戦女神は微笑まない   作:につけ丸

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18話

 栃木県 東武日光線上 pm 22:22 

 

 ──疾ッ(チッ)! ──疾ッ(チッ)! 

 黄色の閃電が瞬く。

 その正体は派手派手しい『靠』を纏った猿神だ。

 

 神が、大地を駆ける。

 

 躍動する体躯はまさしく異形の覇者に相応しい。ゴリラやオランウータンの力強さとニホンザルのすばしっこさの同居した疾駆である。

 

 黄色の装飾を夜闇に揺らしながら駆け寄るのは、大地を泳ぐナマズの形をしたまつろわぬ神。

 世界蛇、あるいは世界魚である"まつろわぬ大鯰"。

 その名の通り超弩級サイズのまつろわぬ大鯰は、その身に似合わぬ素早さで急速に北上していた。

 

「やれやれあの神殺しめ。面倒なことをしおったわ! とんぼを返す我が雲の秘術を盗み出すとはとんだ抜け目のない小僧じゃッ」

 

 万全ならば筋斗雲をつかって万里を駆けるはず。

 だが、今は奪われてしまった……先刻交戦した神殺しによって。侮りがなかった訳ではないが復活したてで足元が疎かになっていたらしい。

 仕方なく両足で風となる。

 

羯諦(ぎゃてい) 羯諦(ぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧(はらそう) 羯諦(ぎゃてい) 菩提(ぼじ) 薩婆訶(そわか)!」

 

 般若心経の大いなる真言を唱えながら眼下に蠢く世界蛇──まつろわぬ大鯰へと如意禁錮棒を振り下ろす。

 斉天大聖・孫悟空は仏教の神とも道教の神とも言えない複雑怪奇な混淆神だ。彼を主人公とする『西遊記』は中華の地よろしくさまざな民間伝承、戯曲、小説をつなぎ合わせて誕生した代物。

 そのため仏教と道教の要素の混乱が見え隠れする。

 孫悟空に仙術を教えたのは須菩提(しゅぼい)祖師。仙術を教える祖師とはいかにも道教風だが、須菩提はスブーティ(Subhūti)……仏弟子の一人で般若心経の編纂に大きな影響を与えている。

 その身に仏教と道教の混淆ないし共存させた斉天大聖は、真言で活性化した心身と怪力とで泰山鳴動をなす一撃を放つ。

 

──ぉぉぉおおおん!  

 

「ぬぅ……やはり」

 

 世界蛇が激痛で咆哮し、大地が蠕動を繰り返す。その散華した生命力の分だけ、斉天大聖は力を取り戻す。

 草薙護堂との戦いで負った傷も消耗もすべて快癒している。

 ……しかし斉天大聖は訝しげな表情を隠さない。

 

 草薙護堂との戦いを不完全燃焼気味に幕を終わらせた斉天大聖だが、ここでも捗々しくない状況に見舞われていた。怪物退治の専門家たる斉天大聖をして難しい壇上に上がってしまった。

 ヒトの時間でもう二時間。

 まつろわぬ大鯰に手をこまねいている。

 一息に屠るつもりだったまつろわぬ大鯰は満身創痍ながらも、命を永らえさせている。地母神に連なる不死によるものではない……己が《鋼》の武威をもってすれば、天に武による無法を強いた猿王が蛇殺しで手間取るわけもない。

 

 己が武威に絶対を自負すればこその──違和感。

 

 まつろわぬ大鯰の喉元を掻っ切ろうとすれば、急発進させ空振る。心の臓を破砕せんと刺突すればフェイントをかけられ不首尾に終わる。山ごと吹き飛ばそうと猿叫すれば、地下へと急速潜行する。

 万事これの繰り返しだ。

 鈍重な大鯰の動きではない。……何者かが操っている! 

