デビューから既に二か月、あれから何度か走った未勝利戦は、まだ一つも勝てていない。
サロメはそれを、口に出さないようにしていた。
出さない代わりに、ずっと身体に溜め込んでいた。
いつもと変わらないトレセン学園の夕方。
放課後の練習が終わったあと、人の気配が減る時間帯にサロメは、一人でグラウンドに立っていた。
「……もう一回ですわ。」
脚が重い。
呼吸も荒い。
それでも、スタートの姿勢を取り直す。
先行、自身の本来の脚質。
前で運んで、粘る……それが、できていない。
だから、走る。
勝てない理由を、身体が覚えるまで。
「……」
サロメが1人走るグラウンドから少し離れたところで、リアルデュークが立ち止まっていた。
練習も終わり、用事があると言ったサロメと別れて少しだけブライアンと話した後、寮へ戻る途中だった。
偶々偶然、見つけただけだ。
リアルデュークは、じっとサロメを見ている。
その眉間に皺が寄った表情は、いつもより明らかに良くない。
「……うぃ?」
小さく、片言。
視線の先のサロメがもう一度、無理に踏み込むとフォームが崩れ、着地が乱れる。
その瞬間、リアルデュークの眉がきゅっと寄った。
「……やだ……」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、本人も知らぬ間に口から出た言葉だった。
未だウマ娘としての本能が薄いリアルデュークには、詳しいことは分からない。
未勝利戦がどうとか、ローテーションがどうとか、理解していない。
でも――
「……これ……よくない……」
何となくそれだけは、分かる。
サロメは走り終え、息を切らしながら震える膝に手をつく。
肩が小さく上下している。
リアルデュークは近づかない。
ただ、不機嫌そうに視線を逸らす。
「……嘘つく……へん……」
片言で、ぽつり。
サロメはその声に気づいて、びくっと肩を揺らす。
振り返ると、こちらに歩いて来るリアルデュークがいた。
「……リアルデューク?」
「……それ、疲れる……やつ……」
その言葉の意味は曖昧。
でも、声音ははっきりと不満そうだった。
サロメは一瞬、何か言おうとして、やめる。
言い訳も、説明も、疲れ切った今は出てこない。
リアルデュークはサロメを見ない。
地面の砂を、靴先で軽く蹴る。
「……それ……ボク嫌い……」
理由は言わない。
言えない。
ただ、無茶をしているのが気に入らない。
うまく言えないから、不機嫌になる。
サロメは胸の奥が、少しだけ痛んだ。
怒られたわけじゃない。
止められたわけでもない。
でも――
あのリアルデュークが、不機嫌になるほどの何かを、今自分はしている。
それだけは、伝わってしまった。
夕方のグラウンドに、風が吹く。
砂がさらりと舞って、二人の間を流れていった。
リアルデュークの無言の抗議を受けながらも、もう一度走ろうとしたサロメの前に……とす、と影が落ちた。
「……だめ……」
視線を向ければそれはリアルデュークだった。
いつの間にか、目の前に立っていた。
真正面。
進行方向ど真ん中。
「……え……?」
サロメは思わず足を止める。
リアルデュークは腕を広げるでもなく、ただそこに立っているだけ。
しかし、その表情は不機嫌そうにしかめっ面のまま。
「……はしる……いくない!」
「リアルデューク、私……」
言いかけたサロメの言葉を、リアルデュークがぶった切る。
「……だめ……つかれる……」
意味は曖昧で、理由も説明しない態度に、サロメは困ったように眉を下げる。
「でも……勝てなくて……」
リアルデュークは首をかしげる。
「……かつ……?」
よく分からない単語を聞き返した後、少し考えてから、
「……しらない……」
そして、視線が下に下がっていき、サロメの脚で止まる。
「……それ……いたい……」
当たっているのか、いないのか? サロメ自身にも、もう分からない。
「……続ける、ボク嫌……」
リアルデュークは一歩も退かない。
その態度には理屈もない、代案もない、ただ、通さない。
サロメはしばらく黙り込み、やがて力なく息を吐いた。
「……ごめんなさい。」
リアルデュークは、その言葉の意味も半分くらいしか分かっていない表情だったが、それでもサロメが走るのをやめたのは分かる。
「……ん……」
リアルデュークは不機嫌そうな顔のまま、何処か少しだけ満足したように喉を鳴らすと、くるりと背を向けて歩き出す。
「……かえる……」
振り返らないし、何かを確認もしない。
サロメはその小さな背中を見つめてから、自分の脚を見下ろした。
さっきまで、無理に前へ出そうとしていた脚。
――勝つために走っていたはずなのに。
なぜか不機嫌なルームメイトに止められて少しだけ、息がしやすくなっている自分がいた。
