メジロ家の変な子   作:ネギ市場

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予感……その先

 

 

 ゲートの中は、思ったよりも静かだった。

 外の歓声は、鉄製の骨組みで出来たゲートに入っただけで、遠い音に変わっている。

 心臓の鼓動の方が、ずっと大きい。

 サロメは、ゆっくりと息を吸うと、肺の奥まで芝の匂いが入り込む。

 湿り気を含んだ、東京レース場の芝。

 何度も映像で見てきたコース。

 何度もシミュレーションした流れ。

 それでも……実際に立つと、全然違う。

 視界の端に、他のウマ娘たちの勝負服が見える。

 どれも、G1でしか着れない物。

 みんな派手で、洗練されていて、覚悟の色をしている。

 (……場違い、かも知れませんね。)

 一瞬、そんな考えが浮かぶが、すぐに振り払う。

 7番人気。

 前走はG3を、ぎりぎりで勝っただけ。

 実績だけ見れば、ここでは“足りない側”故の順位。

 分かっている。

 だからこそ。

 (……逃げる)

 トップスピードで勝てないなら、レースそのものを、自分の形にするしかない。

 千尋の声は、もう聞こえない。

 でも、視線だけは、はっきり思い出せる。

 ――迷わないで。

 

 スターターが台に上がる。

 観客席のざわめきが、波のように押し寄せる。

 G1特有の特別なファンファーレが鳴り響き、空気が一気に張り詰めた。

 『東京競馬場、NHKマイルカップ――間もなくスタートです!』

 実況の声が、レース場全体を貫く。

 『昨年デビューのウマ娘たちによる、春のマイル王者決定戦!フルゲート18人、全員がG1の舞台に立ちました!』

 解説席で、解説者の木村は黙ったままモニターを見ている。

 視線は、7番ゲートに一度だけ向いた。

 ――ガシャン!

 金属音が弾け、前が開けた瞬間、サロメは踏み出した。

 考える前に、脚が出る。

 反射に近い。

 『さあ、東京レース場最終レース、NHKマイルカップ、今スタートしました!』

 一歩、二歩。

 地面を掴む感触が、はっきり伝わる。

 (行ける!)

 初速は悪くない。

 むしろ、いい。

 『矢張り、勢いよく前に出たのは7番サロメ!サロメが行く!』

 外から、内から、気配が迫る。

 でも、構わない。

 前へ。

 ただ前へ。

 『7番サロメがハナを切りました!』

 スタンドが、一斉に沸く。

 驚きと、期待と、半信半疑が混ざった音。

 視界の先が、開ける。

 誰もいない。

 (……取った)

 逃げ。

 予定通り。

 でも……思ったより、周りも早い。

 心臓が強く打つ。

 それでも、呼吸はまだ乱れていない。

 『2番ノースフライトは無理に行かない。先行集団の中、4、5番手あたりか?』

 その名前が聞こえた瞬間、背筋がわずかに硬くなる。

 ノースフライト、このレースでの一番人気。

 今年に入って、マイル戦線を席巻してきた存在。

 サロメは振り返らない。

 見ない……今は、まだ関係ない。

 このまま第1コーナーを抜けて向正面。

 『先行集団固まったまま向正面に入りました。先頭は7番サロメ、1バ身ほどのリード!』

 風の音が、一定になる。

 自分の速度が、空気を切る音として分かる。

 速すぎず、また遅すぎない。

 このペースなら、様子見に入った後ろは出てこない。

 でも、油断すれば一瞬で飲み込まれる。

 『その後ろ、5番、11番、内に2番ノースフライト、先行集団は固まっています』

 気配が、増えた。

 数が、増えた。

 (……近い)

 背中に、視線を感じる。

 脚音が、重なる。

 『解説の木村さん、ペースは落ち着いていますね?』

 実況の問いに、解説が静かに答える。

 『ええ、前も後ろも良く我慢していますね。』

 ――我慢。

 ふと聞こえたその言葉が、胸に引っかかる。

 後ろは、余裕があるという意味だ。

 サロメは、奥歯を噛み締める。

 脚の張りが、少しずつ早くなってきた。

 (もう……?)

 まだ中盤……でも、誤魔化しは効かない。

 『外から14番が上がる、内で3番が少し下がった、その影で9番が位置を上げています!」

 隊列が、微妙に揺れる。

 誰もが、探っている。

 サロメは、一定のリズムを刻み続ける。

 落とせば、飲み込まれる。

 ここで速度を上げれば、最後までもたない。

 (……ここですわ。)

 この速度、この呼吸。

 『2番ノースフライトは動かない。依然として3〜5番手、いい位置です』

 視界の端。

 直接見ていないのに、そこにいる気がする。

 今は……動かないのが、怖い。

 余裕がある証拠だから。

 『木村さん、この展開、この位置はどう見ますか?』

 『はい、理想的ですね。あの位置どりなら前も見えて、後ろも気にしなくていい』

 短い言葉。

 それだけで、重圧が増す。

 『先頭は変わらず7番サロメ!順調に集団を牽引しています。』

 実況の声が、少しだけ強くなる。

 スタンドから、声が飛ぶ。

 理由は分からない。

 脚が、重い。

 太腿の内側が、焼けるように熱い。

 トップスピードが足りない。

 そんな事は分かっている。

 だから、ここで緩めたら終わる。

 (信じて)

 千尋の目が、頭に浮かぶ。

 言葉はない。

 ただ、静かで、逃げ道を与えない視線。

 (私は、逃げるって決めましたのよ。)

 『各ウマ娘、そろそろ後半戦の準備に入ったようです』

 第3コーナー。

 徐々に空気が、変わる。

 『第3コーナーに入ります。先頭は依然として7番サロメ』

 後続との差が、詰まる。

 一気に。

 『ここで一度整理しましょう。まずは先頭は7番サロメ、軽快に飛ばしております。その直後に5番、11番、外に14番、内で2番ノースフライト……」

 ……圧。

 背中に、はっきりとした圧。

 呼吸が、苦しい。

 肺が、熱い。

 (まだ……)

 まだ、終わらせない。

 『2番ノースフライト、まだ動かない。その位置は3〜4番手……』

 近い。

 さっきより、確実に近い。

 『木村さん、ノースフライトのこの位置は?』

 『一番怖いですね』

 理由は語られない。

 語らなくても、分かる。

 『後ろから9番が上がって来る!その外に16番!5番も並びかける!』

 一斉に、殺気が立つ。

 全員が、ここを“入り口”だと知っている。

 それでも。

 『それでも――先頭は7番サロメ!』

 実況の声が、はっきりと熱を帯びた。

 スタンドが、どよめく。

 疑いと期待が、混ざった音。

 (……行ける?)

 一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。

 脚は限界に近い。

 でも、まだ前に出ている。

 『さあ、第4コーナーが見えてきました!各自差を詰めて第4コーナーへと向かっていく!』

 カーブの先。

 あの、長い直線、誰もが知っている。

 勝負は、そこで決まると。

 それでも、今は。

 『勝負は、ここからです!』

 解説の声が、静かに落ちる。

 サロメは、歯を食いしばる。

 (ここまでは――私のレース)

 そのまま、先頭で。

 サロメは誰よりも先に第4コーナーへ、飛び込んだ。

 

 

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