「嘘ォ! もおこんな時間? 宿題やってたらおそくなっちゃったなタハハ……」
丑満つ。
あっけらかんと笑ってペンを放り投げ、参考書を片付けていく。時計の針はいつのまにか深夜も深夜を指していた。
誰にともなく言って、わざとらしく頭をかいてみる。
気付けば夜遅くまで集中していた。勉強で時間を忘れていたと言うには、あまりに遅い時間。
眠気が来なかったから、気づかなかった。
『────』
ヘッドホンを外すと大音量で垂れ流していたアニソンが離れていく。
代わりに訪れたのは静けさ。
初夏にしてはやけに乾燥した空気。それに夜気に満ちた潮騒じみた匂い。
「…………っ」
作業に一区切りつけ、立ち上がった。ベッドにごろんと横になり、身体を休める時間だがそういう気にならない。
「歯、磨かなくちゃ」
意を決してドアノブを回す。
部屋のドアを開けると静寂がすきま風となって脇下を縫った。洗面台につづく通路をおそるおそる進む。
家には誰もいない。
もともと兄妹もいない。一人っ子。三人家族だ。
そして。
父はとある一件で不在となり、母もそれに付いていった。
「あー、ダメダメ……さあって、寝ましょ寝ましょ~!」
騒がしいシンとした家は寂しさが募る。無駄に威勢よく張り上げた声は、静けさの増した家に物悲しく響く。
帰宅して。料理して。食事して。入浴して。勉強して。眠る。
この所、黙々と一人で黙々とこなしていくルーチン。
まだ、大丈夫。
ぎりぎり。
笑う余裕がある。だから。
──何も出てこないで。
二階の子供部屋から腰をかがめて、歯ブラシのある洗面台へと向かう。
──ぽた。──ぽた。
「ひっ」
肩が揺れる。
心臓がシェイクされ、湧き上がる嗚咽と視界が滲む。
ただの水滴が落ちただけの音。それだけで過剰反応してしまった。唇を割って苦笑をつくりだす。
大丈夫。
なんでもない。
なんでもない。
ただ蛇口を閉め忘れてただけ。
一つ、二つ、と漏れて落ちる水滴を数秒ほど凝視し、不器用に笑った。
「もぉ〜、蛇口ちゃんと閉めてないのなんてお父さんでしょ! なーんちゃって、アハハ」
蛇口をしっかり、ハンドルを折れそうなくらい強烈に閉めた。
なのに。
なのに。
──水は絶え間なく落ちてくる。
「ッ!」
──ぽた、ぽた。──ぽた、ぽた。──ぽた、ぽた。──ぽた、ぽた。
「ぁ、あ……ああ……っ! 今日も、なの!?」
水滴が量を増し、不気味な音が数を増す。虚勢の笑みが、今度こそ引き攣る。
お父さんの仕業なんて下手な誤魔化し方。
だって。
父はここ数日、家に帰っていない。
伏見めぐみは分かっている。
お父さんは化け物にやられたんだ、と。
でろり。初夏の蒸し暑さが、怪物の吐息を思わせる生暖かさとなって頬を舐めた。
「ひぃ、ひぃ!」
「なんでっ──なんで!?」
「う、うぅ! ……やめて、やめてよ! 誰なのッなんでこんなことするの! お父さんの次はわたしなの!?」
化け物は日を追うごとに気配を増していく。
最初はお風呂場での視線。ドアをくぐった時の違和感。
でも数日前から夢にまで出てくる。
朝、夜。家にいれば白昼夢が起きて、そして倒れていた。
宿題に集中していたから眠らなかったんじゃない。
眠りたくなかったから宿題にのめり込んでいたのだ。
誰にも言えない。目覚めない父にも、付きっきりで看病している母にも。友達にもクラスメイトにも誰にも。
「…………やめてください……。お願いします。私からもう、取らないで……なくなっちゃう……」
ぴちゃん。ぴちゃん。
膝をついて流れた涙が落ちて、波紋を作った。水の跳ねる音は床からだった。
床は水浸しだった。
水道水ではない。もっと野性的で原始的な香り。冷々然として雄大なるもの。
海。海水。潮。命の息吹の生臭さ。
異臭を感得する鼻腔が決して幻ではないと囁いてくる。
『──』
囁き声。
ヘッドホンをしていてもずっと耳元で聞こえる誰かの囁き声。
視界の隅から闇が滲んでいく。海水と同じ、塩っぽい水滴が止まらない。
涙は止まらない。恐怖によってではない。
──化け物が欲しているから。
まるでミルクを求める幼子のように求めてくる。
怪物は涙を欲する。塩気に富んだ、人の命をすすって膨張していく。
