からん。ころん。
長い木歯の下駄を石畳で軽快にならし、一人の男が古びた神社に現れた。墨色の黒衣を着潰したみすぼらしい僧という風体で、神職ではあるが神社には似つかわしくない。
しかし異教の聖域にも構わず男……黒坊主は頭陀袋を担いで悠々と踏み入ってきた。
それほど広くない境内を颯と練り歩き、腐り落ちた鳥居を抜け、と雨ざらしになり虫に喰われた茅の輪をくぐり、社殿にまで進む。
社殿内部もこれまた狭く、人が二人も入れば狭く感じる広さだ。腹のたるんだ黒坊主なら尚更狭く感じるが、それを感じさせない軽快な所作で社殿の中央部に座り込むと手をついて恭しく頭を垂れた。
「お久しぶりにございますな菅原道真殿」
カタカタ──カタン。
黒坊主が名を口にした途端のことだった。人の気配など皆無だというのに腐り落ちた
社殿の隅に置かれた盛り塩が黒く変色し、黒坊主の周囲に不可視の冷気がうごめく。
だが黒坊主はおぞましい気配にも動じることない。
やがて正体不明の気配はなりを潜めた。次に起きた怪奇現象は腐り落ちた幣の揺らめきだった。
手招きしているようにも思え、実際手招きしているのだろう。姿は見えないがその動きは黒坊主へ"近う、近う"と誘う貴人のようであった。
黒坊主はずい、ずい、と膝立ちになって近付き、やがて囁くように話しかけはじめた。
「拙僧が御身のもとへ罷り越しましたのは他でもありませぬ──我が大願成就のためにございます」
それこそ黒坊主が遠国からはるばる訪れた理由であった。
黒坊主にとって、大願成就こそ使命にして己が命を擦り切らせてでも果たすべき行事なのだと一遍の疑いもなかった。
「我が大願成就のために拙僧はこの世を如法暗夜の闇に沈めることも厭いませぬ。順縁と逆縁の入り乱れる乱麻のごとき世に救済と新しき
狂気。果てしない狂気。
黒坊主のお面から覗く双眸からはそれしか見出せない。まったくの疑念もなく稚気すら感じ取れるほど純粋に狂いきった色が煌々と輝いていた。
「──創造を」
黒坊主が呟く。
「──破壊を」
黒坊主が誦する。
「──故に
黒坊主が口遊む。
「創造の前には破壊があるように、破壊の前には騒擾があるもの。故に拙が求めるは──騒擾にございます」
創造を為すために破壊は必要だ。そして破壊のために秩序の乱れ切った騒擾は必定だった。
ヒンドゥー教の未来王カルキが
新たなる
世のため人のため今ある世界を叩き壊して新たなる新世界を創り出すという本末転倒の願望。それこそ黒坊主の本懐だった。神ならぬ身でありながら神よりもまつろわぬ性に真摯なのが彼だった。
黒坊主の口上を聞いていたまつろわぬ神が問いを投げた。
「ホホ。ええ、ええ、拙僧は所詮、神ならぬ身の上でございますれば新しい法を敷くのは拙僧の役目ではございませぬ。非力な拙僧では力不足」
ゆえに。黒坊主は続けた。
「拙僧が望むのは海を越える──"救世の大神"にございます」
シン、と奇妙なほどの静寂が社殿にほとばしり冷気の鋭さが格段に増した。
「女人禁制の聖域にして、四方を海原に囲われた日ノ本こそ空前絶後の大乱を引き起こす聖なる大道場に相応しいッ、ぐふっ」
小気味良く続いていた黒坊主の演説が唐突に止まった。否、阻まれた。黒坊主の周囲を漂っていた冷気がおもむろに牙を向き、怖気をともなう靄となって黒坊主を蝕んだのだ。
お面の下は見通せずとも苦悶を浮かべているのは見て取れる。なにせ薄汚れた黒衣には冷や汗と脂汗でじっとりと湿りが浮かび、白々しいお面は塩と同じく黒へと変色しかかっていた。
「───?」
「お、御身と拙僧は、ゴホッ! ゎ、我らは古き縁を辿りに辿れば……やがて同じ御座へと、たどり着く、言わば同輩にございますればッ」
こひゅう、こひゅう……。手の形をした靄が黒坊主の首の根を絡め取り、息も絶え絶えになりながら訴え続けた。
