第4コーナーを抜けた瞬間、空気が変わった。
スタンドのざわめきが、一段高い音域へと跳ね上がる。
それは歓声ではない。期待とも違う。
もっと原始的な――「何かが起きる」と、全員が同時に察した音だった。
視線が、一本の線になる。
逃げる背中へ。
7番、サロメ。
『さぁ、集団が第4コーナーを抜けて最後の直線へと向かう!
最初に駆け抜けて来たのは7番、サロメだ!』
実況の声が弾み、スタンドの空気をさらに煽る。
芝を蹴る感触が、確かに脚に残っている。
反発は鈍っていない。
身体は、まだ軽い。
呼吸も、整っている。
(……このまま、勝ちますわ)
それは祈りではなかった。
希望でも、願望でもない。
ただの、実感だった。
千尋から受けた指示は、単純だった。
「無理に離さない。ペースを崩さない」
逃げ切りを狙うには、それ以上でも以下でもない。
コーナーは、理想的なラインで抜けた。
遠心力を最小限に抑え、外に膨らみすぎない。
速度を殺さず、脚に余計な負担をかけない。
自分でも、完璧だと思える抜け方だった。
トップスピードを維持したまま、最後の直線へ入る。
芝の感触が、一本の帯になる。
『サロメ粘る!後続も詰めて来ますが、それでも先頭を譲らない!
これは見事な逃げ!サロメの作戦勝ちか!?』
残り距離の表示が、視界の端を流れていく。
ゴールまで、まだある。
だが、足りない距離ではない。
(このまま……このまま行けますわ)
肺に空気を送り込み、リズムを刻む。
一歩、一歩。
観客の声は、もう意味を持たない。
世界は、一直線だった。
その一直線の先に、
ゴール板がある。
『残り400!サロメ先頭!このまま押し切るのか!?』
貴賓室の一角で、千尋は立ち上がっていた。
無意識だった。
椅子に座っているという選択肢が、消えていた。
――まだだ。
――まだ脚は動いている。
そう理解しているのに、胸の奥に、言葉にならない引っかかりが生まれる。
経験が告げていた。
この速度、この展開、この舞台。
「来る」
その瞬間だった。
『――ここでノースフライトが飛び込んで来た!』
実況の声が、一段高く跳ねる。
(……え?)
サロメの意識が、わずかに揺れる。
背後。
ほんの、わずかな違和感。
空気の密度が、変わった。
ノースフライトが再加速した瞬間、
サロメの世界は、一拍、遅れた。
音が、遠のく。
視界が、狭まる。
空気が、押し寄せる。
圧が、背中に張り付く。
(……来る)
追いつかれる。
追い抜かれる。
それは、理屈では何度も理解していた。
G1の最後の直線で、並ばれることの意味。
勝負所で、相手が“本気”を出す瞬間。
練習でも、想定でも、何度も経験してきたはずだった。
それでも。
脚が、勝手に地面を叩いた。
(まだ……!)
肺が、焼ける。
喉が、裂ける。
視界の端が、じわりと黒く滲む。
それでも、身体は前へ出た。
『ノースフライト並んだ!並んだ!
しかし、サロメも抜かせない!』
「負ける訳には行きませんのよ!私はっ!」
声に出した言葉は、誰に向けたものでもない。
自分自身への、命令だった。
並びかけられた、その瞬間。
サロメは、更なる力を込めて、その一歩を踏み出す。
限界を越えた一歩。
――越えてはいけない、一歩。
次の瞬間。
バキンッ、という音がした。
硬質で、はっきりとした音。
芝や靴ではない。
肉の内側から響く、異音。
(……?)
理解が、追いつかない。
右脚の感覚が、抜け落ちる。
地面を蹴ったはずの脚が、空を切る。
重心が、一気に前へ崩れた。
「7番サロメ――っ!?」
実況の声が、裏返る。
サロメの身体が、宙に浮く。
世界が、スローモーションになる。
視界が横倒しになり、
芝生が、顔のすぐ下まで迫ってくる。
(……え、何で……)
答えは、出ない。
次の瞬間、身体が地面に叩きつけられた。
肩。
背中。
腰。
衝撃が、全身を貫く。
勢いのまま、転がる。
勝負服が芝を削り、土が舞う。
脚が、あり得ない方向に跳ねるのが、
視界の端に映った。
『サロメ、転倒――!!』
スタンドの歓声が、悲鳴に変わる。
どよめきが、恐怖へと反転する。
サロメは、止まらない。
止まれない。
惰性で、身体が前へ投げ出され、
何度も、何度も、芝を転がる。
痛みが、ようやく追いついてくる。
――激痛。
息が、詰まる。
声が、出ない。
それでも、最後に一度だけ、前を見た。
そこには――
もう、誰もいない。
ノースフライトは、振り返らない。
後ろで何が起きたか、
分からないはずがない。
それでも、脚は止まらない。
――止める理由が、ない。
『2番ノースフライト、先頭!後続を一気に突き放す!』
実況の声が、再び加速する。
ノースフライトのフォームは、崩れていない。
呼吸は、深く、安定している。
さっきの再加速ですら、
まだ余力の一部だったかのように。
彼女は、ただ走る。
この長い直線を。
この舞台を。
自分の力で、制圧するために。
『ノースフライト――強い!
これは、新たなマイル女王の誕生だ!』
解説席で、木村が低く呟く。
『ノースフライト、これは……本物です』
ノースフライトの背中は、揺るがない。
誰にも追いつかれない。
誰にも並ばせない。
さっきまで、必死に逃げていたウマ娘が、
命を削って食らいついてきたことすら――
すべて飲み込んだ上で、なお速い。
これが、力の差。
これが、G1の頂点。
ノースフライトは、何事もなかったかのように、
ゴール板を、ただ一直線に駆け抜けていった。
その裏で。
芝の上に横たわるサロメの視界は、
ゆっくりと、白に溶けていった。
勝ちたかった。
ただ、それだけだった。