東京都の芝公園からほど近い場所に万里谷祐理が勤める七雄神社はあった。
『湖月堂』で気を失いやっと心身ともに体調が快復した祐理は境内と拝殿の清掃を終え、社務所へと向かった。
今日は客人が来る予定なのだ。来客用の準備を整え、白湯を口にしているところで件の来客はやってきた。
「甘粕さん、その節はありがとうございました。『湖月堂』で気を失った私を介抱してくださった上に家まで送り届けていただいた事、改めて御礼申し上げます」
社務所の中へ迎え入れ、祐理は馬鹿がつくほど丁寧な所作で頭を下げた。
客人は甘粕冬馬。最近知己を得た正史編纂委員会のエージェントだ。
「いえいえ、私は万里谷さんにお礼を言われる立場にはありませんよ。まあこちらこそ麗しき媛巫女の手助けをできたこと光栄の極みでしたが」
「は、はぁ……」
時たま反応に困る物言いをするのが玉に瑕だった。悪い人ではないのだが。そうしてなごやかに世間話をしつつ、やがて甘粕は姿勢を正して問いかけてきた。
「その後お変わりはありませんか。あの後も数日ほど伏せっておられたと聞きましたが」
「……少々、昔を思い出してしまっただけです。お気になさらず」
──炯々と輝く、虎の瞳。
過去、唯一接触のあったカンピオーネ……老いた魔王の邪眼はしっかりと万里谷祐理の脳髄に刻まれ魔王の呼び名を聞き及ぶたびにエメラルドの仄暗い光がまぶたで明滅する。
そして。
数日ほど前からその邪眼とともに同い年の男の子の顔も浮かぶようになった。
彼もまた悪い人ではない。審美眼には密かに自身がある祐理は少なくともあの男の子を悪人だとは思わなかった。
ただどうしても心をざわつかせる恐怖が臍下丹田の奥から濠々とせり上がってくるのだ。
「甘粕さん。聞きたいことがあるのですが……やはり草薙さんは」
「や、万里谷さん。その前に私は万里谷さんに謝らなければいけないことがあるんです」
祐理の機先を制して甘粕が先に話題を切り出した。
「謝らなければいけないこと、ですか?」
「ええ。……先ごろ、グリニッジの賢人会議によれば今年の三月に南イタリアのサルデーニャ島で古代ペルシアの軍神を倒し王の資格を得た少年がいたらしんですよ。それも日本人の少年が、です」
「まさか……」
「万里谷さんのお察しの通りです。草薙護堂というカンピオーネの真贋、それを見極めたいがためにあなたと草薙さんの会談の場を設けたのです。本当に申し訳ないことをしました」
今度頭を下げたのは甘粕の方であった。
たしかに『湖月堂』で護堂を巻き込んだのは不審すぎる行為だった。ただ納得もした。そして理解もした。甘粕の公共の利益に服さなければならない公僕としての立場をだ。
「いえ、武蔵野の媛巫女として正史編纂委員会へ協力の義務があるのは事実です。……では、私が草薙さんと引き合わされたのも甘粕さんの仕業でしょうか?」
「それは違います」
もしや、と思い声が低くなった問いかけは強い語調で否定された。
「私としても万里谷さんが草薙さんを連れて来たのは予想外の事でして。あなたは幼い頃に、ヴォバン侯と遭遇した経験がおありだ。だからこれは望外のチャンスと逸ってしまいました」
本当に申し訳ない、と続ける甘粕に祐理は諦めたように首を振った。万里谷祐理も立場がある。関東を守護する媛巫女としての立場が。
甘粕と祐理の向いている方向が同じなら追求する気も起きなかった。
「それで万里谷さん。こんな事態になってしまい非常に心苦しいのですが草薙さんはやはり?」
甘粕の言葉にうなづく。
