その日も生徒会室は、よく整っていた。
机の配置、書類の積み方、窓の開き具合。
すべてが「こうあるべき位置」に収まっている。
エアグルーヴは、その光景を確認することから一日を始める。
無意識の習慣だった。
秩序は、感覚で分かる。
音があるべきところにあり、沈黙があるべきところにある。
壁掛け時計の秒針が、一定の間隔で音を刻む。
ペン先が紙を走る音が、余計な躊躇なく続く。
――今日も正常だ。
そう判断してから、ようやく思考が前に進む。
「……ふう」
シンボリルドルフが、書類から視線を外して小さく息をついた。
エアグルーヴは反射的に顔を上げる。
「どうしました、会長?」
「いや、何ということはないのだが……」
ルドルフは軽く肩を回し、窓の外を眺めながら言った。
「最近、リアルデュークが大人しいと思わないか?」
唐突な問い。
だが口調は柔らかく、深刻さはない。
「……あの問題児(リアルデューク)が、ですか?」
エアグルーヴは一瞬だけ考え、すぐに結論を出す。
「問題行動が減ったのであれば、望ましい変化では?」
「まあ、そうなんだけどね。」
ルドルフはそれ以上踏み込まなかった。
否定も、肯定もせず、話題を切り上げる。
その沈黙に、エアグルーヴは違和感を覚えなかった。
――この時点では。
自分達が守るべき学園の秩序は、今日も守られている。
エアグルーヴにとってはただ、それで十分だった。
昼休みの教室は、秩序から最も遠い場所だ。
笑い声、椅子を引く音、雑多な会話。
エアグルーヴは本来、この空間を好まない。
だが今日は、別の理由で落ち着かなかった。
「そういえばさ」
背後の席から聞こえた声に、耳が勝手に反応する。
「最近ゴールドシップの奴、静かじゃない?」
「確かに。トラブルの話も聞かないねぇ?」
「あのアグネスのヤバい方も、実験騒ぎ起こしてないよね?」
その瞬間、頭の中で何かが噛み合った。
リアルデューク。
ゴールドシップ。
アグネスタキオン。
――“よく名前が並ぶ者たち”。
三人同時に静か……しかも理由が語られていない。
「……済まない、今の話、もう一度言って貰えるか?」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
「え? だから、最近あの2人大人しいよねって」
“大人しい”。
その言葉が、胸の奥で引っかかる。
問題児が問題を起こさない。
それは本来、評価されるべき変化だ。
だがエアグルーヴの思考は、別の方向に走り出していた。
「理由は?」
「理由? 知らないけど……」
知らない。
説明されていない。
その事実が、彼女の中でゆっくりと重みを増していく。
ウマ娘は、速い。
それはこの学園において、前提条件だ。
鍛えられた脚力、瞬発力、反射神経。
だからこそ、理性による制御が求められる。
衝突すれば怪我では済まない。
暴走すれば、設備も人も巻き込む。
――だから生徒会がある。
エアグルーヴは、自分の役割を疑ったことがなかった。
秩序を守り、危険を未然に摘む。
「問題が起きていないことを、疑うのは過剰だろうか?」
自問する。
だがすぐに、別の答えが浮かぶ。
「問題が起きてからでは遅い」
それは、生徒会で何度も共有されてきた原則だった。
ならば……“何も起きていない今”こそ、最も注意すべきなのではないか?
