フラワーカップ当日の夜。
中山から少し離れた、古い住宅街の一角に、柔らかな明かりが灯っていた。
木造二階建て。
外壁は年季が入り、門扉も少し傾いている。
だが、小さな庭には手入れされた植木が並び、玄関先には誰かが慌てて用意したのだろう、簡素な花が一輪飾られていた。
そこは千尋の生家。
そして今夜は、サロメのフラワーカップ勝利を祝う、ささやかな祝勝会の場だ。
「……ここが千尋さんのご実家ですの?」
サロメは門をくぐったところで、わずかに足を止めた。
レース場の喧騒とは正反対の、生活の匂いが濃い場所。
「そう。大した家じゃないけど、その分気楽でしょ?」
千尋はそう言って、玄関の戸を開ける。
中から、ぱっと賑やかな声と沢山の料理の匂いが溢れ出した。
居間のローテーブルいっぱいに並ぶのは、寿司の桶、唐揚げ、ピザ、揚げ物中心のオードブル。
ほとんどが出前だが、中央には千尋が作った大皿料理――人参を使った煮込みとエスニックな香りのする春雨を使った料理が堂々と置かれている。
「おー! 主役来たでー!」
台所から、タマモクロスの声が飛んで来る。
急遽設置された鉄板の前で、たこ焼きを手際よくひっくり返していた。
「出来たんはそっち持って行っとるさかい、熱いから気ぃつけて食べぇや! 今ええ感じやで!」
「……すごい、量ですわ」
サロメは思わず呟いた。
会場となった茶の間には、すでに人が集まっている。
同じクラスのウマ娘たち、トウカイテイオー、シンボリルドルフ。
台所近くには、腕を組んだナリタブライアンと、背筋を伸ばして座るメジロマックイーンの姿もあった。
「サロメ! 勝利おめでとー!」
「重賞ウマ娘だね!」
口々に祝福の言葉が飛ぶ。
「……ありがとうございます」
サロメは一人一人に、丁寧に頭を下げた。
どこかぎこちないその様子に、歩がそっと笑う。
リアルデュークは、すでに居間の隅でジュースを飲んでいたが、サロメの姿を見つけるとぱっと顔を輝かせた。
「サロメ!」
とてとてと駆け寄り、両手を伸ばす。
「かった! すごい!」
「ありがとうございます、リアさん。」
サロメは小さく微笑んだ。
その笑みは、レース後よりもずっと柔らかい。
部屋の隅で、ナリタブライアンが低く言う。
「……重賞初勝利。お前の努力の結果だ。」
短い言葉だが、それが精一杯の祝福なのだと分かる。
「せやけど、顔に余裕はないな」
タマモクロスがたこ焼きを皿に移しながら言った。
「当然ですわ」
マックイーンが、静かに紅茶を口に運ぶ。
「本当に怖いのは、勝った後に見える現実ですもの」
サロメは、その会話を耳にしながら、何も言わなかった。
その時、玄関から大きな音。
「遅れてすまない!!」
現れたのは、両腕いっぱいに料理を抱えたオグリキャップだった。
「……それ、全部食べ物?」
誰かが呆然と聞く。
「そうだ。足りないと聞いた」
「いや、十分ある! けど……オグリん居るなら足りひんかも?やな。」
「……まだある」
次々と置かれる袋に、部屋が再び笑いに包まれる。
全員が揃ったところで、歩が控えめに立ち上がった。
「えっと……」
「今日は、サロメさんのフラワーカップ勝利を祝って……」
「来てくださって、ありがとうございます」
千尋が、そっとグラスを掲げる。
「じゃあ――乾杯」
「「乾杯!」」
グラスの音が重なり、夜が動き出す。
たこ焼きを頬張る者、ピザに手を伸ばす者。
テイオーは調子よく喋り、ルドルフは静かに場を見渡している。
サロメは、少し離れた場所でその様子を眺めていた。
(……勝った、はずですのに)
胸の奥には、まだ重さが残っている。
重賞の舞台で、限界を思い知らされた感覚。
それでも――。
「サロメ」
千尋が、隣に腰を下ろした。
「お疲れさま。今日は、ちゃんと休みなさい」
「……はい」
「勝ったんだから。それだけは、胸張っていい」
サロメは、静かに頷いた。
リアルデュークが、たこ焼きを持って近づいてくる。
「サロメ、つぎも、はしる?」
その問いに、サロメは少しだけ考える。
――足りない。
――でも、だからこそ。
「ええ」
はっきりと答えた。
「次も走りますわ。まだ、強くなれますもの」
リアルデュークは、ぱっと笑った。
「いっしょ!」
ブライアンは、その様子を見て小さく息を吐く。
「……次は、もっと厳しいぞ」
「望むところですわ」
サロメは、初めて少しだけ、強気に言った。
古い一軒家の夜は、静かに更けていく。
派手な祝勝会ではない。
だが、確かに温かい。
フラワーカップの勝利は、
ここで一度、静かに、確かに祝われていた。
そしてそれは――
次の戦いへ進むための、小さな区切りでもあった。
次話の兼ね合いで、今回はかなり短めです。