強力な霊感と霊視が告げていた。彼の中に渦巻く膨大な呪力と殺めた神から簒奪した神聖無比なる権能と神力の伊吹を。
「はい。間違いはないと思います……ですが今でも信じられません。カンピオーネとはつまり、日本で言う荒ぶる鬼神の顕現、忌むべき羅刹王の化身です。只の人間が"王"となるためには、神を殺める必要があるのですよ? ──そんな奇跡を起こせる人間が、この国にいたなんて」
それも同じ茶道部の部員で草薙静香の兄だという。静香のことはよく知っている。整った可愛らしい容姿と上級生でも物怖じせずハキハキと話す静香に密かに尊敬の念を抱いていたのは秘密だ。護堂も静香と共にいるの何度から見掛けたことはあったものの当時は何も感じ取れなかったのだ。
「……とはいえ、事態はそれどころじゃないみたいなんですよねぇ」
カンピオーネの真贋、それを一番に危惧する立場にあるはずの甘粕冬馬はやや投げやりに言いながら眉を下げた。
「万里谷さんは伏せっていたから知らないでしょうがあの後鹿島神宮へ向かった草薙さんは行方不明なんです。もう一週間も前の話しですよ」
「え……ええ!?」
驚愕しながら詳しく話を聞くとやはりまつろわぬ神ないし神に連なる者の仕業であるらしかった。
「草薙さんですがどうも行方不明ではなく拉致の可能性もあるようでして」
「カンピオーネを拉致……?」
あまりにも結びつかない単語の連なりに思わず反芻してしまった。
「ええ。エリカ・ブランデッリの証言によると鹿島神宮にて遭遇したブラックサンタとオオムカデと交戦、その隙を突いて草薙さんを拉致したとの事で。委員会はその事実確認で数日前から不夜城ですよ」
疲れ切ったようにため息をつくくたびれた青年をよそに祐理は記憶から少女の姿を……長い赤みがかった金髪を騎士の兜か王冠のように紗々と流し、華麗な覇気に満ちた表情の少女を思い起こす。
「エリカ・ブランデッリ……『湖月堂』にやってきたあの方でしょうか?」
「はい。イタリアはミラノの名門、魔術結社《赤銅黒十字》が生み出した若きテンプル騎士、エリカ・ブランデッリその人です。草薙さんが王の資格を得るサルデーニャの一件で知己を得たようでして以後草薙さんの戦いには彼女の影がチラつきます」
「つまりエリカさんは草薙さんに仕える騎士だと?」
カンピオーネは王の中の王だ。そして強力な力を保持するが王であるがゆえに多くの人を魅了する。イタリアの王サルバトーレ・ドニには執事アンドレア・リベラ、英国の王アレクサンドル・ガスコインには聖騎士サー・アイスマンなどが付き従う。
彼らは《介添人》と呼ばれ才気溢れる人物が収まる傾向にある。そしてある意味、人と神を繋ぐシャーマン的な側面を備える。
「どうでしょう。彼女自身は愛人を名乗っているようですが」
「あ、愛人!?」
「草薙護堂の重要性にいち早く気づいた《赤銅黒十字》が、彼女をあてがったのですな。結社の切り札である天才児を使ってでも、彼との絆を深める。妥当な策と言えるでしょう
「ふ、不潔です。不道徳ですッ。そんなのまちがっています! 魔王の力をいいことに、女性を自由にするなんて──許せません!」
いい事なのか悪い事なのか。愛人云々を甘粕に暴露され護堂への好感度が急降下したのと引き換えにカンピオーネへの恐怖を薄れさせた。
「……そういえば鹿島神宮にオオムカデが現れたとの事でしたが。あまり関わりがあるようには思えません。なにか理由があるのでしょうか?」
「そうですねぇ。鹿島神宮の祭神である軍神タケミカヅチですが日本書紀の神代紀によれば洞窟に住む蛇の神だったという説があるんですよ」