思考は、自然にそこへ辿り着く。
疑う理由は、十分にある。
そう自分に言い聞かせた。
生徒会室に戻り、エアグルーヴは記録棚を開いた。
トラブル報告書。
注意喚起。
始末書。
ページをめくるたび、視線が無意識に特定の名前を探す。
――ない。
一枚、また一枚。
「……やはりな。」
リアルデューク。
ゴールドシップ。
アグネスタキオン。
“空白”が続いている。
それは秩序の証明ではない。
説明の欠如だ。
「変化には、必ず原因がある」
原因が記録されていない変化は、
把握されていないだけの危険かもしれない。
エアグルーヴは、調査を始めることを決めた。
それは職務だった。
少なくとも、彼女自身はそう信じていた。
調査は、慎重に始められた。
少なくとも、エアグルーヴ自身はそう思っていた。
聞き込みは形式的なものだ。
生徒会としての巡回も、通常業務の延長線上に過ぎない。
「最近、あの三人を見かけたか?」
「特に変わった様子は?」
質問の内容は、あくまで中立を装っている。
だが内心では、すでに答えを想定していた。
――何かあるはずだ。
返ってくるのは、どれも似たような言葉だった。
「静かだよ」
「大人しい」
「トラブルはない」
そのたびに、胸の奥がざわつく。
「やはり、表に出ていないだけだ」
証拠が出ないことが、証拠になる事もある。
そう思い始めた時点で、調査は確認作業へと変わっていた。
巡回の頻度を上げた。
廊下、トレーニング施設、人気の少ない時間帯。
学生達は普段通りに走り、笑い、すれ違って行く。
ウマ娘らしくヒトミミよりその動きは機敏だ……だが問題行動はない。
「……制御されている」
廊下を走らない為の完璧な速歩きをする者。
お互いにぶつからない様にと、互いに先を読んだ無駄のない軌道。
その洗練された動きが、かえって不自然に映る。
「偶然にしては、揃いすぎている?」
理想的な光景を、理想的でないものとして見る普段の思考と違う自分に、エアグルーヴは一瞬だけ違和感を覚えた。
だがすぐに、その感覚を切り捨てる。
「油断するな」
自分に言い聞かせる声は、次第に強くなっていった。
生徒会室。
夜。
既に窓の外は暗く、室内の灯りだけが机を照らしている。
エアグルーヴは、一人で記録を並べていた。
発生件数、時間帯、場所。
すべての数字が、異様なほど安定している。
「……減りすぎている」
事故も、衝突も、口論も。
統計的に見れば、ほぼゼロに近い。
本来、ウマ娘がこれだけ集まる環境ではあり得ない数値だ。
「数字は嘘をつかない」
だが、数字は理由を語らない。
“何も起きていない”という結果だけが、そこにある。
「何かが隠されている」
その結論に辿り着くのは、あまりにも自然だった。
エアグルーヴは、いつの間にか「隠蔽されている前提」で数字を読み始めていた。
次の日、会長室の前でエアグルーヴの足が止まる。
――会長に相談すべきか?
一瞬、そう考えた。
だが、すぐに思考が別の方向へ流れる。
「確証がない段階で、余計な心配をかけるべきではないな……」
それは配慮だった。
同時に、独断の始まりでもあった。
「自分がやれば良い」
責任感という名の、孤立。
疑念は、やがて思考の基準になる。
学園内で物音がすれば、「何か起きたか」と反射的に身構える。
何も起きなければ、「まだ表に出ていない」と解釈する。
どちらに転んでも、“何かある”という前提は崩れない。
「……」
エアグルーヴは、自分の思考が閉じ始めていることに、薄々気づいていた。
だが、止まれなかった。
止まることは、秩序を見失うことだと思っていたから。
トレーニング施設で、ゴールドシップを見かける。
後ろ向きで走っている。
だが騒がない……あの奇行種にしては普通に走っている。
「……」
一瞬、声をかけようとして、やめた。
今は“観察”の段階だ。
アグネスタキオンも、自前の実験室から出てくるところを目撃した。
白衣は整い、いつもと違い危険な器具や薬品は持っていない。
「……準備期間、か」
何の準備かは分からない。
だが、分からないこと自体が不安だった。
リアルデュークは、グラウンドでサロメと共に練習をしていた。
千尋の指示だろうか、実に無駄のない動きだ。
前より速いが、周囲をよく見ている。
「……」
その光景を、エアグルーヴは**“嵐の前”**として解釈した。
その夜。
エアグルーヴは報告書に、こう書き込む。
「現在、問題行動は確認されていない。 しかし、複数の問題児が同時期に静穏状態にある点は注視すべきである」
言葉は慎重だった。
だが、意味は明確だ。
――危険は存在する。
それを、エアグルーヴは
確信に近い感情で信じていた。
決断は、静かだった。
生徒会としての正式な権限を用い、問題児三名に呼び出しの通達を出す。
理由は簡潔に記した。
「最近の行動についての確認」。
それ以上の説明は不要だと判断した。
不要だと思った。
――その判断自体が、すでに偏っていることに気づかぬまま。