黒坊主は人外である。神獣すら下僕に置く人をはるかに超越した存在である。しかしながら相手はまつろわぬ神。その気になれば超越者とはいえ縊り殺すことなど容易い隔絶した差があった。
黒坊主も一廉の実力者であるし、全力の抵抗を用いれば逃れることも不可能では無い。しかし彼は無抵抗のまま嫐られ続けた。
死を厭わぬ真心こそ狂いきった黒坊主が示せる覚悟であった。
「それに御身はここで、
黒坊主を甚振っていた手が止まる。代わりに放たれたのは途方もない
黒坊主の現状を正鵠に射た言葉にまつろわぬ神が返したのは怒りでも嫌悪でも哀しみだった。まつろわぬ神の感情の昂りを示すように社殿が動揺し、空の雨雲からは落涙じみた雫が屋根へとふりそそいだ。
「───?」
「ええ。あなたは此処で終わる御方ではありませぬ」
「──────?」
「そうです。長らく欲してきた栄誉栄華を掴み取るでしょう」
哀しみ続けるまつろわぬ神へ黒坊主がささやき続ける。まつろわぬ神の強さは己のアイデンティティによって左右されると言われている。
それを考慮するなら黒坊主が対峙するまつろわぬ神は弱い部類なのだろう。しかしそれではダメだ。いと高き勇者降臨がために黒坊主が織り成す儀式にそんな木っ端が座る席はない。天変地異を揺るがし人界を灰燼に帰すほどの魑魅魍魎どもでなくば。
「────」
果たしてまつろわぬ神は黒坊主に乗った。
黒坊主のお面が雰囲気をがらりと変え、たちまちおぞましい笑みを刻んだ。
「ホホ。御身もお立ちになられる決心をなされたこと誠に祝着至極にございます……! であるならば拙僧としては早速、洗礼を執り行いましょうぞ!」
黒坊主は嬉々として問いかけた。この問こそ、全てを始める嚆矢の言霊。馬鹿騒ぎの火蓋であり幕。聖戦の狼煙であった。
「汝、『王』なりや──?」
「───」
何事かをまつろわぬ神が呟くが、喉が潰れたような耳障りな声に聞き取ることができない。
しかしその解答は黒坊主には十分に満足のいくものだった。
「うふっ、これにて御身は我が大儀を支える柱となりました。では早速でございますが勇者降臨の儀式のため御身のお知恵を拝借したく存じまする……ああ、いや」
言いかけていた言葉を止め、上機嫌にまつろわぬ神へ問いかけた。
「その前にお聞きしましょう。御身は我が儀式で何を求めるのですかな?」
今まで聞き取れなかったまつろわぬ神の言葉だが、なぜかその返答だけははっきりと聞き取れた。いや、感じ取れたというべきか。
神経を泡立てさせるほどの剣呑な声質で、物量を伴って刺すような
人々が忘れ去った土地で、密やかに人知れず行われた一幕。ただの夢と言うには穏当すぎる悪夢の類。浅い眠りに付いていた護堂がまぶたの裏に見た
場面が切り替わる。
次に浮かび上がって来たのは先刻まで訪れていた鹿島神宮。時明かりの眩い光が射しこむ時間だったが、鹿島神宮の境内は異様な雰囲気に包まれていた。
冬も終わり夏が近づいて暖かくなってきた五月後半でも早朝は霜が降るほど気温は下がる。けれど境内には熱があった。
数百から数千を越す老若男女が衣擦れの音すら立てずにじっと留まっている。寒さで震えそうな歯の根を噛み締め、吐き出す吐息には言い知れぬ熱が噴火寸前のマグマのごとく渦巻いていた。
ずる、ぺた。ずる、ぺた。
無音による耳鳴りが殷々と鳴り響く境内で、その足音は僅かな物音だというのに不思議とすべての人々の耳元へ届いた。
男だ。男が歩武を進めてやってくる。
戦士だ。戦士が傷を抱えてやってくる。
王だ。王が黎明の光を背負いやってくる。
敗戦による戦傷と戦塵にまみれながらも惨めさがないのは、未だ収まらぬ闘志ゆえか。曙光を背にして聖なる東方から来たるためか。
ダークグレーのジャケットを羽織った王は、モーセに道を譲った海原のごとく作られた民衆の道をいくらか歩くおもむろに立ち止まった。
