学園の芝コースから少し離れた場所に、簡素なプレハブの建物がある。
元は臨時の器具置き場だったそれは、今では千尋のトレーナー室になっていた。
使用許可が降りたのは、つい最近だ。
サロメがフラワーカップを勝ったことで、学園側が「結果を出したトレーナーとウマ娘の組」として正式に認めた。
その象徴のような場所だった。
元物置きだっただけあって、室中は狭い。
机が一つ、椅子が三つ、壁にはホワイトボードと簡易的な書棚と私物や着替えの入った細長いロッカーが2つ。
それだけだが、無駄なものは何もなかった。
プレハブのトレーナー室は、元々の構造の為か、外よりも少しだけ暑かった。
換気扇が低い音を立てて回り、壁に貼られたホワイトボードの白が、妙に千尋の目につく。
千尋はドアを閉めてから、時計を一度だけ見た。
この行動自体は無意識だったが、その一瞬で「残り時間」を頭の中に刻み直してしまう。
サロメが走るNHKマイルカップまで、あと一週間。
(……正直言って足りてない)
その考えは、顔にも声にも出さず、胸の奥に押し込める。
リアルデュークは椅子に座らず、何故か床に腰を下ろしている。
プレハブの床材を指で叩き、何かを確かめるような仕草。
「……床冷たい。」
サロメは椅子に座り、背筋を正したまま前を見ていた。
練習後の疲労はある。それでも、目は冴えている。
だが、その目は重賞を勝った自信のあるウマ娘の目ではなく、次で負けるかもしれない何処か追い詰められたウマ娘の目だった。
千尋は資料を一枚、ゆっくりと机に置く。
「まず、確認しましょう。NHKマイルは一週間後。調整で何かを“身につける”時間は、正直殆どないわ」
サロメは小さく頷く。
「……はい」
否定もしないし、強がりもしない。
それが、千尋には余計に重かった。
「だから今回は、“伸ばす”より“削る”話をしましょう。」
千尋はホワイトボードに、三つだけ言葉を書く。
・ペース
・位置
・決断
「サロメ。あなたの課題は、トップスピードです。」
サロメの指先が、わずかに動いた。
「逃げ脚質なのに、最高速で見劣りしてしまう。 それはもう、分かっているわね?」
「……はい。正直、直線に入った瞬間、“あ、来る”って分かってしまいます」
それは敗北感ではなく、事実の確認だった。
千尋は続ける。
「でも、NHKマイルは“直線だけのレース”じゃない。」
ボードに描かれるのは、ゆるやかなコース図。
「前半が速いし、後半も速い。 だからこそ、“レース中全部速い”わけじゃない」
サロメは視線を落とし、思考を巡らせる。
「……落ちる瞬間、ですよね」
千尋のペンが止まる。
「ええ、あなたが捕まるのは、最後の一完歩じゃない。 その前、コーナーから直線に入る一瞬の緩み……」
サロメは今日の練習を思い出す。
芝の感触、膝の入り、呼吸が一拍遅れた瞬間。
「残念ながら、今からトップスピードを上げる時間的猶予はない。だから……」
千尋は、少しだけ声を低くした。
「落とさない逃げを作る」
サロメは顔を上げる。
「……落とさない?」
「ええ、速くならなくていい。 “遅くならない”ことだけを、徹底するの……一週間でできるのは、それだけよ。」
千尋はそう理解している。
(本当は、もう一段階上のスピードが欲しい……でも、今それを言っても意味はない)
サロメは沈黙したまま、噛みしめるように考える。
「……正直なところ、不安は消えませんわ。」
その言葉は、弱音というより報告だった。
「私がレースで逃げても、後ろから来る他の方に差される未来が、何度も浮かびます」
千尋はすぐに否定しない。
「不安があるのは当然よ? それだけ、ちゃんと自分の現状での力を理解している証だわ。」
サロメは苦笑する。
「上澄みの世界である重賞で、勝ったはずなのに、全然勝った気がしなくて……」
フラワーカップでの歓声が、一瞬だけ脳裏をよぎる。 だが、それよりも強く残っているのは、“この先で通用するのか”という疑問。
千尋はその言葉を、静かに受け取る。
「だから、桜花賞を回避した」
サロメは頷いた。
「距離は同じでも、あそこは“瞬間”の世界です。 今の私では、届かないと思いました」
「NHKマイルは?」
「……まだ、届くかもしれない」
千尋は、胸の奥で息を詰めた。
(これは……賭けですね。)
だが、それを口にはしない。
「じゃあ、やることは簡単よ?」
ホワイトボードに、最後の線を引く。
「前半、無理に飛ばさない事、中盤、絶対に緩めない事、各コーナーで、“考えずに”決断する事よ?」
サロメは小さく笑った。
「それ、リアさんみたいですね?」
いつの間にか床に寝転がっていたリアルデュークが顔を上げる。
「うぃっ?」
千尋も、少しだけ笑う。
「そうよ? 考えすぎないって、ある場面では強力な武器にもなるのよ?」
サロメは深く息を吸い、吐いた。
「……やりますわ。逃げて、逃げ切る準備を!」
千尋は頷くが、内心では時計の針を思い浮かべている。
(残り一週間……削れるものは、もう少ないですね)
それでも、やるしかない。
「リアちゃん?」
名前を呼ばれて、視線が合う。
「うぃっ?」
「あなたは、メイクデビューに向けて、“待つ”練習をするわよ?」
リアルデュークは首を傾げる。
「……待つ?」
「全部出さなくていい。これから練習で覚えるタイミングまで、全力を出さない練習。」
少し間があって、
「ん〜、……うぃっ!」
短く、しかし確かな返事。
サロメはその様子を見て、ふっと肩の力を抜いた。
(私が不安になる分、リアさんは、迷わない)
プレハブの外では、芝が風に揺れている。
時間は足りない。
準備も万全とは言えない。
それでも、やると決めた。
逃げ続けると、決めた。
一週間後、自分は前にいる。
その一点だけを、信じて。
※細かい位置ズレを修正。 中身は変わっていません。