 

「なんちゅー神業じゃ。我の繰り出す鉄棒のことごとくが紙一重で避けられておる!」

 

 街一つを呑み込むまつろわぬ大鯰を巧みに操り狩らせないための策、巨大を通り過ぎて広大極まるまつろわぬ大鯰でそれを為すとは。

 イカれた技倆(ぎりょう)だ。

 

「ほう……」

 

 やがて斉天大聖は空を見上げて呻いた。

 

「時流を釣り上げた太公望どのにも伍する、天地を釣り上げた釣客(ちょうかく)か」

 

 得心したように斉天大聖が毛むくじゃらの顎を撫でさする。

 天に翳る雲間から、誰かが覗いている。天と地とで隔たれた異界の先から神が覗きみている。

 十指を掲げ、釣り糸を手繰る若々しい神。

 彼は《鋼》だ。

 彼は弱々しい機織りの神では決してない。

 彼は異界だろうと獰猛に鉤爪を引っ掛け、勝利を引きづり込む生粋の《鋼》の征服神。

 

 この潮臭さ、《鋼》ではあるが孫悟空である己とはまた違う来歴を秘めた英雄らしい。

 

「南洋にもおったのぉ……。()()()()()のイタズラ好きと似た、隠された火を盗んだ大馬鹿者が……。天地神明、森羅万象、三千世界のすべてを()()()()()に長けたトリックスターが……」

 

 釣りはいかに垂れさげた餌を魅力的に見せるかが釣果を得る秘訣となる。釣り針を上下させ、餌を変え、時には潮の流れに身を任せる。

 そうして水中の魚を茶化し、苛立たせて、興味を引く。

 ならば漁撈の神がいるとすれば、その神格はひどく魅力的な容姿と相手を嘲弄しつくす性格を得るに違いない。

 

「……ふーむ。我を『弼馬温』で縛った奴らでもなさそうじゃの。あの亡霊の主客でもあるまい。むっ、よもや草薙のの一党か……?」

 

 何者であれ邪魔をするなら関係はない。

 

「柔よく剛を制す。見事な手並みじゃ……おなじ土俵に上がるのも面白い。じゃが、いまは急いでおるでな。これ以上付き合ってやれんわ! そぉれ、驚天動地!!!」

 

 斉天大聖が変化の術を唱え、巨大化した。そのサイズは数十倍、数百倍にも膨れ上がりまつろわぬ大鯰と見劣りせぬほどの巨体と化す。

 日光を目前にした鹿沼市の山間部で、天を動転させるほどの大猿が出現した。

 

 大猿顕現。

 雲をつかんばかりの霊長の神となった斉天大聖は、その手の獲物を変えていた。

 如意棒を納めて、紅色の瓢箪へ。名を紫金紅葫蘆(しきんこうころ)

『西遊記』に登場する兄弟魔王・金角銀角が天界から持ち出した返事をかえしたものを吸い込む法宝である。

 

「ぬぉりあああああああああああああああああッッ!!!」

 

──GYAAAAAAAA!!! 

 

 この瓢箪でまつろわぬ大鯰を吸い込むかと見せかけて、斉天大聖はそのまま瓢箪を槌と変えて叩きつけた。

 大鯰の背中目掛けて、大胆に振り下ろす。

 莫大な質量で踏みつけられ、まつろわぬ大鯰が()()()

 錨でも下ろしたかのごとく大鯰の動きが止まった。

 まるで大津絵に描かれる''瓢箪鯰''の様相を呈していた。丸くすべすべとした瓢箪をもった猿がぬるぬるしたナマズを抑える不思議なすがたを描いた画題だ。

 

「ははは! 倭国で見知った瓢箪鯰の再現よ!」

 

 強烈な圧力から抜け出せないまつろわぬ大鯰が大口を開いて吐瀉物のごときドロドロとしたものを吐き出していく。山々に植わった木々が吐瀉物に触れた途端、枯死していく。

 

「おおっやはり世界蛇かの。この猛毒を蓄えておったか! えぇい面倒だこのまま吐き出せてやろう!」

 

 斉天大聖の妙技ゆえか瓢箪鯰の故事にならうゆえか、ぬめりけを増した大鯰でさえ斉天大聖の軛から抜け出すことができない

 押し潰されるか、そう思った瞬間だった。

 

 まつろわぬ大鯰を釣り上げる──釣り糸を引く力が跳ね上がった。

 

