勤務明けの制服を脱ぎ、私服に着替えコートの襟を立てて、歩は駅前の通りを歩いていた。
冬の夜は冷える。
だが、仕事を終えたあとのこの時間は、嫌いじゃない。
警邏の時と違い、頭が空っぽになって、ただ歩くだけでいい。
「……お?」
視線の先の湯気が立ちのぼる屋台の前で、見覚えのある背中を見つけた瞬間、歩は足を速めた。
大きな体、無造作に束ねた髪。
酒瓶を片手に、屋台の親父とやり合っているその姿。
「おでんは大根が命じゃ言うとるじゃろうが!」
「だから今日はもう売り切れだって!」
――間違えようがない。
「……シンさん?」
声をかけると、その背中がゆっくり振り向いた。
鋭い眼光が一瞬こちらを射抜き、次の瞬間、破顔する。
「おお、歩の坊主か! 生きとったかのう!」
「坊主はやめてください。もういい歳ですよ」
「はっはっは! わしから見りゃ、まだまだじゃ」
世間では“神バ”。
史上初の三冠を成し遂げ、その走りは“ナタの切れ味”とまで称された伝説のウマ娘。
だが今ここにいるのは、酒臭い息を吐く破天荒な酔っ払いだった。
「どうじゃ、一杯やるか? 今日はツキが悪くてのう、競輪も負けた」
「……それ、いつもじゃないですか」
「そうとも言うのう。」
結局、二人で屋台の端に腰を下ろし、熱燗とおでんを前に向かい合うことになった。
「久しぶりじゃのう。何年ぶりじゃ?」
「十年以上は会ってませんね」
「おお……そりゃ年も取るわけじゃ」
笑いながら杯を傾けるシンザンを見て、歩はふと昔を思い出す。
父親に連れられて、このウマ娘に会った幼い日の記憶。
大きくて、怖くて、でもどこか優しかった。
「今は何をしとる?」
「警察官です。……娘を育てるためにも、安定した仕事が必要でしたのでね。」
「ほう」
シンザンの目が、少しだけ真面目になる。
「ばんえいのトレーナーを辞めたと聞いておったが?」
「ええ。公務員になりましたから、副業も出来ません」
「ふむ……堅実じゃのう」
しばらく沈黙が落ちる。
湯気と酒と、夜のざわめき。
「……そう言えばじゃ」
シンザンが、何気ない調子で言った。
「リアルデュークという娘を知っとるか?」
歩は、思わず苦笑した。
「ええ。娘が契約してます」
「ほう! そうかそうか!」
シンザンは愉快そうに笑い、杯を空にする。
「あやつ、面白いウマ娘じゃからのう」
「面白い、ですか?」
「才能の話じゃ」
シンザンは指を一本立てる。
「入学時点での能力だけなら、もうGⅠで入着してもおかしくない」
「そんなに……」
「じゃがのぅ……」
もう一本、指を立てた。
「何故かは知らんが、鍛えれば鍛えるほど、知能指数が下がっていく気がする」
「……それ、娘も言ってました」
二人して笑う。
「力だけなら、もう学園で五指に入る。怪力じゃ」
「ええ。ばんえいならトップを狙えるでしょうね」
「じゃろうな」
シンザンは酒を注ぎながら、少し声を落とした。
「じゃが、本当に恐ろしいのはそこじゃない」
「……と言いますと?」
「あやつはな、“神バ”の適正がわしよりある」
歩は、思わず息を呑んだ。
「無事領域に目覚めることが出来れば、恐らくは世界トップじゃろうのぅ」
「そこまで……」
「じゃが、問題は――」
シンザンは肩をすくめる。
「考えさせると、途端に弱くなる」
「……ああ」
歩は深く頷いた。
「戦略、戦術。その辺で相当苦労するでしょうね。」
「じゃろうのう」
歩は自分の杯を見つめながら、静かに言った。
「見た目も行動も幼くて……正直、自分にとっては孫みたいなものですよ」
「ほほう?」
「力はある。でも、レースは力だけじゃない」
シンザンは黙って聞いていたが、やがて豪快に笑った。
「じゃがのう、歩の坊主?」
「はい」
「そういうウマ娘ほど、化ける」
夜風が、二人の間を抜ける。
「やるべき時に、やる」
「……あなたみたいに?」
「はっ! わしは酒とギャンブルに逃げるだけじゃ」
そう言いながら、シンザンは立ち上がった。
「じゃがな」
「?」
「あやつの両親は、わしの親友じゃ」
「……ええ」
「最後まで、あ奴らは娘の無事を信じておった。」
歩は、黙って頭を下げた。
「……娘さんと、あやつに伝えてくれ」
「何を?」
「走りは、必ず追いつく。考えるのは、あとでええ」
シンザンは笑い、夜の闇に歩き出す。
「また飲もうぞ、歩」
「ええ。今度は負けてない日に」
「それは無理じゃな!」
豪快な笑い声が、夜に溶けていった。
歩は湯気の立つおでんを一口かじり、静かに空を見上げた。
「……本当に、戯言ばかりだ」
だが、その戯言が、なぜか胸に残って離れなかった。
「……お客さん、お連れの方の代金もお客さんに付けておきますね?」
「……あ、はい。」
財布の軽さも胸に残った。
朝のグラウンドは、まだ名を持たない。
風が低く流れ、砂は静かに息をしている。
「……うぃ?」
走り終えたリアルデュークは、首を傾げた。
