祖父の言葉――「心は折るな」――を胸に刻み、サロメは裁決室の扉を押した。
裁決室の薄暗い空間に、モニターの光だけが静かに灯っていた。
サロメは震える自分の手を握りしめ、胸が緊張で高鳴るのを抑えられない。
千尋は何時もの何処か抜けた雰囲気は鳴りを潜め、深刻な表情で横に立ち、少しでも落ち着く様にと静かにサロメの肩に手を添える。
「落ち着いて……全力で走ったことは、ちゃんと誇れるわ」
審議委員の一人がリモコンを操作すると、モニターにレースの映像が映し出された。
ゴール前、サロメが全力で追い上げる姿。
だが、映像を止めて矢印で示されるのは、サロメの駆けたコースが内側に大きく斜行している瞬間だった。
「ご覧ください、ゴール前200メートル付近でサロメ選手は進路を外側から内側に大きく切り込み、他のウマ娘の走行を妨げています。このため、審議対象となりました」
サロメは言葉を失い、モニターの自分の姿を呆然と見つめる。
「……あれ……?」
勝ったと思った光景が脳裏をよぎるが、現実は冷静に映像で示されている。
パトロールビデオでの説明が終わると、審議委員の一人が深刻な顔で書類を手に告げた。
「以上の理由により、サロメ選手はゴール1着での進路妨害により、失格とします。さらに、今後1か月間、レースへの出場資格を停止します」
サロメの体が一瞬固まった。胸が締めつけられ、息が詰まる。
「……し、失格……停止?」
まだ理解できない気持ちが、目の前の文字と声の現実に押しつぶされそうだった。
次に審議委員の目が千尋に向けられる。
「サロメ選手を監督している千尋トレーナーには、今回の管理不十分により、3週間の謹慎処分を科します。」
千尋は深く息をつき、目を伏せた。
「はい、了承致します。 この度はご迷惑をお掛けしました。」
言葉は少ないが、千尋の下げた頭の深さが深刻さと責任の重さを表していた。
その姿を見てサロメは肩を震わせ、涙がこぼれそうになる。
千尋は静かに手を添え、落ち着かせようとする。
「……大丈夫、大丈夫よ、サロメ。」
「でも、トレーナーが……」
「大丈夫、私は大丈夫だからね? さぁ、控え室に戻りましょう?」
震えるサロメと共に、もう一度頭を下げて謝意を表した2人は、寄り添う様に審議室を後にした。
控え室のドアが静かに閉まる。
サロメは肩を震わせたまま、ベンチまで歩き、膝を抱える様に座り込む。
頭の中は混乱していた。
青ランプ、斜行の映像、失格――でも、一番胸に刺さるのは、自分のせいで千尋に迷惑をかけてしまったことだった。
千尋は静かにサロメの側まで来ると膝をつき、サロメの目線の高さに合わせる。
「サロメ……泣いていいのよ。今は無理に我慢しなくても良いんです。」
声は穏やかで、サロメへの気遣いが滲む。
サロメは、千尋の胸に顔を埋め小さくうめく。
「トレーナー……私のせいで……ごめんなさい……」
失格のことはまだ理解できていない。
今この胸が締め付けられるのは、千尋に迷惑をかけたという思いばかりだった。
千尋は頭をそっと撫で、優しく続ける。
「そう思うのは自然だけど、あなたの走りを見た私は、ちゃんと分かっていますよ? ええ、あなたは全力で走りました。」
サロメは少しだけ息を吐き、肩を小さく揺らすと、涙を拭い視線を千尋に向ける。
「……でも、次は絶対に……」
言葉は途切れ途切れだが、サロメの目には決意が少しずつ戻って来ていた。
千尋はうなずき、軽く肩を叩く。
「うん、そう。無理に元気を出さなくてもいい。まずは少しずつ前に進もう」
「はい、前に、ですわ。」
サロメの肩の力は、少しだけ抜けたように見えた。
出場停止処分を受けた日から2日後、トレセン学園のトレーニングコース。
冷たい空気の中、サロメは一人で走っていた。
一定のリズム、無理のないフォーム、出場停止中だからこそ、基礎を削らない。
「……本日も、悪くありませんわ」
息を整え、軽くストレッチをするその横で、リアルデュークがしゃがみ込んでいた。
リアルデュークがただそこに転がっていたコーンを、一つずつ拾って並べている。
等間隔に、でも途中から飽き来たのか、少しだけ歪む。
サロメは気づき、くすりと笑った。
「ありがとうございます。ですが……そこは、もう少し間隔を揃えていただけると助かるのですが……」
「うぃっ!」
言われたリアルデュークは顔を上げると元気に返事をする。
一つコーンを動かし、またしゃがむ。
今度は逆に揃えすぎて、詰まりすぎる。
「……うぃ?」
サロメは一瞬言葉に詰まり、それから丁寧に立て直す。
「ええ……十分でございますわ」
そう言って、サロメが軽い感じでコーンの間を器用に走る。
リアルデュークは、その後ろからのろのろとついてくる。
コーンを抜けてサロメが給水の為にボトルを取ろうとすると、サロメより先にリアルデュークがボトルを持ち上げていた。