古事記においてイザナミがカグツチを斬り殺す際に用いたとされる神剣には天之尾羽張という神名があり、日本書紀では稜威雄走神と呼ばれる。
この雄走が蛇を意味する言葉で、稜威雄走神を曽祖父に持つタケミカヅチも蛇であったとする説だ。
「所謂"細長い生き物"ものは龍神の顔で描かれ易いんです。ムカデはその顕著な例と言っても過言ではないでしょう。室町時代に作成された金戒光明寺に収められている絵図を見ても、時代を下るほどムカデは虫から龍神さながらに描かれて行きます」
「……そうですか。つまり蛇とムカデは無視できない絆で結ばれている、と」
「ただ、件のオオムカデが関わりがあるかどうかは不明ですがね」
肩を竦めて、いつもの飄々とした雰囲気を取り戻しはじめた。
「や、しかしこの多忙な時期に『
「私の鑑定で? どういう事でしょうか」
「発端は宝棒ですな。万里谷さんが退席された後、草薙さんやエリカ・ブランデッリと話し合ったんですが……どうも毘沙門天の持物の線が濃いようでして」
「毘沙門天というと四天王の一人で七福神にも数えられる神格ですね」
「そうです。宝棒を持物とする仏は限られますからな。それに来訪神という側面も重なれば自ずと七福神のメンバーである彼が浮かび上がってくるという流れでした」
祐理は七福神の単語が出たあたりで、少しホッとしたように胸を撫で下ろした。
「七福神、ですか。少し安心しました」
「おや、それはどうして?」
「七福神のお歴々は高名な方々ばかりですがまつろわぬ身として地上に現れてもそれほど大きな厄災を引き起きそうにないように思えて」
「う〜ん……どうでしょうねぇ。そうとも言い切れないと私は思いますよ。やはりまつろわぬ神、七福神ほどのビッグネームだと強力なまつろわぬ神として顕身してもおかしくはないんじゃないでしょうかねぇ」
そこで甘粕は一度、言葉を切って社務所に飾られたふく面を見やった。
「それに……七福神をはじめとする来訪神は閉鎖的なムラ社会にやってくる
「もうひとつの顔、ですか?」
何故だろう。今の今まであまり働かなかった霊感が聞き逃すなと訴えかけて来た気がした。
「ええ、豊穣に満ちた異界……つまり
「救済神?」
「おや、いまいちピンと来ていらっしゃらないご様子。ならそうですねぇ……一つ、来訪神と似た話を例に出した怖い話でもしましょうか」
「は、はぁ……?」
「来訪神と括られるにはいくつか満たさなければいけない条件があるんです──一年という"
祐理は首を傾げたが少しして思い当たるものがあった。それは古代の宗教から現代の宗教まで、おおよその宗教にある概念だ。
一年という言葉をそのまま受け取ってはいけない。
甘粕は言った。節目に異界から現れ、裁定を下すと。
一年とは一つの生にも例えられる。春に生まれ、夏に盛り、秋に実り、冬に枯れる。そして一年を死と再生を繰り返す"世界"と考えるなら、正月やお盆という"終末"に現れる来訪神はたしかに救済神なのだろう。
終末という節目に
新約聖書などに記述されるヨハネの黙示録が一番有名だろうか。つまりは──終末思想。
来訪神とはワールドワイドな終末思想のミクロ版であり、ブラックサンタに纏わる今現在日本で起きている怪事件。
その水面下で何かしらの大事が密やかに行われているのではないか。たしかにゾッとしない話だ、祐理は七福神という神々のコミカルさの裏に秘められた神としての威厳と畏怖を痛感した。
「まあ私の戯言と流してもらって結構ですよ。自分で言ってて強引なこじつけもいい所ですからねぇ」
──面白い話をしているわね。私も混ぜていただけないかしら?
