メジロ家の変な子   作:ネギ市場

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第110話

 

 

 

 祖父の言葉――「心は折るな」――を胸に刻み、サロメは裁決室の扉を押した。

 裁決室の薄暗い空間に、モニターの光だけが静かに灯っていた。

 サロメは震える自分の手を握りしめ、胸が緊張で高鳴るのを抑えられない。

 千尋は何時もの何処か抜けた雰囲気は鳴りを潜め、深刻な表情で横に立ち、少しでも落ち着く様にと静かにサロメの肩に手を添える。

 「落ち着いて……全力で走ったことは、ちゃんと誇れるわ」

 審議委員の一人がリモコンを操作すると、モニターにレースの映像が映し出された。

 ゴール前、サロメが全力で追い上げる姿。

 だが、映像を止めて矢印で示されるのは、サロメの駆けたコースが内側に大きく斜行している瞬間だった。

 「ご覧ください、ゴール前200メートル付近でサロメ選手は進路を外側から内側に大きく切り込み、他のウマ娘の走行を妨げています。このため、審議対象となりました」

 サロメは言葉を失い、モニターの自分の姿を呆然と見つめる。

 「……あれ……?」

 勝ったと思った光景が脳裏をよぎるが、現実は冷静に映像で示されている。

 

 パトロールビデオでの説明が終わると、審議委員の一人が深刻な顔で書類を手に告げた。

 「以上の理由により、サロメ選手はゴール1着での進路妨害により、失格とします。さらに、今後1か月間、レースへの出場資格を停止します」

 サロメの体が一瞬固まった。胸が締めつけられ、息が詰まる。

 「……し、失格……停止?」

 まだ理解できない気持ちが、目の前の文字と声の現実に押しつぶされそうだった。

 次に審議委員の目が千尋に向けられる。

 「サロメ選手を監督している千尋トレーナーには、今回の管理不十分により、3週間の謹慎処分を科します。」

 千尋は深く息をつき、目を伏せた。

 「はい、了承致します。 この度はご迷惑をお掛けしました。」

 言葉は少ないが、千尋の下げた頭の深さが深刻さと責任の重さを表していた。

 その姿を見てサロメは肩を震わせ、涙がこぼれそうになる。

 千尋は静かに手を添え、落ち着かせようとする。

 「……大丈夫、大丈夫よ、サロメ。」

 「でも、トレーナーが……」

 「大丈夫、私は大丈夫だからね? さぁ、控え室に戻りましょう?」

 震えるサロメと共に、もう一度頭を下げて謝意を表した2人は、寄り添う様に審議室を後にした。

 

 

 控え室のドアが静かに閉まる。

 サロメは肩を震わせたまま、ベンチまで歩き、膝を抱える様に座り込む。

 頭の中は混乱していた。

 青ランプ、斜行の映像、失格――でも、一番胸に刺さるのは、自分のせいで千尋に迷惑をかけてしまったことだった。

 千尋は静かにサロメの側まで来ると膝をつき、サロメの目線の高さに合わせる。

 「サロメ……泣いていいのよ。今は無理に我慢しなくても良いんです。」

 声は穏やかで、サロメへの気遣いが滲む。

 サロメは、千尋の胸に顔を埋め小さくうめく。

 「トレーナー……私のせいで……ごめんなさい……」

 失格のことはまだ理解できていない。

 今この胸が締め付けられるのは、千尋に迷惑をかけたという思いばかりだった。

 千尋は頭をそっと撫で、優しく続ける。

 「そう思うのは自然だけど、あなたの走りを見た私は、ちゃんと分かっていますよ? ええ、あなたは全力で走りました。」

 サロメは少しだけ息を吐き、肩を小さく揺らすと、涙を拭い視線を千尋に向ける。

 「……でも、次は絶対に……」

 言葉は途切れ途切れだが、サロメの目には決意が少しずつ戻って来ていた。

 千尋はうなずき、軽く肩を叩く。

 「うん、そう。無理に元気を出さなくてもいい。まずは少しずつ前に進もう」

 「はい、前に、ですわ。」

 サロメの肩の力は、少しだけ抜けたように見えた。

 

 