「なんと! 我の怪力すら上回るかね!?」

 

 戦闘の神。呪術神。さまざまな分野に長じる斉天大聖だが大力となればヘラクレスや金剛力士などの掌力絶大な神格の位階には今一歩及ばない。

 しかし強大だ。ゆえに斉天大聖は驚愕とともに釣り糸の先……中禅寺湖の方角で何やらを睨む。

『弼馬温』を仕込んだ者たちの走狗ども。

 九法塚とかを名乗る人間どもの仲間が、何やら画策している。

 

 この期に及んで諦め切れない人間どもの愚かさに斉天大聖は呆れとともに鼻を鳴らした。

 

 

 

 

 中禅寺湖 pm 22:33 

 

 

『さあ、人の子よ! 怠惰な生を止めて、恐怖を棄ておき、御子の大綱を手に取るのです!』

 

 

オーエス(それ引け)!!!  

 

オーエス(それ引け)!!!  

 

 

 威勢の良い掛け声が中禅寺湖の湖面を震わす。

 男体山の山肌が人の足踏みで揺れている。

 中禅寺湖の水底から伸びた大綱を、日光に集まった呪術師総出で引っ張っていた。

 東照宮に封されたまつろわぬ神復活の報を聞き、各所から集っていたものたち。彼らは防衛術や人避けの術を施していたが、今だけは作業を放り出し、大綱へと縋り付いていた。

 

 音頭を取るのは女神メリッサ。

 彼女もまた斉天大聖にならぶ神通広大なる呪術神。ゆえに斉天大聖に対抗可能な術を、智慧を、授けた。

 

『お前の胸のうちに命を望む心あるならばわたくしの説くようにせよ! 労働に次ぐ、労働によって、たゆみなく働くのです! 大綱を引くことこそそなたらの命を永らえさせる唯一の術と知りなさい!』

 

 メリッサの張り上げた言葉にいっそう大綱を引っ張る力が増す。

 

 この大綱は''マナイアカラニ''の釣り糸である。

 幽世から糸を伸ばす若子神。

 暴れる大鯰と狩ろうとする斉天大聖。

 大鯰を調伏せんとするから拮抗していた天秤は、片方へと傾いた。傾いた先は斉天大聖。

 剛を強め大鯰を押さえつけるのに全力を出したために、柔に優れる若子神は歩の悪いものとなった。

 それを察したからこそ、メリッサは動いた。

 幽世から伸びる釣り糸に加勢せよと。

 

 筋肉の躍動と、擦れ合う骨と、震える吐息と、飛び交う怒号と、揺らめく決意と、弾ける熱と、神への畏怖。阿鼻叫喚の光景が迫りくる神への恐怖と、人の根源的にもつ生存への渇望を克明にあらわす。

 そう。当然、大綱の先にはまつろわぬ神がいる。

 天をつかんばかりに巨大な大猿と、大地を呑まんばかりに大鯰が。

 引けば引くほど死は近づく。二つの大災害を全力でこちら側へ引き込もうというのだ。

 伊達や酔狂にしては度が過ぎている。

 

 こんの、こざにくいっ! 

 ちょれぇんざ! 引くことなんざ! 

 どがんなってもよか! 引きあぐっぞ! 

 引けぇ! 引けぇ! 

 

 ──しかし。

 彼らは退けなかった。

 呪術でもって護国を謳って来たからこそ退けなかった。

 

「まったく、この世ほど面白いものもないねッまさか僕が大綱引き祭りに引手として参加することになるんて! それも相手はまつろわぬ神と来た!」

 

 瀟洒な沙耶宮馨が柄にもなく必死な表情で、腕を捲りあげて大綱を引く。大力の呪法で膂力を底上げしているが、意味があるのか謎だ。

 ぴくりともしない。

 正史編纂委員会の後継者と目され四家の貴種でもある自分が、これほど有意義とは正反対の行いをする羽目になるとは。

 

「アタクシも給料分以上の働きはしたくないんですがね……! 今からでもボーナスの査定にプラスでお願いしますよ!」

 

