今日も朝は、いつもと変わらない音で始まった。
安アパート故の壁の薄さが、人の営みを伝えて来る。
それは、外階段を下りる足音や、どこかの部屋のドアが閉まる気配。
千尋はそれらを感じながら、目を開いた。
枕元に置いている携帯のアラームより早い。
今日は、そういう日だ。
千尋の身支度は早い。
迷う余地がない。
服も、靴も、前日に決めてある。
鏡の前で立ち止まることはしない。
自分を見る必要はないからだ。
ドアを閉め、鍵をかける。
この部屋に、何かを残すつもりはない。
足早に学園へと向かう千尋は、道中、今日のレースを意識する。
必要な事は既に頭の中にある。
NHKマイルカップ。
東京レース場、芝・1600。
作戦は逃げ一択。
サロメのレースプランは、もう固まっている。
だから、今さら変えない。
(……私はただ、信じるだけ)
トレセン学園に着く頃には、空気が違っていた。
今日はG1開催日、やはり彼方此方でその話題で持ちきりで、何処か浮ついた雰囲気があった。
それでも、千尋の意識は一点にしか向かない。
トレーナー室で待つ2人を迎えに行くと、決戦の地である東京レース場へとタクシーで向かった。
控室の前で足を止める。
このドアの向こうに、大事な1戦を控えた自分の担当がいる。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
ドアをノックし、中に入る。
サロメは、もう既に準備を終えていた。
真新しい勝負服に身を包み、集中して居たのか、静かに佇んでいた。
矢張り、多少の緊張があるのか、その所作は普段よりも少し静かに感じた。
「あ、千尋さん。」
その声は落ち着いている。
不安がないわけじゃないだろうけれども、でも……それを飲み込んでいる。
「体調は?」
「問題ありませんわ」
即答。
それで十分だった。
千尋は、必要以上の言葉をかけない。
今は、質問する時間じゃない。
「プランの変更は無しよ。」
確認だけする。
「はい。」
その一言に、迷いはない。
(うん、良い顔ね)
千尋は小さく頷く。
「良い?まずはスタートだけに集中。一気に前に出たら、あとは迷わない。後ろは気にしなくていいわ」
「もし、スタートで捕まったら?」
サロメは、真正面から聞いてきた。
千尋は、視線を逸らさない。
「その時はその時よ?その瞬間に、自分がやれる事を地道に積み重ねなさい。」
嘘は言わないし、気休めも言わない。
サロメは一瞬だけ目を伏せ、それからはっきりと頷いた。
「承知致しましたわ」
それで、十分だった。
「……さあ、ここからは貴女自身の戦いよ。 私は見守ることしか出来ない……けれども、心は共にあるつもりよ? だから、精一杯の力で戦い抜きなさい!」
「はい、行ってきますわ!」
言葉はここまで、あとは……。
決意を胸に秘め、サロメは控え室を後にする。
パドックへ向かう薄暗い地下通路で、ふとリアルデュークの顔が一瞬よぎる。
(あの子、ちゃんと大人しくしているかしら……)
東京レース場に限らず、大きなレース場にはトレーナーやレース場関係の方々や、招待された人など、関係者しか入れない観戦用の部屋がある。
所謂関係者室、または貴賓室等とも呼ばれるメインスクリーンが良く見える観客席の上に迫り出すように作られた中々の広さを持つ部屋だった。
先程サロメと控え室でわかれた千尋は、その関係者室に用意された席に座り、先に此処で大人しく待って居たリアルデュークと共に、全面ガラス張りの壁越しにメインスクリーンに映し出されるサロメ達出走者を見る。
(ここからは全部、あの子の戦い。)
トレーナーは、ここから先、何もできない。
……だからこそ。
(ここまでの判断は、全部私が背負う)
余計と思うモノは全て削った。
迷わせなかった。
状況を限定させ、逃げると決めさせた。
このレースの結果がどうなろうと、それはサロメのせいじゃない。
スクリーン越しに見るゲートに入るサロメの背中は、真っ直ぐだ。
その背中からは挑む者の覚悟を感じる。
千尋は、深く息を吸い、吐く。
はっきり言って、時間は全く足りなかった。
これは自分のトレーナーとしての実力不足なのだろう。
でも、出せる最善は尽くした。
だから、今はそれでいい。
ファンファーレが鳴り響き、観客の歓声が高まる。
スターターの旗手が台に上がる。
スタートの合図が、迫る。
(……行け!)
声には出さない。
出す必要もない。
すべては、担当するウマ娘のために。
旗が振り下ろされ、勢いよくゲートが開く。
千尋は、瞬き一つせず、前へ飛び出すサロメの姿を見送った。
サロメの挑戦が始まります。