その時だった。
閑静な境内のなかに聞き覚えのある玲瓏な声が響いたのは。玉砂利の上を音もなく進み赤と金のテンプル騎士はこちらへ歩み寄ってきた。
「おやおや、これはこれは」
甘粕が具体的な言葉を口にする前に社務所へ上がり込み、言葉を弄そうとした甘粕を封じた格好になった。
「探したわよ甘粕冬馬。それに万里谷祐理と言ったわね」
へらへらした表情を崩さない甘粕を睨むように流し見て、祐理を一瞥し、やがて甘粕へと視線を戻した。
「お久しぶりですエリカさん。どうやら草薙さんがおらずともご活躍だそうで」
「ええ、お生憎様。あなたたちがカンピオーネの庇護を失った私を排斥しようと手をこまねいている間に私はもう一人の王を頼ることにしたの」
その言葉を聞いた途端、甘粕がへらへらした雰囲気を消し、今まで見せなかった厳しい顔を浮かべた
「噂は聞いています。アレクサンドル・ガスコインですか」
「アレクサンドル……? 英国の
驚愕する祐理をよそに、甘粕は質問を重ねた。
「あの噂は本当なのですかエリカさん。草薙護堂からアレクサンドル・ガスコインに鞍替えした、というのは。ファム・ファタールの化身だとか不義の悪魔だとかもっぱらの噂ですよ」
「ええ、本当よ」
片目を瞑り蠱惑的に微笑みながらエリカは軽く肯定した。
「護堂が拉致された時、気付いたの。──アレはダメだ、ってね」
艶やかな唇から転び出る言葉が呪歌でもないのに魔性を帯びる。元来、魔性とは女から放たれていたのだと同性の祐理ですら籠絡せんばかりの馥郁たる香りを漂わせながら。
「やっぱり強い男でないとダメよ。強く賢い王でないと……でも私は新参だわ」
喜怒哀楽。たった一人で百花繚乱の表情を見せるエリカはどんな女性よりも美麗で優美で……そして
「庇護を求める代わりに王へ対価を捧げなくてはならないわ。"聖杯"の在るというアヴァロンへ至る道をね」
「アヴァ、ロン……?」
「…………」
シン、とエリカが語り終えたあとには不気味なほどの静寂が生まれた。静けさに質量があったならズタズタに引き裂かれていたと思えるほどの静寂を打ち破ったのは甘粕だった。
「そうは言いますがねエリカさん、あなたは既に三度も草薙さんをイタリアに呼び寄せたと聞きました。そしてサルデーニャ島でまつろわぬ神の弑逆を見届けたとも聞き及んでおります」
スッとエリカの目が眇められたのを見逃さなかった。拭い切れない剣呑さをまぶたの奥に隠すかのような仕草だった。
「私はどうにも信じられない。面識がない他の方々と違い、一度、同席しただけですがあなたと草薙さんの──うッ!?」
次の瞬間にはいつの間に召喚したのかエリカの愛剣クオレ・ディ・レオーレが甘粕の首元に添えられていた。刀身はぴったりと首皮へ当てられ、甘粕が呼吸を繰り返すたびにじわじわと皮膚に鋼の刀身が埋まっていく。
赤い水滴が一滴、滴り落ち──
「──ここは我らが祀る神のお社です」
能面の表情で祐理はエリカへ諫言した。
「巫山戯た真似はお慎み下さいませ。──エリカさん。聡明なあなたにはおわかりになりますよね?」
「悪ふざけはね。でも私は本気よ、神聖な場所だろうと恋人の睦み合う場所だろうと私はこの手と止める気は無いわ」
祐理の言葉を一刀の元に切って捨て、エリカは正史編纂委員会のエージェント甘粕冬馬へ一つの命令を伝令した。
「アレクサンドル・ガスコインからの
少し先の未来で世のカンピオーネたちが一同に介しバトルロワイヤルを行う場所……その国立公園の中央部に位置する奥多摩湖に、一条の雷光が飛来した。
雷光の名をアレクサンドル・ガスコイン。若き新王が不在となった日本で、その間隙をつくようにして現れた英国のカンピオーネだった。
『