 甘粕も相変わずの減らず口を叩きながら、いつになく汗でスーツをびしょびしょにしながら大綱を引く。

 誰も彼も腹を括っていた。

 このまま斉天大聖と大鯰をどうにかしなければ日本が亡国と化すのは自明の理。当然、給料もでない。

 誰だってあの神々とどうにかできるとは思っていない。だけどバトンなら、託せる。

 なんという幸運か。

 今の日本には──神をどうにかしてしまえる存在がいる。

 兇悪無惨な暴力でもって天に無法を示す魔王が。

 世界最強の若き戦士へ、願いを託すことができるのだ。

 そう思えばこそ諦める気持ちにはなれない。

 瞳孔を開け、心臓を爆走させ、呪力を、命を燃焼させる。

 その場にいる皆々が、一心不乱となった。

 

 

オーエス(それ引け)!!!  

 

オーエス(それ引け)!!!  

 

 

 ──それはまさしく神事であった。

 

 ヒンドゥー教の天地創造の神話''乳海攪拌''のごとき神事。

 アムリタを求めた神々とアスラの盛大な綱引きが、世界蛇ヴァースキを綱にして太陽や月と様々なものを作り出していった故事のごとく。

 世に再び訪れた最新の神話は、斉天大聖と若子神が世界蛇(オオナマズ)をかけて綱引きし、人は生きるために若子神へと加勢する。

 

「引け」

「引け!」

「引けぇっ引きまくれ!」

 

 空を割らんばかりに掛け声の怒声。つんざく。蒸気する熱気が鬼火のごとく白煙と化して、異臭を放った。血煙と白煙が夜風に消える。何するものぞ。誰も彼も醜悪な顔と怒号を浮かべながら、綱だけは離さない。

 握りしめる手の皮が剥け、血が滲む。

 踏みしめる足の皮が剥けようと、力ませ続ける。

 

「来たぞぉおおおおお!」

「来た、来た!」

 

 もはや四肢の感覚も曖昧となった時、ようやっと大綱が動く。神の接近に来迎するかのごとく喝采を上げながら、掌力を最大限に高め、大綱を引き上げていく。

 彼らの尽力はついに実った。

 中禅寺湖の南西。

 古峯ヶ原の表面から、大鯰のすがたがあったマグロの一本釣りさながらに「ぬぉぉぉん」と山の斜面を跳ねる大魚。

 地面から中空へ身を踊らせ、威容をあらわす。

 泰山鳴動とともに跳ねる大鯰のそばには瓢箪を抱えた大猿もいる。

 まつろわぬ神々の来臨を前に、腰砕けになることなく人々は逆に士気を上げた。

 しかし。

 生への渇望に喘ぐ彼らの最前列。もっとも前で綱を引いていた者が突如倒れ、激痛で悶え始めた。

 そのまま一人、二人、と身悶えして力尽きていく。

 

『鴆毒にも等しき猛毒──ハーラーハラですか。やはり世界蛇の一種、隠しておりましたか……ここはわたくしの出番のようですね』

 

 毒の扱いに長け、調合した薬草で、数多の勇士たちを獣へと変化させた魔女神はここで動いた。先ほどまで取っていた音頭を放棄し、毒を収集していく。

 魔術で浮き上がらせた背脂のごとき毒をこそぎ落とし、鷹の身体へと吸収するとメリッサの羽毛の輝きが褪せ変色していく。黄金の輝きは失われ、毒鳥ピトフーイさながらの黒へと変色していった。

 

『むっ』

 

 大方の毒を呑み込んだメリッサが、急に声を上げた。その視線の先には──祐理の姿があった。

 幽世から舞い戻った彼女はさすがに憔悴を隠せず、中禅寺湖のほとりで寝かせていたはず。

 だが彼女はふらつきながら怪しい足取りで獣道に挑んでいた。ただ目的地は霊感による直感ではっきりとしているのか茫洋とした表情でも、脇目も振らず進む。

 斉天大聖のいる場所へと向かっている! 