涙は止まることなく床の水面と眼球を一本の柱を作り上げる。
身体が力尽き、傾いでいく。
「やだ! やだ! ヤダヤダ!!! 眠りたくない眠らせないで! あの夢はもう見たくないぉ!!!」
ゆっくりと、確実に。眠気が意識に蓋をしていく。
呼ばれている。誰かに。
誰。誰。嫌。嫌。逃げなくちゃ──
「………………っ」
──走っている。走っている。
夢の中で走っている。
ああ、眠っているのだ。いつの間にか寝入っていた。そして夢を見ているのだ。絶望に染まる。
人は眠りを認識出来ない。死と同じく知ることができない。
でも浅い眠りの中なら、人は眠りを認識できる。夢として。
死に最も近く、夢という他界にいるから、認識できる。
「はぁ……はぁ……」
夢の中ではいつもそう。走って走って、囁き声の届かない場所へとめざし、そして目が覚める。
『──ぃ』
また囁き声。声は遠い。でも近づいてくる。
闇と影が交互にやってくる。光はないのにナニモノかの影の陰翳がはっきりと認識できる。
『────ぃぃ』
また囁き声。
近づいてくる。さっきよりも
夢だ。夢のなかにいる。最悪なおぞましい夢のなかに。
『……さ、……ぃぃぃ』
聞こえる。囁き声が。
乳白色の石器を擦り合わせた声。人ならざる者の、囁き声。
「来ないで!」
歪んだ町並み。誰もいない空虚な景色を走る。
いくつもの建物に窓のはめられたものがあった。窓から追ってくるナニモノかの姿がちらりと見えた。
なにかを欲するように腕を差し出していた。
手のひらを突き出して、乞うように。
『──クダ、さ、ぃぃぃ』
囁き声がひどくなる。いや、近づいて分かった。
囁き声は叫び声だった。
殷々と、殷々と。雷鳴じみた叫声がやってくる。
影が足元に降り掛かった。歩けない。足首を掴まれた。
『──クダ、さ、ぃぃぃ!』
振り返った。
振り返らなければよかった。
差し出しているように見えた赤い手は、手ではなかった。
もっと滑らかで柔軟なもの。二股に割れた長い舌。
あれっ、て
「え、伏見さんがお休みされたんですか?」
祐理は動揺を押し殺して、クラスメイトへ問いかけた。
「そーそー、まどかったら最近元気がなくってさ。休んだ方がいいんじゃないって言ってたけど、ぜんっぜん休んでくれなくてさ」
「目のクマヤバかったもんね。やっと休んでくれたんだ、ってちょっとホッとしてるんだ」
少し安堵した様子で伏見まどかの友人たちは笑った。
その笑みに追従するような愛想笑いを、祐理は浮かべなかった。
真剣味を増した目線で問いかけた。
「あの伏見さんの事情についてお伺いしても? 以前、ノートが濡れているとお悩みになられていたはずですが……」
「んー、それはいつの間にか聞かなくなったかな。それより、めぐみのお父さんが倒れてから急に元気なくなったんだよね」
「ま、親が倒れたら不安になるけど」
「お父さまが? 理由などは……?」
「そんな聞けないよぉ。デリケートなことだし」
「そう、ですね。不躾な質問でした」
「でもさ、それからだよね。めぐみがなぁんか家に居たくない〜ってすっごい気味悪そうにしてた? よね? だよね?」
「うんうん」
顎に手を当てて、かしましく喋っているクラスメイトから視線をずらす。現実から思考をズラす。
「…………………………」
これまで伏見めぐみという同級生の知り得た情報を反芻していく。
濡れたノート──祟り──父親の衰弱──家への拒絶感──アラブの壺。
──壺?
祐理の脳へ不意に落ちてきたイメージ。そういえば彼女の父親はアラブに縁のある壺を家に持ち帰ったのだとか。
確か──紅海。アフリカとアラビア半島に挟まれた海流のほとんどない海。
彼女と会話した当時の記憶を掘り起こすと、水のかおりがツンと鼻についた。に潮の匂い。命の濫觴の地。
そんな匂いが記憶に染み付いていたのだと今更気づいた。
命と結びつく女神はおおよそ地母神を指す。だが地母神は大地のエレメントに属する女神だ。
海を司る女神──水のエレメントに属する太母神もいる。中国の媽祖。ヨルバ族のオロクン。イヌイットのセドナ。
そしてギリシャのテーテュース。
脳裏に駆け巡るのは嫌な予感。家に帰りたくないと嫌がっていたのは家に異変があるから、だとしたら?
