朝のトレセンは、冬の空気を鋭く孕んでいた。
吐く息は白く、蹄が地面を叩く音だけが、やけに大きく響く。
サロメは練習用のゲート前で軽く首を振り、脚元の感触を確かめていた。
出場停止明け、身体は問題ない。
だが、心の奥に残る“間”だけは、どうしても自覚してしまう。
その少し後ろで、リアルデュークがじっとサロメを見上げている。
「……サロメ、がんばる?」
「ええ。今日は“仕上げ”ですわ」
サロメはそう言って、わずかに口角を上げた。
トラック脇には二人の人影がある。
謹慎処分が解け、現場に戻ったばかりの千尋と、そして、その隣に立つ千尋の父・歩。
千尋は腕を組み、走路を見つめていた。
現場に立つ感覚は、まだ完全には戻らない。
だが、サロメとリアルデュークを見ていると、不思議と胸が落ち着いた。
「……最終追い切りだ。 サロメ、無理はするなよ?」
歩の声は低く、だがはっきりしている。
謹慎中、代わりに指導してきた経験が、そのまま言葉に滲んでいた。
「はい、分かっておりますわ。」
その様子を見て千尋は軽く頷き、視線を前に戻す。
「今日は“勝ちに行くための確認”ですね?」
「……そうだ。 父さんなりのやり方で千尋のやり方とは大分違ったかも知れんが、サロメちゃん腐らずに頑張っていたぞ?」
「うん……とても真っ直ぐな子だから。」
「そうだな、サロメちゃん勝てると良いな?」
「……勝たせます……今度こそ。」
ゲートが開く。
サロメが一歩、強く踏み出した。
続いてリアルデュークも、事前の打ち合わせ通りに敢えてゆっくり出る。
最初の直線は抑えめに……だが、コーナーに入った瞬間、サロメの脚運びが変わる。
――その動きには迷いがなかった。
千尋と一緒に練習を見ていた歩は、わずかに目を細めた。
「……いいな。ブランクは感じない」
千尋は息を詰める。
(違う……ブランクが“消えた”んじゃない。 受け入れた走りだわ。)
最終直線、千尋が声を張る。
「サロメ、今です!」
気付いた訳では無いだろうが、その合図に応えるように、サロメが一段ギアを上げる。
風を切る音が変わり、地面を蹴る音が鋭くなる。
リアルデュークも、千尋との事前の打ち合わせ通りに同じタイミングでギアを上げる。
「……うぃっ!」
ゴールラインを駆け抜けた瞬間、空気が弾けた。
サロメは大きく息を吐き、ゆっくりと速度を緩める。
振り返ったその顔には、確かな手応えがあった。
「……いけますわ」
「ええ、今度こそね」
千尋は微笑み、素直にそう返した。
「これは“初勝利を狙う走り”です」
歩は腕を組んだまま、短く頷く。
「無理をしていない。それに、気持ちが逃げてもいないな? これなら十分だ」
リアルデュークが駆け寄り、息を切らしながら笑う。
「すごい! サロメ最後びゅ〜んって行った!」
サロメはその頭に、そっと手を置いた。
「ありがとう。リアさんも、よく付き合ってくれたからですわ」
四人が並び、冬のトラックを見渡す。
出場停止明けのウマ娘。
謹慎処分明けのトレーナー。
その間を繋いだ父。
そして、全力で走り続けた小さなウマ娘。
全員が、同じゴールを見ていた。
――初勝利へ。
その一歩目は、確かに今ここで踏み出されていた。
京都レース場、第五試合。
空は重たい雲に覆われ、陽射しはほとんど届いていなかった。
メインレースまではまだ時間がある。
スタンドの客入りはまばらで、観客の視線もどこか散漫だ。
未勝利戦――世間的にも注目される理由は、ほとんどない。
ただ1人、違う空気を纏ったウマ娘、サロメがいた。
出場停止処分明け、復帰初戦。
パドックでお披露目するその姿は落ち着いている。
余計な力みはなく、視線は前だけを捉えていた。
その外側、フェンスで区切られた観客席で千尋は静かに座って見ていた。
声援を送るでもなく、身振りで指示を出すこともない。
ただ、サロメの歩様と呼吸を、じっと見ている。
――大丈夫。
それだけで十分だった。
ゲート前。
曇天の下、風が低く吹き抜ける。
サロメは一度、深く息を吐いた。
過去の出来事も、空白の時間も、すでに背負ってきた。
今はただ走るだけだ。
ゲートが開く。
――出遅れなし。
サロメは迷いなく飛び出し、千尋からの事前の指示通りに、その勢いのまますぐに先頭へ躍り出る。
無理に競らないが、だが、先頭は譲らない。
矢張り、レースに慣れていない選手が多い為か、ペースは想定内。
後続が早目に詰めて来る気配はない。
「……速いわ」
サロメと他の子を比べて千尋が小さく呟いた。
だが、それは驚きではなかった。
第三コーナー。
サロメはまだ、余力を残している。