ラベルが逆。
キャップは閉まっていない。
サロメは一瞬だけ困った顔をし、それでも受け取る。
「……ふふ、ありがとうございます。とても助かりますわ」
「うぃうぃ」
サロメからのお礼を受けて、少しだけ得意気な顔になる。
そんなリアルデュークの隣でサロメは首に掛けていたタオルで汗を拭き、ボトルをリアルデュークに預けると再び走り出す。
「レースには出られませんけれど……だからって走れない訳では、ありませんものね。」
リアルデュークは立ち止まり、走る背中を見る。
勝ちへの拘りも、斜めに走って失格や出場停止も、よく分からない。
それでも、リアルデュークはサロメが走っている間、コーンが倒れたら直し、ボトルを手渡し、タオルを畳もうとして、ぐしゃっとする。
それでいい。冬の始まりの空の下。
一人で走るサロメと、拙いながらも手伝いをするリアルデューク。
2人の言葉は少ない。
だが、確かにそこには、止まらない時間が流れていた。
朝のトレセン学園は、まだ空気が冷たく澄んでいた。
グラウンドに差し込む斜めの光が、赤土を淡く照らしている。
「ラスト一本、フォーム崩すな!」
謹慎中の千尋の代役として次の日から2人の練習を見ている歩の声が鋭く飛ぶ。
首から下げたストップウォッチを握りしめ、その視線は一切ぶれない。
その声に応えるように、サロメが一歩、強く地面を蹴った。
しなやかな脚運び、無駄のないフォーム。
呼吸は荒いが、その瞳はまだ余裕を残している。
「……まだいけますわ」
隣を走るリアルデュークは、楽しそうに蛇行しながらもペースを落とさない。
汗が頬を伝い、朝日を反射してきらりと光る。
「負ける気は有りませんわ。ここでペースを下げたら、意味が有りませんわ」
二人の足音が重なり、グラウンドにリズムを刻む。
風が髪と尻尾を揺らし、空気を切り裂く音だけが支配していた。
その様子を、グラウンドの端にあるフェンスに寄りかかり、じっと走る姿を見詰める影がある。
その影はナリタブライアン。
腕を組み、表情一つ変えず、ただ2人の走りを見据えていた。
(悪くない……が、まだまだ荒いな)
ナリタブライアンはその性格から、内心の評価を口にすることはない。
ただ、その猛禽類を思わせる鋭い視線が、無言の圧となってグラウンドで走る2人に落ちる。
設定されたゴールラインを駆け抜け、二人が減速した瞬間、歩が手を上げた。
「ストップ! サロメ、今のラップ、自己ベスト更新だ」
サロメは胸に手を当て、小さく息を整える。
リアルデュークは、何かを感じたのかブライアンがいるフェンスの方を見た。
リアルデュークが、ナリタブライアンを見つけた瞬間だった。
「……パパ!」
その声と同時に、駆け出すリアルデューク。
その姿を視界に捉えたナリタブライアンは、さっきまでのクールさはどこへやら、尻尾が分かりやすく揺れている。
ナリタブライアンは、気配だけで察していたように視線を向けた。
そして――無言で、紙袋を差し出す。
「ほら」
「うぃ?」
「今日は走っただろう?」
中身を覗いた瞬間、リアルデュークの表情が一気に明るくなる。
「……肉! これ、美味しいヤツ!」
分厚く焼かれたステーキサンド。
さらにその奥には、小さく包まれた菓子袋も入っていた。
「……お菓子も! パパ最高!」
リアルデュークに遠慮という概念は存在しない。
ベンチに腰を下ろし、即座にかぶりつくリアルデュークを、ナリタブライアンは腕を組んで眺めていた。
(よく食べる。よく動く。……今日も健全だ)
満足そうに肉を頬張る姿を見ていると、なぜか胸の奥が落ち着く。
口をもぐもぐさせながら、リアルデュークが言う。
「ボク、パパ来てる日、なんとなく分かる!」
「……気配か?」
「うぃ。あと、いい匂いする!」
一瞬、ナリタブライアンの眉が動いた。
「……肉のせいだ」
「そう! 幸せの匂い!」
リアルデュークが笑う、屈託なく。
それを見て、ナリタブライアンは小さく息を吐いた。
(……明日も肉を食べさせよう。)
少し離れたところで、その光景を見ていたタマモクロスが、一緒にいたオグリキャップに小声で言う。
「完全に餌付けやんか!」
「……ナリタブライアン、とても素晴らしいな?」
肉を食べ終えたリアルデュークが菓子袋を開け、ふと手を止めた。
「……パパも食べる?」
「私は……」
一瞬の逡巡。
そして、ほんの少し間を置いてから。
「……半分だけなら」
「うぃうぃ。」
そう言って、自然に隣を詰める。
距離は近いのだが、ナリタブライアンは何も言わなかった。
頭を撫でることも、抱き寄せることもない。
ただ、隣で同じものを食べ、同じ時間を過ごす。
(これでいい)
餌付けで始まった関係かもしれない。
だがそこには、確かに――父になりたい者の、静かな喜びがあった。
ブライアンさん、確実に外堀を埋めております。