齢16にして堂々たるカンピオーネの仲間入りを果たした彼は、雷と幻視の堕天使の弑逆しこの権能を簒奪を成した。
鹿島神宮から香取神宮までまばたきの間に移動したのもこの権能を行使したがゆえ。そして日光東照宮からは県を跨いで百km以上離れた場所に現れたのも同じ方法であった。
小河内ダムの休憩所の自販機で買い物をしアレクは缶コーヒーを傾けながら眼前に広がる湖面を眺めていた。
「一つの村を沈めてまで造り上げ、かつては世界最大規模を誇った貯水湖か。なるほど壮観だな」
休憩所とダムの間で欄干に寄りかかりながら、いつもは仏頂面のアレクだが、今は難解な問題にいきあたった哲学青年という表情だ。
「オオムカデの神獣の痕跡だが、鹿島神宮出現以前で最後に観測されたのがこの奥多摩だった。ならば黒坊主とも地縁のあるこの土地で捕獲されたと考えるべきだ……と思いやって来たはいいが」
収穫はなしか、小さくため息をついて再び缶コーヒーを傾ける。
神獣の痕跡は目立つ。力ある者の痕跡は、痕跡というより爪痕として残ってしまうのだ。
オオムカデで例えるならば呪力のみならず、その大地と鉱山に縁を持つことに加え鉱脈をムカデの足と例えた逸話から、移動には地中を掘り進める習性があった。
奥多摩へやってくる以前は近隣の土地……栃木や群馬の地中をそれこそ"虫食い"状態にしていたという。
「オオムカデが黒坊主に捕まらずそのままこのダムにまで辿り着いていたらと思うとゾッとしないでもないな」
奥多摩湖の総貯水容量はおよそ189,100,000 m3だ。常に満タンという訳では無いから多少はマシだろうが、オオムカデがダムを穴だらけにし決壊でもすれば大変な被害が出ていただろう。決壊した場合の想定として、東京都の大田区まで濁流が流れ着くという試算もあったはずだ。
「零落以前の黒坊主が保持していた性格も無関係ではないのだろう。救世主的な側面の発露、か……」
実の所、関東に現れたブラックサンタ……つまり黒坊主についてはアレクはその正体と真名を看破していた。
だが……黒坊主がなんの神を復活、或いは降臨させんと目論んでいるのか。
そしてどんな儀式を主催して地上に顕現させるつもになのか。その全容はいまだアレクを以しても見通せなかった。
ブラックサンタ出現から漂着する宝船、そして草薙護堂の拉致。黒坊主の引き起こしていると思われるこの一連の事件。複数の要素が入り乱れ、アレクをもってしても快刀乱麻とはいかない難事であった。
「だが黒坊主はエリカ・ブランデッリが睨んだように何かしらの儀式を執り行っていると考えるべきだろう」
それも"救済"などという胡散臭い言葉を貼り付けたまつろわぬ神の存在をチラつかせながら。
「あの傍迷惑な女と縁を切る手札が手に入ればいいと軽い気持ちで来日したのは反省すべきだろうな」
ブルターニュの魔女、アレクサンドル・ガスコイン。
暗闘を続けるこの両者を完全に切り得る手札を求め、思わぬ掘り出し物を見つけたものだ。 アレクは缶コーヒーをゴミ箱へ投げ込んだ。カコン、と小気味よい音とともにシュートを決め上機嫌に壮観なる奥多摩湖の湖畔を歩いていく。
「セリシアには感謝だな」
アレクサンドル・ガスコインは日本に渡る直前にとある場所を訪ねていた。場所は台湾首都の台北。
セリシアはそこで活動する『王立工廠』のメンバーだった。脳裏にメガネをかけた地味めな少女を思い描いて独りごちる。
名をセリシア・チャンという十代後半の少女は優秀な道士だ。道士とは中国伝来の呪術を学んだ方術使いの呼び名で、とりわけ女性の道士は道姑と呼ばれる。
また優秀な道姑であると同時に、彼女は東方の神話伝承について豊富な知識を持っていた。
その彼女が教えてくれたのだ。