第四コーナーを回った瞬間、一斉に後続が仕掛けてくる。
――だが、遅い。
サロメは一段、脚を伸ばした。
身体が軽い。
地面を蹴る感触が、はっきりと伝わってくる。
ゴールへと向かう直線。
残り200m……その差は、見る間に広がった。
2バ身。
さらに、1バ身。
歓声は小さい、だが、確かだった。
――ゴール。
サロメは先頭で駆け抜け、最後まで振り返らなかった。
予定通りの逃げ切り。
3バ身差の完勝。
未勝利戦にしては、あまりにも明快な内容だった。
千尋は小さく頷き、拳を握りしめる。
派手なガッツポーズはしない。
ただ、胸の奥で、確かなものがほどけていくのを感じていた。
サロメは減速しながら、空を見上げる。
曇天の向こうに、青空は見えない。
それでも――。
「……勝ちましたわ」
小さく呟いた声は、誰に向けたものでもない。
だが、確かに、初勝利だった。
客席はまばらで勝利を讃える拍手も多くはない。
それでいい。
これは、再出発の一勝だ。
静かで、確かで、何よりも揺るがない。
京都レース場、第五試合。
曇天の空の下で、サロメは確かに、一歩前へ進んだ。
選手控え室は、思いのほか静かだった。
外のざわめきが嘘のように遠く、耳に入るのは衣擦れの音と、まだ少し荒い呼吸だけ。
サロメはベンチに腰を下ろし、タオルで額の汗を押さえていた。
胸の奥が、じんわりと熱い。
勝ったという実感が、遅れて込み上げてくる。
「……千尋さん」
呼びかけた声が、わずかに震えた。
千尋は椅子に腰掛け、真正面からサロメを見ていた。
穏やかな目だった。
「私の、初勝利ですわ……」
サロメは言葉を探すように、一度、唇を噛む。
「……戻ってきて、すぐに……こんな……」
そこで、言葉が途切れた。
視界がにじむ。
堪えきれず、目元に涙が溜まる。
千尋は何も言わず、そっと近くに寄り添う。
肩に手を置くでもなく、ただ優しい眼差しで向き合う。
「よく頑張りましたね?」
静かな声だった。
「逃げ切り。しかも、内容も完璧でしたよ?」
その一言で、サロメの目から涙が零れた。
ぽつり、ぽつりと床に落ちる。
「……怖かったんですの。 もう、勝てないんじゃないかって……」
千尋は小さく首を振る。
「ちゃんと練習通りに走れた。しかも、強かったわ。」
サロメは顔を上げ、涙ぐんだまま、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます。 千尋さんと、歩トレーナーと一緒に掴んだ勝利ですわ」
千尋も、わずかに目を細める。
「うん。3人で取った一勝だね」
「……はい。 あ、リアさんもですから、4人ですわね?」
「リアちゃんにはメール送っておきましたから、そろそろ見た頃だと思いますよ?」
そのとき、控え室の机の上で、サロメのウマホが震えた。
画面には、リアルデュークの名前。
サロメがスピーカーに切り替える。
『すごい!! サロメ、かった!!』
弾んだ声が、控え室に響く。
『えらい!! ボク大歓喜! ほんとすごい!!』
サロメは思わず、声を詰まらせた。
「……ありがとう。リアさんの応援、届きましたわ」
『次勝つ! ぜったい! サロメ、あとでいっぱいほめる!』
千尋とサロメの2人が思わず微笑む。
「リアさん、授業は大丈夫ですか?」
『うぃ! ボク寝てない、ずっとドキドキしてた!』
「寝て居ないのは良い事ですが、今は授業中なのでは?」
ウマホの画面上に表示される時計を見て、サロメがまさかと思いながらも、確認を兼ねて聞いてみる。
『……うぃ? 授業中! でもボク気にしないから大丈『そんな訳無いだろう!』あうっ! 暴力教師! 理不尽!……『あ〜、サロメくんかな? 授業中だから、悪いがこのウマホは授業が終わる迄預かる事にしたので切るぞ? あぁ、そうそう、クラスの皆からだが、初勝利おめでとうだそうだ。 ではな?』ボクのウマホ……』
通話が切れ、控え室は再び静かになる。
その沈黙の中で、千尋は姿勢を正した。
表情が、少しだけ引き締まり、トレーナーとしてのものになる。
「……サロメ」
「はい」
「これはゴールじゃない」
穏やかだが、はっきりとした声。
「未勝利戦を一つ勝っただけ。まだまだ、貴女にとっては道半ばだよ?」
サロメは背筋を伸ばし、しっかりと頷いた。
涙は拭われ、瞳には新しい光が宿っている。
「ええ……分かっていますわ。 でも……今日だけは、少しだけ喜ばせてください」
千尋は、ふっと笑った。
「それは、もちろんよ」
控え室の静けさの中、二人は並んで腰掛ける。
初勝利の余韻と、次へ向かう覚悟を胸に。
――再出発の一勝は、確かに祝われ、そして、次の一歩へと変わっていった。