 

『万里谷祐理! 何をしているのです、そなたはもう下がりなさい。そのやつれきった身体と精神で何ができると言うのです』

 

「いえ、まだです」

 

 頑迷な態度で祐理は首を振った。メリッサに対しても決して怯むことなく、迫ってくる斉天大聖を見上げながら目を細めた。

 今日の万里谷祐理はすでに十分に働いている。

 朝はメリッサから手ほどきを受けながら神獣を追い出し、霊視を受け取って草薙護堂へ知識を授けた。

 夜には日光まで移動し、幽世まで赴き若子神へ助力を希った。

 もう十分な働きだ。

 

「はぁっはぁっ! ……わた、し、にはまだっ、お役目が残っていますっ!」

 

 ハードスケジュールを経ても祐理はまだ足を止めることはできなかった。

 祐理自身も熱病に冒された時以上に身体を壊しつつあるのは分かっている。

 発熱が止まらず、節々が痛い。

 肺が悲鳴を上げ、心臓が暴れて破裂しそうだ。

 辛い。辛い。厳しい修行になれた祐理して心が折れてしまいそうだ。

 でもここでジッとしている方が辛いから。

 

 祐理は走るのをやめなかった。

 

「けほけほっ……はぁはぁ……っ、く、草薙さんがかの猿王に対抗するにはっ……まだ武器が足りませんっ! 智慧の剣を作り出すには、斉天大聖から霊視を得なければ……っ」

 

『…………!』

 

 メリッサは悟った。

 全ての努力は荒ぶる斉天大聖という脅威の排除にある。

 神殺し・草薙護堂でも容易ならぬ強力な闘神だ。

 なんの秘策もなく戦えば敗北は必定。だから祐理は彼に秘策を──希望を携えんと走っているのだ。カンピオーネ草薙護堂が誇る最大の武器『智慧の剣』鍛造のための材料を。

 

『だから、かの猿神の前に出ると言うのですか。なんと愚かな。そなたの目は水物……霊視が降りるとも限らないでしょうに!』

 

「なんとか、してみせます。霊視の託宣には自信があるんです……!」

 

 万里谷祐理は世界有数の霊視能力者だ。霊視能力をもつ巫女や魔女はそれなりの数がいるが、祐理ほどの精度となると一気に数を減らす。

 過信さすら窺えるほど、今は自分の能力に信頼を置く。

 駆けに駆け、まつろわぬ神々に近づいた祐理が地震を繰り返す地面に座り込んで瞑目した。厳かな雰囲気とともに胸元で手を合わせる。

 

「昔、大唐国の子、春の山に入りて帰らざりければ、其の親たずね入りて、わが子わが子と喚べども逢わず歎き死にて、魂魄鳥に転じ、春は山に鳴すなり──」

 

 精神の集中を高めるため媛巫女は言霊を唱えた。

 

『それだけでは不足です』

 

 目を閉ざした祐理の耳に女神の声が響いた。肩にいつもの鉤爪の感触と重さを感じる。

 

『色即是空にて幽世から知識を引き出そうというのでしょう。しかしそれでは静のみ。そなたは我が火巫女……動の境地も許された巫女』

 

 玲瓏なる乙女の言葉が耳朶から染み渡っていく。

 

『空ばかり見てはいけません……空即是色。この世はもっと愉しく騒がしい。無我の境地のなかで遊ぶのです』

 

 まるで矛盾した言葉。

 これまで媛巫女として生真面目に積んできた修行を真っ向から否定するもの。

 しかし祐理はそれを受け入れ、疲労と絶望的な状況のなかでも静と動を合一させる高等技術を披露した。

 瞑目した暗闇が消え、流動する名状しがたき色の世が顕れる。それもやがて消え、白く変色し、輝き、また万色に入り乱れる。

 

「……遥か遠くの山野、草原に憩う。鋼の系譜は剣の道。弓持て馬を駆り、荒ぶる想いを乗せて羊を追い、獲物を狩る。これ、猛き者たちの謡ういにしえの道なり」

 

 かすれる声で祐理がささやいた。

 

『霊視を得ましたか。ですが……いささか遅かったようですね』

 