いまだ曙光は王の面差しを明らかにするほど強くはなく、その顔立ちは見通せない。
だが満腔より横溢する戦意と覇気、そして覚悟が夢を通して俯瞰する自分にひとつの確信を与えた。この王は己よりもずっと強者なのだと。
王は"何事か"を宣誓し、布告した。
途端に民衆は跪き、口々に忠誠を叫んだ。
──太陽が昇る。時明かりの眩さが薄暗い境内を照らし出し、やがて影に隠れていた王の面差しを詳らかに映し出す。
一際目を引くのは額から後頭部へ広がる王冠さながらの聖痕。まるで十字架を背負わされ脇腹を刺された聖者が被っていたいばらの冠を思わせた。
肩に掛けられたジャケットから覗く制服からは夥しい血痕が垣間見え、深い影に染まった面貌から覗く炯々たる眼光は鬼火のよう。
護堂は思った。これは夜叉の類だろう。あるいは神も人も殺せぬと言われる羅刹の王。
名はおそらく、草薙護堂という。
「……夢、だったのか?」
先ほどまでまぶたの裏で織り成されていた現実離れした光景を反芻しながら護堂は起き上がった。
周囲は夜陰ばかりが眼前に広がる真っ暗闇のなかにいた。
ぴちゃん、ぴちゃんと頬に当たる水滴が覚醒を促してくれたらしい。
「おわっ!?」
身を起こして片足を伸ばそうとした瞬間、護堂はバランスを崩してひっくり返った。なんだ、と驚いて見やれば手足を縛られている。
縄は意外にも頑丈で解くのは難しそうだ。
こんな時、"雄牛"の化身だとか"駱駝"の化身だとか権能を使えれば良かったのだが生憎とそんな素直な化身は持ち合わせていなかった。
「まあ、そんなに使い易い権能があっても迷惑なんだけどな……。でも、こういう時には便利な身体だ」
カンピオーネの身体は夜目の利く。だからわずかな薄明かりでも十分に視野を確保できた。
ここ数ヶ月ほどなんども繰り返している自分の身体のでたらめ具合に呆れつつ、さっきまで頭を横たえていた石枕の陰からなにか紙片が覗いているのに気づいた。
「……紙?」
縛られた手で何とか掴んだ紙片は、古い和紙のようで独特な肌触りがあった。ひっくり返えしてしげしげと覗き見ると何やら絵が描かれている。
紙片の中央には波に揺れる一艘の帆船が描かれてあり、その端に添えるように縦書きの文字が書いてあった。
筆書きで書かれた行書体でいささか読みづらいがなんとか読み取れた。
「えーっと……"ながきよの とをのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな"? ……あー、どっかで聞いたことあるフレーズだな……」
馴染みのない言葉の羅列だが聞いた事がある気がする。祖父が民俗学をやっていたし、潰れたとはいえ実家は古書店だったから知識は皆無では無い。
己が保有する権能とあまり厄介事に首を突っ込みたくない兼ね合いもあって、そういう知識を詰め込まないように心がけているがカンピオーネになる以前から多少の知識はあった。でなければ走馬燈で『ミネルヴァのフクロウは黄昏に旅立つ』なんてフレーズがふと思い浮かぶはずもない。
脳の端っこに引っかかった記憶を探ろうと目線を上げた瞬間だった。
「お目覚めになられましたか」
骨を軋ませる揺らめくような声だった。振り向けば背後に黒坊主が佇んでいた。
護堂は舌打ちした。どこかに潜んでいるとは踏んでいたが案の定だった。そして自分が黒坊主に打てる手がないことも察してしまった。
前述の通り、草薙護堂が東方の軍神から殺めた権能は非常にピーキーだ。
型にハマれば強力なまつろわぬ神だって討ち取れる代物だが、逆に条件を満たせなければカンピオーネより遥かに格下の神獣や人間相手ですら遅れを取ってしまう。
そして今現在、後者だった。
「どうやら良き夢を見られていたご様子」
