初勝利の日から数週間、条件戦、そしてオープン戦と、サロメは淡々と勝ち続けた。
どのレースも、同じ展開で出遅れもなし。
千尋の作成通りに無理に競らず、だが先頭は譲らない。
道中は落ち着いて脚を溜め、最後の直線で後続を突き放す。
逃げ切り、危なげのない勝利。
未だ少数ではあったが、観客の間ではいつしか囁かれるようになった。
「安定している」
「崩れない逃げだ」
それでもサロメ自身は、浮かれなかった。
勝つたびに、胸の奥に別の感覚が積もっていく。
――このままで、いいのか?
そして三月。
風の冷たさが少しずつ和らぎ、春の気配が混じり始めた頃。
学園のトレーナー室で、千尋は静かに切り出した。
「次、重賞を考えてるわ」
その言葉に、サロメの肩がわずかに強張る。
「……重賞、ですの?」
千尋は頷いた。
「サロメの今の安定感なら、私は挑戦する価値は十分あると思うわ。」
千尋の判断はトレーナーとして、正しい判断だと思う。
サロメだって頭では分かっている。
未勝利戦、条件戦、OP戦と来たら、次は重賞挑戦に決まっている。
だが、胸の奥がざわついた。
(……重賞)
集まるのは、条件戦やオープンとは違う相手。
勝ち続けてきた逃げが、自分の実力が通じる保証はない領域の住人達がいる場所。
――もし、潰されたら。
――もし、また……。
出場停止、走れなかった時間。
あの不安が、ふと胸中に蘇る。
サロメは、無意識に拳を握りしめていた。
「……トレーナー、正直に言いますわ」
声は、少しだけ低かった。
「怖い、です」
千尋は何も言わず、続きを待つ。
「今は、勝てています。 でも……それは“逃げ切れている”から……重賞で同じことが出来るのか、自信がありませんの」
言葉にした途端、漠然としていた不安は明確な輪郭を持った。
千尋は、ゆっくりと息を吐く。
「不安があるのは、当然ですが……」
サロメは顔を上げる。
否定されないことに、少しだけ救われる。
「でもね」
千尋は続けた。
「勝ち続けてきたのは、偶然じゃないのよ。 逃げ切りを“選んで”、毎回やり切ってる。 それは既に、サロメの立派な武器だよ?」
サロメは視線を落とす。
それでも、胸の奥のざわめきは消えない。
(……もし、負けたら? せっかく積み上げたものが……)
「……考える時間をください」
サロメは、静かに言った。
千尋は頷く。
「もちろん」
部屋を出た後も、サロメの足取りは重かった。
春の光は、やけに眩しい。
勝ち続けている。
それなのに、不安は消えない。
――重賞は、次の段階、ここからが本当の世界。
――それは明確に、試される場所でもある。
サロメは立ち止まり、深く息を吸った。
(……まだ、私は……)
答えは出ない。
だが、逃げることも出来ない。
三月の風が、制服の裾を揺らす。
サロメはその中で、初めて“次の壁”をはっきりと意識していた。
時間は少し戻って二月の終わり。
冬の名残を引きずるトレセンの空気は、まだ冷たい。
ダートコースの外側で、ナリタブライアンは腕を組み、黙って走路を見つめていた。
視線の先には、軽快な足取りで周回するリアルデュークの姿がある。
「……」
違和感。
最初は、ただの気のせいだと思った。
だが、二周、三周と見るうちに、その感覚は確信に変わっていく。
(……何だ、今のは?)