 祐理が霊視を得て、目を開けると──二つの眼光に見下ろされていた。霊視のために斉天大聖に近づきすぎたのが仇になった。

 かの闘神に気取られた。

 巨大だった斉天大聖は変化を解き、百六十ほどの身長に戻っていた。野猿のごとく木の枝に乗っかり、冷厳極まる視線を投げかけてくる。

 ビクリと肩を揺らし、静かな怒りを秘めた猿王の視線を受け止める。

 気絶しなかったのが不思議でならない。

 

「我の来歴を覗き込む不貞の輩がいると見に来れば、驚いたの……それだけではなく、死にかけの女神がおるではないか? くは、先ほどからナマズの気配に隠れて妙な羽音が聞こえると思いたが……おぬしじゃったか」

 

『ふふふ。そう力むこともないでしょう斉天大聖さま? 寝起きのあなたがわたくしのお眼鏡にかなう力量を秘めたる男子なのかお試ししただけですわ? 我が心づくしおきにめせて?』

 

「はんっ、色魔のけったいな女神じゃ……」

 

 いつになく優艷さを覗かせるメリッサと不機嫌さを隠さない斉天大聖の対峙。

 内臓が引き潰されそうな圧力のなかでも祐理は正座しなおし、神への奏上をはじめた。

 

「──()()()()さま」

 

 明鏡止水の面持ちで荒ぶる神へと頭を下げた。

 

「不埒者の娘よ。花果山水簾洞の主にして天にも(ひと)しいこの孫さまへその名を呼ぶ意味──分かっておろうな?」

 

 首が、圧迫される。

 神の言霊によって咽喉が締め付けられ、まともに声が出せない。正座する足が、異様な方向へ曲がり激痛が襲う。

 意識を刈り取る灼熱の痛みと堪えようのない苦悶の中でも、なんとか言葉を捻り出す。

 

「はっ……はい。御身を、長らく封じ……守護神として数多の外敵を葬らんと、画策したこと……! 篤く御礼申し上げる、と、ともに……我ら、正史編纂委員会一同を代表し、深く、お詫び申し上げます……ッ!」

 

 神に仕える敬虔なる巫女は奏上する。

 

 これ以上ない──挑発の言葉を。

 

「どうぞ、我らを憎みください。そして、どうぞ、お諦めください。どうぞ、地上の秩序を護るため、我らヒトの蛮行を……お許しください」

 

 決然として言い放った。

 

「猿猴神君さま──あなた様のお役目は終わりました。どうか、あるべき場所へ──''神話''の世界へお帰りくださいませ……」

 

 

「────」

 

 

 みしり。

 斉天大聖の如意棒が音を立て、少女が血煙と化すかに思われた瞬間、五月蠅なす風が吹いた。

 

「草薙さん! 草薙護堂! 私と斉天大聖はここにいます! 早く来てくださいッあなたの力を必要とする者がいるんですッ!」

 

 豪──。

 如意棒が疾走る。

 されど寸でのところで祐理は、その命を永らえさせた。

 彼女のもとに鉄棒が触れる直前、彼女を中心にして出現した黄金のフィールドが斉天大聖の剛なる一撃が阻んだ。

 

 これは弾力性に富んだ羊毛。

《鋼》すら弾く黄金の羊毛が如意棒の威力を減んじ切ってゼロへと変えた。

 切断力ではなく破壊力に振り切った鉄棒だからこそ、可能なガードだった。

 

 直後、聖句がざわめく森のなかで称揚される。

 

 

 ──マヅダに造られたる最も(よろ)われたる勝利の化身。

 我は、美しき風。

 その形を以て初めて、汝の敵の所に馳せ来たれり──

 

 風のなかから聖句が舞う。

 句とともに旋風と黄金の輝きが晴れ、封印術で捕らえたはずの少年がすがたをあらわした。

 草薙護堂。先程まで受けた傷の数々はなく、全快となった魔王の姿があった。

 

 魔王と猿神の視線が、時を跨いでふたたび交錯する。

 

「我が石山巌窟の術をこうも早く脱出するとは。さすがに抜け目ないのぉ──草薙の」

 

「やれやれ、万里谷も無茶するな……リベンジマッチにしに来たぞ。決着をつけよう──斉天大聖」






コットンガード
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