サロメのデビュー戦です!
中山レース場のスタンドには、デビュー戦特有の何処か浮ついたざわめきが広がっていた。
パドックから一度控え室に戻り、それからコースに出たサロメは、背筋を伸ばし、落ち着こうとしているのが分かる歩き方をしている。
――先行して、自分の形で走る。
本来なら、それがサロメの走りだ。
「……前の方で走れれば、多分大丈夫なんですが……」
ふと、視線を感じた方を見るとリアルデュークが柵の前で小さく何かを呟いている。
近くのベンチに座っている千尋も、黙ってサロメ達出走ウマ娘達が集まっているゲートの方を見つめていた。
それから程なく、係員の指示に従ってゲートインが完了する。
鉄製の立派なゲート内に満ちる静寂。
サロメが高鳴る心臓を意識し、落ち着こうと深呼吸をしたその瞬間――無機質な音を立ててゲートが開いた。
急な出来事に一歩、サロメの身体の反応が遅れた。
「……あっ」
サロメは明確に出遅れた。
先行脚質の彼女にとって、それは致命的なミスだった。
本来なら前に行くはずの位置、何度も思い描き練習し、身体に染み込ませた筈の理想の姿……今は程遠い。
だが、サロメは無理に押して行くことは選択しなかった。
不器用で、正直な走り――サロメは、自分のリズムを崩せなかった。
「……切り替えましたね」
サロメの出遅れを見た千尋が低く言う。
――前で走る。
それだけは、ずっと決めていた。
ゲートの中で、サロメは深く息を吸う。
中山競馬場。デビュー戦。
足元から伝わる芝の感触が、少し硬い。
(大丈夫。やることはただ一つですわ)
頭の奥に、祖父の声が浮かぶ。
――「先行するならな、余計なことは考えるな」
――「前に出たら、あとは真っ直ぐだ」
地方で細々とトレーナーをやっていた祖父。
勝てない日も多かった。設備も、人手も、恵まれていなかった。
それでも、祖父はいつも言っていた。
――「走るのは、真面目なやつが一番だ」
サロメは、その言葉が好きだった。
――スタート。
一瞬、タイミングがずれた。
(……っ)
地面を蹴る感触が、わずかに遅れる。
視界の前で、他のウマ娘たちが一斉に前へ出ていく。
出遅れ。
先行脚質の自分にとって、最悪に近い形だった。
(……ここは、無理にでも行くべきでは?)
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
でも、脚を強く使って押し上げる事に対するリスク判断ができない。
――「リズムを壊すな」
祖父の声が、また浮かぶ。
サロメは、歯を食いしばりながら、自分のペースを守った。
派手な動きはできない。
器用な駆け引きもできない。
だからこそ、やることは一つ。
(……真っ直ぐ、走る。ただそれだけですわ)
向正面。
前との差は、まだ遠い。
それでも、脚は止まっていない。
第3コーナー。
スピードを緩めずに外へ。
第4コーナー。
スピードを上げてさらに外へ。
視界が開ける。
前を行く背中が、一つ、また一つ、近づいて来る。
(……届かなくてもいい)
勝てなくてもいい。
デビュー戦で、全部を見せなくてもいい。
――「最後まで走れ」
祖父の声は、いつもシンプルだった。
最終直線。
サロメは、ただ前だけを見る。
出遅れで足を使い切ったその走りに、普段の切れ味はない。
けれど、その脚は確実に前へと進んでいる。
――ゴール。
掲示板に映った順位は、5着。
勝てなかった。
先行もできなかった。
悔しさが、胸に残る。
それでも、息を整えながら、サロメは思う。
(……走り切りましたわ)
投げなかった。
止まらなかった。
祖父の教えを、最後まで手放さなかった。
スタンドのざわめきの向こうで、誰かが拍手をしている。
それが誰かは分からない。
でも、サロメは小さく、胸の奥で呟いた。
(おじい様……次は、次こそは前で)
中山の風が、汗を冷やしていく。
デビュー戦は終わった。
――でも、ここからだ。
シャワーを浴び終え、タオルで濡れた髪を拭きながら、サロメは控え室のベンチに腰を下ろした。
まだ脚に、走り終えた余韻が残っている。
――5着。
数字を思い浮かべると、胸の奥が少しだけ痛む。
