵と同じ力を持ちながら偉ぶらない謙虚であろうとする……美徳にあふれ、優れた『王』へと羽化しつつある方ですっ! わたくしが居らずともその大役を立派に果たされるはずです!」
護堂本人が聞けば遠い目をしながら「万里谷ってゴミ溜めの中にも美点を見出すタイプなんだなァ……」と言いそうな言葉の羅列で反論した。まるで恋に盲目な箱入り娘が、チャラい性質の悪い男に引っかかったようだ。
『強情な子。そこまで拒むとは、そなたにとって草薙さまは嫌悪を覚える殿方なのですね? だから共にいたくはない、と……』
「嫌悪だなんてそんな! ……私は草薙さんのお傍に侍るに相応しくないだけです……無口で愛想がないですし。面白みも華やかさもありません。きっと草薙さんもよく思われていないかと……」
そういいながら、俯いて手首を指でなぞる。
「そ、それに草薙さんにはお待ちになられている女性がおられます……。わたしなどより賢く華やかで眩ゆい御方が……」
『ほう。草薙さまは永遠に人を待たせ続ける側の方だと思いましたが逆でしたのね。その女は今どこに居るのですか?』
「えっ? 今は行方不明で、いま草薙さんが必死に探されております。ですから、その方がいらっしゃらぬ間にあの方の心に入り込むなど──」
『──ふん! しみったれたことを!』
メリッサが祐理の煩悶を一刀両断した。《鋼》の軍神ではないのに、その言葉は非常に鋭利に思えた。
『陰陽の陰を極めた情愛の女神に言わせればそのていどの障壁など蹴飛ばしてあげますわ! 新たな愛を得るため、古き妻を捨てる。それが男女の間での作法というものですよマリヤ・ユリ!」
この女神は無敵である!
天上の神々を悩殺し、神を神たらしめる至高の美貌で男を奪い取るが故に。
地上の何人からも支配され得ない翼を持つがゆえに、彼女に抗うほどの魅力と苛烈さを所持できないが故に!
『そなたがやらぬと言うのならわたくしが奪うまで! それまでそなたは指を咥えて眺めているがよろしい! なぜわからぬのですか!? その女がいないならばこれ幸いと奪いなさい! それが愛の作法! 恋とは──戦争ですよ!!!』
「い、いけませんっ! ふしだらです! いかに御身のお言葉であろうと、そ、そんな破廉恥な真似はできかねます! 恐れながら、め、メリッサ様は慎みを思い出されることをお願い申し上げますっ! ……そ、それにそのお身体では抱き合うこともできないのでは……?」
『くっ……じれったいですこと! わたくし草薙さまをちょっとやらしい雰囲気に──いえ、わたくしが草薙さまにやらしいことをして参ります!』
「お、お、おお待ちくださいメリッサ様っ!!! あちらは男湯でございますよっ!」
『離しなさいマリヤ・ユリ! 離さなければ──そなたごと草薙さまのもとへ参りますッ!』
「~~~~~ッッ!?」
まるでギリシャ神話に登場する神々のごとく略奪愛こそ正義なのだと精髄に刻み込んでいそうな牝鷹と、護堂が見れば瞠目するほど声を荒げながら押し留める巫女の戦いはそれから長らく続いた。
結局、湯船にゆっくり浸かる暇もなく男女同じ部屋という意識もする間もなく祐理は眠りに落ちた。
今作ではこのキル……メリッサが作中最強キャラです
とりあえず一区切りしたのでほなまた……
参考資料:アニメ五話20:30〜20:45