フラワーカップ当日。
中山レース場に集った観衆は重賞らしい熱を帯びていた。
ゲート内で、サロメは静かに呼吸を整えていた。
逃げる。
それは決めていた。
だが、胸の奥に小さな不安がある。
これまでの逃げとは、何かが違う。
ゲートが開く、自然と前へと足が出た――好スタート。
反射的に更に前へ出る。
いつも通り、いつも通り……のはずだった。
(……速い)
一歩目から、後ろの気配が近い。
条件戦とは、空気が違う。
最初のストレート、意識してペースを刻む。
だが――楽ではない。
(……これだけで、脚を使ってしまっていますわ)
今までなら、抑えながら進めた距離ですでに呼吸が重い。
第3コーナー。
内から、外から、圧がかかる。
(……離せない。)
逃げているのに、楽にならない。
後続が、簡単に離れてくれない。
第4コーナー。
ここで突き放せないと、勝ちはない。
――それでも。
(……足りない)
直線に入る。
すぐに並ばれる。
視界の端に、何人もの影。
(……こんなに……)
身体が、言うことをきかない。
脚が、前に出ない。
今までなら、ここで一段ギアが上がった。
だが今日は、上がらない。
(……これが、重賞。 上澄みの中の上澄みが集う世界。)
最後の二百……喉が焼ける。
(……まだ、届かない)
自分は、まだこの舞台の“強さ”に追いついていない。
それが、はっきりと分かる。
それでも、脚を止めない。
止めた瞬間、全てが終わる。
ゴール前。
必死に脚をを伸ばす。
――ゴール。
勝った。
だが、既に余裕はない。
ゴール版を過ぎた瞬間、力が抜け、その場に倒れ込み、動けなくなる。
(……勝てた、けれど)
息が整わない、視界が霞む。
(……私は、まだこんなにも弱い)
スタンドの歓声が、遠い。
近付いてくる係員の声も、どこか別の世界のもののようだ。
それでも――。
(……だからこそ、走るのですわ。)
自分の力不足を、誤魔化さずに受け止める。
それでも逃げ切った事実と、足りなかった実感。
その両方を抱えたまま、サロメは重賞のゴールの向こう側で、しばらく動けずにいた。
フラワーカップ。
それは栄光ではなく、次へ進むための「現実」を、はっきりと突きつける一戦だった。
サロメの出走するフラワーCの発走直前、スタンド最前列。
リアルデュークは身を乗り出し、両手で手すりを掴んでいた。
「……サロメ……」
ゲートが開いた瞬間、サロメが飛び出す姿がメインスクリーンに映し出された。
「でた!」
リアルデュークの声が弾む。
ナリタブライアンは、サロメの最初の数完歩を見ただけで目を細めた。
その眼光は、すでに先を読んでいる。
「……悪くないスタートだ」
「でも、余裕ないなぁ」
ブライアンの呟きに、タマモクロスが即座に続く。
「せやな。前に行けとるけど……アレでは“行かされとる”逃げや」
メジロマックイーンは、静かに言った。
「重賞ですもの。これ迄の様な条件戦のように、簡単に勝利を譲りませんわ」
向こう正面。
サロメは先頭を保っている。
リアルデュークはぱっと笑顔になる。
「サロメ、はやい!」
だが、その言葉にかぶせるように、ブライアンが低く言う。
「……速い、じゃない。アレは“楽じゃない”んだ。」
リアルデュークがきょとんとする。
「……うぃ?」
タマモクロスが顎でコースを示す。
「見てみぃ。後ろ走っとる奴、全然離れとらん。」
第3コーナー。
サロメの背後にぴたりと並ぶ影。
「……っ」
リアルデュークは、そこで初めて気づく。
いつもなら、もう少し差がある筈なのに、今日は殆ど差がない。
メインスクリーンを見ながら、マックイーンが淡々と続ける。
「これでは、逃げが成立しておりませんわ。何とか主導権は取っていますが、レースの流れを支配出来ておりません。」
第4コーナー。
後続が一斉に仕掛ける。
「……来たな」
ブライアンの声が低くなる。
「サロメ、ここからやで!」
タマモクロスが思わず身を乗り出す。
ゴール前直線。
逃げるサロメが並ばれる。
リアルデュークの喉が鳴った。
「……追いつかれた!」
「そりゃそうだ」
勝負事に関してブライアンの判断は冷たく冷静だ。
「重賞で、あの手応えじゃ突き放すのは無理だ。」
「あら? でも、抜かれておりませんわね?」
マックイーンが少しだけ興味の色を見せながら続けて口を開く。
「それが、この方の強みでもあり……限界でも有るのですわ。」
最後の二百。
サロメは必死に粘る。
リアルデュークは、無意識に拳を握っていた。
「……がんがえぇぇっ!」
先頭3人が縺れ合うようにゴール、少しの間の後に、電光掲示板の1着の位置にサロメの番号が掲示された。
着差は、クビ差。
「かった……?」
一拍遅れて、歓声。
「ああ、勝ったで!」
タマモクロスが息を吐く。
だが、すぐに表情を引き締める。
「……けど、ギリギリや」
サロメがゴール後に倒れ込む姿を見て、リアルデュークは目を見開いた。
「……サロメ?」
ブライアンは、はっきりと言った。
「出し切ったな。そして――足りていない。」
マックイーンも、視線を逸らさずに続ける。
「ええ。逃げ切りましたが……もっと精進が必要なご様子ですわね。重賞でこの先勝ち続けるには、“粘った”では足りませんわ」
タマモクロスは腕を組む。
「せやけどな、それを知った上で勝ったんは、大したもんや」
リアルデュークは、小さく呟いた。
「……つよい、けど……」
言葉が続かない。
ブライアンが、ぽんとリアルデュークの頭に手を置く。
「そうだ、勝った以上は強い。でも、まだ上がある」
スタンドから見えたのは、“余裕の勝利”ではない。
“限界を越えて、なお足りないと分かる勝利”。
それでも――。
「今日のあの走りで、次を目指せるんや。」
タマモクロスが、静かに言った。
リアルデュークは、倒れたままのサロメを見つめ、
小さく、でもはっきりと頷いた。
「……つぎも、はしる」
フラワーカップ。
それは、サロメにとっては「力不足を知った勝利」であり。
リアルデュークにとっては「本当のスタートを見た一戦」であった。
勝ったのに、満足出来ない。
だからこそ――次がある。
その現実だけが、はっきりと胸に残ってい