その感覚に、自然と昔の記憶が引き寄せられた。
それは地方の、小さなトレーニングコース。
観客席なんて名ばかりで、錆びた柵と、風に揺れる草だけがあった場所。
「ほら、サロメ。ちゃんと前を見る」
祖父はいつも、少ししゃがれている声でそう言った。
トレーナーとしては零細も零細。
勝ち星も少なく、師事するウマ娘も少なく、誰かに注目されることもなかった。
それでも、祖父は幼いサロメと自分が監督するウマ娘達を連れて、毎日コースに立った。
「どうして、前なんですの?」
幼い頃、何気なく聞いたことがある。
追い込みの方が、格好いいと思っていたから。
祖父は少し考えてから、笑った。
「不器用だからだよ」
「誰が?」
「お前も、俺も、この子達もだ」
サロメは、その言葉をよく覚えている。
「器用なやつはな、状況を見て変えられる」
「でも、不器用なやつは、決めたことを守るしかない」
祖父は、手入れの行き届いていない帽子を深く被り直し、続けた。
「だから先行だ。 前に出たら、迷わなくて済むだろ? あとは、真っ直ぐ走るだけでいい」
勝てない日も多かった。
レース後、祖父は走り切ったウマ娘にいつも同じように言った。
「最後まで走ったか?」
「……はい!」
「なら、それでいい」
笑顔でそう言えば、祖父はそれ以上、何かを言うことはなかった。
サロメはタオルを膝に置き、静かに息を吐く。
――今日は、先行できなかった。
――でも、真っ直ぐには、走った。
不器用で、派手さのない地味な走り。
それでも、祖父が教えてくれた「自分の形」だけは、守れた気がした。
「……次は、前で」
誰に聞かせるでもなく、サロメは小さく呟く。
まるで、あの頃に毎日走った昔のコースで、祖父に報告するように。
返事はない。
けれど、あのしゃがれた声が、胸の奥で確かに響いた。
――「焦るな。走り続けろ」
サロメは立ち上がり、もう一度、自分の脚に力を入れる。
デビュー戦は終わった。
だが、祖父から受け取った教えは、まだ終わらない。
静かな決意を胸に、サロメは制服に着替えて控室を後にした。
――次は、前で走るために。
10月末の冷たい風が、駐車場の隙間から車内に吹き込む。
夕暮れの空は赤く染まり、日差しは冷たく弱い。
千尋はハンドルを握り、ゆっくりと車を走らせる。
後部座席では、サロメが嗚咽を漏らしていた。
「……っ、うぅ……っ……!」
リアルデュークは膝の上で小さく手を組み、窓の外をぼんやり眺める。
デビュー戦で負けたサロメの悔しさはあまり理解できない。
けれど、泣いている姿を見て、少し気になる。
「……だいじょぶ?」
片言でつぶやく。
たかが一回負けたくらいで泣くのは意味は分からないが、リアルデュークなりに心配の気持ちは確かだ。
サロメは嗚咽を続ける。
「……ちゃんと……走ったのに……っ……!」
後部座から聞こえる嗚咽交じりの声に千尋は肩をすくめ、優しく声をかける。
「サロメ……落ち着いて……ね……大丈夫……」
言葉は途切れ途切れで、少し頼りなげだ。
リアルデュークはしばらく窓を見つめ、ぽん、とサロメの肩に手を置く。
「……つよい……でも……ぅ……わるい……」
その言葉の意味は分からない。
その場にいる誰もよく分からない。
だが、その手の温もりは確かに心配の形になっていた。
サロメは肩を小さく震わせながらも、嗚咽が少しずつ弱まる。
リアルデュークは片言で続ける。
「……あつい……でも……ふしぎ……」
意味は不明だが、奇妙な安心感を与える言葉だった。
サロメは肩に置かれた手に気づき、驚いてそっと見上げる。
「……なんだか……変ですけれども……ちょっと落ち着きますわ……」
片言でしか言わないけれど、リアルデュークの気持ちが伝わるような気がした。
その様子をバックミラーで覗き見した千尋はぎこちなく微笑み、ハンドルを握り直す。
「……うん……少し落ち着いたね……」
優しいけれど頼りなさもあり、空気は柔らかいまま。
車内には秋の冷気、泣き止んだサロメ、優しく頼りなげな千尋、そして意味不明ながらも心配を示すリアルデュークの、静かでほのかに温かい空気が漂っていた。
久しぶりにウマ娘らしいレース会です。
……ほぼ走らない主人公なので。