「……ここはどこだ。あの夢はあんたが見せたのか?」
「はてさて」
護堂の問に黒坊主ははぐらかすように禿げ散らかった頭をぐりぐりとこねはじめた。揶揄うような態度に護堂は渋面になり、続いて出た声が硬質なものとなってしまったのも無理からに話だった。
「黒坊主。これでも俺は平和主義者なんだ。こんなところに閉じ込めたのは見逃すからさっさとここから出してくれないか? でないとあんたをボコボコにしててでも出口を教えてもらわなくちゃならなくなる」
「ホホ。ホホホ。ホホホホホ」
闇ばかりの空間で愉快そうな哄笑が虚ろに反響した。
「出口などありませぬぞ」
黒坊主は粗末なボロのわずかに残った袖で口元を隠しながら笑い続けた。
「あなたが眠っている間に出口は菓子の如くとけて無くなってしまいましたからなぁ──気づいておいででしょう?」
周囲に広がる果ても見えない空間。
地面はたしかにある。石窟の中のようなボコボコとした感触が足裏から伝わって来るが、いつも踏みしめている大地とは決定的に"間違っている"。空気のゆらぎも湿気も感じ取れない無味乾燥とした空間。
護堂は何となく察するものがあった。まつろわぬ神や同族のカンピオーネと関わり合いになる中で決して無視しえない概念の気配を色濃く感じる。
死の気配。生あるものの終着駅。冥府。そういったものを。
護堂は黒坊主を無視して歩き出した。
と言っても手足を縛られ地虫のごとく這っているのだが。けれど構わない。一刻も早く状況を把握せねばならなかったし、背中を伝う嫌になるほど冷たい汗がそうさせたのだ。
「安心くだされ。ここは冥府などではございませぬ」
黒坊主が静かな声音で語りかけてくる。背中に投げかけられる声を無視しながら護堂は這った。
「しかし程近い場所」
進みが遅いがそれでも全力で這っているのに黒坊主と距離が広がらない。それどころか黒坊主は瞬く間に距離を詰めると囁いてきた。
「先ほどあなたは言っておりましたな。ここはどこだと……拙僧はあの時答えなかったのではなく答えられなかったのでございます。なにせ此処は外界からは切り離され地上からも遠く離れた化外の地」
そこではじめてお面越しに黒坊主の瞳を見た。酷く透徹とした眼。
何柱かまつろわぬ神と遭遇した護堂でもこれほど純粋な瞳は見たことがなかった。一度矛を交えた同輩であるサルバトーレ・ドニが剣に向ける峻厳で枯淡とした姿勢を思わせるほど憧憬と純粋さを垣間見た。
「ご安心なさい。死んだ訳ではありませぬ、時が経てば帰れもするでしょう。その証拠に──あちらをご覧なさい」
黒坊主が示す方向へ思わず視線を向け、そして驚愕は直後のことだった。
なぜ気付かなかったのか。あの巨大なオオムカデがいた。
先ほどまで一切気配を悟らせずそこに在った。
次いで護堂は理解した。なぜあの主張の激しいオオムカデに気付かなかったのかを。オオムカデが磔にされていた。
胴体と百を越える足は丁寧にコの字のステープル針で縫い止められ、まさに指一本動かせないという状態だった。
あれでは如何に強力な神獣であろうと身動きは取れない。
磔にされたオオムカデの他に、さらに異様なのは剣だ。
オオムカデのすぐ傍には巨大な剣があり、その刀身から青い液体がぬらぬらと滴っていた。鹿島神宮でオオムカデと交戦した時、一瞬、胴体の先に切断面を垣間見た気がした。
あれは護堂の見間違いではなかったのだろう……あの剣の役割は明確だった。
「あれは、なにをやっているんだ」
「ホホ」
黒坊主が答えることはなかった。
しかし必要はなかったのだ。巨大な剣が独りでに動きだし切っ先を高々に振り上げ──そうして次に起きる出来事は素人の護堂にも解った。
ひゅん!
という風切り音の後オオムカデの長い胴部の先端が切り飛ばされた。
──GYAAAAAAAA!
