メジロ家の変な子   作:ネギ市場

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前夜

 

 

 夜は、学園の外に出た瞬間から始まっていた。

 門をくぐると、空気が変わる。

 整えられた芝の匂いも、規則正しい足音も、背中に置いていく。

 千尋は駅を通り過ぎ、さらに歩いた。

 既に終電が近い時間帯、街は昼の喧騒から解放され、まるで静かな寝息を立てている様だった。

 そんな夜の街を、コンビニの明かりだけが、等間隔に地面を照らしていた。

 

 アパートは、その明かりの外側にある。

 二階建てで、外階段。

 塗装は色を失い、看板もない。

 カンカンと階段を上る音が、そのまま夜に残る。

 静かにしようとしても、意味はない。

 ここでは、音は隠れない。

 

 鍵を回すと、ドアは軽く開いた。

 抵抗がない。

 歓迎もしない。

 部屋に入ると、すぐ全体が見渡せる。

 それは、物が少ないからだ。

 靴箱はなく、壁際の小さな棚に鍵と財布を置く。

 古い流し台には、伏せたコップが一つあるだけ。

 冷蔵庫は小さく、存在を主張するのは稼働音だけだった。

 床には何も敷かれていない。

 フローリング風のシートが、そのまま露出している。

 歩くと、軽い反響が返ってくる。

 ベッドとテーブルとソファは、最初からそこに置かれる運命だったみたいに並んでいる。

 間に、余計なものは入らない。

 

 壁は空白だ。

 よくある写真も、カレンダーも、時計もない。

 千尋にとって時間は、外で使うものだった。

 千尋は鞄を床に置き、ソファに腰を下ろした。

 机の上に、鞄から取り出した資料を広げる。

 

 NHKマイルカップ。

 一週間後。

 その文字を見ただけで、呼吸が少し浅くなる。

 (……短い)

 口に出さなくても、思考は同じところに戻ってくる。

 時間が足りない。

 どう考えても、足りない。

 今日のミーティングでは、そこまで言わなかった。

 いや、言えなかった、の方が近い。

 

 出走はサロメが、自分で決めた。

 優先権のあった桜花賞を回避して、NHKマイル一本。

 2つのレース編み距離は同じ。

 でも、相手も、重みも違う。

 逃げると決めた理由も、はっきりしていた。

 あの子のスピードでは、逃げ以外では勝負にならない。

 恐らく距離適正も、もって1800までだろう。

 だから、少しでも、勝ちに近づくために、あの子なりに自分を客観視しての判断なのだろう。

 千尋にその判断を、否定する理由はない。

 むしろ、トレーナーとしてはその冷静な判断を褒めるべきだ。

 ……それでも。

 

 トップスピードは、急には伸びない。

 たったの一週間で出来ることは、限られている。

 (そう、付け足すんじゃない)

 千尋は、資料の端を指で押さえる。

 (……削る)

 それは、無駄な力、迷い。

 そして、踏み込みの癖。

 削るというのは、今の完成を崩すことでもある。

 今まで積み上げてきたものに、手を入れるということだ。

 失敗するかもしれない。

 これまで時間をかけて築いてきたバランスを崩すかもしれない。

 それでも、やらなければ……勝つ為の土俵にすら上げてやれない。

 

 千尋は椅子の背にもたれ、深く息を吐くと天井を見上げる。

 何も書かれていない天井。

 (私に、勝たせる自信はあるか?)

 その問いには、即答できない。

 ウマ娘の体調管理なら、誰にも負けない。

 サブトレーナー時代から故障者を出さなかったことは、数少ない千尋のトレーナーとしての誇りだ。

 でも、勝負の世界では、それだけじゃ足りない。

 (私は、まだ……)

 独立して一年。

 サブトレーナーの頃とは違う。

 あの頃は、最終判断をする立場じゃなかった。

 責任は、分散されていた。

 だが今は違う。

 選択の結果は、全部自分に返ってくる。

 その先には、担当したウマ娘の人生そのものがある。

 それを考えると、千尋の体はその意思に反し、静かに震えていた。

 

 机の隅に、もう一枚のメモがある。

 リアルデュークの名前。

 力がありすぎる。

 展開等を考えない。

 減速しなければならないコーナーが苦手。

 

 (あの子は、まだ大丈夫……大丈夫よね?)

 まだ時間がある。

 失敗しても、デビューまでに修正できる。

 だから今日は、リアルデュークの事には深く踏み込まなかった。

 今は、サロメの番だ。

 千尋は目を閉じる。

 

 ミーティングでのサロメの声が、自然に浮かぶ。

 「トレーナー、私、逃げで勝負したいのですわ。」

 覚悟と不安を含んだ声。

 その意思は、逃げてはいなかった。

 (……強い子だわ)

 重賞と言う強者の住む世界で勝った経験があるからこそ、負ける可能性も、ちゃんと見えている。

 だからこそ、足りないと思い知った逃げで戦う。

 その選択を、無駄にするわけにはいかない。

 

 千尋は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。

 風が入り、外の生活音が混じる。

 近所の足音、遠くの話し声。

 この部屋には自分1人。

 考えるには、ちょうどいい。

 (私は、何のためにいる?)

 答えは、ずっと同じだ。

 評価のためじゃない。

 名声のためでもない。

 すべては、担当するウマ娘のため。

 トレーナーなら必ず思う事。

 担当ウマ娘を勝たせたい。

 思い切り走らせたい。

 いつかその脚が止まった時、後悔のない選択をさせたい。

 だって、あの子達の人生は、走り終えてからの方が長いのだから……

 それだけだ。

 自分の生活が簡素でも、この部屋が仮の場所でも、それでいい。

 担当ウマ娘が走る時、余計なものを背負わせたくない。

 (簡単に後続に捕まるかもしれない)

 それでも。

 (逃げなかった、とは言わせない)

 千尋は窓を閉め、電気を落とす。

 ベッドに腰を下ろし、そのまま横になった。

 この部屋に、感情を残すつもりはない。

 ここは、次の日へ向かうための通過点だ。

 一週間後のレース。

 きっとサロメは、前にいる。

 リアルデュークは、まだ準備段階だ。

 その二人のために、自分は、今日も判断する。

 それでいい。

 答えは、走った先にしかない。

 

 

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