何が変わったのか、分からない。
だが、最近体の違和感が強く、前より“押さえが効かない”。
「……うぃ?」
「なんじゃ、珍しく走っとるのか?」
「……あ」
振り向く前から分かる声。
「ババ!」
「誰がババじゃ!」
次の瞬間、容赦なくシンザンがリアルデュークの顔面を鷲掴みにした。
「あうっ!」
「ババ言うなと言っとろうが、このバカ弟子が!」
「バ……シンザン……痛い……」
ようやく解放される。
「……来てた?」
「ふらっとな」
シンザンは酒も持たず、だらしない格好のまま空を仰ぐ。
だが、その眼だけは冴えている。
「変か?」
「うん」
「少しは考えたか?」
「……ちょっと」
「減点じゃ」
リアルデュークは首を傾げる。
「でも……変」
「ほう」
「力、溢れる?」
「……」
シンザンは何も言わず、一歩、地を踏む。
――分かる。
(また1段、上がりおった)
神バとしての段階が、確かに一つ。
だが、本人に知らせる理由はない。
「……ババ?」
「言うな」
二度目のアイアンクロー。
「いだだだ!!」
「余計なことを考えるな」
「考えて……ない……たぶん?」
「ならよし」
シンザンはリアルデュークの横をすり抜け、数歩進んだところで立ち止まる。
背を向けたまま、声を極限まで落とす。
「——かしこみ、かしこみも申す」
リアルデュークには、意味が分からない。
ただ、風が変わった気がした。
「走るものに、力を預けし御縁」
「踏み越えを、今ひとつ許されしこと」
「いまだ折れず、壊れず、在りしこと」
祝詞は、誰にも向いていない。
神でも、人でもない。
走りを許した“理(ことわり)”そのものへの感謝。
「ありがたく、ありがたく」
「ここに、御礼申し上げ候」
言い終えると、シンザンは何事もなかったように振り返る。
「……?」
リアルデュークは首を傾げる。
「今、何言った?」
「独り言じゃ」
「むずかしい?」
「お前にはまだじゃ」
「……む」
少し不満そう。
「約束、ある」
「分かっとる」
リアルデュークは指を一本立てる。
「その時、全部」
「うむ」
「教える」
「鍛える」
「逃げない」
シンザンは鼻で笑う。
「神バが、約束を違えるか」
「……ほんと?」
「本当じゃ」
リアルデュークは少し考えて――やめた。
「……じゃあ、いい」
その返事で十分だった。
「今日はここまでじゃ」
「もう?」
「もうじゃ」
ふらっと歩き出し、ひらひら手を振る。
「次に会う時も、たぶん分からん」
「……?」
「それでよい」
背中が遠ざかる。
「……ババ」
「言うな!」
怒鳴り声と笑い声が、朝の風に溶けた。
リアルデュークは、しばらくその場に立っていた。
「……よく、分からない」
でも。
「……走る」
それだけは、確かだった。
誰にも届かぬ祝詞の余韻が、
静かなグラウンドに、まだ残っていた。
夜は、ちゃんと夜をしていた。
昼のグラウンドとは違い、風は冷え、音は少ない。
「……ふう」
シンザンは、屋台の赤提灯の下で腰を下ろした。
祝詞を上げたあとの夜は、決まってこうなる。
「熱燗、一本じゃ」
「へい」
徳利を受け取る手は、わずかに重い。
歳のせいではない。
今日は“上がった”からだ。
「……やれやれ」
一口含む。
喉が焼け、腹に落ちる。
「神さまも、酒が要る夜じゃのう」
誰に言うでもなく、独り言。
あの獣――いや、あの子は気付いとらん。
それでいい。
気付かぬまま越える段というものが、確かにある。
「……わしより、よほど神バ向きじゃ」
自嘲気味に笑う。
ナタの切れ味と呼ばれた脚。
三冠を取った走り。
だが、あれは“削る”走りだった。
「あやつは……預ける走りじゃ」
力を、理(ことわり)に預ける。
だから、壊れにくい。
だから、恐ろしい。
もう一口。
「知恵が追いつかんのが、玉に瑕じゃがのう」
思い出す。
単語だけの会話。
意味は通じているのに、文章にならない不思議さ。
「鍛えるほど、頭が抜けていくのは……なんでじゃろな」
屋台の親父が苦笑する。
「難しい顔してますね」
「難しい夜じゃ」
シンザンは徳利を傾ける。
「教えるのは、その時でよい」
「今は、走らせるだけじゃ」
約束は、交わしてある。
その時が来たら、すべて教える。
逃げない。
「……逃げる方が、よほど楽じゃがのう」
だが、逃げぬ。
それが神バの役目だ。
酒が減る。
代わりに、肩の重さも減る。
「ありがたや……」
また、誰にも聞こえぬ声で呟く。
さっき上げた祝詞の、続きのようなものだ。
「まだ、折らずに済んだ」
「まだ、壊さずに済んだ」
それだけで、今夜は十分。
勘定を置いて、立ち上がる。
「ほれ」
「毎度」
外に出ると、夜風が気持ちいい。
「……さて」
歩き出しながら、ふと笑う。
「次に会う時も、きっと分からん顔をしとるじゃろうな」
それでいい。
分からぬまま走るのが、あの子の走りだ。
シンザンは、夜に溶ける。
祝詞の意味だけを残して。