オオムカデの叫び声が洞の内部を叩きつけ、ぐらぐらと振動が護堂の足元を揺らした。覗き見る事すらはばかられる悍ましき供犠であった。
「おい黒坊主! あのムカデはあんたの仲間じゃなかったのか!?」
「ホ、ホ。世の事というのは常に表裏一体なのです。聖と俗。美と醜。……聖性を獲得せんとしたときに必ず穢らわしい行為に手を染めねばなりませぬ」
高僧が纏う
「禊とは穢らわしき部分を切り落とす行為。我が盟友のしもべであるあの子を痛めつけるのは心が痛みまする……なれどこれも大願成就がため……」
痛切な表情を浮かべながらそれでいて黒坊主は自己陶酔の虜にあった。
「禊とは天上の神々すら生ずる力強いものなれば」
黒坊主の口上をよそに、オオムカデの胴体から切り飛ばされた胴部は地面に転がるとやがて白色化した。硬質な質感はやがて風に靡くほど柔らかな質感へと代わり、両手を広げるように大きく膨らむと、どこからともなく風を受けて満々と広がった。
しかし違う。あれは旗ではない……その証拠に織物は一本の柱に縫い止められ、やがて悠々と進んでいくではないか。
帆だ。あの織物は弁財船の動力となる帆なのだ。
護堂は瞠目した。なにせ姿を現した帆船は『湖月堂』でも話題に上がりニュースで何度も見た、漕ぎ手のいない"宝船"そのものだったから。
よく目を凝らしてみれば帆船のなかにはぎっしりと金銀財宝が敷き詰められ、その中央には護堂にとっても見覚えのある千両箱が見て取れた。
「あの宝船は、お前の仕業だったのか……? 宝船にオオムカデ、俺をこんな場所に連れて来てまで……あんたは一体、なんのためにこんな事をするんだ?」
「それはもう拙僧は語り終えたはずですぞ草薙王」
脳裏をよぎるのは夢に見た人に仇なす魑魅魍魎の密談。大願成就、大乱、騒擾、そして救世の大神。実態はようとして知れないが明らかにろくな事では無い。
普段厄介事ごとを避ける傾向にある護堂ですら、馬鹿みたいに鳴り響く警鐘に対応をせざるを得ない。
「あんたが妙な神様を復活させようって言うなら、あの儀式を辞めさせればいいだけだろッ──我は最強にしてすべての勝利を掴むものなり!」
『雄牛』
護堂はオオムカデの懐に入り込み、剛力無双の化身となった。どうやら眠っていた時間は日を跨ぐほどだったらしい。
蛮勇だろうが愚行だろうが今は必要な行為だ。
尋常ではない膂力を得た護堂はそのまま手足の縛めを千切り、自由の身となった。
そのままオオムカデに取り付くとステープル針のような縛鎖を次々と引き剥がしていく。最後にオオムカデを括りつけていた柱を叩き壊すと、戒めから逃れたオオムカデは一目散にどこかへ逃げ去っていった。
護堂はそれだけに留まらなかった。オオムカデによって生まれた宝船、悠然と佇んでいた帆船にも飛びかかりマストをへし折り、帆を割いて、粉々に破壊し尽くした。
「黒坊主! お前の企みはこれで阻止したぞ!」
護堂は高らかに叫んだ。
「ホホ。愚者の申し子とはよく行ったものですなぁ」
だが様子がおかしい。儀式の生贄と祭壇、護堂がそう思っていた物を破壊し尽くしたというのに黒坊主は一切の動揺も慨嘆もなかった。
「お気づきにならないのですか? あの子の命尽きた後、次に命を削るのは──草薙王よ、あなただったと言うのに」
「な、……ぐっ!?」
突然のことだった。
先ほどまでオオムカデを縛めていた釘が宙を舞い、今度は護堂を縛める枷となった。
地面に縫い付けられ、剛腕で振りほどこうにも関節のひとつひとつを丁寧に縫い止められ思うように動かない。
それ以上に四肢に力が入らないのだ。
まるでカンピオーネが天敵であるまつろわぬ神と対峙した時、力が充足する現象の逆パターン。天地や星辰がそうせよと言外に言い放つかのごとく、護堂から力を奪い去っていく。
次いで手のひらを見て驚愕した。指の一本が消滅している、感覚はあるというのに目が霞んでいる時のように視界に映らない。