フォームが崩れたわけじゃない。
スピードが落ちたわけでもない。
それなのに――走りの“芯”が、微妙に違う。
ブライアンの眉が寄る。
その鋭い視線が、リアルデュークの脚運びを追った。
(……怪我か? いや、そんな感じじゃない)
だが、安心出来る要素も見当たらない。
「……千尋」
隣に立つ千尋に、低く声をかける。
「何か……変だ」
千尋はすでに、同じ違和感を感じ取っていた。
視線を外さず、静かに頷く。
「うん。分かる」
リアルデュークが直線に入る。
一瞬だけ、加速の“間”が生まれた。
ブライアンの背筋に、冷たいものが走る。
(……やっぱりだ)
「おい……あれ、本当に大丈夫なのか?」
声に、珍しく焦りの色が滲む。
千尋は、少し考えるように口を閉ざし、やがて答えた。
「故障じゃないと思いますよ?」
「じゃあ何だと言うのだ?」
「……本格化」
ブライアンが、はっと息を呑む。
「……本格化?」
ウマ娘特有の、能力が一気に表に出始める兆し。
普通なら、身体つきが変わり、成長がはっきりと見える。
だが――。
ブライアンは、リアルデュークの姿を見直す。
小さな体に変わらない体格。
「……特に身体は成長してないだろ?」
千尋は頷く。
「だから、分かりにくいのかも知れません。」
ブライアンは歯を噛みしめる。
その眼光に、普段の鋭さは消え、代わりに焦りが前に出る。
「本当に……本格化なのか? 何処か、痛めているんじゃないのか?」
普段の好戦的な姿からは想像出来ないほど、その顔には落ち着きがない。
千尋は、リアルデュークの呼吸、着地、リズムを一つ一つ確認する。
そして、静かに言った。
「本格化ですよ。ただし……かなりゆっくり」
「ゆっくり?」
「普通の子より、ずっと」
リアルデュークは走り終え、息を整えながら戻ってくる。
「……なんか、へん」
小さく首を傾げる。
「でも……たぶん、きのせい?」
その言葉に、ブライアンはさらに不安になる。
「お前……本当に大丈夫なんだろうな?」
「うぃ?」
リアルデュークはきょとんとした顔で笑う。
「はしれる」
千尋は、その様子を見て胸の奥でため息をついた。
(……自覚は、ほとんど無しですか。)
本格化の兆し。
だが、身体は追いついていない。
無理をさせれば、壊れる可能性もある。
遅らせすぎれば、チャンスを逃す。
――デビューの時期。
千尋の視線は、リアルデュークの小さな背中に向けられる。
期待と慎重さが、せめぎ合う。
(……焦る必要はない筈。 でも……待ちすぎてもいけない)
二月の冷たい風が、三人の間を通り抜ける。
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは――。
リアルデュークは、今、確実に“変わり始めている”ということだけだった。
三月のある日。
トレセン学園の朝は、相変わらず慌ただしい。
寮の部屋で、サロメは机に向かい、スケジュール表を眺めていた。
重賞。
その文字が、頭の中から離れない。
(……挑戦、すべきですわよね)
理屈では分かっている。
今の成績、今の流れ。
だが、心だけが追いついてこない。
その横、ベッドの上ではリアルデュークが仰向けになり、天井を見つめていた。
「……なんか、へん」
「またですの?」
サロメは視線を上げる。
「はしると……ちょっと、へん。 でも、いたくない」
それが一番、厄介だった。
痛みも、明確な異常もない。
サロメはため息をつき、リアルデュークの靴下を拾う。
「あなたはもう少し、自分の身体を大事にするべきですわ」
「うぃ」
返事だけは素直だ。
同じクラス、同じルームメイト。
トレセン学園は全寮制。
生活リズムは、否応なく一緒になる。
授業中。
リアルデュークは、三限が始まって五分で机に突っ伏した。
「……すぅ」
ノートを取っていたサロメは、ちらりと横を見る。
「……また寝ていますのね」
小さく肩を揺すり、起こす。
「リアさん、起きなさい。後で困りますわよ?」
「うぃ……」
目を開けたと思った次の瞬間には、また閉じている。
学園の問題児、メジロのやべぇヤツ。
教師や、学生からの評価は、だいたいそれだ。
それでも――。
放課後のグラウンドで、リアルデュークが走る姿を見れば、誰もが黙る。
サロメも、その一人だった。
(……この子は、特別ですわ)
だが今日は、その走りにいつもの軽さがない。
わずかなズレ、本人も気づいていない違和感。
サロメは胸の奥がざわつく。
(私が重賞を迷っているのと……似ていますわね)
夜、寮に戻る。
リアルデュークはベッドに転がり、すぐに眠りかける。
「明日は早いですわよ?」
「うぃ……」
サロメは布団をかけてやり、ため息混じりに椅子へ座る。
優等生。
そう言われてきた自分が、今は迷っている。
問題児。
そう呼ばれる子が、今は静かに変わろうとしている。
「……お互い、落ち着きませんわね」
小さく呟くと、返事は寝息だけ。
それでも、いつもの日常は続く。
世話を焼くサロメと、焼かれるリアルデューク。
少しだけ、普段と違う。
けれど、まだ壊れてはいない。
三月のトレセン学園。
二人は同じ部屋で、それぞれの“不安”を抱えながら、変わらない日常を過ごしていた。