焦燥感が肺腑の下底から吹き上がって、喉元にまでやってきた。寒気が舌先までのぼりつめ唇に凍傷ができそうだ。
神々や魔王との生活で慌ただしく過ぎ去った日々に、これほどの危機を見逃してしまったのかと自責の念が湧く。
急がなければいけない。
巫女ゆえなのか第六感が鋭く、こういう予感はよく当たる。
「みなさん、お聞きください。伏見さんのご様子が気になります。私がご自宅を訪問させていただこうと思うのですが、彼女のご住所をお教え願いませんでしょうか」
頭を九十度下げて、垂直に腰を折る。淑やかで大人しいイメージの少女が語気強く言えば、それはお願いではなく強要となる。
そんな思いもかすかに覚えながら、決然とした表情をたたえ祐理は教室を出た。
「はぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああぁぁあ……………………」
(神様との生活がこれほど大変だとはなぁ)
HRが始まる直前の教室で。盛大なため息をもらした。
八丈島で神様だというメリッサと百合若を拾い、同級生の祐理と共同生活をはじめて一週間。学園一の美貌の少女と同じ布団で寝起きし、異端審問会に架けられ、妹に詰められ、いろいろあった。
今日の朝も祐理とランニングし……あの甘粕という男の謀略でブルマを履いた祐理に起こされ……いや、やめよう。密度の濃いなんやかんやあったはずだが、思い出すと気まずくなる。
メリッサは花を摘んできたといってバイカルハナウド……以前話題になった毒草の花をもってきた。あの鳥、どうも毒花を持ち帰る習性があるようで護堂のもとにもってきては呑み込んでいた。
百合若は楽しげに笑っていた。
彼らと過ごし始めて一週間しか経っていない。七日しか立っていないのである。
(嘘だろ)
護堂は愕然とした。
(……うん? でも百合若やメリッサより、万里谷のほうでダメージを受けてないか?)
もっというなら百合若が一番問題を起こしていない。
流石に気の所為か。護堂はちょっと湧いた疑念をかき消した。
ともかく。
この生活、平穏を希求する平和主義者たる草薙護堂にとってあまりにも心労の大きいものだった。まるで真綿で首を締められるかのごとく、ゆっくりと責め苦を受けている気分になる。
というか終わりが見えないのが一番の問題だった。
イタリアはサルデーニャで神を殺めてカンピオーネへとなった転生劇は急転直下で事態が進行しつづけ、三日とかからなかった。
だが今回はどうか。
神様を二柱も保護したのはいいものの、いつまで、どこまで、区切りにすればいいのか謎だ。聖秘儀の全容も神様たち自身よくわかっていない口ぶりなのだ。
これはもうどうすればいいんだ。
護堂の絶望はより深まった。
(頼む! これ以上俺の平穏を乱さないでくれ……!)
その祈りが通じたのか曇り気味だった空が割れ──陽の光が顔を出した。
吹き抜ける風が初夏の暑さに染まる都心を撫ぜていく。
(久しぶりに爽快な風をあびてるんじゃないか。よかった。今日は平穏な時間を送れそうだな──んっ?)
「…………」
護堂の祈りを無視し、ふと見上げた窓の外で──赤ちゃんが空を泳いでいた。
「………………???」
護堂の祈りを無視し、ふと見上げた窓の外で──
「…………──ゆ、百合若ァ!?」
椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
護堂の声が聞こえたのか分からないが百合若がこちらを振り向くと人懐っこい笑みで手を振り、そしてびゅーん! っと何処かへ飛んでいった。
方角的に西。隅田川のある方向へ向かっていった。
「すまん名波! 俺、体調悪くなったから早退したって先生に言っといてくれ!」
「お、おう……」
近くにいた名波を捕まえる。クラスメイトが驚いた目をこちらへ向けるが構っていられるか。
「しかし草薙よ、このシチュエーション……公にできない任務を秘密裏にこなすエージェント高校生を見守る訳知り同級生という風情があってちょっとエモいと思わないか」
「うるさいっ」
掴んでいた両肩をはなしてドアを開け放つ。くそっ、言い返したかったが半分くらいは当たっている!
廊下を歩いていた同級生たちをかき分けるように下駄箱へと向かう。
「万里谷に……いや、まずは百合若を抑える方が先か!」
生憎、祐理とは別のクラスだ。朝から苦労させてしまっている同居者へ更なる苦労を強いるのも心苦しい。
護堂は百合若を追いかけて教室を飛び出した。
特殊タグマスターしたいのぉですねぇ(文章力がないため誤魔化し)