メジロ家の変な子   作:ネギ市場

117 / 130
足りないと知る勝利

 

 

 フラワーカップ当日。

 中山レース場に集った観衆は重賞らしい熱を帯びていた。

 ゲート内で、サロメは静かに呼吸を整えていた。

 逃げる。

 それは決めていた。

 だが、胸の奥に小さな不安がある。

 これまでの逃げとは、何かが違う。

 ゲートが開く、自然と前へと足が出た――好スタート。

 反射的に更に前へ出る。

 いつも通り、いつも通り……のはずだった。

 (……速い)

 一歩目から、後ろの気配が近い。

 条件戦とは、空気が違う。

 最初のストレート、意識してペースを刻む。

 だが――楽ではない。

 (……これだけで、脚を使ってしまっていますわ)

 今までなら、抑えながら進めた距離ですでに呼吸が重い。

 第3コーナー。

 内から、外から、圧がかかる。

 (……離せない。)

 逃げているのに、楽にならない。

 後続が、簡単に離れてくれない。

 第4コーナー。

 ここで突き放せないと、勝ちはない。

 ――それでも。

 (……足りない)

 直線に入る。

 すぐに並ばれる。

 視界の端に、何人もの影。

 (……こんなに……)

 身体が、言うことをきかない。

 脚が、前に出ない。

 今までなら、ここで一段ギアが上がった。

 だが今日は、上がらない。

 (……これが、重賞。 上澄みの中の上澄みが集う世界。)

 最後の二百……喉が焼ける。

 (……まだ、届かない)

 自分は、まだこの舞台の“強さ”に追いついていない。

 それが、はっきりと分かる。

 それでも、脚を止めない。

 止めた瞬間、全てが終わる。

 ゴール前。

 必死に脚をを伸ばす。

 ――ゴール。

 勝った。

 だが、既に余裕はない。

 ゴール版を過ぎた瞬間、力が抜け、その場に倒れ込み、動けなくなる。

 (……勝てた、けれど)

 息が整わない、視界が霞む。

 (……私は、まだこんなにも弱い)

 スタンドの歓声が、遠い。

 近付いてくる係員の声も、どこか別の世界のもののようだ。

 それでも――。

 (……だからこそ、走るのですわ。)

 自分の力不足を、誤魔化さずに受け止める。

 それでも逃げ切った事実と、足りなかった実感。

 その両方を抱えたまま、サロメは重賞のゴールの向こう側で、しばらく動けずにいた。

 

 

 フラワーカップ。

 それは栄光ではなく、次へ進むための「現実」を、はっきりと突きつける一戦だった。

 

 

 サロメの出走するフラワーCの発走直前、スタンド最前列。

 リアルデュークは身を乗り出し、両手で手すりを掴んでいた。

 「……サロメ……」

 ゲートが開いた瞬間、サロメが飛び出す姿がメインスクリーンに映し出された。

 「でた!」

 リアルデュークの声が弾む。

 ナリタブライアンは、サロメの最初の数完歩を見ただけで目を細めた。

 その眼光は、すでに先を読んでいる。

 「……悪くないスタートだ」

 「でも、余裕ないなぁ」

 ブライアンの呟きに、タマモクロスが即座に続く。

 「せやな。前に行けとるけど……アレでは“行かされとる”逃げや」

 メジロマックイーンは、静かに言った。

 「重賞ですもの。これ迄の様な条件戦のように、簡単に勝利を譲りませんわ」

 

 

 向こう正面。

 サロメは先頭を保っている。

 リアルデュークはぱっと笑顔になる。

 「サロメ、はやい!」

 だが、その言葉にかぶせるように、ブライアンが低く言う。

 「……速い、じゃない。アレは“楽じゃない”んだ。」

 リアルデュークがきょとんとする。

 「……うぃ?」

 タマモクロスが顎でコースを示す。

 「見てみぃ。後ろ走っとる奴、全然離れとらん。」

 第3コーナー。

 サロメの背後にぴたりと並ぶ影。

 「……っ」

 リアルデュークは、そこで初めて気づく。

 いつもなら、もう少し差がある筈なのに、今日は殆ど差がない。

 メインスクリーンを見ながら、マックイーンが淡々と続ける。

 「これでは、逃げが成立しておりませんわ。何とか主導権は取っていますが、レースの流れを支配出来ておりません。」

 第4コーナー。

 後続が一斉に仕掛ける。

 「……来たな」

 ブライアンの声が低くなる。

 「サロメ、ここからやで!」

 タマモクロスが思わず身を乗り出す。

 ゴール前直線。

 逃げるサロメが並ばれる。

 リアルデュークの喉が鳴った。

 「……追いつかれた!」

 「そりゃそうだ」

 勝負事に関してブライアンの判断は冷たく冷静だ。

 「重賞で、あの手応えじゃ突き放すのは無理だ。」

 「あら? でも、抜かれておりませんわね?」

 マックイーンが少しだけ興味の色を見せながら続けて口を開く。

 「それが、この方の強みでもあり……限界でも有るのですわ。」

 最後の二百。

 サロメは必死に粘る。

 リアルデュークは、無意識に拳を握っていた。

 「……がんがえぇぇっ!」

 先頭3人が縺れ合うようにゴール、少しの間の後に、電光掲示板の1着の位置にサロメの番号が掲示された。

 着差は、クビ差。

 「かった……?」

 一拍遅れて、歓声。

 「ああ、勝ったで!」

 タマモクロスが息を吐く。

 だが、すぐに表情を引き締める。

 「……けど、ギリギリや」

 サロメがゴール後に倒れ込む姿を見て、リアルデュークは目を見開いた。

 「……サロメ?」

 ブライアンは、はっきりと言った。

 「出し切ったな。そして――足りていない。」

 マックイーンも、視線を逸らさずに続ける。

 「ええ。逃げ切りましたが……もっと精進が必要なご様子ですわね。重賞でこの先勝ち続けるには、“粘った”では足りませんわ」

 タマモクロスは腕を組む。

 「せやけどな、それを知った上で勝ったんは、大したもんや」

 リアルデュークは、小さく呟いた。

 「……つよい、けど……」

 言葉が続かない。

 ブライアンが、ぽんとリアルデュークの頭に手を置く。

 「そうだ、勝った以上は強い。でも、まだ上がある」

 スタンドから見えたのは、“余裕の勝利”ではない。

 “限界を越えて、なお足りないと分かる勝利”。

 それでも――。

 「今日のあの走りで、次を目指せるんや。」

 タマモクロスが、静かに言った。

 リアルデュークは、倒れたままのサロメを見つめ、

 小さく、でもはっきりと頷いた。

 「……つぎも、はしる」

 フラワーカップ。

 それは、サロメにとっては「力不足を知った勝利」であり。

 リアルデュークにとっては「本当のスタートを見た一戦」であった。

 勝ったのに、満足出来ない。

 だからこそ――次がある。

 その現実だけが、はっきりと胸に残ってい

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。