少し前から断続的に東シナ海で不可解な呪力の乱れが続いていると。
まつろわぬ神などの神に連なるものたちは出現する際、現れる土地の神話伝承に由来するという《原則》がある。
つまり西洋の怪物であるクランプスや、エルフやゴブリンなどのHousehold deity……日本で言う座敷わらしや付喪神……に関連付けられるブラックサンタが現れることはありえない。
そして英国から遥々ブラックサンタを興味本位で追っていたアレクは、セリシアからブラックサンタの正体と思われる神格を数パターンほど聞き及んでいた。
その後、生来の怪盗根性で正史編纂委員会に忍び込んだり趣味のフィールドワークに励んだり鹿島神宮で草薙護堂と意外な邂逅を果たしたり……。
やがて黒坊主の真名を看破し、その神格の信仰が広がった場所を追っている内にこの奥多摩にまでやってきた……のだが。
奥多摩湖を一周し、目ぼしいものも調べ終え、やがてアレクは首を振りつつ独りごちた。
「空振りだったか」
奥多摩湖に黒坊主の影も形もなかった。
「やはり黒坊主は草薙護堂とともにアストラル界。踏み込むならば東照宮内部の西天宮に居る、そう考えるのが自然か?」
だが疑問が残る。
ブルターニュの魔女が日光東照宮に足繁く通っていたのも事実であり、東照宮から繋がるアストラル界に強力な蛇殺しの《鋼》が封印されているのは事実だ。羅濠教主と交戦した記録も有る。
黒坊主は来訪神だ。来訪神は聖なる異界から地上へ聖なる施しを持ち込む。ゆえに異界と地上とを自由に行き来できる能力を備えていても不思議ではない。
救済という施しを与えるのもその来訪神の性質からだろう。施しも分かりやすく金銀財宝や豊穣など言葉をそのまま受け取っていけない。
「聖なる施しが"勇者"の形をした
何せ黒坊主自身が勇者を求め、聖なる異界へカンピオーネを投げ込んだのだ。
カンピオーネは人類にとっての福音であって世界にとっての福音ではない──。
幽世の片隅でそう呟いたのは今も不眠不休で就労の義務を果たす老人だが、神々にとって神殺しの存在自体が世が終末へと下ったと思うほど秩序の乱れた状態なのだ。
現在カンピオーネの人数は八人。現在の日本には二人のカンピオーネがいるとすればカンピオーネとは終生のライバルと言っていい《鋼》の勇者降臨の儀式を執り行うになんの過不足もない状況だ。
「謎といえば蛇殺しの《鋼》もだ」
アレク自身、東照宮に封じられた神を未だ看破していない。その東照宮調査は"現地協力者"エリカ・ブランデッリという布石を打ったが。
「ただ。蛇殺しの《鋼》と黒坊主……この両者は本当に関連があるのか?」
蛇殺しの《鋼》と黒坊主、実は無関係なのではないかとすらアレクは思い始めていた。
なにせ黒坊主は竜蛇殺しの《鋼》の封印を解く気が
オオムカデを使役する黒坊主。そして蛇殺しの《鋼》の目をする抜けるオオムカデ。
アレクの勘が正しければ本来ならば分けて考えるべき二つの事例だ。
だが、そこを点と点を結んでしまっている存在がいる。
「やはり鍵を握るのは──オオムカデか」
日本の神話伝承内のムカデは世界的に見れば非常に特殊な立場にある……もっと言えば厚遇されていると言っていいだろう。
森林などを切り倒し、開拓が盛んだった欧州では狼や害虫は忌むべき敵に他ならなかった。それも毒を持つ害虫など嫌われて当然だ。
だからムカデに信仰や個別に扱った説話は生まれず、害虫として記述しかなかった。
しかし東洋……とりわけ日本では妖怪として退治される話も少なく、むしろ毘沙門天のしもべとして小判などに刻印されたこともあった。
「《ムカデ》の鞍替えとは本当に起きたことなのか……?」
疑問を口にする。
