ブライアンはドアの前で立ち止まり、ノックしようと拳を軽く握ったその時……
「うぃー!」
リアルデュークが声を上げ、その小さな身体が一歩前に出たかと思うと、迷いのない動きで拳を振り上げる。
「待――」
ブライアンが止めようとした時には、もう遅い。
ドン!! ドン!! ドン!! ドン!!
安アパートの薄いドアが、悲鳴のような音を立てて揺れた。
蝶番が軋み、ノブががちゃりと鳴る。
マックイーンは思わず息を呑み、口元を押さえる。
「……っ、な、何を……!」
声にならない悲鳴だった。
ビワハヤヒデは、完全に一歩引いた。
(……常識が……通じん……)
表情は冷静を保っているが、耳がわずかに伏せている。
ブライアンは額に手を当て、低く呻いた。
「……やりすぎだ」
リアルデューク本人は、まったく気にしていない。
振り向いて、満面の笑み。
「うぃ!」
マックイーンの脳裏に、一瞬で状況が浮かぶ。
――夜。
――クリスマスイブ。
――アポ無し。
――独身女性の一人暮らし。
「……最悪ですわ……」
思わず本音が零れた。
ビワハヤヒデも、内心で同意する。
(……訪問というより、襲撃だな)
中から、慌ただしい足音。
何かを落とす音と、短い悲鳴。
「……誰方ですか?」
マックイーンは背筋を伸ばし、必死に取り繕う。
(……相手はリアさんのトレーナーさん、姉としてここで印象を悪くするわけには……!)
ブライアンは静かに息を吐いた。
(……止められなかったか)
ドアが開く直前、ビワハヤヒデは心の中で結論づける。
(……これは、私の想定外だ)
ガチャリ。
ドアが開いた瞬間、そこに立っていた千尋を見て、全員が一瞬だけ言葉を失った。
――そして、この夜はもう、平穏には終わらないと確信するのだった。
ガチャリ。
特に鍵やチェーンロックもかけられて居た形跡も無く、無警戒にドアが開いた瞬間、全員の視線が――一斉に、固まった。
そこに立っていた千尋は、言うなれば完全にオフだった。
毛玉の浮いたヨレヨレのスウェット。
色は元グレーだった名残をとどめるだけ。
首元は伸びきり、袖は片方だけ肘まで捲られている。
足元は、踵の潰れた室内用サンダル。
髪は適当に一つ結び、寝癖も直していない。
――完全に「一人暮らしの夜」そのもの。
一瞬、空気が凍った。
マックイーンの脳が、今目の前にある光景の処理を拒否する。
(……え?)
(……今、私は……何を……見て……?)
気位も礼儀も吹き飛び、目が点になる。
ビワハヤヒデは、無言で視線を逸らした。
(……油断、というレベルではない)
そして次の瞬間、
(……この女、危機感が欠如している)
と冷静に結論づける。
ブライアンはというと、一拍置いて、短く言った。
「……寒そうだな」
誰もそこを気にしていなかった。
当の千尋は、全員の視線に気づいて、少しだけきょとんとする。
「あ……えっと……」
そして、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、こんな格好で」
その一言で、マックイーンの中の何かが音を立てて崩れた。
(……謝るところ、そこですの!?)