「不思議ですかな草薙王? 己の生命力が抜け落ちていくのが、己の存在が不確かになるのが」
黒坊主が地面に転ぶ護堂のもとへ歩み寄って来た。オオムカデを切り裂いていた、あの巨大な剣を担ぎながら。
「拙僧は使命のためこの洞を創り上げました。草薙王、あなたの此処は何処だと問われましたな? 難しい禅問答のようでしたが一つだけ相応しい言葉がありまする……
理想郷とは聖域だ。そして金銀財宝に埋めつくされた竜宮城さながらの異界だ。
宝を満載した宝船がどこからなりと流れ着くとして、人はどこから来たと考えるだろうか。それはやはり豪華絢爛たる理想に満ちた世界からなのだ。
宝船が流れ着く限り、護堂と黒坊主の居るこの異界は理想郷という名の存在を獲得できるのだ。
黒坊主は護堂の眼前で立ち止まると、その透徹とした瞳で見下ろして来た。
「理想郷とは"幻"なのです。"幻"でなくてはならないのです」
「存在している訳でもなく、無くなった訳でもない。曖昧で虚ろな状態。故に幻とは無になってはならない」
「──火はなくとも煙は立て続けねば」
さすがの護堂も理解出来た。あの宝船はこの場所の存在を示す、言わば発信源から発せられる電波だったのだ。
そして人々は認識という形で受信し、この場所の存在を感じ取っていた。
そうでなければこの場所……黒坊主の言葉を借りるなら理想郷は露と消えてしまうのだ。
存在がそもそも消滅してしまう。そこに力の大小は関係ない。
たとえ神を弑逆し逆縁を世に示したカンピオーネであってもひとたまりもない。
「黒坊主……お前は
まつろわぬ神ですらないカンピオーネから見ればちんけな木っ端役者だ。だがそんな存在に護堂は完全に嵌められていた。
これまで邂逅したフェニキアの神王や古代ペルシアの軍神、同輩である剣の王ですら及ばない狡猾さに怖気を覚えた。
だからカンピオーネと同格かそれ以上の存在かのように一流に舞う黒坊主に疑問を禁じ得なかった。
「ホホホ」
黒坊主は嗤う。福の神を思わせるお面の下で愉しげに。
「あなたは武を示し、勇者としての証を樹てた。では次の問いかけをせねばなりません」
次に来る質問を護堂は識っていた。
夢の中でも聴いた問いかけ。不用意に答えてはいけないのは理解していた。
あの夢の中でまつろわぬ神はなんと答えていたのか、ノイズがかって分からない。
「──汝は、『王』なりや?」
結局、結論は一つだった。
このまま答えを引き伸ばしてもこの脱出方法も枷からも抜け出せない状況では援軍の来ない籠城のようなものだ。
そして護堂にとって肯定はありえない。魔術師たちから崇められる王などではないのだから。
彼はいまだ未熟にして迂闊な若き王であった。
「違うって言ってるだろ。……クソッ、これで満足なのか」
「ホホホ。ええ、ええ。それで宜しい。それでこそエピメテウスの落とし子!」
問われれば終わり。分かりきった答えが返ってくるだけの作業だというのに黒坊主は欣喜雀躍と乱舞し、やにわに剣を担ぎ直した。
「……では、参りますぞッ」
巨大な剣が軽々と掲げられ、やがて護堂へと振り落とされた。
草薙護堂の権能はピーキーだ。
友人や親兄弟が絶体絶命のピンチに陥っていれば世界の壁すら突き抜けて助けに来れると言うのに、本人がピンチのとき"強風"の化身は知らぬ存ぜぬを決め込むのだ。
その光景をカンピオーネの優れた動体視力でコンマ1秒足りとも逃すことなく、イメージするのは黄金の羊毛を持つ"雄羊"。
羊とはオオムカデと同じく富貴の属性を持ち、さらに多産と豊穣を備えた溢れでる生命力の象徴だ。
そう、草薙護堂にとっても不死の示現であった。
(エリカ……)
羊のイメージとともに相棒が必ず活路を示してくれるその確信を抱きながら、意識は唐突に暗転した。
──斬。
その日、護堂が消えた翌日に鹿島灘へ難破した宝船には──猛々しい勇壮なる"雄牛"が描かれていた。