「鞍替えが起きていない場合、『蛇』の縁者とも言うべきオオムカデが竜蛇殺しの《鋼》に討伐されないのは、単純に考えれば蛇殺しの《鋼》が毘沙門天という可能性だ」
たしかにムカデと毘沙門天は主従関係、あるいは盟友関係にある。世界広しと言えどムカデという嫌われ者と主従関係を結んだ神格など毘沙門天をおいて他にいない。なら戦闘は発生しないだろう。
毘沙門天は《鋼》の神格である可能性が高く、一連の事件でも頻繁に影をちらつかせる神だ。蛇殺しの《鋼》といっても何の違和感もない。
毘沙門天の元ネタであるインド神話の財宝神クベーラは、ナーガの敵対者として鳴らし、蛇が好物だったマングースを下僕としたほどだ。
「別の可能性を考えた場合、普通の龍蛇では討伐されてしまう。《鋼》の目を掻い潜るのには何らかの仕掛けがあるはずだ」
普通の竜蛇では討伐される。そこに引っかかるものがあった。
「逆に──」
アレクの脳内に電流が走った。
「《鋼》へ鞍替えしたのではなく──”後天的に『蛇』の性質を獲得した”。その可能性を俺は失念していた」
自然界のムカデや蛇の姿形はそれほど差がない。大きさの大小はあれどどちらも"細長い虫"という特徴は重なっている。蛇が長ずれば龍と化けるように、ムカデも長じれば龍となる。
現に、平将門の乱を鎮めた俵藤太。彼の三上山に出現したオオムカデ退治の逸話があるが、退治されたオオムカデは時代を下るほどに『龍』へと近づいていった。
金戒光明寺に蔵されている俵藤太絵巻や浮世絵を見れば一目瞭然だろう、龍と見紛うほどのオオムカデが俵藤太と対峙している。
「大蛇とオオムカデ。山と大地の神でありながら『蛇』の特徴を獲得したのだとすれば東照宮の封印されたまつろわぬ神、その名さえ分かればこの事件。俺の方へ大きく
アレクは興奮を抑えきれず大きく笑みを浮かべた。そうなればアドバンテージはこちらにある。
「フ──。となればやはり
問題解決に大きく全身したことでドーパミン分泌による快感を楽しんでいる最中──それは来た。
だからアレクは問いかけた。己の天敵へ!
「何者だ?」
「─────」
返答はあった。しかし理解不能で耳障りな声音が殷々と空を切るばかりだった。
やにわに不気味な気配が姿を現した。まるで陽炎のごとく存在が曖昧なまつろわぬ神はアレクへ向けて"なにか"を仕掛けてきた。
権能を行使し神速をオンにする。だが避けきれない。ジャケットから覗く首元にいびつな痣を作り……しかしアレクに焦りはない。
「未知の攻撃か、フン。それで俺を害そうとは随分杜撰な攻撃だ」
おそらくこのまつろわぬ神、それほど強力な方ではない。これまで死闘を演じてきた神々と比較してどうにも覇気に欠けるのだ。
「だが関係はない。牙を向けてくるならその牙をへし折るまでだ──聞け、永遠の夜の娘たちよ。地と影の娘たちよ」
『
「普段なら瞑想をして伏せていく手札だが貴様相手に必要は無さそうだ」
アレクの言霊にまつろわぬ神が攻勢を増したがアレクは無視して称揚の言霊を歌い上げた。賛歌に応えて、美しき三妖女が顕れる。
黒い翼に蛇の神。左右と頭上を守護するメガイラ、ティシポネー、アレクトー。復讐の三女神エリュニエスである。
これまでの攻撃すべてが跳ね返り、復讐の娘たちが放つ黒い疾風がまつろわぬ神を襲う。
「チッ、無傷か。弱いが厄介な手合いらしい」
或いは攻撃手段が悪かったのか。まつろわぬ神にダメージを受けた様子は無い。
アレクが本腰を入れて討滅に動こうとした時だった。まつろわぬ神からの敵意がいきなり消滅した。
「───」
訝しむアレクをよそにまつろわぬ神は、一言言い残し去っていった。
「お前は違う、だと?」
日本で行われる騒乱、その馬鹿騒ぎに新たなる乱入者が現れた瞬間であった。