リアルデュークだけは、何も気にしていない。
「うぃ!」
当たり前のように、千尋の足元に駆け寄る。
千尋はその頭を撫で、柔らかく言う。
「いらっしゃい、リアちゃん」
その自然さが、マックイーンの胸をさらにざわつかせる。
(……この距離感……この油断……)
ビワハヤヒデは、内心でため息をついた。
(……敵意はない。計算もない。ただの生活だ)
だからこそ、余計に厄介だと判断する。
千尋はドアを大きく開け、何事もなかったように言った。
「取り敢えずどうぞ。 ちょっと狭いけど……」
ビワハヤヒデは一歩踏み出しながら、ぼそりと呟く。
「……今日はイブだぞ」
千尋は一瞬きょとんとして、それから、あっと小さく声を上げた。
数秒後。
顔を赤くして、頭を掻く。
「……そういえば、そうだったね」
そのあまりに無防備な一言に、マックイーンとビワハヤヒデは、別の意味で戦慄するのだった。
――この人、何も考えていない。
千尋がドアを開けたまま立っている間、マックイーンは――微動だにしていなかった。
いや、正確には動けなかった。
視線は千尋の部屋着に釘付け。
メジロ家ご令嬢として、普段から無意識に浮かべている気品ある微笑は、今は完全に硬直している。
「…………あり得ませんわ……」
ほとんど息だけで零れた呟き。
だが、静まり返った廊下では十分すぎるほど聞こえた。
ビワハヤヒデが、ちらりと横目で見る。
マックイーンのこめかみが、わずかに引きつっていた。
「……い、いえ……」
マックイーンは慌てて姿勢を正す。
「決して、その……外見をどうこう言うつもりでは……」
――明らかに動揺している。
「ですが!」
声だけが、少し裏返った。
「若い女性が! クリスマスイブの夜に! アポ無しとはいえ! このような格好でドアを開けるなど……!」
千尋はきょとんとして瞬きをする。
「え……?」
「危機感というものが……!」
言いかけて、はっと我に返ったマックイーンは咳払いを一つ。
「……あ、いえ。失礼しましたわ」
完全に言ってから後悔するタイプの失言だった。
千尋は少し困ったように笑う。
「あ……ごめんね。普段、来客ないから」
その一言が、マックイーンの心をさらに抉った。
(……普段……来客が……)
リアルデュークが追撃する。
「千尋、いつもこれ!」
「リアさん!!」
マックイーンが反射的に止める。
千尋は「あはは……」と小さく笑い、頭を掻いた。
「だよね。さすがにこれは……」
そこでようやく、自分の格好を見下ろす。
「あ……ちょっと待ってて。着替えてくる」
そう言って奥へ向かおうとする背中を見て、マックイーンは胸の奥でぐちゃぐちゃした感情を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「……信じられませんわ……」
それは軽蔑でも、怒りでもない。
ただ、価値観の違いを真正面から叩きつけられた衝撃だった。
ビワハヤヒデは、その様子を見て静かに結論する。
(……この女、敵ではない……だが、常識の軸が違いすぎる)
ブライアンだけが、相変わらずだった。
「……別にいいだろ。家だし」
マックイーンは、ぎりっと歯を噛みしめる。
(……この姉妹……!)
――こうして、千尋の「油断しきった部屋着」は、誰よりもマックイーンの精神を削る結果となったのだった。
千尋のリビングで、全員がソファやクッションに座り、温かい飲み物を手にしていた。
リアルデュークはブライアンに抱えられ、膝の上で無邪気に笑う。
「うぃ!パパー!」
ブライアンも笑みを返し、リアルデュークの楽しそうな顔をじっと見つめる。
千尋はソファの端でティーカップを持ち、静かに微笑む。
「皆さん、来てくれて嬉しいです。 あ、お菓子も少しありますので、どうぞ」
普段通りの大人としての落ち着きと自然な気配りが、空間を優しく包んでいた。
しかしその横で、ビワハヤヒデはわざと少し皮肉めいた声を漏らす。
「イブの夜に特別な予定もなく、こうして人様の家にお邪魔するとは……実に愉快なことだな」
だがその言葉に、誰も反応しない。
ブライアンはリアルデュークと楽しむことに夢中で、ビワハヤヒデの声など聞こえていない。
リアルデュークはいつもの無邪気な笑顔で、まったく気にしていない。
千尋は穏やかに微笑みつつ、皮肉に反応する必要性を感じないだけだった。
ビワハヤヒデの眉がぴくりと動き、じわじわと苛立ちが胸に広がる。
(……無視!? 何度も言っているというのに……! これではブライアンからも何も反応を貰えないではないか……!)
理知的な自分を保とうとする理性が、心の奥でくすぶる八つ当たりの炎に押されそうになる。
一方、マックイーンは綺麗な所作で座卓にティーカップを置き、静かに視線を固定したまま、胸の奥でぐちゃぐちゃした感情を抱えていた。
(……リアさんがっ! あんなに無邪気に……! 私のことなんて、もう気にしていない……! このままじゃ……!)
未だに仲直りできていない焦りと、ブライアンや千尋がリアルデュークと楽しそうに過ごす様子に対する嫉妬心が絡み合い、体の内側が熱くなる。
ブライアンはそれを見ても、ただリアルデュークの笑顔が嬉しいだけ。
「なあ、リアルデューク。次はどのお菓子を食べる?」
「ポテチ、チョコついたヤツ!」
ビワハヤヒデはため息をつき、ティーカップを置く。
(……この無視……! 八つ当たりのひとつも通じない……!)
マックイーンもため息をもらし、視線をわずかにブライアンに向ける。
(……ブライアンさん……無邪気すぎる……リアさんと一緒に……こんな夜を……!)
静かな夜のリビングに、温かい飲み物の湯気だけが漂う。
しかしその空気の奥で、ビワハヤヒデとマックイーンの苛立ちと嫉妬が、静かに、しかし確実に燃え広がっていた。