 出場停止処分を受けた日から2日後、トレセン学園のトレーニングコース。

 冷たい空気の中、サロメは一人で走っていた。

 一定のリズム、無理のないフォーム、出場停止中だからこそ、基礎を削らない。

 「……本日も、悪くありませんわ」

 息を整え、軽くストレッチをするその横で、リアルデュークがしゃがみ込んでいた。

 リアルデュークがただそこに転がっていたコーンを、一つずつ拾って並べている。

 等間隔に、でも途中から飽き来たのか、少しだけ歪む。

 サロメは気づき、くすりと笑った。

 「ありがとうございます。ですが……そこは、もう少し間隔を揃えていただけると助かるのですが……」

 「うぃっ!」

 言われたリアルデュークは顔を上げると元気に返事をする。

 一つコーンを動かし、またしゃがむ。

 今度は逆に揃えすぎて、詰まりすぎる。

 「……うぃ?」

 サロメは一瞬言葉に詰まり、それから丁寧に立て直す。

 「ええ……十分でございますわ」

 そう言って、サロメが軽い感じでコーンの間を器用に走る。

 リアルデュークは、その後ろからのろのろとついてくる。

 コーンを抜けてサロメが給水の為にボトルを取ろうとすると、サロメより先にリアルデュークがボトルを持ち上げていた。

 ラベルが逆。

 キャップは閉まっていない。

 サロメは一瞬だけ困った顔をし、それでも受け取る。

 「……ふふ、ありがとうございます。とても助かりますわ」

 「うぃうぃ」

 サロメからのお礼を受けて、少しだけ得意気な顔になる。

 そんなリアルデュークの隣でサロメは首に掛けていたタオルで汗を拭き、ボトルをリアルデュークに預けると再び走り出す。

 「レースには出られませんけれど……だからって走れない訳では、ありませんものね。」

 リアルデュークは立ち止まり、走る背中を見る。

 勝ちへの拘りも、斜めに走って失格や出場停止も、よく分からない。

 それでも、リアルデュークはサロメが走っている間、コーンが倒れたら直し、ボトルを手渡し、タオルを畳もうとして、ぐしゃっとする。

 それでいい。冬の始まりの空の下。

 一人で走るサロメと、拙いながらも手伝いをするリアルデューク。

 2人の言葉は少ない。

 だが、確かにそこには、止まらない時間が流れていた。

 

 

 

 朝のトレセン学園は、まだ空気が冷たく澄んでいた。

 グラウンドに差し込む斜めの光が、赤土を淡く照らしている。

 「ラスト一本、フォーム崩すな!」

 謹慎中の千尋の代役として次の日から2人の練習を見ている歩の声が鋭く飛ぶ。

 首から下げたストップウォッチを握りしめ、その視線は一切ぶれない。

 その声に応えるように、サロメが一歩、強く地面を蹴った。

 しなやかな脚運び、無駄のないフォーム。

 呼吸は荒いが、その瞳はまだ余裕を残している。

 「……まだいけますわ」

 隣を走るリアルデュークは、楽しそうに蛇行しながらもペースを落とさない。

 汗が頬を伝い、朝日を反射してきらりと光る。

 「負ける気は有りませんわ。ここでペースを下げたら、意味が有りませんわ」

 二人の足音が重なり、グラウンドにリズムを刻む。

 風が髪と尻尾を揺らし、空気を切り裂く音だけが支配していた。

 その様子を、グラウンドの端にあるフェンスに寄りかかり、じっと走る姿を見詰める影がある。

 その影はナリタブライアン。

 腕を組み、表情一つ変えず、ただ2人の走りを見据えていた。

 (悪くない……が、まだまだ荒いな)

 ナリタブライアンはその性格から、内心の評価を口にすることはない。

 ただ、その猛禽類を思わせる鋭い視線が、無言の圧となってグラウンドで走る2人に落ちる。

 設定されたゴールラインを駆け抜け、二人が減速した瞬間、歩が手を上げた。

 「ストップ! サロメ、今のラップ、自己ベスト更新だ」

 サロメは胸に手を当て、小さく息を整える。

 リアルデュークは、何かを感じたのかブライアンがいるフェンスの方を見た。

 

 

 リアルデュークが、ナリタブライアンを見つけた瞬間だった。

 「……パパ!」

 その声と同時に、駆け出すリアルデューク。

 その姿を視界に捉えたナリタブライアンは、さっきまでのクールさはどこへやら、尻尾が分かりやすく揺れている。

 ナリタブライアンは、気配だけで察していたように視線を向けた。

 そして――無言で、紙袋を差し出す。

 「ほら」

 「うぃ?」

 「今日は走っただろう?」

 中身を覗いた瞬間、リアルデュークの表情が一気に明るくなる。

 「……肉! これ、美味しいヤツ!」

 分厚く焼かれたステーキサンド。

 さらにその奥には、小さく包まれた菓子袋も入っていた。

 「……お菓子も! パパ最高!」

 リアルデュークに遠慮という概念は存在しない。

 ベンチに腰を下ろし、即座にかぶりつくリアルデュークを、ナリタブライアンは腕を組んで眺めていた。

 (よく食べる。よく動く。……今日も健全だ)

 満足そうに肉を頬張る姿を見ていると、なぜか胸の奥が落ち着く。

 口をもぐもぐさせながら、リアルデュークが言う。

 「ボク、パパ来てる日、なんとなく分かる!」

 「……気配か?」

 「うぃ。あと、いい匂いする!」

 一瞬、ナリタブライアンの眉が動いた。

 「……肉のせいだ」

 「そう! 幸せの匂い!」

 リアルデュークが笑う、屈託なく。

 それを見て、ナリタブライアンは小さく息を吐いた。

 (……明日も肉を食べさせよう。)

 少し離れたところで、その光景を見ていたタマモクロスが、一緒にいたオグリキャップに小声で言う。

 「完全に餌付けやんか!」

 「……ナリタブライアン、とても素晴らしいな?」

 肉を食べ終えたリアルデュークが菓子袋を開け、ふと手を止めた。

 「……パパも食べる?」

 「私は……」

 一瞬の逡巡。

 そして、ほんの少し間を置いてから。

 「……半分だけなら」

 「うぃうぃ。」

 そう言って、自然に隣を詰める。

 距離は近いのだが、ナリタブライアンは何も言わなかった。

 頭を撫でることも、抱き寄せることもない。

 ただ、隣で同じものを食べ、同じ時間を過ごす。

 (これでいい)

 餌付けで始まった関係かもしれない。

 だがそこには、確かに――父になりたい者の、静かな喜びがあった。

 







 ブライアンさん、確実に外堀を埋めております。

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