「……変ですわね。」
そう呟いて、サロメもまたグラウンドを後にした。
寮の廊下は、何時もの夜の匂いがしていた。
シャワーの音や遠くの談笑、いつもと同じはずの時間。
「……サロメ、歩く遅い……」
そう言いながら、リアルデュークがサロメの少し前を歩いている。
不満そうな声色だが、振り返らない、待つ気も、急かす気もないその小さな背中、サロメはその背中を、ゆっくりとついて行った。
――普段は逆だ、忘れ物をしないか? 消灯時間は守っているか? お菓子ばかりではなく、食事はちゃんと食べたか? サロメが、リアルデュークの面倒を見ることの方が圧倒的に多い。
「……さっきの……」
サロメが声をかけると、リアルデュークは立ち止まる。
「……なに……」
不機嫌そうな顔……でも、逃げる気配はない。
「どうして……止めたの?」
サロメの疑問に、リアルデュークは少し考える。
本当に、少しだけ。
「……嫌だから?」
理由にならない返事にサロメは苦笑する。
「そう……ですわよね。」
それでも、何故か胸の奥が温かい。
部屋の前に着くと、制服のポケットから鍵を取り出す。
鍵を開けるのは、いつもサロメの役割だ。
「はい、入って」
「……ん……」
部屋に入ると、リアルデュークは靴を脱ぎっぱなしで立ち止まる。
サロメは、いつものようにそれを綺麗に揃える。
――いつも通りの役割、でも、今日は少しだけ違う。
「……あし……」
リアルデュークが、ぽつりと言う。
「?」
「……いたい……やつ……」
自分の足のことか、サロメの足のことか、リアルデュークの分からない言い方にサロメは一瞬迷ってから、答える。
「……少し、疲れてただけですわ。」
リアルデュークはそれ以上聞かないし、聞けない。
ただ、ベッドに腰を下ろして、一言。
「……ねる……」
と言うだけだった。
サロメはカーテンを閉めながら、ふと思う。
世話をする側が、いつも正しいわけじゃないし、ちゃんと見えているわけでもない。
でも――あの子は、よく分からないまま、止めてくれた。
理由も言わず、優しい言葉も使わず、それでも。
「……ありがとう」
サロメがそう小さく言うと、リアルデュークは布団の中から、くぐもった声を返す。
「……うぃうぃ」
意味を理解しているかは、怪しい。
だが、それでもサロメは、その夜、デビュー戦以来初めて少しだけ楽に眠れた。
「……リアさん、寝るならパジャマに着替えてからですわ!」
リアルデュークにパジャマを着せてからだったが……。
翌朝。
寮の廊下に、朝のざわめきが広がっている。
食堂へ向かうウマ娘たちの足音と、眠そうな声。
「……いく……」
リアルデュークはパジャマ姿のまま、何事もなかったようにドアの前に立っていた。
「……おはようございます、リアさん?」
「……ボク、腹減った!」
それだけ。
昨日の夕方。
グラウンドで止められたことも、不機嫌だったことも、全部どこかへ置いてきた顔。
「……リアさん、まずは制服に着替えましょうか?」
食堂に入ると、いつもの匂い。
トレーを取り、横入りしようとするリアルデュークの襟首を掴んで行儀良く列に並ぶ。
リアルデュークは襟首を掴まれたまま、周囲をきょろきょろ見回し、デザートコーナーをロックオンする。
「……サロメ! アレ!」
「あとで。まずはちゃんとした食事を取ってからですわ。」
「……うぃ。」
素直。
普段通り。
2人とも仲良く窓際の席についてから、サロメは遠慮がちに小さく切り出す。
「あの、リアさん……昨日の練習……」
リアルデュークは、カボチャのスープを掬っていたスプーンを持つ手を止めると、そのまま一拍置いて首をかしげる。
「……きのう……?」
やっぱり、ほとんど覚えていない。
「……止めてくれたでしょ……」
リアルデュークは少し考える素振りを見せてから、
「……あ……」
思い出したような、そうでもないような声。
「……いたい……やつ……」
それだけ……その態度からは、謝りもしない、説明もしない、その時の感情も、もう残っていない。
そんなリアルデュークの様子に、サロメは思わず笑ってしまう。
「……もう……本当に……」
一方のリアルデュークは、何が面白いのか分からないまま、もぐもぐと食べ続ける。
そしてサロメは気づく、昨日ほど胸が焦っていない。
脚の違和感も、少し引いている。
「……今日は、軽めに致しますわ。」
リアルデュークは即答する。
「……らく」
理由は理解していない様子だが、その表情からは、ただ、楽なのは歓迎と言う思いが透けて見えた。
食堂の窓から、秋の光が差し込む。
いつも通りの朝。
リアルデュークはケロっとしている。
本当に、何事もなかったみたいに……それでもサロメは、あの「止められた一瞬」を、ちゃんと覚えていた。
サロメがんばえ〜!って回です。